終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
——五年前。
支社勤務だった雪那が本社の会議室の一角に上司も同席せずに呼び出された時、何度も同じ質問を受けた。
これは事実か。そうでないなら証明できるものはあるのか。
枕営業なんてしてない。ないことはどうやったって証明はできない。違う、と言い続けるしかなかった。
結局、職場の先輩とのトラブルが重なって、そちらはヤバいと思った瞬間に咄嗟にしていた録音で被害者と認定された。そんな手段を取れたのは過去、束縛男とどうにか別れられた成功体験のおかげである。
録音があるとも知らずに、相手が逆恨みして顧客を奪われたと騒いだせいで、職場外の私的な飲み会とはいえ、会社が動かざるをえなくなったのだ。
雪那がセクハラを大事にしない代わりに、怪文書の件も根も葉もない逆恨みとしてまとめて片付けてもらえた。それでも「隙があるからそんなことになるんだぞ」と本社から投げつけられた言葉に傷ついて、以降、どんなに丈が長くともスカートは一切履かず、肌を見せないよう夏でもパンツスーツを常にしっかり着込んだ。
個人的な誘いは全部断り、負けるものかと必死になって仕事をこなし、自衛し続けた。
亜澄には「そこまでしてこの会社で頑張る意味あるの?」と呆れられた一方で「こんなことで辞めるなよ」と当時の上司や先輩に励まされた。
多分、この時の雪那を突き動かしていたのは、卑怯な他人なんかに自分の人生を壊されてたまるかという意地と怒り。
それ以降はうまくやっていたのに、大きな落とし穴に落ちたものだ。
そんなことをあの時と奇しくも同じ会議室に呼び出されて、ただ「違います」と繰り返しながら思った。
郵送で送られてきた同じ文面の手紙には、駅前のビルでの勉強会に行くときの写真まで付いていた。玲司と個人的に会っていたことそのものの事実はある以上、今度は状況が悪すぎた。
**
「ごめんなさい」
『なんで雪那さんが謝るの?被害者でしょ?』
家に帰り、震える手でかけた電話の向こうで、玲司はいつも通りの柔らかな声音だった。通話するのが一ヶ月ぶりだというのになんら変わりない。
「でも、玲司くんの会社が変な疑われ方して……っ!れ、玲司くんだって退職時の守秘誓約に反してる、から、とか……っ、う、訴える、とか……っ。ご、めんなさ……、うちの社員だったって言わないようにしてたけど、結局、写真、わかっちゃってて……」
『雪那さん、こんな状況で俺のこと心配してくれたの?嬉しいな』
「なんでそんな軽いの!?自分が作った会社のことだよ!?」
あまりにいつも通りの声に、なぜか雪那の方が憤る。それでも、玲司は楽観したものだった。
『大丈夫。そんなの口で言ってるだけだよ。俺は自分が関わった案件の客先には一切売り込みしてないし、大体もう退職から三年も経ってて今更。堂々と説明すればいいだけだ』
「でも、私……私と関わっていたから。ずっと、何もなくて、気が緩んでたから……こんなことに……」
おそらく内部犯だろうと、自分を嫌っている人間がいるのだとは知っていた。もう辞めたあの男の先輩はそんな大それたことしてないと否定していたので、だからずっと社内で隙は見せないようにしていたのに。
『俺が無理やり付き合わせただけ。雪那さんが気にすることじゃないよ』
「でも!私がちゃんと気をつけて、断ってれば……玲司くんに勉強を教えてもらったりしなければ……写真だって撮られなかったし……。あんなものがあって、情報横流しされてないなんて証拠は示せないよ……」
悔しい。まさかわざわざプライベートな写真まで撮られているなんて。
耐えていたはずが涙が溢れて、雪那はぐすっと鼻を啜った。その音を聞いた玲司が通話口の向こうで息を呑んだ音がする。
