それは面倒で。 でも愛しくて。
 そっとベッドから降り裸足でフローリングの上に立つ。コーヒーの香りがして、蜜葉が淹れているのだとわかる。麗菜さんは隣に寄り添っているのだろうか。蜜葉に触れていないだろうか。触れているなら離れてほしい。あたしは寝室のドアを開け、一歩踏み出した。その時。
 どんどんどん、と玄関のドアを激しく叩く音がして、ひゃっと声を上げた。こんな夜中に今度は何なの。あたしは寝室のドアを開け玄関に視線を送る。すでに蜜葉が玄関にいて、ドアを開けると「麗菜っ」と野太い声が部屋に響いた。ソファに座っていた麗菜さんの肩がビクリと揺れる。黒髪に端正な顔立ち、清潔感のあるシャツにチノパンを履いている男は、鬼のような形相で蜜葉を押しのけて靴を乱雑に脱ぎ捨てだんだんだんっ、と足音荒く麗菜さんに詰め寄った。殴る勢いで近づいてきたので、あたしは咄嗟に麗菜さんの前にしゃしゃり出て守るように両手を広げた。
「っ、どいてください。誰ですかあなたは」
 立ちはだかるあたしを、男は煩わしそうに睨む。
 麗菜さんがそっとあたしの背中の服を掴む。
「あ、あなたこそだれですか。こんな夜中に人のうちに上がり込んで非常識ですよ」
「麗菜の夫の礼二です。妻を迎えに来たんです。とにかくどいてください」
「そ、そうですか。な、殴りそうな勢いだったので、つい立ちはだかってしまいました」
「殴る?そんなことしませんよ。ほら、どいてください」
「でも」
 ちら、と麗菜さんを振り返る。目は合わないが、小さく震えている。これでは退くに退けない。
 退けないあたしに痺れを切らしたのか、礼二さんはあたしの腕を掴み無理やり退けようとした。けれどすぐに蜜葉が礼二さんの手を掴み、礼二さんは蜜葉を睨む。蜜葉の目が冷たく細められ、礼二さんは一瞬たじろいだがすぐに嘲笑し余裕を見せる。
「麗菜を一度ならず二度までも誑かしたくせに、他の女にも手を出しているなんてずいぶん贅沢ですね」
「誑かしてなんていません。麗菜は、あなたから逃げるためにここに来たんです。言いがかりはやめてください。それより、彼女から手を離して」
 礼二さんがあたしの腕を離すと、蜜葉も礼二さんの腕を離す。眼鏡を片手で掛け直し、礼二さんに向かって非難の目を向ける。
「女癖が悪いと聞きました。僕がとやかく言うことではないですが、麗菜を大切にしてあげてください。喧嘩をするたびここに来られるのは正直迷惑です」
「惚れていた女が私と喧嘩をするたび来れば、嬉しいのではないですか?……そこの彼女よりも、麗菜のほうが唆るでしょう」
 その言葉に蜜葉が冷笑する。
 あたしは呆れた。なんて品がない発言なのだろう。政略結婚でそこに愛がないとしても、自分の妻を他の男に勧めるような言い方をするなんて。麗菜さんがあたしの背中におでこをくっつけ憂いている。あたしはくるりと振り返り、麗菜さんを抱きしめおでこにキスをする。蜜葉と礼二さんがぎょっと瞠目し、麗菜さんはおでこを抑えてきょとんとあたしを見上げた。
 あたしは口の端を上げ皮肉な笑みを浮かべる。
「確かに、麗菜さんには唆るものがありますね。女のあたしでも欲情しちゃいそうです」
 きゅっと抱きしめる腕に力を込めると、麗菜さんもそれに応えるようにあたしの背中に腕を回して胸に顔を埋めた。
「胸、ちっさ」
「なんか言いました?」
「大きさが全然違うわ……不思議。ほら、手、貸して」
 麗菜さんがあたしの手を掴み、自身の胸へと誘う。むにゅっとした感触とその大きさに、あたしはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
「なんですか自慢ですか」
