終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
「…………と、うごう先輩?」
「おお、やっぱ雪那だ。久しぶりだなあ」
すっかり短くなった暗い茶髪に大人びた顔。けれどふわっと笑ったその表情に一気に十数年前に引き戻された。
小型犬を連れた男性の名は東郷秋彦——先ほどまでの回想の中心人物だ。甘酸っぱい思い出というよりももはや真っ黒焦げの体に悪い苦さしかない相手。
けれどあちらにとってはそうでもないようでただただ懐かしみの表情ばかりを浮かべてくる。
「偶然だなあ、懐かしい」
「ええ、本当偶然ですね。先輩は……何故冬の海なんかに?」
「地元なんだからいたっておかしくないだろ。それを言うならお前こそだろ。都会で就職したらしいのにここで何してんの?それにしたって相変わらず服のセンスねえっていうか、ダサい格好してるな」
カッと頬に熱が集まった。なんで防寒とか思って適当な格好にしてしまったのだろう。よりにもよって秋彦に会うなんて。いつももっとちゃんとしているのに。
「その……散歩……的な?」
雪那は言葉を濁しながら、なぜここでピンポイントでばったり会うのだと運の悪さを嘆く。
秋彦なんて卒業してから一度も会ったことがないのに。
引き攣った表情を浮かべる雪那に対し、秋彦は気にした様子もなく揶揄うような、どこか嫌な顔をした。思春期の自分はそれをニヒルでかっこいいなんて思っていたが、今は嫌悪が先に立つ。
「ははっ、なんだよ、それ。もしかして、あの噂って真実な訳?」
「噂?」
ろくな噂を持ったことがない雪那はとんでもなく嫌な予感に、体をこわばせた。
「いい年して彼氏に振られて、仕事もうまくいかなくなったから地元に戻ってくるって話」
「は……?」
「こっちじゃ離婚ならまだしも三十すぎて独身なんて相手見つからねえから可哀想にって話題だぞ」
確かに比較的結婚が早い地域ではあるが、なんで個人に着目されてまでそんなことを言われなければならないのだろう。流石に悪意を感じて雪那は睨みを返した。
「彼氏とか仕事とか、私の個人的な事情なんて関係なくないですか?そんなことわざわざ私のいない場所で話をして何が楽しいんです?」
「……なんだよ、そんな怖い顔してマジになるなって。図星かよ、顔は美人になったのに可哀想……」
「事実無根ですよ。あ、美人は事実ですけども」
一瞬怯んだあと、ニヤついた様子で顎に手をやった秋彦に、雪那が反論を被せようとしたその時、後ろから声がして振り返った。
「玲司くん?」
「お待たせしすぎましたね。まさか絡まれてるとは。それ、持っててください」
急に蓋のついた耐熱紙コップを二つ渡されて、両手が塞がった。それで手が空いた玲司が何をするかと思えば、後ろからぎゅっと胸の辺りを抱きしめられた。
「ちょっと……」
「雪那さん照れ屋なんだから。いくら秘密主義も大概にしないとこういう誤解を受けるんですよ?まあ今日以降、そんな誤解は全て払拭されますけどね」
さらには、いきなりチュッとこめかみに口付けてくる。心臓が飛び出るかと思った。喉からも変な音が出る。
「誰だ?お前」
「雪那さんの婚約者です。まあ自称、ですけどね」
「何だよ、自称って」
「ご両親の許可がいただけたら本物になりますから。ね?雪那さん?」
そう言って顔を覗き込んでくる玲司がとにかく近い。鼻先がくっつきそうだ。
「ちょっ……玲司く……、ん」
雪那は目を見開いた。くっつきそうだ、ではなく、唇自体がくっついたからだ。嘘でしょ?と思うと同時に、どんどん体温が上がって目眩さえしてきた気がした。
地元で、先輩ですごく昔の元彼の目の前で。
「……ちっ、なんだよ」
「雪那さんって運がありますよね。借金まみれで、職場のお金にまで手をつけていてクビになったような男は勝手に逆ギレして向こうからさっさと縁を切ってくれたし、婿養子で奥様が妊娠中なのに噂だけ聞いて都合がいい相手とばかりに寄ってきた元先輩にはちゃんと新しい彼氏がいる前で再会するし」
(……なんて?)
