終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
「大学だけでなく高校も同じだったとは全く気づかなかったわ」
「同じクラスでもなく、高三で転校してたら気がつくわけなくない?」
 
 まだ心臓がバクバクとしている。
 またしても広い額をハンカチで拭き上げているコンプライアンス室長に話を聞かされた時から、目の前がグラグラとして足元がふわふわとしている。
 仕事にも身が入らずに、定時上がりして玲司の家に来てしまった。それからずっとソファに座って後ろから抱き込まれていた。ここに来ると大概いつもこの体勢だけれどいつもよりも腕の力が強い気がするし、すり寄ってくる回数も多い気がする。慰めようとしているのだと思う。雪那の背中や腕を何度もぽんぽんとさすっていた。
 いつもぐいぐいと押し通すように流暢に話す玲司が、ただ黙って雪那の指を一つ一つ確かめるように握っては離しているうちに、雪那にも少しずつ冷静さが戻ってきた、

ーー雪那さんの周りにさ、会社とコトを構えるのは損、女らしい格好すると損、隙を作らないよう社内では無闇に笑わない方がいいってアドバイスして来た人、いるでしょ。

 全部その通りすぎて目をまんまるにした雪那に、玲司が苦笑していた。

ーー雪那さんが大学以降ろくでもない男と出会うきっかけ、その人じゃない?

 玲司は、エスパーか何かだろうかと震えたが、彼の言うとおり試し行動に出ることにした。
 
 そして、見事に、会社のサーバールームに夜間無断で入り、警備員に掴まったという亜澄の話を聞いた時には激しい落胆とやるせなさが募った。
 彼女は総務部でフル権限のカードキーを出せる権限があったのでバレないと思っていたらしいが、玲司が事前にセキュリティカードデータを書き換えていたらしい。
 どう言うこと?と思うが、玲司は許可をもらってるからと笑っていただけだった。そんなことあるのだろうか。元会社における彼の影響力が強くて怖すぎる。

 そして結局、二回の投書の犯人は亜澄と断定された。
 動機は、雪那が嫌いだから。単純すぎて胸にズシンと来た。
 きっかけは、雪那が秋彦と付き合ったことという。
 高校二年生の終わりに親の離婚で転校した彼女は、大学で再会したときに、雪那が自分のことをまるで初対面かのように扱ったのが許せなかったようだ。
 十クラス、一度も同じクラスにもなったことがない同級生。化粧で雰囲気も違い、卒業アルバムにもいない。
 その名前も顔も覚えていろは無理でしょ、と理性は思う。思うけれど。
 目立つ人間にとって噂がどれだけ致命的になるのか知っていた彼女は、大学のコミュニティの裏で雪那を薄情で軽い女だと吹聴した。
 やたら男子生徒に声をかけられたのはそれか、と雪那は十年越しくらいにあの当時のモテ期を振り返った。つまりそういう誘いだったわけだ。その中で誠実そうに見えたあのストーカーを選んだ雪那も悪いが、悪い噂を意図的に隠して勧めたのも亜澄だし、その次の三股男に雪那を紹介したのも亜澄だった。
 会社に入って自分は営業成績が出ないのに雪那がやたら誉めそやされるのも気に食わなかったようだ。雪那が会社を辞めれば自分に話が回ってくるという妄想は、例の支社での一件をきっかけに彼女を陰湿な行為に走らせた。
 結婚したら会社も辞めるだろうと、大和には雪那が彼に気があるかのように吹き込んで再会させたが、雪那はますます仕事ばかり。大和に雪那が男癖が悪いとか金があるとかそんなことを吹き込んで、こじらせさせたきっかけを作った。
 その間に自分は結婚出産で優位性を手に入れ、一旦雪那はどうでも良くなったらしい。
 だが休み明け、戻ってみたら総務の裏方で、雪那は次世代の女性リーダーと誉めそやされていてまた嫉妬でおかしくなった。
 受注が取れなくなったのをきっかけに、高校時代の友人経由で地元でも負け犬の噂を流して悦に入っていたようだ。
 全部が全部自分勝手な主張でしかなく、雪那は信じられない気持ちでいっぱいだった。自分のためを思ってくれていたと思っていた話が全部が自分を貶めるためのものだったのだ。

「いまだに信じられない……こんな、十年以上も……あの先輩とのこと、そんなに恨まれることだっていうの?」
「そうじゃなくて雪那さんが人から持て囃されてるのが許せないって逆恨みだよ。粘着質に絡まれたのは事故みたいなもの。俺も履歴書の高校名が違うので気づくのが遅くなってごめんね。雪那さんの地元で変な噂が流れてるのを聞いてから、絶対に会社の誰かとは思ったんだけど」
「ううん、そんなこと……え?履歴書?」
「しー。ちょっとね、見せてもらって。内緒」

 肩に玲司の顎を乗せられて、悪戯っぽい囁き音が耳に届く。雪那はやっぱり謎が多い人だなと思う。会社に特別な許可でももらったとしても、彼に弱すぎないかうちの会社?と少し不安に思った。玲司もどうやって言うことを聞かせているんだろうと思う。

 玲司が頭の後ろから、耳朶にすり寄ってきた。

「雪那さんは何も悪くないよ。いい人すぎただけ」

 玲司の柔らかい声が耳に直接触れるとビクッとする。そのまま登ってきた手のひらが優しく頬を撫でて、そっと後ろを向かされた。覗き込んできた玲司の眉は下がっていて、瞳は柔らかに垂れていた。

