それは面倒で。 でも愛しくて。
敵情視察だったので、もう一度この店に来る予定はなかった。
けれど見知らぬ人の優しさにまた来ることになってしまった。実は今日で四回目だ。借りたマフラーとハンカチはクリーニングに出し、ここに来るたび持ってきている。連絡先も名前も分からない優しい人に会う手がかりはこの店しかないのだ。もしかしたらまたここで会うかもしれないと淡い期待を込めて。でも、二度と来たくないと思っている可能性もなきにしもあらず。泣いている女に優しくして、戸惑い気まずそうにしていたから、この店の印象はあの人のなかでは良くないかも。あたしのせいで客が一人減ったなら申し訳ないことをした、と罪悪感もあり通うのに抵抗はない。あたしはカフェオレとチョコレートドーナツを頼んで前と同じ席に向かった。いつもそこは空席で、最早あたしの特等席になっている。しかし本日そこには先客がいて、あたしはぴたりと立ち止まる。
赤茶の癖っ毛に黒縁メガネ。白い肌に垂れ目の男性。ベージュのコートを椅子の背に掛け、パソコンを開いてキーボードをカタカタと打っている。
ああ、たぶんこの人だ。
一度しか顔は見ていないが目がばっちり合ったので覚えている。戸惑いながらも優しくマフラーとハンカチを貸してくれたあの男性。黒縁メガネの垂れ目を忘れてはいない。
あたしはそっと近寄り、おずおずと「あの、すいません」と声を掛けた。
男性はキーボードを打つ手を止めてちら、とあたしを見上げた。あたしを覚えている雰囲気ではない。店員でもない見知らぬ女にいきなり話しかけられて、眉根を寄せて不審がっている。
あたしは隣のテーブルにトレーを置き、鞄の中から洗濯したマフラーとハンカチを取り出し頭を深々と下げた。
「いつぞやは、ありがとうございました。お恥ずかしいところをお見せして申し訳ないです」
「あ、あのときの。……いえ、僕こそ、余計なお世話でしたよね。放っておいたほうがいいのか迷ったのですが、その、水浸しだったので」
「水浸し」
「あ、すいません。失礼ですね」
「いえ。ふふ。そう、水浸しだったんです。ハンカチもティッシュもなくて困ってました」
あたしは男性の隣の席に座りコートを脱いだ。そしてマフラーとハンカチを手渡す。
「助かりました。ありがとうございます」
「いえ。ご丁寧にクリーニングまで。お手を煩わせてしまいましたね」
「そんなことないです」
腰が低くていい人だなぁ、と心が洗われる。
男性はマフラーとハンカチを受け取ると、眼鏡を片手で直してパソコンに向き直った。
あたしも隣の席に座り直し、カフェオレを飲みドーナツを齧る。これでこの店に来る理由はなくなった。休日の度ここでお茶をするのがルーティンだったが、それも終わり。でもなあ、カフェオレとチョコレートドーナツ美味しいのよね。たまには来るか。
いや、でもなあ。嫌な思い出の店だしなぁ。
振られて号泣した店だ。泣いているのを見られたのは隣の男性だけだと思うが、なんとなく気まずい。お洒落な雰囲気の落ち着いた店だし、なにより混んでないのが魅力的。静かな時間をのんびり過ごせるのはとてもいい。
四回通い、あたしはすでにこの店のファンになりつつあった。
食べかけのドーナツを手に持ちぼうっとそんなことを考え、あの時の悲しくて寂しい気持ちが蘇り、情けないことに無意識のうちに左目からぽろりと雫が溢れて頬を伝った。
やべ。また泣くなんて勘弁だわ。
ドーナツをトレーに置いて鞄からハンカチを取り出そうとしたが、なぜだか、ない。
ティッシュも、ない。
あの出来事からハンカチとティッシュは毎朝確認して入れていたのに、今日に限って忘れるなんて間抜け過ぎる。なにをやっているのよ全く。