あまりに衝撃的な作り話に雪那は目をパチパチと瞬いた。
そんな堂々としたはったりあるものか、と秋彦へ視線を向ければ、彼は真っ青になっていた。可愛い子犬が腕から落ちてきゃんきゃんと足に彼の纏わりついている。
「…………まさか奥様が妊娠中ですか?」
「あ、いや、か、関係ないだろ」
「ええ、関係ないですが。なんとなく」
「関係ないなら聞くなよ。じゃあな!」
「せっかくですから雪那さんの噂は嘘で幸せな結婚予定って広めておいてください。じゃないと俺もどこで何のデマを広げるかわからないんで」
「ひ……っ」
何故か雪那の頭の上、玲司の顔のあるあたりを見た秋彦が顔を引き攣らせて走り去って行った。雪那も玲司を振り返ったが、ニコニコといつもの顔である。デマを広げられるのがそんなに怖いのだろうか?だが、真実怯えているように見えた。
「玲司くん、何を知っているの?」
「何も?でも、あの人、雪那さんにやたら親しげだし、雪那さんは腰が引けてるし、薬指に指輪してるくせに下心丸出しな顔してたし。よくあるじゃないですか?奥さんが妊娠中に火遊びするってやつ。それかなあってカマかけただけですよ。でも、元彼ってのは真実でしょう?雪那さんがよくイケメンの甘言は詐欺って言うのはあいつのせい?アイツ、全然、イケメンじゃないけど」
玲司の洞察力が凄すぎる。
雪那は、はあっと大きく息を吐いた。まだ胸の下辺りに回されている玲司の腕を叩いて、離して、と伝える。
「心技体を鍛えていたはずが、うっかり顔と都合のいい言葉に騙された思春期の恥よ。いまだに地元では弄ばれた女扱いだからいい気がしないの」
「ふうん、そのクズは今もあんなクズなんだ」
「そうね、変わってないのね」
「……大丈夫だよ、雪那さん」
しかし、玲司は雪那を抱きしめる腕を離すどころか、強く力を込め始めた。
「俺が雪那さんを"守る"からね」
耳に直接唇をくっつけるようにして吹き込まれたいつもの彼より一段低い囁き声にゾクンとお腹の奥が震える。
そして今更ながらキスしてしまったことに動揺した。
「あの、でも……や、やりすぎ……というか。け、け、結婚、とか。えっと、実はここ、本当に地元中の地元で、こっちで噂になっても困る……」
「地元。そう。まあでも、ああいう輩がには見せつけなきゃ。知らないところで雪那さんが変な噂されてるなんて腹が立つし。もちろん、と本当のことにしてくれていいよ」
「本当……にしたら玲司くんが困るでしょ……」
「雪那さん、忘れてるでしょ。俺は最初に結婚してって言ったんだよ。実現したら困るどころか踊るけど」
「…………踊る?」
玲司とその単語のギャップが酷すぎて、雪那はクスっと吹き出してしまった。そのまま笑いが止まらなくなる。
「酷いな、本気にしてないでしょう?」
「だ、って、踊るって……似合わない」
とてもツボに入ってしまった雪那がケラケラと笑い続けるので、玲司がむくれてた声を出して、そのままぎゅっと強く抱きしめられた。はっ、としても遅い。後頭部に玲司の息がかかる。
「いいよ、絶対に本当のことにして踊ってあげるから」
そのまま、つむじに口付けられた。バクンと、全身の器官で強く跳ねた鼓動を感じた。買い物をしてきた際に外したのだろう。手袋をしていないひんやりした手に顎を取られて後ろを振り返るように促される。
「れ、玲司く……」
「嫌?」
今度は鼻先が触れそう、で止まった。代わりに息がかかる。首を捻った体勢は少し辛くて、しかしそんなことよりもとにかく心臓がうるさい。
「雪那さん、好き。元彼に、嫉妬して、おかしくなりそうなくらい」
「……っ」