「コロッと騙されつつけるのも馬鹿だよね」

 心配させている、と思って口の端を自嘲的にあげてみる。けれど首を振った玲司は、親指の腹で雪那の目元を撫でた。

「強がらなくていいよ。悲しいでしょ?」
「……怒ってる、よ。情けないし恥ずかしい」
「恥ずかしいとか俺の前では考えなくていいよ。もっと剥き出しの雪那さんを見せて。俺はさ、雪那さんならなんでも受け止めるし、受け止めたい」

 ジッと真っ直ぐに見てくる色素の少し薄い目が焦点が合わないほどに近づいて鼻先がチョンとくっつく。それから擦りつけるように動くのは甘えた犬みたいな仕草に思えた。むしろ甘やかそうとしているのだとは理解している。 
 そのままちゅっと頬や瞼に軽いキスが落ちてきた。ちろりと舌が眦を舐めてまた頬に触れるか触れないかのほどのキス。手のひらは頭の上をゆったりと撫でている。

 (こんなの……ずるい)

 泣けと言っているようなものだ。唇が震えた。喉の奥が熱いのは悔しいのか悲しいのか自分の感情がわからない。けれど、鼻の奥がツンと痛むともうダメで、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

「……っ、ふ……、ぅ、んく……」
「我慢しないでいいよ。ほら、タオルよりはあったかいし、頷くだけがいいならそうするし話したくなったら話すし。俺はね、雪那さんだけの味方だから。一人でいるよりはマシだって思ってくれていたら嬉しいな」

 玲司の言い方はほんとにずるい。
 優しい言葉にただポロポロと涙が溢れてくる。

 学部間違い、ずっと一緒にいるような仲ではなかったけれど、普通に友達と思っていたのに。一緒に頑張っている同期と思ったのに。何がそんなに嫌われないといけないの。なんで恨まれてるの。

 それはほとんどまともな言葉にならなくて、涙と嗚咽ばかりが出ていく。
 しゃっくりあげながらティッシュが欲しいと言うのに、もったいないからダメとぎゅうぎゅうに抱きしめられた。このために綿の服にしたから、とわけのわからないことを主張されて、汚いと思うのに離れることが許されない。
 でもひたすらに背中を優しく撫でてもらい、自分ではない他の人の心音が間近に聞こえることに安心してしまう。

 こんな風に誰も慰めてくれなかった。
 父は、泣くな、うるさいと厳しく叱り。
 母は、大したことないでしょ、お兄ちゃんはね……とやんちゃをしでかす兄たちと比べて取り合ってもくれず。
上の兄は、母を取るなと殴り。下の兄は泣き虫と馬鹿にしてますます意地悪をし。
 泣くのは心が弱いからだと野太い声で怖い空手の師範は言い。
 雪那ちゃんは強くて体が大きくてずるいと喧嘩相手に言われ自分が怒られ。
 桐谷さんはしっかりしてるからよろしくねと学校の先生に頼まれ、雪那はどんな時でもかっこいいね、と褒められ。
 私が泣いたって誰も助けてくれない。泣いたら弱虫でカッコ悪い。
 だから雪那は頑張って泣かないことにした。せめて人前でだけでも。でも、それは寂しいことだった。本当は誰かに慰めてほしかった。
 今は、人前という感覚が揺らいでいる。
 でも一人ではない。
 すぅ……と大きく息が吸えて、胸いっぱいほぐしゃぐしゃの感情を吐いても、迷惑じゃないかなと怯える心は育たない。
 ただ聞いてほしくて、ぽつりぽつりと少ない言葉で語り始めた。うん、と玲司がただ頷いてくれる。
 どう思う?と聞けば、ちゃんと彼らしい言葉で喋ってくれる。

 それはわからないよ。雪那さんが悪くはないよ。相手がおかしい。まあちょっと迂闊かもね。心配だなあ。可愛いけどね。俺に守らせてよ。俺を使ってよ。役に立つよ。そばに置いて。

 ところどころ自分の売り込みが入るけれど、それも嬉しいと思えた。玲司は不思議だ。するりとガードを避けてすぐに胸の内に入ってくる。

 そのうちに眠たくなってくると、玲司が寝室まで抱き上げて連れて行ってくれた。
 横たえられた体に布団がかけられて、その上から添い寝している玲司の手が柔らかく叩いてくる。

 全力で泣くと言うのはあまりにも体力を使うものだ、と初めて知った。

 (ダメだ、もう、ほんと、眠たい……)

「大丈夫だよ、雪那さん。俺がいるからね。俺に頼ってくれたらいいんだよ」
「ん……ありが、と……」

 ろくに口が回らない。そのまま意識がすうっと遠のいていった。
 

「…………あー、やっと、やっとだ。泣いてる雪那さん、すごく可愛いなぁ。やっと近くで見れた。……ふふ、無防備。それにしたって、あんなすぐ馬脚を表すような短絡的な女に騙されてたなんてほんと素直すぎて心配だな。男を見る目もないし、拘る会社も()()に弱いしなあ。まあソフト会社がセキュリティ脆弱性があるなんて広く公表されたくないか。仕事増えたけどお金も増えるしいいか。ねえ、もう俺に囲われてる方が幸せだよ。早く一緒に住もうね」

 だから雪那は、玲司のその熱に浮かされた真っ暗な瞳を見ることは決してなかった。
 
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