「自慢なんてしてないわよ。これが普通じゃないの?あなたちゃんと食べてるの?下町のお嬢さんってカップラーメンばかり食べてるって聞いたけど本当なの?」
「それどこ情報なんですか……それよりも大きさだけがすべてではないですからね。ちょっと手を貸してください」
 あたしは麗菜さんの手を掴む。お手入れの行き届いたすべすべしっとりの手の触り心地に悔しさを滲ませながら、その手を胸に誘ったとき。
 
「「ちょっと待って」」

 べりっと音がしそうな勢いで麗菜さんから離された。
 気付けば蜜葉の腕の中で、あたしは抱き込まれていて自然と蜜葉の背中に腕を回した。
「なに?いきなり。どうしたの?」
 あたしののんびりした声とは裏腹に、蜜葉は何かからあたしを守るようにぎゅうぎゅうと抱きしめてきて息苦しい。苦しい、と背中を強めに叩くと、蜜葉ははっとしてあたしの肩を掴み取り乱した様子で顔を近づける。
「今、なに、何しようとしたの?!」
「何って……麗菜さんがあたしの胸が小さいとか言うから触らせようかと」
「鈴華の胸を触っていいのは僕だけでしょ?!」
「そんな約束したっけ」
「し、してないけど。でもなんか麗菜に取られそうだった。乗り換えられそうだった!」
「そんなことないわよ」
「そんな感じだった!」
 再度抱きしめられて、あたしは辟易した。心配性なんだから。蜜葉の肩からあたしは半分顔を出すと、麗菜さんが礼二さんに抱きしめられ苦しそうに背中をどんどん叩いていた。あたしと同じ状況である。
「麗菜、私への当てつけなのか。元カレのところに転がり込んで、挙句の果てにその彼女にまで甘えるなんて……そんなに私の気を引きたいのか?」
 切なそうに言う礼二さんに、麗菜さんは顔をくしゃりとゆがませる。泣いちゃうかな、と思ったが涙は目の奥に押しとどめ、麗菜さんは皮肉な笑みを浮かべた。
「バカなこと言わないで。あなたなんてほかの女性に夢中で私のことちっとも気にかけたことなんてないじゃない。そんなあなたの気を引きたいなんてこれっぽっちも思ったことない。あなたが外で好きにしてるみたいに私だって好きにするわ。鈴華さんとだって遊ぶことにする」
 あたしの名前を出さないでほしい。礼二さんに貶められて悔しくて、思わず麗菜さんに手を出してしまったがそれは御愛敬というやつだ。
「あんなふわふわ髪のそばかす女のどこがいいんだ。私という夫がありながらどうして……だいたい外で遊んでなんかいない。何かの誤解だろう。取引先のお客様に女社長が多いが、その事を言っているのか?」
「だって、……あなたのスマホが見えたの。今度の食事会楽しみにしてるってハートマークまで付けたメッセージ。一人や二人じゃないわよね。何人もいるわよね?」
「それは、取引先の社長からだ。二人きりでは会わないし、ハートマークも深い意味はない。私が大切に思っているのは麗菜だけだ」
 その愛の言葉は麗菜さんには伝わらない。嘲笑し、蔑んだ目で礼二さんを見る。
「信じられない。だってそんなこと初めて言われたし、夫婦生活だって何にもなかったじゃない」
「それは……」
 礼二さんはがりがりと乱雑に後頭を掻いた。ため息を吐き、すまなかった、と謝る。
「君が私を好きになってくれるまでは手を出さないと決めていたんだ。私たちは政略結婚だから。結婚して二人で生活していれば、いずれ君も絆されてくれるだろうと甘い考えを持っていた。それがいけなかったな。私からなにかアプローチすべきだった。怠慢だった。君は元カレのほうに行ってしまった。まだ忘れられなかったんだろう?」
 礼二さんが蜜葉をちら、と見る。麗菜さんが気まずそうに口をもごもごさせ俯いた。
「……忘れられなかったのは、あなたが私に興味がないと思ったから。これでも腹を括っていたのよ。あなたに愛されれば蜜葉のこと忘れられるって期待してた。でも、全く手を出してこないし仕事と浮気ばかりで嫌になったのよ」
