終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
 次に雪那を見かけたのは、ミル引きコーヒーの自動販売機が休止してしまい、仕事中はあれでないとと偏屈なこだわりを持つ玲司が一つ階を降りたときだった。
 あの日全ての動作がキビキビとしてきつい目をしていた雪那が、ぼうっとした様子でコーヒーの自動販売機の前に立っていた。たった三十秒。けれど、随分長い時間に感じながらその横顔を見ていた。
 無、だ。虚無。
 全身にバリアを張って強そうだな、と思った彼女の、予測と違う姿に、玲司の目は吸い付いたように離れなかった。
 コーヒーが完成した合図として自動で扉が開くと、虚だった雪那の目に正気が戻る。無駄にベタベタしていないマットな口紅が塗られた唇が「しっかりしろ。負けるな」と自分を鼓舞するように小さく動いた。
 カップを持ち、プラスチックの蓋をして振り返った雪那はあの日会議で見たあの隙のない強気な女の顔だった。そのあまりに大きな豹変が、何となく、また脳内メモリに残った。

 三度目に彼女を見たのは、不具合対応の時だった。営業は不具合時に早く原因究明しろとそれはもう威圧的だ。日頃の恨みからなのか、これ幸いと、早く復旧しろ、原因究明は、再発防止は、と事細かに逐一報告を求め、ひどいと怒鳴り散らす。その案件の営業担当課長もひどかった。大口の客だぞ、どうしてくれる? プレスリリースまで必要になったんだぞ! とシステム部のフロアを数時間ごとに訪れては上司を責め立てていた。
 だから管理職なんてなりたくない。玲司の頭にはそれしかなかったが、「だったらお前が客のとこ行って説明して来い!」と吐き捨てていった四度目の営業課長の訪れのあと、雪那がやってきて担当チームに差し入れをしていた。
 
「外に説明するのは営業の役割です。皆さんは復旧に注力してください。ただ、少しでも変化があれば情報をいただけますと助かります。ほんの少しでもいいです。お客様に待ってもらえるよう、土下座してでも全力を尽くします。ご協力お願いします!」

 土下座って時代錯誤だな。
 担当班でなかった玲司は定時で帰ろうとしていて、細い背中が深々と90度まで折れているのをパーテーションのガラス越しに見た。営業憎しとヒートアップしていた現場の空気が少し冷えたように見える。
 
 (部下に尻拭いさせる課長は最低だな。それもわざわざ女性を放り込んでこっちが強く言えないようにしたんだろう)

 小賢しいことだ、と退勤カードをそのまま押した。
 翌日、玲司のフロアのコーヒーの自動販売機の前で俯いて無表情な彼女を見た。今度はドアが空いているのに気がついていない。混んでる電車が大嫌いで出勤だけは早い玲司にしてみれば邪魔な存在。
 
「できてますよ」

 自分のコーヒーが買えないと思って指摘すると、急にはっとしたように背筋を伸ばした。

「あ、す、すみません。おはようございます!」

 おろっとした声音は一瞬で、すぐに何度も聞いたことのある凛とした声に変わった。合わせて表情も虚なものからにっこりと誰もが好感度を抱くものに。

「そんなに無理しなければいいのに」
「え?」

 なぜその言葉が口から出たのか玲司にはわからない。余分なことは言わない人間だと自認している。特に女性には。
 少しだけでもその人が望む言葉をかけるとすぐに勘違いされる顔らしく、何度か勝手に付き纏われヒステリックに叫ばれ揉められたことがある玲司は、できる限り前髪で顔を隠す生活をするほど、理解不能な生き物である女性とは距離を置いていた。
 
「……いえ、お疲れ様です」
「? お疲れ様です。朝早いですね。対策チームの方……ではないですよね?」
「いつもこの時間で。電車が混む前にと」
「ああ、そうなんですね。どうぞ。失礼しました」