今ならまだ客は少なく、紙ナプキンを取りに行ける。立ち上がりかけたとき、隣からすっとハンカチを差し出されて凝視する。男性が、片手で眼鏡を掛け直しながらあさっての方向を見ている。
「……どうぞ」
「でも、その、せっかくクリーニングしたのに」
「構いませんよ。使ってください」
いつの間にかビニール袋を破って差し出されたハンカチをおずおずと受け取る。座り直し、目頭を押さえた。
「たびたび、すいません」
「いえ。構いません」
「……」
「……」
「あの」
「はい」
「男って二股しながら結婚するのって普通のことだと思ってます?」
「……っは?」
沈黙がなんとなく気まずかった。ただそれだけだ。男性がコーヒーに口をつける寸前、あたしは思いついた疑問を投げかけた。話題の内容に脈絡がなさすぎる。男性は動揺しカップを揺らしてしまい、僅かだが零してしまった。あたしはすいません、と謝り紙ナプキンを持ってきて男性のテーブルを拭く。
「ありがとうございます。それで、なんですか?突拍子もないことを聞きますね」
「実は、二股かけられて相手の女性と結婚するから別れてくれって言われて……」
「彼氏にですか。そんなの普通なわけないじゃないですか」
「そう、ですよね」
「そうですよ。それで泣いてたんですか」
「お恥ずかしながらそうです。あの日、そんなメッセージが来てそれでおしまい。やるせなくて、もう感情の制御ができなくてどうしようもなかったんです」
「それは、また、災難でしたね」
「はい。あなたも、こんな女に気づいて災難でしたね」
「卑下しますね。マフラーとハンカチ、お渡しして良かったです。役立ちましたか」
「ええ、とても。こうして思い出して泣くくらいですから、当時は相当参ってました。ハンカチ、洗って返します」
「差し上げますよ。それ、毎日鞄に入れといたほうがいいですよ」
「そうします…」
ハンカチを貰い深々と頭を下げた。
今度この人に会ったら何か奢らせてもらおう。
この店に通う理由が出来てしまった。
けれど見知らぬ人の優しさにまた来ることになってしまった。実は今日で四回目だ。借りたマフラーとハンカチはクリーニングに出し、ここに来るたび持ってきている。連絡先も名前も分からない優しい人に会う手がかりはこの店しかないのだ。もしかしたらまたここで会うかもしれないと淡い期待を込めて。でも、二度と来たくないと思っている可能性もなきにしもあらず。泣いている女に優しくして、戸惑い気まずそうにしていたから、この店の印象はあの人のなかでは良くないかも。あたしのせいで客が一人減ったなら申し訳ないことをした、と罪悪感もあり通うのに抵抗はない。あたしはカフェオレとチョコレートドーナツを頼んで前と同じ席に向かった。いつもそこは空席で、最早あたしの特等席になっている。しかし本日そこには先客がいて、あたしはぴたりと立ち止まる。
赤茶の癖っ毛に黒縁メガネ。白い肌に垂れ目の男性。ベージュのコートを椅子の背に掛け、パソコンを開いてキーボードをカタカタと打っている。
ああ、たぶんこの人だ。
一度しか顔は見ていないが目がばっちり合ったので覚えている。戸惑いながらも優しくマフラーとハンカチを貸してくれたあの男性。黒縁メガネの垂れ目を忘れてはいない。
あたしはそっと近寄り、おずおずと「あの、すいません」と声を掛けた。
男性はキーボードを打つ手を止めてちら、とあたしを見上げた。あたしを覚えている雰囲気ではない。店員でもない見知らぬ女にいきなり話しかけられて、眉根を寄せて不審がっている。
あたしは隣のテーブルにトレーを置き、鞄の中から洗濯したマフラーとハンカチを取り出し頭を深々と下げた。
「いつぞやは、ありがとうございました。お恥ずかしいところをお見せして申し訳ないです」
「あ、あのときの。……いえ、僕こそ、余計なお世話でしたよね。放っておいたほうがいいのか迷ったのですが、その、水浸しだったので」
