それは面倒で。 でも愛しくて。
木ノ葉のドア鈴が鳴る。
二時過ぎ、麗菜さんが現れた。あたしがいらっしゃいませ、と言うより早く、麗菜さんは二人掛けの席に座る蜜葉を見つけて顔を綻ばせ、駆け寄り後ろから抱きついた。
あたしの眉がぴくりと動く。
「蜜葉、久しぶり。電話ありがとう。嬉しかった」
後ろから耳元に唇を寄せる麗菜さんに、蜜葉はやんわりとその手を振りほどく。
「話があるんだ。向かいに座って」
「えー。せっかく会えたのになんか素っ気ない。久しぶり過ぎて照れてる?」
「人妻が、夫以外の男に抱きつくなんて不健全だよ」
「あ、知ってたんだ。それでも会ってくれたの嬉しい」
「とりあえず座って。コーヒーでいい?」
「ええ」
蜜葉が振り返り、あたしに目配せする。あたしはコーヒーを淹れるために厨房に下がる。店主がホットサンドを半分に切りながら心配そうにあたしを見る。
あたしは安心させるようにへら、と笑う。先に出来上がったホットサンドを運ぶために店内に入ると、麗菜なんが出てきたあたしをじとっと睨む。あたしは気づかないふりをしてホットサンドをお客さんのところに運び、その間に店主が用意したコーヒーを麗菜さんのところに持っていく。
「お待たせしました。……ごゆっくりどうぞ」
ホットコーヒーをテーブルに置くと、麗菜さんが薄笑う。
「本当にそんなこと思ってる?早く帰ってほしいでしょ」
「麗菜」
諌めるように蜜葉が名を呼ぶと、麗菜さんはふん、とそっぽを向く。
「だって。さっきだってアイコンタクトでコーヒー頼んでたでしょ。仲がいいの見せびらかされて嫌になるわ。……横取り女」
「麗菜。鈴華に先にアプローチしたのは僕の方だよ。悪口言わないで。それにもう、僕と麗菜の関係は終わってたよね」
「私は終わりにしたつもりはないわ」
コーヒーを飲むと、麗菜さんはにこりと笑う。あたしはその場を立ち去れない。誰かが足を掴んでいるみたいに動けない。コーヒーを運んできたトレーを胸に抱き、ばくばくと鳴る心臓で全身が震えている気がした。
「誰が別れるって言ったの?蜜葉だって私のこと忘れられなかったんじゃない?だから連絡返してくれたんでしょ?」
「勝手に結婚して連絡も絶って、身勝手過ぎるよ。連絡したのは、ちゃんと別れを告げようとしただけ。会いたくて連絡したわけじゃないよ」
「私のこと、嫌いになったの」
「好き嫌いの話じゃないよ。僕たちはもう別れたんだから。会うのは、今日で終わり。結婚おめでとう。幸せになってね」
「そんなこと、言わないでよ。仕方ないじゃない。私は本当に蜜葉のこと好きだったのよ。ずっと一緒にいたかった。でも私には婚約者がいて、いずれは結婚しなくちゃいけなくて……言い出せなかったのよ。蜜葉には言ってなかったけど、私ある企業の社長の娘なの。婚約者は大手のホテル経営者で、親同士が決めた政略結婚で断れないし、聞いたら蜜葉、離れていっちゃうと思ったの。結婚しても蜜葉とは一緒にいたくて、でも夫に蜜葉のことバレちゃって……連絡できなかったんだけど。でも蜜葉の連絡先は控えてたから、頃合いを見てまた会えたらって思ってたの。それなのに……」
麗菜さんの目が冷たく細められ、あたしを突き刺す。
「こんな、そのへんにいくらでも転がってる普通の女に蜜葉を取られちゃうなんて……」
あたしはぐっと言葉を飲み込む。悪かったわね。その辺に転がってる石ころで。でも蜜葉はきらきら輝く宝石よりもその石ころを拾ったのよ。ざまあみろ。と、言いたいところだけど。あたしは麗菜さんを直視できない。麗菜さんは、綺麗だ。黒髪のボブヘアはケアが行き届いているのか艶があり、肌もしっとりとしていて触れたくなるほどだ。スレンダーだが出るとこは出ていて、理想的な体型だ。こんな美女と付き合っていたなんて知って、あたしは一気に自信をなくす。あたしの髪はふわふわの癖っ毛で、雨の日は湿気でさらに酷くなる。そばかすもあるし、痩せ型で肉付きがいいほうでもないし、麗菜さんと並べられると光るものが何もない。麗菜さんとの二択で、あたしを選ぶ人がいるだろうか。宝石と石ころなら、誰だって宝石を選ぶに決まってる。
