愛する君を消す

反復する朝(後編)

書架と書架のあいだの薄暗い通路に入った。朝の白い光は入口で低くなり、天井の蛍光灯は書架のあいだだけ間引いて点いていた。

利用者はまばらだった。通路の奥に年配の男性が一人、棚の前で本を抜き出して表紙をめくっていた。私が進んでも、顔を上げなかった。

床の薄い絨毯(じゅうたん)に靴の底がごく薄く沈み、書架のこもった静かさが頭の上に降りてきた。

棚の側面のラベルが視界の端を流れた。日本史、古文書、郷土資料、民俗学。四つ目の前で、足を止めた。

棚は高かった。上から二段目は、爪先立ちでようやく指先が届くくらいの高さにあった。

二段目を左から順に目で辿る。青の背、赤茶の背、黒の背に金の箔、焦げ茶の背、灰色がかった青、深緑の背。視線が、一冊で止まった。古い布張りの、灰色がかった青の一冊。

『東日本口承(こうしょう)伝承』。

私はそれを見上げた。読みたいわけでも、読みたくないわけでもなかった。何となくその一冊に手を伸ばしてみようと思った。それだけのことが、私を立ち止まらせた。

通路の奥でめくられていた紙の音は、いつのまにか聞こえなくなっていた。

踵をわずかに浮かせ、右手を上に伸ばした。鞄の紐が肩からずれた。背表紙のすぐ手前で、指先がわずかに止まった。

それから、指の側面が、古い布の背に触れた。冷たかった。冷たさのすぐ隣に、ほんのわずかなあたたかさがあった。自分の指ではない指の、温度だった。

棚板の隙間越しに、向こう側から伸びた指の側面が、私の指のすぐ脇に並んでいた。一冊の本に、二人ぶんの指がかかっていた。

引き出そうとした重みのうち、指三本ぶんだけが向こう側へ持っていかれた。それが本の中で釣り合いを失う一瞬の感触として、はっきりと手のひらに残った。

「あ」

と、声が漏れたのか漏れなかったのか、定かではなかった。

ほとんど同時に、二人とも手を引いた。爪先立ちのまま、手のひらをそのまま胸の前で軽く握った。指先にわずかな温度がまだ残っていた。

視界の端には、棚の向こう側の影だけがあった。顔を、向けなかった。

***

そのとき、もう一度、棚の向こうから手が伸びてきた。

今度は棚の上の縁を越えて、私の頭の上をすっと超え、指が視界の上の縁を横切った。ごく薄い影が、布張りの背表紙のいちばん上の角に届いた。一度で、揺らがず、余分な動作なしに。

指の腹が本の背を手前に引き、布張りの背が隣の本の縁を軽く撫でながら、棚の外に引き出された。

本は頭の上の高さでわずかに止まり、それから向こうの指のあいだで一度ゆっくりと裏返された。古い布の、灰色がかった青の裏表紙が、私の方を向いて降りてきた。書名は伏せられたまま、表には出てこなかった。

両手を上げ、右手を上の縁に、左手を下の縁に添えた。(てのひら)に布目のかすかな起伏が伝わった。重みがゆっくりとこちらに移り、布張りの重みの全部が、両手の中に落ちた。

受け取った本を、胸の前で一度くるりと返した。表紙が私の方を向いた。縦書きの古い書体で、『東日本口承伝承』の七文字。文字の縁の、わずかな擦れ。

左右の手のひらで縁を包み、表紙を胸元に押しつけるようにして抱え直した。指先に、背のいちばん上の縁の、薄い粉の感触が残っていた。

爪先立ちのまま、ふくらはぎに薄い張りをひとつ上げて、上体をわずかに前に傾けた。視線は本の表紙に置いたまま、目を伏せ、短く、一度だけ頭を下げた。

下げきったところで、ほんの一瞬、息が止まった。胸の前の本に額が触れるか触れないかの距離で、私はそこに留まっていた。それから、踵をゆっくりと床に下ろした。

入口から差す光の中に、新しい季節のごく薄い気配が一つ、動き始めていた。
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