『泣いてる?』
「……大丈夫」
『大丈夫じゃないでしょ。またやってない証拠を出せとか無茶を言われたの?あのいけすかない禿げたコンプライアンス部長かな?目にもの見せてやろうか』
「……玲司くん?」
突然語尾が一段低くなった玲司に、雪那はびっくりした。とんでもなく冷たい声音は聞き間違えかと思う。
『雪那さんは何もしていないのに、決めつけて酷い話だね。辛かったでしょ?大丈夫。俺がなんとかするから』
すぐにいつもの玲司の声になったので、何か引っかかった言葉があった気もしたけれど気のせいと思ってしまった。
「なんとかって……?」
『何とかは何とかだよ。少しだけ待ってて。それより仕事、行くのしんどくない?変な目で見られるだろうし、休んでもいいと思うけど』
「……ううん、ここで休んだら、認めたみたいだし。とりあえず疑惑が晴れるまで営業活動はするなって言われてるけど……」
『は?雪那さんを犯人扱いする権利ないでしょ?そんな横暴甘んじていい話じゃないよ!』
珍しく被せるようにして玲司が憤りの声を上げる。雪那の涙腺が緩んだ。唇がわなわなと震えて、息が詰まる。
『……雪那さん、一人で泣かないで。俺が慰められるときにしてよ。電話じゃ抱きしめられない。家、教えてよ』
「ふ……、こんな、とき……でも、じょうだん……」
玲司の言い方がおかしくて、雪那は笑おうとした。けれど、出てきたのは嗚咽だった。その先が続けられなくて、ポツポツと座り込んでいたシーツに次々と水滴が落ちる。うまく言葉が出てこない。
『雪那さん、大丈夫、大丈夫だからね。ごめんね、俺が好きになったから。ごめん。雪那さんを巻き込んじゃって』
こんなときなのに、まだ好きという言葉を使ってくれる玲司に、胸がきゅうとした。
「ちが……、れ、玲司くんじゃなくて、わ、わたしが……私が、巻き込んだ、の。私、きっと、会社で……恨まれて、て……」
『雪那さんが悪いわけじゃない。恨む方が悪いんだよ。……ね、あのさ、こんなときに言うのは何だけど、なんであの会社に拘るの?正直、雪那さんの能力があれば、うちじゃなくても、他の会社でもいいと思うんだけど』
雪那の名前を呼ぶのは優しいが、後半の玲司の声は嫌悪すら混じっているようにも聞こえた。
亜澄にも言われたが、やはり雪那が仕事を変わらないのは異様に見えるようだ。
雪那は、今まで誰にも言ったことがない胸のうちをぽつりぽつりと溢していた。
父親が厳しく、空手も含めて、一度始めたことを投げ出すと恥と叩かれたこと。
母親は父親と不仲で子供の教育に逃げていたこと。期待をかけてた兄たちが思うように育たないと雪那に放置から過干渉になったこと。
高校時代のあの噂で必ずお金を返すと泣いて約束をして無理やり実家から外に出たこと。
下の兄が落ちた今の会社に入り、注目されるほど出世したことでどうにか実家に戻らないで済んでいること。
「逆らうと怖くて……それに、兄たちからも独身だって馬鹿に、されたくなくて……世間体がいい、ところにいたい……の」
言葉にするとあまりにもチープで情けない。
けれど、こんなに大人になっても子供の頃からの怒鳴り声とため息の恐怖から逃れられないままだ。
『それは……辛いね』
玲司の声は低く淡々としていた。あまりにも感情が乗らないので、かえって恥も何も思わなかった。
『雪那さんが大変なのも身動きが取れない理由もわかった。だったら全部俺に任せてよ。雪那さんのいいようにする』
「……玲司くん?」
『そんな世界、いらないでしょ。雪那さんは俺が幸せにするよ。少しだけ、待ってて。少しだから。泣かないで、待ってて。泣くなら俺の前だけにして』
ブツ……ッと突然、通話が切れた。