蜜葉だって、今朝まではあたしを愛してくれたけど、再会して麗菜さんの綺麗さに当てられて心が揺らいでいるかもしれない。悔しいけれど、麗菜さんに勝てる気が全くしない。
言い返したい気持ちを押し殺し、あたしは再度胸に抱いたトレーを割る勢いで握りしめた。ぴし、と軽く軋む音がして力を緩めた。
あたしの心中を察したように、蜜葉の手があたしの手を取る。やんわりとした笑顔を向けられ、不安になった気持ちが少しだけ和らぐ。
「僕は、麗菜とやり直すつもりはないよ。浮気も不倫もするつもりはない。そこまでして麗菜と関係を持とうなんて思えない。でも」
蜜葉はするりとあたしの腰に腕を回し、座ったままあたしを抱き寄せる。蜜葉の頭が胸の辺りにぴったりと寄り添いどきん、と鼓動が跳ねた。
「鈴華とは不倫してまでも手離したくないって思える」
「み、蜜葉」
「鈴華も、そう思ってくれてたよね」
蜜葉の二股疑惑があったとき、あたしはそれでもいいと思えた。蜜葉に執着してしまっている。蜜葉も同じように思ってくれていることが、胸を高鳴らせる。もちろんあたしは浮気も二股もしないけど。
「うん。あたしも、蜜葉の数ある恋人の一人でも構わないから一緒にいたい」
「鈴華ひとすじだけどね」
「あたしも、蜜葉ひとすじ」
へら、と笑うと我慢していた涙がひと雫ぽたりと落ちた。蜜葉が手の甲でそれを拭う。
麗奈さんの視線が突き刺さるが、蜜葉の柔らかい雰囲気が壁になり守ってくれる。麗奈さんがふう、と息を吐く。
「私だって、婚約者がいなかったら……ううん。だめね。だって、私の立場じゃ庶民のあなたとは結婚できない。でも好きだったの。仕方ないじゃない。私は礼二さんと結婚しなくちゃいけなかったんだから」
ぎり、と歯を食いしばり、麗菜さんはでも、と言葉を続ける。
「結婚して、幸せになれるならよかったわよ。礼二さんは優しいし、好きなものなんでも買ってくれる。でもね、女癖がひどいの。いつも違う女の香水の匂いをさせて帰ってくるのよ。愛のない政略結婚だとしても、気を使ってくれてもいいじゃない」
香水の匂い。あたしはちら、と蜜葉を見る。他人事ではない事案だが、あえて何も言わずに口をもごもごさせた。蜜葉は困ったように、曖昧に笑い誤魔化した。
「私だって、遊んでもいいじゃない」
ぽつりと呟く麗菜さんの様子は哀愁に満ちていて、同じ女として同情してしまう。かといって、蜜葉をどうぞ、なんて許せるわけない。
「ね、蜜葉。ヨリ戻しましょうよ。今の彼女より、私のほうが蜜葉のタイプよね」
身を乗り出して詰め寄る麗菜さんに、蜜葉は少しだけ後退る。あたしは麗菜さんの言葉に蜜葉を振り返る。
そうなの?タイプなの?やっぱり美人がいいわよね……。
「私が声掛けたら、その日のうちに手を出してきたじゃない。顔が好きって言ってくれたわよね」
逆ナンされたんだ。それについていったんだ。へえ。ふーん。あたしは冷たい視線を蜜葉に向ける。蜜葉は慌てて首を振る。
「あれは、あのときは酔っていたから。鈴華、違うから」
「何が違うの」
「麗菜はタイプだけど、でも僕が好きなのは鈴華だから」
「タイプなのは否定しないなんだ」
「……か、顔だけ」
「顔ね。美人がいいわよね」
「可愛い鈴華の顔が好きだよ。ふわふわの髪もそばかすも、痩せてるけどしっとりした体も愛してる。ランチタイムで忙しなく一生懸命働いてる姿も可愛いし、朝の気だるげな様子も色っぽくてぐっとくるし、手料理も美味しいし、あとは」
