それは面倒で。 でも愛しくて。
 あたしはたまにこうして無意識に泣いてしまうことがある。原因はわかっている。彼氏だと思っていた彼が、あっさりあたしを振り他の女と結婚したからだ。それしか心当たりはない。吹っ切れないと、と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれない。仕事場でも家でもこうして突如涙が出る。コーヒーショップに限ってのことではない。ふとした瞬間、思い出したときに胸が雑巾絞りされたみたいに痛みうまく息を吸う事ができない。
 今はこんなんだけど、きっといつか回復する。
 彼氏のことが風化して、また新しい恋をすれば情緒不安も落ち着くだろう。 
 ハンカチを目頭から離し、ふとガラス張りの壁の向こうを見れば、店に入ろうとしていた人と目が合った。慌てて顔を背けたが、泣いているのはバレてしまっただろうか。 
 気まずくて、帰りたかったが、まだカフェオレもチョコレートも充分残っている。持ち帰り用の紙コップにしてもらえばよかったと後悔した。

「あの」
 柔らかい声に顔を上げた。
 眼鏡を片手で直し、視線を彷徨わせながら男性が隣に立っていた。もう話すことはないと思っていたので、反応が遅れた。一拍置いて、返事をする。
「あ、はい」
「こっちに座りませんか。そこだと、見られちゃいますよ。……もう見られてましたけど」
 何を、とは聞かなかった。ありがたい申し出に頷きたかったけれど、男性から面倒な空気を感じ取りあたしは遠慮した。
「大丈夫です。ここ、景色いいので気に入ってます」
「景色ですか?枯れ木しかありませんよ。小鳥もどこかに行ってしまいましたね」
 男性はカフェオレとチョコレートドーナツの載ったトレーを持つと、奥の席へと移動した。あたしは慌ててコートを引っ掴み男性の後を追う。
 男性と同じテーブルにトレーが置かれたので、戸惑いながらも向かいの椅子に座った。
 男性はパソコンを閉じ、コーヒーを啜る。
 ちら、と男性を見ると目が合う。あたしの手の中のハンカチを見て、ふっと笑う。
「ハンカチ、ちゃんと使ってますね」
「重宝しております」
「それは良かった」
「あの、……面倒事ばかりですいません。あなたの優しさに大変恐縮しております」
「泣いているのに放ってなんておけないでしょう。……僕は優しくないですよ。あなたの言う通り、面倒事って思っちゃってますから」
「ほんとに、すいません。あの、コーヒーのお代わりいかがですか」
「結構ですよ。自分で買いに行きます。その顔で買いに行かせるわけにはいきませんから」
 泣いてぐしょぐしょの顔の女にコーヒーなんて買わせたら顰蹙を買ってしまう。そこまで気がまわらなかった自分の浅はかな考えに羞恥する。あたしのバカ。
「なんとお礼を述べたらいいか……」
「泣き止んでくれることが一番の願いです」
「すいません……」
「……失恋の痛手から立ち直るのは難しいですよね」
「……はい」
 元カレを思い出すとまたぽろ、と涙が溢れた。慌ててハンカチで目頭を押さえる。
「そんなに好きだったんですか」
「優しくて、大人の男で、素敵な人でした。あたしが働く喫茶店の常連さんだったんですけど、何度も顔を合わせるうちに親しくなって、告白されたときは嬉しかった。忙しい人だったからデートはできなかったけど、喫茶店で会えるのがとても楽しみだったんです」
「デート、しなかったんですか?一度も?」
「……夜は、会いましたけど」
「それだけですか?」
「それだけです」
「……あの、言いにくいんですが」
「今ならわかります。都合のいい女ですよね」
 カフェオレを一口飲む。ミルクの甘さとコーヒーの苦さがちょうどよく、口当たりがまろやかでほっとする。
 きっと好きだったのはあたしだけ。確かに彼からは好きだ、付き合ってほしいと言われたけれど、喫茶店で仕事の合間に少し話し、仕事終わりに時間があればホテルに行く。これじゃあ付き合っているなんて言えない。あたしは彼の好きという言葉を鵜呑みにして、都合良く扱われていることに気づかなかったのだ。
 あたしはしょうもない愚鈍だ。
 メッセージ一つであっさり捨てられるほど希薄だった。あたしの気持ちだけが大きくなり、彼の気持ちを置いてけぼりにして、ただ、ひとりで愛していた。
「あたしへの気持ちはなかったんです、きっと。あたしだけじゃあの人には物足りなかったのかもしれない。もっと彼を夢中にさせられるだけの技があればもしかしたら、繋ぎ止めていられたのかもしれません」
「それ、夜の話ですよね。男にとって都合良すぎますよ。そんな男のために技を磨く必要はないですよ」
 片手で眼鏡を直して耳を赤くする男性に、あたしははしたないことを口走ったな、と咳払いをした。
「すいません。こんなところで話す内容ではないですね」
「いえ。いや、はい」
 動揺を隠すためか、男性はコーヒーを飲みきるとお代わりしてきます、とカウンターに向かった。
 あたしはずび、と鼻をかみ、ふうと息を吐いてカフェオレをちびちび飲んだ。
< 5 / 6 >

この作品をシェア

pagetop