それは面倒で。 でも愛しくて。
横取り未遂
木ノ葉の営業時間は朝七時から夜の七時まで。モーニングは店主一人で回せるため、あたしの出勤はお昼時で賑わう一時間前の十一時からだ。
平日のランチは近くで働く人たちが、昼休憩の十二時頃から一気にやってくる。あたしはそれまでにモーニングの片付けをしてランチメニューの仕込みを手伝い、鬼の十二時を心して待つ。長針と短針が同じ数字を差して五分後。
ちりん、とドア鈴が鳴りランチタイム最初のお客さんがドアを開けてこんにちは、と入ってくる。花屋の店主さんだ。いつもはお弁当だがたまにこうして来てくれて、日替わり定食を食べていく。二人掛けのテーブル席の椅子に座ると、あたしは水を注いだグラスをことりと置き、日替わり定食の注文を聞いて店主に伝える。またドア鈴が鳴る。今度は近くの建設会社のOLさんグループが、女子特有の高い声で話しながら入ってくる。営業途中のサラリーマン、工事現場の勇ましい男性もやってきて、順番に対応し丁寧に間違えないようこなしていく。
「はい、日替わり定食あがったよー」
「はーい」
花屋の店主さんにお待たせしました、と静かに置くと、今日も忙しいね。ご苦労さま。と労いの言葉をかけられてぐっとくる。常連さんは、優しい人ばかりで支えられっぱなしだ。ごゆっくりどうぞ、とその場を離れて次のテーブルに食事を運ぶ。
落ち着いてくるのは一時半から二時頃だ。二時を回れば店内は喧騒から解放されて、あたしはランチタイムの片付けに入る。三時になれば店主はやっと休憩だ。
そして午後二時半。客足が落ち着き、ランチタイムが終了すると、あたしはテーブルを布巾で拭き始める。ここからは年配の方や、仕事終わりの主婦がコーヒーとケーキセットを目当てにやってくる。
一通り片付け終わると、ケーキの並ぶショーケースを拭き上げる。午後三時。店主が休憩に入り、店内にはあたしと、奥の席で楽しそうにお話している常連客のおばさま方のみになる。
厨房で皿洗いをしていると、ドア鈴が鳴ったので慌てていらっしゃいませ、と店内に顔を出す。
そこにはスーツ姿のサラリーマンがいて、あたしは目を見開いて絶句した。
黒髪に長身の男性。指先が震える。会いたくなかった。まさか、またここに来るなんて。涙腺が崩壊しそうになり、きゅっと眉間に皺を寄せる。逃げ出したい、でも。目の前の男性は木ノ葉の客だ。例え、メッセージのみで別れを告げた元カレだとしても。あたしは後れ毛を耳に掛ける。もう二度と会うことはないだろうと安心していた。コーヒーショップでの出来事から、元カレの中であたしはもう存在しないのだと思い知らされたのだから。
あたしが何も言えないでいると、元カレは営業スマイルで「コーヒーお願いします」と二人掛けのテーブル席の椅子に腰掛けた。あたしははっとして、コーヒーを淹れる。
なんで、来たんだろう。何しに来たの。ううん、深く考えるのは良くないわ。ただ近くを通ってコーヒーを飲みたくなっただけなのかも。でもわざわざ木ノ葉を選んでくるかしら。コーヒーなら、他の喫茶店でもいいはず。わざわざ別れを告げた女のいる店に来なくても……。
コーヒーを用意し、元カレのテーブルにことりと置く。ミルクと砂糖は一つずつだ。ごゆっくり、と会釈して戻ろうとしたが、パシリと手を掴まれた。
合わせまいとしていた目が合ってしまった。
元カレはにこりと微笑む。
「元気そうでなにより。別れてから一月しか経ってないのにもう新しい男ができたなんてさ。意外と不身持なんだね。知らなかった」
かっと頭に血が上った。
唇を噛み締め、手を振り払おうとして出来なかった。掴まれた腕は強く握られ、痛いほどだ。あたしは痛さに眉根を寄せた。
「いきなりあんなメッセージ送って悪かったよ。びっくりしたよね。落ち着いたら連絡しようと思ってたんだ。でもまさかあんなとこて会うなんて思わなかった。知らないフリしてごめんな。寂しかったから他の男に靡いちゃったんだよな。私が悪かったよ。またデートしよう。ね」
身勝手な言い訳に目眩がする。メッセージはブロックし、再会しても無視して、でも都合のいいようにまた利用しようとしてきて。あたしは震える声で抵抗した。
「デートなんてしたことないじゃない。あなたとは、ホテルにしか行かなかった。あんなのデートじゃない。ただの性欲処理でしょ。結婚したんだからもうあたしのことはいらないわよね。奥さん、いるんだから」
「妻のことは大切にしたいんだよ。わかるだろ?」
「……もちろんよ。大切にしたほうがいいに決まってるわ。だからあたしにはもう話しかけないで。ここにも、来ないほうがいいわ」
「君を嫌いになったわけじゃないんだ。結婚して落ちついたし、君との時間も取れる。また前みたいに」
元カレの言葉を遮り、あたしは首を振る。
「あたしは、あなたの都合のいい女を続けようとは思えない。お願いだから、ここにも二度と来ないでください」
深々と頭を下げるが、元カレは掴んだ腕を離さず大きくため息を吐いた。
「ここに来るかどうかは私が決めるよ。客だからね。一度ゆっくり話をしよう。今夜、いつものホテルで待ってるよ。来てくれるよね」
「行かないわ。もう別れたのに行くわけないじゃない」
「鈴華。まだ私のこと好きだよね。あんな優男、鈴華のタイプじゃないだろ」
ぎり、と掴まれた腕の力が一層強くなる。あたしは顔を顰め痛さに耐える。奥の席で異変に気づいたおばさま方がおしゃべりをやめ、心配そうにはらはらとこっちを見てる。
どうしよう。とりあえず行くと言えばこの手は離されるのだろうか。常連さんを巻き込みたくない。店主はまだ戻ってこないだろう。あたしは元カレと目を合わさずに、頷こうとした。けれど。
「嫌がる女性に触れるのは良くないと思いますよ。大ごとにされたくなかったら、ここが潮時です」