こんな雰囲気に慣れないにも程がある。彼はずっと犬で、でも今は男性を強く意識させる。筋張った指先も、コロンの爽やかな匂いも、背の高さも、腕の力も。
あの日のことなんてもうはるか遠い昔かのように忘れかけていたのに。
——雪那さん、好きだよ。やっと、俺のもの。
体を重ねる前の男の睦言に意味はないと散々に知っているのに、その艶やかな声がふと蘇る。その、猛禽類のような鋭い眼差しも。熱い熱も。
「嫌……?」
触れそうで触れない唇。切なく掠れるみたいな声。
雪那が許すまではこうなのだろうか。おあずけをした状態。考えただけで羞恥に脳を焼かれそうだ。
「……い……いよ」
気づけば、目を瞑って、あの日と同じ許可を出していた。
同時に、強く押し付けられた唇に息を奪われる。歯列を割って入り込んできた舌に翻弄されて、手に持ったコーヒーを落とさないようにするのが精一杯だった。
重ねた唇から淫らな音がして、鼻腔に広がるのは香ばしいコーヒーの香りではなく、玲司のミントのような唾液の匂い。喉を通るのはさらりとした熱い液体ではなくて、お互いの体温を分け合った粘着質な濃厚な液体。
ゾクゾクと震える体は、冬の凍える寒さを何一つ感じない。
「ん、ふ……ぁ、ん……」
頬と耳を優しく撫でられながらするキスは気持ちがいい。
ゾクゾクと背筋が震えてたまらない気持ちになった。イケメン詐欺説も今はどうでも良くなってしまうくらいに。
雪那はやっぱり流されやすいのかもしれない。
どれくらいそうしていたのだろうか。
唇が離れて、ぷは、と息が自分の支配下に戻ってきた。ぼんやりした思考が戻ってくると、ピッタリ背中から抱え込まれていたはずが、腕以外は少し距離ができたことに気がついた。こつ、と額とこめかみが軽くぶつかる。
「……ごめん、なさい。ちょっと待って……」
恥ずかしそうな声に、状況を察した。胸を喘がせながら視線をどこに向けたらいいかわからなくて足元の砂浜を見た。
ざざん、ざん、と波の音が、静かになってしまった空間に響く。玲司は雪那の肩口に腕を回して微動だにしない。
結構長い時間が過ぎたような気もした。
「……す、る……?」
なんでそういうことを言ってしまったのかわからない。とにかくこのままは気恥ずかしかったのだ。一回してるなら、とハードルが下がっていたのもある。
「…………地元で、男とホテルに入ることで見せつけたいならやぶさかでもないけど」
少し揶揄うような声が返ってきて、手をぱっと離された。
「気まずいのを誤魔化したいのは俺も一緒ですが、そんなことで男を誘ったらダメですよ。自分で自分を大事にしなきゃ」
一回据え膳いただいた俺が言うのもなんですけどね。
そう言いながら、コーヒーが一つ持っていかれた。かえって雪那はいたたまれなくなってしまう。
全然、違う。
秋彦は若さもあっただろうが自分の欲望に忠実でしかなかったし、その次の束縛男も雪那を支配したがった。
雪那はするのがあまり好きではないので、以降は、なんらかの感謝や見返りを与える潤滑剤としてくらいしか思っていなかったし、相手もそれで喜んだのに。
でも、玲司はそうじゃない。
綺麗な顔をしているのに、自分勝手なクズじゃないのかも。
そう思うと、なんだか急にとんでもないドキドキが止まらなくなってしまった。
魂胆とかライバル社とか、別に何も解決していないのに、我ながらチョロくないか、という自分への批評に必死で、雪那は、玲司が大和に言及したことも、秋彦の怯えた顔も全て詳しく確認するのを、忘れてしまった。
「おお、やっぱ雪那だ。久しぶりだなあ」
すっかり短くなった暗い茶髪に大人びた顔。けれどふわっと笑ったその表情に一気に十数年前に引き戻された。