「水浸し」
「あ、すいません。失礼ですね」
「いえ。ふふ。そう、水浸しだったんです。ハンカチもティッシュもなくて困ってました」
あたしは男性の隣の席に座りコートを脱いだ。そしてマフラーとハンカチを手渡す。
「助かりました。ありがとうございます」
「いえ。ご丁寧にクリーニングまで。お手を煩わせてしまいましたね」
「そんなことないです」
腰が低くていい人だなぁ、と心が洗われる。
男性はマフラーとハンカチを受け取ると、眼鏡を片手で直してパソコンに向き直った。
あたしも隣の席に座り直し、カフェオレを飲みドーナツを齧る。これでこの店に来る理由はなくなった。休日の度ここでお茶をするのがルーティンだったが、それも終わり。でもなあ、カフェオレとチョコレートドーナツ美味しいのよね。たまには来るか。
いや、でもなあ。嫌な思い出の店だしなぁ。
振られて号泣した店だ。泣いているのを見られたのは隣の男性だけだと思うが、なんとなく気まずい。お洒落な雰囲気の落ち着いた店だし、なにより混んでないのが魅力的。静かな時間をのんびり過ごせるのはとてもいい。
四回通い、あたしはすでにこの店のファンになりつつあった。
食べかけのドーナツを手に持ちぼうっとそんなことを考え、あの時の悲しくて寂しい気持ちが蘇り、情けないことに無意識のうちに左目からぽろりと雫が溢れて頬を伝った。
やべ。また泣くなんて勘弁だわ。
ドーナツをトレーに置いて鞄からハンカチを取り出そうとしたが、なぜだか、ない。
ティッシュも、ない。
あの出来事からハンカチとティッシュは毎朝確認して入れていたのに、今日に限って忘れるなんて間抜け過ぎる。なにをやっているのよ全く。
今ならまだ客は少なく、紙ナプキンを取りに行ける。立ち上がりかけたとき、隣からすっとハンカチを差し出されて凝視する。男性が、片手で眼鏡を掛け直しながらあさっての方向を見ている。
「……どうぞ」
「でも、その、せっかくクリーニングしたのに」
「構いませんよ。使ってください」
いつの間にかビニール袋を破って差し出されたハンカチをおずおずと受け取る。座り直し、目頭を押さえた。
「たびたび、すいません」
「いえ。構いません」
「……」
「……」
「あの」
「はい」
「男って二股しながら結婚するのって普通のことだと思ってます?」
「……っは?」
沈黙がなんとなく気まずかった。ただそれだけだ。男性がコーヒーに口をつける寸前、あたしは思いついた疑問を投げかけた。話題の内容に脈絡がなさすぎる。男性は動揺しカップを揺らしてしまい、僅かだが零してしまった。あたしはすいません、と謝り紙ナプキンを持ってきて男性のテーブルを拭く。
「ありがとうございます。それで、なんですか?突拍子もないことを聞きますね」
「実は、二股かけられて相手の女性と結婚するから別れてくれって言われて……」
「彼氏にですか。そんなの普通なわけないじゃないですか」
「そう、ですよね」
「そうですよ。それで泣いてたんですか」
「お恥ずかしながらそうです。あの日、そんなメッセージが来てそれでおしまい。やるせなくて、もう感情の制御ができなくてどうしようもなかったんです」
「それは、また、災難でしたね」
「はい。あなたも、こんな女に気づいて災難でしたね」
「卑下しますね。マフラーとハンカチ、お渡しして良かったです。役立ちましたか」
「ええ、とても。こうして思い出して泣くくらいですから、当時は相当参ってました。ハンカチ、洗って返します」
「差し上げますよ。それ、毎日鞄に入れといたほうがいいですよ」
「そうします…」
ハンカチを貰い深々と頭を下げた。
今度この人に会ったら何か奢らせてもらおう。
この店に通う理由が出来てしまった。