終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
10. あなたと夜明けのコーヒー
その一週間後。雪那は玲司と高価そうなダイニングテーブルで向かい合い、そのテーブルを叩いていた。
「こんなの駄目でしょ!?」
「何で?一番いい方法だと思うけど」
「独立したのに、うちの下請けになってどうするのっ?」
「請け負うのは保守のところだけだよ。元々やってた仕事だからノウハウがあるしね」
「それは玲司くんであって、従業員さんはっ?」
「もともと個人的なつながりのメンバーだし。それに単価は安くても安定的な仕事があるのは長期的に見ればメリットだよ。お客様にとっても大企業と付き合いがあれば安心感が増すし、いざという時にバックアップがもらえるのは大きい。長期安定と資金力がネックになることも多かったからね」
「そんなこと言って……私のために後付けの理由を作って広めただけじゃない!」
玲司はにこっと笑って、先ほど「これ美味しいんだよ」と言って淹れてくれたコーヒーのカップを傾けただけだった。
広いが物のほとんどないリビングダイニングに初めて入った時には腰が引けた雪那であったが、そんなことはもう頭にないし、高そうなコーヒーメーカーで抽出されたコーヒーにも興味はない。
——現在、当社女性社員について怪文書が回っておりますが、先方より窓口として当社への業務提携の話を持ちかけられた点を誇張されたものであります。合わせて、本日、該当会社と正式に基本合意に至ったことを報告します。なお、先方からの強い要望もあり、当社としても今回の怪文書については、偽計業務妨害及び名誉毀損として警察への相談その他の法的措置を検討しております。
本件につき……
毎日「よく来られるよね」とそれはもうわかりやすい陰口を叩かれ、部長にも課長にも「今後を考えろ」と言われ、共通フォルダへのアクセスは禁止されるという針の筵の中、突然の全社発信メールにフロア全体がどよめいた。
その二時間前にコンプライアンス室に突然呼び出された時は、クビにでもなるのかと思ったが、結末を聞かされて唖然とするばかりだった。
髪のない額を必死でハンカチで拭う室長の隣に、不機嫌そうな営業本部長と震えるシステム担当役員が座っていた。
けれど、本来たったの一週間で決まるはずのない業務提携とは名ばかりの委託の話を聞くうちに、それが玲司の「何とかする」の答えなのだとようやく理解した。
玲司が要望する周知メール発信は雪那に不利益があると脅されたが、それでも、出してくれとキッパリ言い切った。たかがスタートアップ企業に対してなぜすぐ自社が動くのかはよくわからないが、玲司の行動を無駄にはすまい。引いてはいけないと覚悟した。
なんなら私は五年前の件も含めて警察に相談する気はあります、とも言ったところ、今度ははっきりと「やめてくれ」と静止にあう。送信元の調査はできる範囲で社内でする、と言われた。しないだろうけれども、もういい。
そこからは気まずい時間のやり直しだ。
信じてたけど会社の命令で、と言い訳をする上司に、変わらず遠巻きにする同僚と再び声をかけてきた同僚と。他事業所からの心配メールに、いまだに突き刺さる疑いの視線。
けれど雪那の頭にあったのは、玲司のことだけだった。
昼休みにチャットをして、どうなっているのか強く問いただせば、「今日は納期のうえに外では話しにくいので、夜に家に来てくれるなら話します」との返事。
行かないと言うことを前提とした揶揄いと理解したが、雪那は納品後に行くと言い張った。指定された住所が、近所の新しめのラグジュアリーマンションだったので出向くハードルが一つ下がり、「近くだから夜中でもいい」と返した。
結局、22半時過ぎに「終わった」との連絡が来て、今この状況である。
玲司は会社時代を思い出す白いTシャツに、緩い藍色のジーンズというラフな出立ちで少し後ろ髪を跳ねさせたままだった。目の下には酷いクマがある。昨日から寝てない、と聞き、押しかけた気まずさはあったが、どうしても早く話がしたかった。
「なんでここまでするの?訴えるぞって脅された?私のせい?」
「営業情報詐取とか名誉毀損で訴えるぞと脅したのはこっちだけど。あとはまあ色々話し合った結果だよ。あっちも後ろ暗いところでもあったんじゃない?雪那さんのせいじゃないですよ」