小型犬を連れた男性の名は東郷秋彦——先ほどまでの回想の中心人物だ。甘酸っぱい思い出というよりももはや真っ黒焦げの体に悪い苦さしかない相手。
けれどあちらにとってはそうでもないようでただただ懐かしみの表情ばかりを浮かべてくる。
「偶然だなあ、懐かしい」
「ええ、本当偶然ですね。先輩は……何故冬の海なんかに?」
「地元なんだからいたっておかしくないだろ。それを言うならお前こそだろ。都会で就職したらしいのにここで何してんの?それにしたって相変わらず服のセンスねえっていうか、ダサい格好してるな」
カッと頬に熱が集まった。なんで防寒とか思って適当な格好にしてしまったのだろう。よりにもよって秋彦に会うなんて。いつももっとちゃんとしているのに。
「その……散歩……的な?」
雪那は言葉を濁しながら、なぜここでピンポイントでばったり会うのだと運の悪さを嘆く。
秋彦なんて卒業してから一度も会ったことがないのに。
引き攣った表情を浮かべる雪那に対し、秋彦は気にした様子もなく揶揄うような、どこか嫌な顔をした。思春期の自分はそれをニヒルでかっこいいなんて思っていたが、今は嫌悪が先に立つ。
「ははっ、なんだよ、それ。もしかして、あの噂って真実な訳?」
「噂?」
ろくな噂を持ったことがない雪那はとんでもなく嫌な予感に、体をこわばせた。
「いい年して彼氏に振られて、仕事もうまくいかなくなったから地元に戻ってくるって話」
「は……?」
「こっちじゃ離婚ならまだしも三十すぎて独身なんて相手見つからねえから可哀想にって話題だぞ」
確かに比較的結婚が早い地域ではあるが、なんで個人に着目されてまでそんなことを言われなければならないのだろう。流石に悪意を感じて雪那は睨みを返した。
「彼氏とか仕事とか、私の個人的な事情なんて関係なくないですか?そんなことわざわざ私のいない場所で話をして何が楽しいんです?」
「……なんだよ、そんな怖い顔してマジになるなって。図星かよ、顔は美人になったのに可哀想……」
「事実無根ですよ。あ、美人は事実ですけども」
一瞬怯んだあと、ニヤついた様子で顎に手をやった秋彦に、雪那が反論を被せようとしたその時、後ろから声がして振り返った。
「玲司くん?」
「お待たせしすぎましたね。まさか絡まれてるとは。それ、持っててください」
急に蓋のついた耐熱紙コップを二つ渡されて、両手が塞がった。それで手が空いた玲司が何をするかと思えば、後ろからぎゅっと胸の辺りを抱きしめられた。
「ちょっと……」
「雪那さん照れ屋なんだから。いくら秘密主義も大概にしないとこういう誤解を受けるんですよ?まあ今日以降、そんな誤解は全て払拭されますけどね」
さらには、いきなりチュッとこめかみに口付けてくる。心臓が飛び出るかと思った。喉からも変な音が出る。
「誰だ?お前」
「雪那さんの婚約者です。まあ自称、ですけどね」
「何だよ、自称って」
「ご両親の許可がいただけたら本物になりますから。ね?雪那さん?」
そう言って顔を覗き込んでくる玲司がとにかく近い。鼻先がくっつきそうだ。
「ちょっ……玲司く……、ん」
雪那は目を見開いた。くっつきそうだ、ではなく、唇自体がくっついたからだ。嘘でしょ?と思うと同時に、どんどん体温が上がって目眩さえしてきた気がした。
地元で、先輩ですごく昔の元彼の目の前で。
「……ちっ、なんだよ」
「雪那さんって運がありますよね。借金まみれで、職場のお金にまで手をつけていてクビになったような男は勝手に逆ギレして向こうからさっさと縁を切ってくれたし、婿養子で奥様が妊娠中なのに噂だけ聞いて都合がいい相手とばかりに寄ってきた元先輩にはちゃんと新しい彼氏がいる前で再会するし」
(……なんて?)