 雪那はもう仕事の顔をして去っていった。玲司の心に、担当SEの顔を全員覚えているのかと思わせる言動と、ポッキリと折れた小枝みたいなのが表情の記憶だけを残して。

 四度目。
 またやれと言われたプロジェクトの一員として、雪那がいた。それから大きな会議のたび、面倒くさそうな先輩営業にわざわざ人前で怒られている姿を何度も見た。
 あれはマウントを取っているんだなと眺めていて、けれど彼女は決してあの自動販売機の前のように俯いたりせず、前向きな笑顔と言葉で応戦していた。
 強い人だけど不器用だなとやっぱり思った。弱いところを見せたらきっとあの男は満足して終われるし、女性を虐めてと周りの同情を買えるのに、馬鹿だなあとさえ思った。
 自動販売機の釣り銭切れランプがついていた。また下のフロアに行かなければならない。
 その時、玲司の胸に奇妙な感覚が芽生えた。
 雪那はまたあの無表情でいるのだろうか、と。
 誰も見てない時だけ見せる、輝きを失った黒い瞳。死んだ魚みたいな。誰にも見せない三十秒だけの疲弊した彼女のむき出しな心。

 トントン、と非常階段を下る音がやけに大きく聞こえた気がしていた。まだ就業時間で往来も多い。いるわけがない。あの気の強そうな女性が見せるわけがない。なのに、何故か玲司の無機質なはずの心から、いるのかな? という疑問が離れない。

 最後の角を曲がって、はたと足を止めた。
 染めたことなどないのではと思うほど真っ黒なストレートの長い髪を下に垂らし、ぐったりと首が折れそうに俯いて壁の方を向いているパンツスーツの彼女。

「……あの」
「わっ、あっ、……すみません!」

 足音に気がついていなかったのか、慌てた様子で顔を上げた彼女の腕から冊子が溢れ落ちる。流石に人として見て見ぬふりはできず、踊り場に散らかった古いパンフレットを拾って差し出した瞬間、長いまつ毛に縁取られた瞳が酷く潤んでいたことに気がついた。

「え……」
「……あ、す、すみません」

 動揺したように髪を耳にかけたその耳が朱色に染まっていた。慌てて視線を床に落として冊子を揃えて抱え上げた彼女が立ち上がる。

「ドアを塞いでしまっていてすみませんでした」

 どうぞ。そう言って端に寄った彼女の顔はいつものものだった。けれど玲司の中にはその泣きそうな瞳がはっきりと印象づけられてしまった。
 
「……検索機能の改善要望なら三年前にリリースしたSD1645シリーズがいいですよ。あれはカテゴライズがよくできていた」
「え?」

 ぱちり、と涼やかな印象の彼女の瞳が丸くなった。その変化は何故か玲司の視線を吸い寄せる。
 ほんの数秒。無言で真っ正面から見つめあった。

「すみません、余分なこと……」
「ありがとうございます!はしやさん」

 自分の発言自体を訝しんだ玲司に、雪那がぱあっと作り物ではない笑顔を見せる。息が詰まった……気がした。
 
「名前……」
「あ、D60Fの名簿でお名前見て……ですよ、ね?」
「はしたに、です」
「わあっ、ごめんなさい!自分の読み方と混同しちゃって!」

 元に戻っていた彼女の耳がまたパッと赤くなって、ワタワタと視線をうろつかせる。六秒、ふーっと吐いた息の音が消える瞬間まで玲司の耳は彼女に集中していた。何となく、もう少し彼女の作っていない声を聞いていたいと無意識に思った。
 
「……桐谷さんも、うちのフロアできりたに、って言われてますよ」
「あはは、谷って漢字はややこしいですね。えっと、またミル挽きコーヒーですか?」

 切り返しに驚いた。この華やかな人ができる限り目立たないようにしている自分を認識しているだなんて思ってもいなかったからだ。

「前もうちの階に来ていましたよね?あと上の階でも早朝に自販機にいて」
「……よく釣り銭切れするんです」
「私も好きです」

 ドク、と変な鼓動が走った。
 缶コーヒーじゃなくてあのカップがよくて。待つ時間も何となく無心になれる気がして。
 そう続いた言葉に、何故か鼓動が速く強くなっていく。
 あの三十秒。強がりな彼女の素の表情。先ほど見た潤んだ瞳。そして、無防備な、気の張ってない笑顔。
 ドクドクと耳元で心臓がうるさい。

「橋谷さん?」
「いえ、失礼します」

 自分の自律神経が変だ。そう思って玲司は、彼女に吸い付く視線を無理やり剥がし、非常階段の扉の向こうに逃げた。

 
 
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