「浮気なんてしてない」
「蜜葉も今は鈴華さんに夢中だし、私、ひとりぼっちだなーって寂しくなってたの。でも、……あなたがこれから愛してくれるなら、私はあなたを愛するわ」
 今度はうまくやってみせる、と麗菜さんは笑った。その表情を見て、礼二さんもほっと息を吐く。
「そうしてくれ。もう誤解させるようなことはしないから」
 麗菜さんと礼二さんが微笑み見つめ合う。仲直り成立だ。なんだかそのままキスをしそうな勢いだったので、あたしは遠慮がちにんんっと咳払いをした。
 二人の視線があたしに向かう。
「あら、やだ。蜜葉ってば鈴華さんにべったり」
 まだ不安なのか、蜜葉は全くあたしから離れようとはしない。仕方ないのでそのまま二人を追い払うことにした。
「話も纏ったみたいですし、そろそろ御暇してください」
 きっぱり言うと、礼二さんは丁寧に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。今後このようなことはないようにします」
「お願いしますね」
「はい。行こう、麗菜」
 腰を抱かれて寄り添う麗菜さんは、玄関まで行くと振り返り、いたずらっぽく笑う。 
「鈴華さん。今度胸を触らせてね」
「いいですよ」
「だめだよ!」
 麗菜さんと礼二さんを見送らず、あたしに抱きつき微動だにしなかった蜜葉が麗菜さんを振り返り睨む。麗菜さんはぽかんとし、ぽり、と頬を掻いた。
「冗談よ……蜜葉、ありがと」
「鈴華はあげないからね」
「はいはい」
 パタン、とドアを閉め二人が行ってしまうと、蜜葉がやっと腕を緩めてくれた。
 緊張感が解けると、あたしは大きなあくびをして伸びをした。もう朝方だけど、もう一眠りしたい。
「少し横になる?」
「うん。ちょっと寝たい」
「僕も寝る」
 二人で倒れるようにベッドに潜り、蜜葉はあたしを羽交い締めのよいに抱き込む。さっきからずっと蜜葉の体温があたしを包み込み精神安定剤のように作用する。蜜葉があたしの髪に顔を埋めてすう、と息を吸う。
「鈴華の髪、ふわふわで可愛い」
 雨の日は湿気でさらに膨らむけど、あたしは気に入っている天然パーマの猫毛だ。
「そばかすも愛嬌があって好き」
 子供の頃から頬にぽつぽつと散らばるそれは、ニキビみたいで嫌だった。今は化粧で隠すこともできるから、特に気にしたことはない。
「胸も小さいけど形が良くて掴みやすい」
 大きい胸なんて肩が凝るだけ。でも蜜葉が大きいほうが好きなら凹んでたけど。
 よく分からないがとばっちりで礼二さんに蔑まれて貶されたけど、蜜葉がこうして愛してくれる。蜜葉がいてくれれば、誰に何をどう言われても何とも思わない。そう思えるほどあたしの中で蜜葉は大きな存在で、大切で愛しくて、蜜葉を想うと幸せを噛み締めることができる。
 あたしは後ろから抱きしめてくる蜜葉の手を握り、口元に持ってきてキスをする。蜜葉がぴくりと指を震わせ、耳元にキスをすると切なそうにため息を吐いた。
「あんまり刺激しないで。寝れなくなっちゃうから」
 あたしは振り返り、蜜葉の唇に優しくキスをする。
「蜜葉。あたしを選んでくれてありがと」
 すべてを兼ね揃えている美人のお嬢様よりも、こんな石ころを拾ってくれて。
「蜜葉の趣味って変わってる」
 そう言うと、蜜葉は「鈴華とはこの先もずっと一緒にいる未来が考えられたんだよ」と左手の薬指にキスをされ、あたしは意味深なその言葉と仕草に全身を駆け巡る血液が沸騰するのを感じた。 
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