「嘘だよね?私が……私のあの文書を否定させるために玲司くんが犠牲になったんだよね?」
会社が一介の従業員の怪文書にあんな丁寧に対応するわけがない。玲司はどんな魔法を使ったというのか。
「言ったでしょう?こちらもメリットがあるって」
「……騙されないよ」
「雪那さんの状況は悪化しないはずですけど」
玲司はいつものおっとりとした微笑みを浮かべ、首を傾げている。
「なんで?玲司くんに何の意味があるの?」
「まあ、意味は色々あるけど、一番シンプルに言うなら好きだから、ですかね?」
「……なんで?」
結局、それが一番雪那には理解できない。
玲司みたいな人間が雪那なんかを好きな理由が見つけられない。
雪那は親が怖いなんてくだらないことで前にも後にも進めず、愛想がいい、都合がいい人間を演じて、挙句にはこだわっていた会社で、いざという時にろくな味方もいないことが露呈した女だ。
一体どこに玲司が好きだと言う要素があるのだろう。
「そうだなあ、隣に行ってもいいです?」
玲司が急に立ち上がって、雪那が座るダイニングチェアの隣に移動してきた。断る暇がなかったし、そもそもここは玲司の家であって、どこに座ろうとも勝手だから断っていいかわからない。
「俺の家だからってちょっと怖いのに遠慮してる?」
「え?」
見透かされた戸惑いと玲司との距離が近いことへのわずかな緊張から体が硬くなる。
すると、見上げた彼は見たこともない顔で笑っていた。いつもの綺麗な笑顔ではなく、僅かに目元を染めた微笑みは人間くさい。けれど、色素の薄い瞳には反射する光が少なく、逆に憂いを帯びたようにアンニュイだ。
「そういうところが可愛いんですよね。馬鹿みたいに律儀で生真面目で遠慮がちで、でも、警戒心が強くてすごく自衛してて、……なのに、うっかりこんなところにまで来ちゃうって。俺がどれだけ嬉しいかわかります?」
「急に、何……」
「俺にかなり気を許してますよね?ってことです」
スルッと頬に触れた手のひらに心臓が飛び跳ねそうになった。
「夜中に一人暮らしの男の家に来る意味がわからない雪那さんじゃないでしょ?他の男だったらしてた?付き合ってもいない男の家に、狙ってくるわけでもないでしょ?」
すぐそばで顔を覗き込まれて、ドク、と激しく鼓動が鳴った。
「こんなの駄目でしょ!?」
「何で?一番いい方法だと思うけど」
「独立したのに、うちの下請けになってどうするのっ?」
「請け負うのは保守のところだけだよ。元々やってた仕事だからノウハウがあるしね」
「それは玲司くんであって、従業員さんはっ?」
「もともと個人的なつながりのメンバーだし。それに単価は安くても安定的な仕事があるのは長期的に見ればメリットだよ。お客様にとっても大企業と付き合いがあれば安心感が増すし、いざという時にバックアップがもらえるのは大きい。長期安定と資金力がネックになることも多かったからね」
「そんなこと言って……私のために後付けの理由を作って広めただけじゃない!」
玲司はにこっと笑って、先ほど「これ美味しいんだよ」と言って淹れてくれたコーヒーのカップを傾けただけだった。
広いが物のほとんどないリビングダイニングに初めて入った時には腰が引けた雪那であったが、そんなことはもう頭にないし、高そうなコーヒーメーカーで抽出されたコーヒーにも興味はない。
——現在、当社女性社員について怪文書が回っておりますが、先方より窓口として当社への業務提携の話を持ちかけられた点を誇張されたものであります。合わせて、本日、該当会社と正式に基本合意に至ったことを報告します。なお、先方からの強い要望もあり、当社としても今回の怪文書については、偽計業務妨害及び名誉毀損として警察への相談その他の法的措置を検討しております。
本件につき……
毎日「よく来られるよね」とそれはもうわかりやすい陰口を叩かれ、部長にも課長にも「今後を考えろ」と言われ、共通フォルダへのアクセスは禁止されるという針の筵の中、突然の全社発信メールにフロア全体がどよめいた。
その二時間前にコンプライアンス室に突然呼び出された時は、クビにでもなるのかと思ったが、結末を聞かされて唖然とするばかりだった。
髪のない額を必死でハンカチで拭う室長の隣に、不機嫌そうな営業本部長と震えるシステム担当役員が座っていた。
