次の世界でも、私を探してくださいね。
26
遠音皇子は芍薬麗園を訪ねたいと思っていたのだが、夜更かしが続いていたので、朝はなかなか起きられないのだった。
あの舟の事件があった日は竹香のことが心配で、夜に部屋を覗きに行ったのだった。けれど、彼女は不在だったから、まさか医院のほうにいるのではないか不安になり、そこにも行ってみたくらいだった。
部下に調べさせてみると、竹香がいつものように元気に働いていると報告を受けたので、遠音皇子は自分でも驚くくらいほっとした。
なぜそんなに竹香という庭で働く女のことが気になるのだろうか。
その朝、遠音皇子はいつもより早く目を覚ました。春が近いせいか、気持ちが軽い。昨夜の外出を控えたせいかもしれない。今日からは心機一転、前向きに生きようという清々しい気持ちになった。
季節のせいなのか何かわからないが、とにかく、気分がよい。
新調した服に着替えて、庭に行ってみよう。
芍薬霊園では、竹香が作業着を泥だらけにして、百姓のように働いていた。その腰を曲げて草を抜いている姿を見ると、なぜか笑みが出た。ああ、顔にまで泥がついている。
竹香は皇子の姿を見ると駆けてきて、先日のことについてお礼を言った。彼は助けようとしたのだのだけれど、それより先に離山が飛び込んだのだった。
あの時、遠音皇子が遅れたのは、一瞬のためらいがあったからだ。水に飛び込むのが、こわかったのではない。
そんなことは誰にも話してはいないが、もしかして母上が池の下から手を伸ばして、この明るい娘を引きずりこんでいるような気がして、立ち止まってしまった。
母上はあの世でも寂しすぎて、話し相手がほしいのかもしれないなどと思ってしまったのだ。
竹香なら、母上のよい話し相手になってくれるような気がしたのだ。考えてみれば、そんなはずはないのだけれど。不義理を重ねてしまっている罪悪感がたまっているから、そんな変なことを思ってしまったのだろう。
「礼なんて、必要ないです。元気で何よりです。顔中が泥だらけではないですか」
皇子が懐から布を出そうとしたので、竹香は大丈夫です。大丈夫ですと手をひらひらさせて遠慮した。皇子はそのしぐさをかわいいと思った。
「ひどい顔ですよ」
「泥は庭の仕事をする者にとっては、勲章です」
「竹香はおもしろいことを言うなぁ」
遠音皇子は笑いながら、心がぱっと明るくなっていくのを感じた。この娘とずうっと話を続けたい。
「では、私にとっての勲章は何だと思いますか」
「それは、……人々の感謝でしょうか」
「なるほど。あなたは頭がよいですね」
「いいえ。そちらは自信がありません」
「では、竹香は何に自信がありますか」
竹香は目をくるりと回して、「何も浮かびません」と答えたから、遠音皇子はまた笑った。
「何かあるでしょう」
「そうですね。洗濯、それにナツメ餅を作るのが得意といえば得意です」
「竹香は、以前、この庭で、踊っていた人ではないですか」
「はい。すみません」
「踊りが得意なのではないですか」
「それほどでもないです」
「その踊りを一度、見せてもらえませんか」
「殿下にお見せできるようなものではありません。誰について習ったわけではないので、自己流ですから」
「自己流がよいです。私は老練家の踊りは式典ごとに見てきているので、そういうのには正直飽きています」
竹香はためらって、髪をかき上げたら、おでこにまた泥がついた。
「見せてください。踊りを見せてくれたら、ご褒美をあげましょう。どんなことでも、希望を聞いてあげますよ」
「どんなことでも、ですか」
と竹香が顔を上げて皇子をまっすぐに見た。
「そうですよ、どんなことでも」
「わかりました。では、少し時間をください。しっかり練習して、音を担当してくれる人を探してみます」
「伴奏のほうは、こちらで用意しますから、明日の夜7時、私の宮殿に来てください」
「明日ですか」
「そうです、明日です。私はせっかちで、待つことができない人間なのです」
明日は早すぎるとは思ったけれど、5月も近いことだし、そのご褒美というのはほしい。
すっかり日が落ちて静かになり、宮廷のあちこちに、灯がともされた。
離山が仕事を終えて、外に出てきた。
「離山さま」という声がしたように思って、あたりを見回した。
竹香の声のように思ったが、まさか、空耳だろう。会いたいと思っていたので、聞こえたように思ったのだろう。
「離山さま」
もう一度聞こえたので、その声がどこから聞こえてくるのか不自由な足でくるくると回ると、階段の陰からホンモノの竹香が現れた。
とたんに離山の顔が、朝の蓮の花のように輝いた。少年時代の笑顔に戻っていたので、竹香はうれしくなって笑った。
「キャプテン、今までお仕事ですか。待ちくたびれちゃいました」
「休みまで会えないと思っていたのに、どうしたんだい」
「キャプテンは、普段は、こんなに遅くまで働いているんですか?」
「うん。調査中のことなどあって。どうしたんだい。困ったことがあるのかい?」
「それが、困ったことなのか、うれしいことなのか、わからないんです」
「なに?」
「わたし、明日の夜、遠音皇子の宮殿に行って、踊ることになりました」
「どうして」
「皇子が庭に来られて、頼まれちゃったんです。踊ったら、何でも希望を聞いてくれるんですって」
「そんなにほしいものがあるのかい」
「はい。あるんです」
「ぼくには買えないもの?」
「キャプテンには、買えないです」
「それは、なに」
「教えてあげません」
竹香はじらして笑ったのだが、なぜかうろたえている離山を見て、ひどく心が揺れた。
「すみません。そんな心配していただくようなことじゃないんです」
「心配していたわけじゃないけど」
「5月は芍薬が、一番美しい季節なんですよ。匂いが甘くて、夜に灯をつけたら、まるで夢の世界です。だから、芍薬が美しく咲きそろったら、お世話になった方々を招待したいと思って」
「そうか。あそこは誰もはいれない庭だからな」
「最初、小菜がこっそり連れて行ってくれた時、ものすごく感動したんです。ここは天国なのかと思って。そのくらいきれいでした」
「うん。ああいう鮮やかな庭は、山にはなかった」
「わたし、許可をもらって、あそこで踊りを披露したいです。お世話になった方々に、感謝の気持ちをこめて」
「そうか」
「その時、一番に見てもらいたいのは、もちろん、キャプテンです」
「ぼくは何もしていないよ」
竹香は美しい芍薬園にみんなを招待したいという計画に酔っていて、ずいぶんと張り切っている。そんな怖いもの知らずの計画を立てなくてもいいのに、と離山は思うけれど、そこが、まったくチーチーらしいので、困ってしまうのだ。