「いい。蜜葉。もういいから。店主が呆れて厨房に戻っちゃったし、常連の方々もこっち見てにやにやしてる。もう、黙って」
「じゃあ、帰ったら続き聞いてね」
「わかったわ。仕事あるから、もう離して」
「あ、ごめんね」
腰を抱いていた蜜葉の腕が名残惜しげに離される。あたしは咳払いしてちら、と麗菜さんを見る。
「仕事に戻ります」
「あら、そう。余裕ね」
「蜜葉の気持ちがわかったので」
「ふうん。心変わりするかもしれないわよ」
「……泥棒猫、しないでくださいね」
あたしの言葉に麗菜さんがお冷やを勢いよくかけてきた。ぱしゃっと音がして、あたしはまた水浸しになる。
蜜葉が慌ててハンカチを取り出したが、あたしは首を振って拒否し、手の甲で顔を拭い、麗菜さんに向けて手を差し出す。
「ハンカチ、返してください。それはあたしが蜜葉に貰ったものなの」
「嫌よ」
「お願いします」
「絶対嫌」
「……麗奈」
頑なな態度の麗奈さんに、蜜葉が冷たく名前を呼ぶ。返せ、と命令する。
麗菜さんはぎゅうっと唇を噛み締め、やっと鞄の中から洗濯してアイロンがかかっているハンカチを取り出し、あたしの手の上に置いた。投げつけられると思っていたあたしは瞠目し、すぐに静かに微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お返しは何もできませんが」
蜜葉は返せませんが、と暗に伝える。
麗菜さんは一瞬鬼のような形相をしたがすぐに無表情になりコーヒーをゆっくりと飲み始めた。
蜜葉は水浸しになったあたしを心配してくれたが、あたしは休憩室に向かい予備の着替えに袖を通す。
厨房で水を飲み、気持ちを整えて戻ってくると、麗菜さんの姿はなく、蜜葉だけが静かにコーヒーを飲んでいた。
二時過ぎ、麗菜さんが現れた。あたしがいらっしゃいませ、と言うより早く、麗菜さんは二人掛けの席に座る蜜葉を見つけて顔を綻ばせ、駆け寄り後ろから抱きついた。
あたしの眉がぴくりと動く。
「蜜葉、久しぶり。電話ありがとう。嬉しかった」
後ろから耳元に唇を寄せる麗菜さんに、蜜葉はやんわりとその手を振りほどく。
「話があるんだ。向かいに座って」
「えー。せっかく会えたのになんか素っ気ない。久しぶり過ぎて照れてる?」
「人妻が、夫以外の男に抱きつくなんて不健全だよ」
「あ、知ってたんだ。それでも会ってくれたの嬉しい」
「とりあえず座って。コーヒーでいい?」
「ええ」
蜜葉が振り返り、あたしに目配せする。あたしはコーヒーを淹れるために厨房に下がる。店主がホットサンドを半分に切りながら心配そうにあたしを見る。
あたしは安心させるようにへら、と笑う。先に出来上がったホットサンドを運ぶために店内に入ると、麗菜なんが出てきたあたしをじとっと睨む。あたしは気づかないふりをしてホットサンドをお客さんのところに運び、その間に店主が用意したコーヒーを麗菜さんのところに持っていく。
「お待たせしました。……ごゆっくりどうぞ」
ホットコーヒーをテーブルに置くと、麗菜さんが薄笑う。
「本当にそんなこと思ってる?早く帰ってほしいでしょ」
「麗菜」
諌めるように蜜葉が名を呼ぶと、麗菜さんはふん、とそっぽを向く。
「だって。さっきだってアイコンタクトでコーヒー頼んでたでしょ。仲がいいの見せびらかされて嫌になるわ。……横取り女」
「麗菜。鈴華に先にアプローチしたのは僕の方だよ。悪口言わないで。それにもう、僕と麗菜の関係は終わってたよね」
「私は終わりにしたつもりはないわ」