あまりに衝撃的な作り話に雪那は目をパチパチと瞬いた。
そんな堂々としたはったりあるものか、と秋彦へ視線を向ければ、彼は真っ青になっていた。可愛い子犬が腕から落ちてきゃんきゃんと足に彼の纏わりついている。
「…………まさか奥様が妊娠中ですか?」
「あ、いや、か、関係ないだろ」
「ええ、関係ないですが。なんとなく」
「関係ないなら聞くなよ。じゃあな!」
「せっかくですから雪那さんの噂は嘘で幸せな結婚予定って広めておいてください。じゃないと俺もどこで何のデマを広げるかわからないんで」
「ひ……っ」
何故か雪那の頭の上、玲司の顔のあるあたりを見た秋彦が顔を引き攣らせて走り去って行った。雪那も玲司を振り返ったが、ニコニコといつもの顔である。デマを広げられるのがそんなに怖いのだろうか?だが、真実怯えているように見えた。
「玲司くん、何を知っているの?」
「何も?でも、あの人、雪那さんにやたら親しげだし、雪那さんは腰が引けてるし、薬指に指輪してるくせに下心丸出しな顔してたし。よくあるじゃないですか?奥さんが妊娠中に火遊びするってやつ。それかなあってカマかけただけですよ。でも、元彼ってのは真実でしょう?雪那さんがよくイケメンの甘言は詐欺って言うのはあいつのせい?アイツ、全然、イケメンじゃないけど」
玲司の洞察力が凄すぎる。
雪那は、はあっと大きく息を吐いた。まだ胸の下辺りに回されている玲司の腕を叩いて、離して、と伝える。
「心技体を鍛えていたはずが、うっかり顔と都合のいい言葉に騙された思春期の恥よ。いまだに地元では弄ばれた女扱いだからいい気がしないの」
「ふうん、そのクズは今もあんなクズなんだ」
「そうね、変わってないのね」
「……大丈夫だよ、雪那さん」
しかし、玲司は雪那を抱きしめる腕を離すどころか、強く力を込め始めた。
「俺が雪那さんを"守る"からね」
耳に直接唇をくっつけるようにして吹き込まれたいつもの彼より一段低い囁き声にゾクンとお腹の奥が震える。
そして今更ながらキスしてしまったことに動揺した。
「あの、でも……や、やりすぎ……というか。け、け、結婚、とか。えっと、実はここ、本当に地元中の地元で、こっちで噂になっても困る……」
「地元。そう。まあでも、ああいう輩がには見せつけなきゃ。知らないところで雪那さんが変な噂されてるなんて腹が立つし。もちろん、と本当のことにしてくれていいよ」
「本当……にしたら玲司くんが困るでしょ……」
「雪那さん、忘れてるでしょ。俺は最初に結婚してって言ったんだよ。実現したら困るどころか踊るけど」
「…………踊る?」
玲司とその単語のギャップが酷すぎて、雪那はクスっと吹き出してしまった。そのまま笑いが止まらなくなる。
「酷いな、本気にしてないでしょう?」
「だ、って、踊るって……似合わない」
とてもツボに入ってしまった雪那がケラケラと笑い続けるので、玲司がむくれてた声を出して、そのままぎゅっと強く抱きしめられた。はっ、としても遅い。後頭部に玲司の息がかかる。
「いいよ、絶対に本当のことにして踊ってあげるから」
そのまま、つむじに口付けられた。バクンと、全身の器官で強く跳ねた鼓動を感じた。買い物をしてきた際に外したのだろう。手袋をしていないひんやりした手に顎を取られて後ろを振り返るように促される。
「れ、玲司く……」
「嫌?」
今度は鼻先が触れそう、で止まった。代わりに息がかかる。首を捻った体勢は少し辛くて、しかしそんなことよりもとにかく心臓がうるさい。
「雪那さん、好き。元彼に、嫉妬して、おかしくなりそうなくらい」