もう通じていない音を耳で聞きながら、雪那は玲司のどんな感情で言ったのかまるでわからない低い声を思い返していた。
支社勤務だった雪那が本社の会議室の一角に上司も同席せずに呼び出された時、何度も同じ質問を受けた。
これは事実か。そうでないなら証明できるものはあるのか。
枕営業なんてしてない。ないことはどうやったって証明はできない。違う、と言い続けるしかなかった。
結局、職場の先輩とのトラブルが重なって、そちらはヤバいと思った瞬間に咄嗟にしていた録音で被害者と認定された。そんな手段を取れたのは過去、束縛男とどうにか別れられた成功体験のおかげである。
録音があるとも知らずに、相手が逆恨みして顧客を奪われたと騒いだせいで、職場外の私的な飲み会とはいえ、会社が動かざるをえなくなったのだ。
雪那がセクハラを大事にしない代わりに、怪文書の件も根も葉もない逆恨みとしてまとめて片付けてもらえた。それでも「隙があるからそんなことになるんだぞ」と本社から投げつけられた言葉に傷ついて、以降、どんなに丈が長くともスカートは一切履かず、肌を見せないよう夏でもパンツスーツを常にしっかり着込んだ。
個人的な誘いは全部断り、負けるものかと必死になって仕事をこなし、自衛し続けた。
亜澄には「そこまでしてこの会社で頑張る意味あるの?」と呆れられた一方で「こんなことで辞めるなよ」と当時の上司や先輩に励まされた。
多分、この時の雪那を突き動かしていたのは、卑怯な他人なんかに自分の人生を壊されてたまるかという意地と怒り。
それ以降はうまくやっていたのに、大きな落とし穴に落ちたものだ。
そんなことをあの時と奇しくも同じ会議室に呼び出されて、ただ「違います」と繰り返しながら思った。
郵送で送られてきた同じ文面の手紙には、駅前のビルでの勉強会に行くときの写真まで付いていた。玲司と個人的に会っていたことそのものの事実はある以上、今度は状況が悪すぎた。
**
「ごめんなさい」
『なんで雪那さんが謝るの?被害者でしょ?』
家に帰り、震える手でかけた電話の向こうで、玲司はいつも通りの柔らかな声音だった。通話するのが一ヶ月ぶりだというのになんら変わりない。
「でも、玲司くんの会社が変な疑われ方して……っ!れ、玲司くんだって退職時の守秘誓約に反してる、から、とか……っ、う、訴える、とか……っ。ご、めんなさ……、うちの社員だったって言わないようにしてたけど、結局、写真、わかっちゃってて……」
『雪那さん、こんな状況で俺のこと心配してくれたの?嬉しいな』
「なんでそんな軽いの!?自分が作った会社のことだよ!?」
あまりにいつも通りの声に、なぜか雪那の方が憤る。それでも、玲司は楽観したものだった。
『大丈夫。そんなの口で言ってるだけだよ。俺は自分が関わった案件の客先には一切売り込みしてないし、大体もう退職から三年も経ってて今更。堂々と説明すればいいだけだ』
「でも、私……私と関わっていたから。ずっと、何もなくて、気が緩んでたから……こんなことに……」
おそらく内部犯だろうと、自分を嫌っている人間がいるのだとは知っていた。もう辞めたあの男の先輩はそんな大それたことしてないと否定していたので、だからずっと社内で隙は見せないようにしていたのに。
『俺が無理やり付き合わせただけ。雪那さんが気にすることじゃないよ』
「でも!私がちゃんと気をつけて、断ってれば……玲司くんに勉強を教えてもらったりしなければ……写真だって撮られなかったし……。あんなものがあって、情報横流しされてないなんて証拠は示せないよ……」
悔しい。まさかわざわざプライベートな写真まで撮られているなんて。
耐えていたはずが涙が溢れて、雪那はぐすっと鼻を啜った。その音を聞いた玲司が通話口の向こうで息を呑んだ音がする。
『泣いてる?』
「……大丈夫」