コーヒーを飲むと、麗菜さんはにこりと笑う。あたしはその場を立ち去れない。誰かが足を掴んでいるみたいに動けない。コーヒーを運んできたトレーを胸に抱き、ばくばくと鳴る心臓で全身が震えている気がした。
「誰が別れるって言ったの?蜜葉だって私のこと忘れられなかったんじゃない?だから連絡返してくれたんでしょ?」
「勝手に結婚して連絡も絶って、身勝手過ぎるよ。連絡したのは、ちゃんと別れを告げようとしただけ。会いたくて連絡したわけじゃないよ」
「私のこと、嫌いになったの」
「好き嫌いの話じゃないよ。僕たちはもう別れたんだから。会うのは、今日で終わり。結婚おめでとう。幸せになってね」
「そんなこと、言わないでよ。仕方ないじゃない。私は本当に蜜葉のこと好きだったのよ。ずっと一緒にいたかった。でも私には婚約者がいて、いずれは結婚しなくちゃいけなくて……言い出せなかったのよ。蜜葉には言ってなかったけど、私ある企業の社長の娘なの。婚約者は大手のホテル経営者で、親同士が決めた政略結婚で断れないし、聞いたら蜜葉、離れていっちゃうと思ったの。結婚しても蜜葉とは一緒にいたくて、でも夫に蜜葉のことバレちゃって……連絡できなかったんだけど。でも蜜葉の連絡先は控えてたから、頃合いを見てまた会えたらって思ってたの。それなのに……」
麗菜さんの目が冷たく細められ、あたしを突き刺す。
「こんな、そのへんにいくらでも転がってる普通の女に蜜葉を取られちゃうなんて……」
あたしはぐっと言葉を飲み込む。悪かったわね。その辺に転がってる石ころで。でも蜜葉はきらきら輝く宝石よりもその石ころを拾ったのよ。ざまあみろ。と、言いたいところだけど。あたしは麗菜さんを直視できない。麗菜さんは、綺麗だ。黒髪のボブヘアはケアが行き届いているのか艶があり、肌もしっとりとしていて触れたくなるほどだ。スレンダーだが出るとこは出ていて、理想的な体型だ。こんな美女と付き合っていたなんて知って、あたしは一気に自信をなくす。あたしの髪はふわふわの癖っ毛で、雨の日は湿気でさらに酷くなる。そばかすもあるし、痩せ型で肉付きがいいほうでもないし、麗菜さんと並べられると光るものが何もない。麗菜さんとの二択で、あたしを選ぶ人がいるだろうか。宝石と石ころなら、誰だって宝石を選ぶに決まってる。
蜜葉だって、今朝まではあたしを愛してくれたけど、再会して麗菜さんの綺麗さに当てられて心が揺らいでいるかもしれない。悔しいけれど、麗菜さんに勝てる気が全くしない。
言い返したい気持ちを押し殺し、あたしは再度胸に抱いたトレーを割る勢いで握りしめた。ぴし、と軽く軋む音がして力を緩めた。
あたしの心中を察したように、蜜葉の手があたしの手を取る。やんわりとした笑顔を向けられ、不安になった気持ちが少しだけ和らぐ。
「僕は、麗菜とやり直すつもりはないよ。浮気も不倫もするつもりはない。そこまでして麗菜と関係を持とうなんて思えない。でも」
蜜葉はするりとあたしの腰に腕を回し、座ったままあたしを抱き寄せる。蜜葉の頭が胸の辺りにぴったりと寄り添いどきん、と鼓動が跳ねた。
「鈴華とは不倫してまでも手離したくないって思える」
「み、蜜葉」
「鈴華も、そう思ってくれてたよね」
蜜葉の二股疑惑があったとき、あたしはそれでもいいと思えた。蜜葉に執着してしまっている。蜜葉も同じように思ってくれていることが、胸を高鳴らせる。もちろんあたしは浮気も二股もしないけど。
「うん。あたしも、蜜葉の数ある恋人の一人でも構わないから一緒にいたい」
「鈴華ひとすじだけどね」
「あたしも、蜜葉ひとすじ」
へら、と笑うと我慢していた涙がひと雫ぽたりと落ちた。蜜葉が手の甲でそれを拭う。
麗奈さんの視線が突き刺さるが、蜜葉の柔らかい雰囲気が壁になり守ってくれる。麗奈さんがふう、と息を吐く。
