それは面倒で。 でも愛しくて。
その男性と初めて会ったのは、この店ができて間もないころだった。
 あたしは喫茶店に勤めていて、この店がオープンすると敵情視察のつもりでやってきた。有名なチェーン店だし、きっと行列だろうと来てみたが、思ったよりも列は少なく数分並んだだけで注文もできてあっさりと席にも座れてしまった。この時もあたしはカフェオレとチョコレートドーナツを頼み奥の席、二人掛けの椅子に腰掛けた。
 店内の様子を見て、混雑していないことを確認し、またうちの常連客も見当たらなかったのですっかり安堵してカフェオレとチョコレートドーナツを楽しんだ。
 チョコレートドーナツを食べ終わりカフェオレを半分飲んだところで、スマホから通知音がして確認した。
 彼氏からだった。
 最近連絡しても忙しい、と全く会ってくれなくて、だからこの連絡はとても嬉しかったのだ。メッセージを確認するまでは。
 内容に目を通し、驚愕した。
 見間違いだろうか。
 会社の同僚と結婚することになった。ごめん。別れてくれ。と、きたもんだ。
 なにこれ、なんの冗談。今日ってエイプリルフールだっけ。
 何度も読み返し、でも信じられなくて電話したらブロックされていた。
 手が震えた。
 どういうことなの。最近会ってくれなかったのは、他に好きな人ができたからなの。その人が本命になっちゃったの?いつからなの。いや、もしかしたらあたしが浮気相手だったの。もともとその人が本命だった?あたしは遊ばれていたのかな。
 
 彼氏とはあたしが働く喫茶店で出会った。
 常連さんで、顔も覚えていて、ある日告白されて付き合った。その期間は約一年。順風満帆だと思っていたのに、別れってこんな突然やってくるものなんだと呆然とするしかない。
 あやふやな部分が多いが、あたしはたった今振られてしまった。顔も声も聞かずして、メッセージだけで終わりを告げた。不完全燃焼だ。色々な感情がごちゃ混ぜになる。悲しみと怒り、落胆に疑念。美味しかったチョコレートドーナツの味が消え失せカフェオレなんて飲む気にならない。
 帰ろう、と席を立とうとしたが、体に力が入らなくて動けない。涙が溢れ出てきて止まらない。
 あたしは慌てて鞄からハンカチを取り出そうとして忘れたことに気づく。ティッシュも切らしていて、仕方ないのでトレーの上の紙ナプキンでそっと頬を拭いたが全然足りない。そっと辺りに視線を巡らす。紙ナプキンは数歩進んだ先の棚の上にある。砂糖やガムシロップ、マドラーなどと一緒に陳列されているのを確認した。取りに行きたいが、ここは店の一番奥で、その場所までには何人かのお客さんがいる。泣き顔を見られる確率がぐんと上がる。
 ああ、どうしよう。
 涙も鼻水も止まらないわ。
 ニットセーターの袖口で目頭を押さえる。
 泣き止め。あたし、泣き止め。
 念じても、目の奥の痛さが収まる気配は感じられない。このままニットセーターの袖口は駄目になってしまうのか。
 そう思ったとき。
 ふわりと頭に何かが乗せられ顔が隠された。次いで「これ使ってください」と、トレーの上に青と白の模様のハンカチが置かれた。
 あたしはハンカチで鼻を押さえ、頭に乗せられたマフラーをそっと掴んでその人を見上げた。
 ばち、と目が合うと、その男性は気まずそうに顔を顰めて片手にコーヒーを持って颯爽とどこかに消えてしまった。
 優しさに、涙と鼻水が溢れて泣きながらカフェオレを飲みきり、そのままマフラーを首に巻いて顔下半分を隠しながらそそくさと店をあとにした。
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