けれど、本来たったの一週間で決まるはずのない業務提携とは名ばかりの委託の話を聞くうちに、それが玲司の「何とかする」の答えなのだとようやく理解した。
玲司が要望する周知メール発信は雪那に不利益があると脅されたが、それでも、出してくれとキッパリ言い切った。たかがスタートアップ企業に対してなぜすぐ自社が動くのかはよくわからないが、玲司の行動を無駄にはすまい。引いてはいけないと覚悟した。
なんなら私は五年前の件も含めて警察に相談する気はあります、とも言ったところ、今度ははっきりと「やめてくれ」と静止にあう。送信元の調査はできる範囲で社内でする、と言われた。しないだろうけれども、もういい。
そこからは気まずい時間のやり直しだ。
信じてたけど会社の命令で、と言い訳をする上司に、変わらず遠巻きにする同僚と再び声をかけてきた同僚と。他事業所からの心配メールに、いまだに突き刺さる疑いの視線。
けれど雪那の頭にあったのは、玲司のことだけだった。
昼休みにチャットをして、どうなっているのか強く問いただせば、「今日は納期のうえに外では話しにくいので、夜に家に来てくれるなら話します」との返事。
行かないと言うことを前提とした揶揄いと理解したが、雪那は納品後に行くと言い張った。指定された住所が、近所の新しめのラグジュアリーマンションだったので出向くハードルが一つ下がり、「近くだから夜中でもいい」と返した。
結局、22半時過ぎに「終わった」との連絡が来て、今この状況である。
玲司は会社時代を思い出す白いTシャツに、緩い藍色のジーンズというラフな出立ちで少し後ろ髪を跳ねさせたままだった。目の下には酷いクマがある。昨日から寝てない、と聞き、押しかけた気まずさはあったが、どうしても早く話がしたかった。
「なんでここまでするの?訴えるぞって脅された?私のせい?」
「営業情報詐取とか名誉毀損で訴えるぞと脅したのはこっちだけど。あとはまあ色々話し合った結果だよ。あっちも後ろ暗いところでもあったんじゃない?雪那さんのせいじゃないですよ」
「嘘だよね?私が……私のあの文書を否定させるために玲司くんが犠牲になったんだよね?」
会社が一介の従業員の怪文書にあんな丁寧に対応するわけがない。玲司はどんな魔法を使ったというのか。
「言ったでしょう?こちらもメリットがあるって」
「……騙されないよ」
「雪那さんの状況は悪化しないはずですけど」
玲司はいつものおっとりとした微笑みを浮かべ、首を傾げている。
「なんで?玲司くんに何の意味があるの?」
「まあ、意味は色々あるけど、一番シンプルに言うなら好きだから、ですかね?」
「……なんで?」
結局、それが一番雪那には理解できない。
玲司みたいな人間が雪那なんかを好きな理由が見つけられない。
雪那は親が怖いなんてくだらないことで前にも後にも進めず、愛想がいい、都合がいい人間を演じて、挙句にはこだわっていた会社で、いざという時にろくな味方もいないことが露呈した女だ。
一体どこに玲司が好きだと言う要素があるのだろう。
「そうだなあ、隣に行ってもいいです?」
玲司が急に立ち上がって、雪那が座るダイニングチェアの隣に移動してきた。断る暇がなかったし、そもそもここは玲司の家であって、どこに座ろうとも勝手だから断っていいかわからない。
「俺の家だからってちょっと怖いのに遠慮してる?」
「え?」
見透かされた戸惑いと玲司との距離が近いことへのわずかな緊張から体が硬くなる。
すると、見上げた彼は見たこともない顔で笑っていた。いつもの綺麗な笑顔ではなく、僅かに目元を染めた微笑みは人間くさい。けれど、色素の薄い瞳には反射する光が少なく、逆に憂いを帯びたようにアンニュイだ。
「そういうところが可愛いんですよね。馬鹿みたいに律儀で生真面目で遠慮がちで、でも、警戒心が強くてすごく自衛してて、……なのに、うっかりこんなところにまで来ちゃうって。俺がどれだけ嬉しいかわかります?」
「急に、何……」
「俺にかなり気を許してますよね?ってことです」
スルッと頬に触れた手のひらに心臓が飛び跳ねそうになった。
「夜中に一人暮らしの男の家に来る意味がわからない雪那さんじゃないでしょ?他の男だったらしてた?付き合ってもいない男の家に、狙ってくるわけでもないでしょ?」
すぐそばで顔を覗き込まれて、ドク、と激しく鼓動が鳴った。