「私だって、婚約者がいなかったら……ううん。だめね。だって、私の立場じゃ庶民のあなたとは結婚できない。でも好きだったの。仕方ないじゃない。私は礼二さんと結婚しなくちゃいけなかったんだから」
ぎり、と歯を食いしばり、麗菜さんはでも、と言葉を続ける。
「結婚して、幸せになれるならよかったわよ。礼二さんは優しいし、好きなものなんでも買ってくれる。でもね、女癖がひどいの。いつも違う女の香水の匂いをさせて帰ってくるのよ。愛のない政略結婚だとしても、気を使ってくれてもいいじゃない」
香水の匂い。あたしはちら、と蜜葉を見る。他人事ではない事案だが、あえて何も言わずに口をもごもごさせた。蜜葉は困ったように、曖昧に笑い誤魔化した。
「私だって、遊んでもいいじゃない」
ぽつりと呟く麗菜さんの様子は哀愁に満ちていて、同じ女として同情してしまう。かといって、蜜葉をどうぞ、なんて許せるわけない。
「ね、蜜葉。ヨリ戻しましょうよ。今の彼女より、私のほうが蜜葉のタイプよね」
身を乗り出して詰め寄る麗菜さんに、蜜葉は少しだけ後退る。あたしは麗菜さんの言葉に蜜葉を振り返る。
そうなの?タイプなの?やっぱり美人がいいわよね……。
「私が声掛けたら、その日のうちに手を出してきたじゃない。顔が好きって言ってくれたわよね」
逆ナンされたんだ。それについていったんだ。へえ。ふーん。あたしは冷たい視線を蜜葉に向ける。蜜葉は慌てて首を振る。
「あれは、あのときは酔っていたから。鈴華、違うから」
「何が違うの」
「麗菜はタイプだけど、でも僕が好きなのは鈴華だから」
「タイプなのは否定しないなんだ」
「……か、顔だけ」
「顔ね。美人がいいわよね」
「可愛い鈴華の顔が好きだよ。ふわふわの髪もそばかすも、痩せてるけどしっとりした体も愛してる。ランチタイムで忙しなく一生懸命働いてる姿も可愛いし、朝の気だるげな様子も色っぽくてぐっとくるし、手料理も美味しいし、あとは」
「いい。蜜葉。もういいから。店主が呆れて厨房に戻っちゃったし、常連の方々もこっち見てにやにやしてる。もう、黙って」
「じゃあ、帰ったら続き聞いてね」
「わかったわ。仕事あるから、もう離して」
「あ、ごめんね」
腰を抱いていた蜜葉の腕が名残惜しげに離される。あたしは咳払いしてちら、と麗菜さんを見る。
「仕事に戻ります」
「あら、そう。余裕ね」
「蜜葉の気持ちがわかったので」
「ふうん。心変わりするかもしれないわよ」
「……泥棒猫、しないでくださいね」
あたしの言葉に麗菜さんがお冷やを勢いよくかけてきた。ぱしゃっと音がして、あたしはまた水浸しになる。
蜜葉が慌ててハンカチを取り出したが、あたしは首を振って拒否し、手の甲で顔を拭い、麗菜さんに向けて手を差し出す。
「ハンカチ、返してください。それはあたしが蜜葉に貰ったものなの」
「嫌よ」
「お願いします」
「絶対嫌」
「……麗奈」
頑なな態度の麗奈さんに、蜜葉が冷たく名前を呼ぶ。返せ、と命令する。
麗菜さんはぎゅうっと唇を噛み締め、やっと鞄の中から洗濯してアイロンがかかっているハンカチを取り出し、あたしの手の上に置いた。投げつけられると思っていたあたしは瞠目し、すぐに静かに微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。お返しは何もできませんが」
蜜葉は返せませんが、と暗に伝える。
麗菜さんは一瞬鬼のような形相をしたがすぐに無表情になりコーヒーをゆっくりと飲み始めた。
蜜葉は水浸しになったあたしを心配してくれたが、あたしは休憩室に向かい予備の着替えに袖を通す。
厨房で水を飲み、気持ちを整えて戻ってくると、麗菜さんの姿はなく、蜜葉だけが静かにコーヒーを飲んでいた。