『大丈夫じゃないでしょ。またやってない証拠を出せとか無茶を言われたの?あのいけすかない禿げたコンプライアンス部長かな?目にもの見せてやろうか』
「……玲司くん?」
突然語尾が一段低くなった玲司に、雪那はびっくりした。とんでもなく冷たい声音は聞き間違えかと思う。
『雪那さんは何もしていないのに、決めつけて酷い話だね。辛かったでしょ?大丈夫。俺がなんとかするから』
すぐにいつもの玲司の声になったので、何か引っかかった言葉があった気もしたけれど気のせいと思ってしまった。
「なんとかって……?」
『何とかは何とかだよ。少しだけ待ってて。それより仕事、行くのしんどくない?変な目で見られるだろうし、休んでもいいと思うけど』
「……ううん、ここで休んだら、認めたみたいだし。とりあえず疑惑が晴れるまで営業活動はするなって言われてるけど……」
『は?雪那さんを犯人扱いする権利ないでしょ?そんな横暴甘んじていい話じゃないよ!』
珍しく被せるようにして玲司が憤りの声を上げる。雪那の涙腺が緩んだ。唇がわなわなと震えて、息が詰まる。
『……雪那さん、一人で泣かないで。俺が慰められるときにしてよ。電話じゃ抱きしめられない。家、教えてよ』
「ふ……、こんな、とき……でも、じょうだん……」
玲司の言い方がおかしくて、雪那は笑おうとした。けれど、出てきたのは嗚咽だった。その先が続けられなくて、ポツポツと座り込んでいたシーツに次々と水滴が落ちる。うまく言葉が出てこない。
『雪那さん、大丈夫、大丈夫だからね。ごめんね、俺が好きになったから。ごめん。雪那さんを巻き込んじゃって』
こんなときなのに、まだ好きという言葉を使ってくれる玲司に、胸がきゅうとした。
「ちが……、れ、玲司くんじゃなくて、わ、わたしが……私が、巻き込んだ、の。私、きっと、会社で……恨まれて、て……」
『雪那さんが悪いわけじゃない。恨む方が悪いんだよ。……ね、あのさ、こんなときに言うのは何だけど、なんであの会社に拘るの?正直、雪那さんの能力があれば、うちじゃなくても、他の会社でもいいと思うんだけど』
雪那の名前を呼ぶのは優しいが、後半の玲司の声は嫌悪すら混じっているようにも聞こえた。
亜澄にも言われたが、やはり雪那が仕事を変わらないのは異様に見えるようだ。
雪那は、今まで誰にも言ったことがない胸のうちをぽつりぽつりと溢していた。
父親が厳しく、空手も含めて、一度始めたことを投げ出すと恥と叩かれたこと。
母親は父親と不仲で子供の教育に逃げていたこと。期待をかけてた兄たちが思うように育たないと雪那に放置から過干渉になったこと。
高校時代のあの噂で必ずお金を返すと泣いて約束をして無理やり実家から外に出たこと。
下の兄が落ちた今の会社に入り、注目されるほど出世したことでどうにか実家に戻らないで済んでいること。
「逆らうと怖くて……それに、兄たちからも独身だって馬鹿に、されたくなくて……世間体がいい、ところにいたい……の」
言葉にするとあまりにもチープで情けない。
けれど、こんなに大人になっても子供の頃からの怒鳴り声とため息の恐怖から逃れられないままだ。
『それは……辛いね』
玲司の声は低く淡々としていた。あまりにも感情が乗らないので、かえって恥も何も思わなかった。
『雪那さんが大変なのも身動きが取れない理由もわかった。だったら全部俺に任せてよ。雪那さんのいいようにする』
「……玲司くん?」
『そんな世界、いらないでしょ。雪那さんは俺が幸せにするよ。少しだけ、待ってて。少しだから。泣かないで、待ってて。泣くなら俺の前だけにして』
ブツ……ッと突然、通話が切れた。
もう通じていない音を耳で聞きながら、雪那は玲司のどんな感情で言ったのかまるでわからない低い声を思い返していた。