「……っ」
こんな雰囲気に慣れないにも程がある。彼はずっと犬で、でも今は男性を強く意識させる。筋張った指先も、コロンの爽やかな匂いも、背の高さも、腕の力も。
あの日のことなんてもうはるか遠い昔かのように忘れかけていたのに。
——雪那さん、好きだよ。やっと、俺のもの。
体を重ねる前の男の睦言に意味はないと散々に知っているのに、その艶やかな声がふと蘇る。その、猛禽類のような鋭い眼差しも。熱い熱も。
「嫌……?」
触れそうで触れない唇。切なく掠れるみたいな声。
雪那が許すまではこうなのだろうか。おあずけをした状態。考えただけで羞恥に脳を焼かれそうだ。
「……い……いよ」
気づけば、目を瞑って、あの日と同じ許可を出していた。
同時に、強く押し付けられた唇に息を奪われる。歯列を割って入り込んできた舌に翻弄されて、手に持ったコーヒーを落とさないようにするのが精一杯だった。
重ねた唇から淫らな音がして、鼻腔に広がるのは香ばしいコーヒーの香りではなく、玲司のミントのような唾液の匂い。喉を通るのはさらりとした熱い液体ではなくて、お互いの体温を分け合った粘着質な濃厚な液体。
ゾクゾクと震える体は、冬の凍える寒さを何一つ感じない。
「ん、ふ……ぁ、ん……」
頬と耳を優しく撫でられながらするキスは気持ちがいい。
ゾクゾクと背筋が震えてたまらない気持ちになった。イケメン詐欺説も今はどうでも良くなってしまうくらいに。
雪那はやっぱり流されやすいのかもしれない。
どれくらいそうしていたのだろうか。
唇が離れて、ぷは、と息が自分の支配下に戻ってきた。ぼんやりした思考が戻ってくると、ピッタリ背中から抱え込まれていたはずが、腕以外は少し距離ができたことに気がついた。こつ、と額とこめかみが軽くぶつかる。
「……ごめん、なさい。ちょっと待って……」
恥ずかしそうな声に、状況を察した。胸を喘がせながら視線をどこに向けたらいいかわからなくて足元の砂浜を見た。
ざざん、ざん、と波の音が、静かになってしまった空間に響く。玲司は雪那の肩口に腕を回して微動だにしない。
結構長い時間が過ぎたような気もした。
「……す、る……?」
なんでそういうことを言ってしまったのかわからない。とにかくこのままは気恥ずかしかったのだ。一回してるなら、とハードルが下がっていたのもある。
「…………地元で、男とホテルに入ることで見せつけたいならやぶさかでもないけど」
少し揶揄うような声が返ってきて、手をぱっと離された。
「気まずいのを誤魔化したいのは俺も一緒ですが、そんなことで男を誘ったらダメですよ。自分で自分を大事にしなきゃ」
一回据え膳いただいた俺が言うのもなんですけどね。
そう言いながら、コーヒーが一つ持っていかれた。かえって雪那はいたたまれなくなってしまう。
全然、違う。
秋彦は若さもあっただろうが自分の欲望に忠実でしかなかったし、その次の束縛男も雪那を支配したがった。
雪那はするのがあまり好きではないので、以降は、なんらかの感謝や見返りを与える潤滑剤としてくらいしか思っていなかったし、相手もそれで喜んだのに。
でも、玲司はそうじゃない。
綺麗な顔をしているのに、自分勝手なクズじゃないのかも。
そう思うと、なんだか急にとんでもないドキドキが止まらなくなってしまった。
魂胆とかライバル社とか、別に何も解決していないのに、我ながらチョロくないか、という自分への批評に必死で、雪那は、玲司が大和に言及したことも、秋彦の怯えた顔も全て詳しく確認するのを、忘れてしまった。