終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
*
玲司の家に帰るのに全く違和感がなくなっていたある日、玄関に見知らぬ靴があった。
それが女物だったので、雪那はカバンを取り落とすほどに動揺した。ドクドクととにかく心臓が嫌な音を立てて吐き気すらする。どうしたらいいのかわからなくて立ち尽くした。
また?という思いが頭の中を支配する。
今度は怒りや呆れより、酷い悲しみだった。ガンガンと何かに殴られているかのように頭の中が痛む。凍りついたように玄関から全く動かない脚をどう動かすのかもわからない。
「だから誤解されるから早く帰れよ」
「そんな酷い顔して、取材受けられると本当に思ってるの?とにかくちゃんと寝なさいよ。明日は大事な日なんだから」
「うるさい。もう帰れって言ってる。人の話を聞け」
「もう……食べ物は冷蔵庫にいれておいたからちゃんと食べてよ」
「勝手なことをするな。面倒くさいな。さっさと出ていけ」
「彼女いるならそれくらいやってもらいなさいよ」
「関係ないだろう」
玄関から続く広い廊下の奥から少しずつ声が大きくなって聞こえてくる。ピクっとようやく腕が動いて、落とした鞄を拾い上げた。そのまま慌てて出ていこうとしたけれど、ドアの開いた音と共に角から寝癖のついた玲司と知らない女の人が現れるのが先だった。
「……雪那さん!違うから!」
雪那を見つけるなり、無精髭を生やしたままの玲司がぎょっとした顔をしたのがわかった。
腕を掴んで半ば引きずっていた見知らぬ彼女を放り出して、雪那に慌てて駆け寄ってくる。
手首をがっちり掴まれて「違う!」ともう一度強い口調で主張された。いつも柔和な玲司の顔がはっきりと引き攣っていた。
「なんでもないんだよ。寝ていたらコイツが勝手に来ただけで」
「そりゃあ決まっていた取材をすっぽかしたら何があったのかと心配して家まで来るのは当然でしょ?」
「もう取材なんていらないって言ったはずだ」
「前から決まってた話を勝手にキャンセルできるわけないでしょう。ちゃんとしてよ、社長なのよ」
「うるさい」
彼女と話す玲司の口調はまるで知らない誰かだ。いつも穏やかだが、時々早口で捲し立てる玲司が、面倒くさそうに言葉を切って、低く唸るような音になっている。随分事親しい間柄のようだ。
玲司の影から彼女を見ると、ショートカットが良く似合う頭の形のいいとても綺麗な女性だった。隙がなくメイクされた長いまつ毛の大きな二重の瞳に真っ赤なルージュの唇、大ぶりのリングイヤリングがよく似合っている。ヒールも履かずに背が高く、スタイルが良い。魅力的な体の線に沿うようなニットワンピースの服装を見て、玲司が教えてくれたブランドだと理解し、また軋むような嫌な音を心臓が立てた。
「初めまして、芦本優希と言います。ユースアラウンドの広報兼橋谷の秘書みたいなものを……」
「誰が挨拶していいと言った。帰れ」
雪那の視線に気がついた彼女が、あちらから頭を下げて来た。それに対する玲司の反応は厳しい。
「挨拶せずに帰る方が不穏でしょうよ。むしろ身元を明かす方が変な誤解をされないわ」
「……そうなの?」
ほんと?とでも言いたげに、雪那に向ける声音は同一人物とはとても思えないほど柔らかだ。伺う様子は犬みたいないつもの玲司。
「必死すぎて笑えるわ。なりふり構わず追いかけてやっと捕まえたお姫様だものね。せいぜい無理してカッコつけて頑張れば?」
「……無理……?」
「黙れ。余分なことを言うな」
「はいはい。とにかく明日はちゃんと出社してよ。すみません、失礼します」
そう言って彼女が玄関から一歩も動いていない雪那の横を通り抜ける。だが、パンプスを履くときに彼女がちらりと見上げて来た目にギクリとした。
かつて見て来た雪那の彼氏と呼ばれる人の隣でこちらを睨んできたものと同じ色をしていた。胸の内が凍る。
玄関ドアが閉まる音がした後も、雪那は扉から目が離せなかった。
「雪那さん、本当に違うから。俺は全然、浮気なんて……」
「なんで彼女を家にあげたの?」
「ごめんね、雪那さんとは鉢合わせないようにしてたんだけど、今日は本当に勝手に来たんだよ。俺、前に何回か過労で倒れたことがあって。それ以来、コール三回出なかったら合鍵使っていいって言う話にしてて。無神経だった。鍵のこと、正直忘れてたんだ。ごめんね、すぐ返してもらうから」
その言葉にギュッと胸が引き絞られた気がした。鍵を渡す云々の前だって問題あると思う。
「鉢合わせない……って、最近も来てたの?」
「こないだハウスキーパー探してって頼んだら、自分がやるって言うから」
「は……?そんなのおかしいでしょ?」
とんでもない不信感を玲司に対して抱いた。
それに気がついたのだろう。玲司がさらに慌てた様子に変わった。
「うん、そうだよね。不愉快だよね。ごめんね、ちょっと色々溜め込みすぎて、この修羅場が終わったらちゃんとしようと思ってはいるから、もう少しだけ待って」
ぎゅっといつものように抱きしめられる。いや、いつもよりもよほど力が強い。
「ごめんなさい。ただハウスキーパーを委託してるつもりだったけど、雪那さんを不愉快にしてごめんなさい。でも本当の本当に、何にもなくて、仕事上の関係で。でも、ごめんなさい。怒ってくれてもいいけど、呆れて捨てないで」
玲司の肩に頭を強く押さえつけられる。逃すまいとするようだ。小さな震えが伝わって来た。
けれど、雪那は胸の中にすくった不快感を無視できなかった。
「溜め込みすぎって、何?倒れるって何?なんでそんな状態なの教えてくれないの?」
「倒れてないよ。寝過ごしただけ……」
「寝過ごすほど無理してたの?」
「その、昨日も徹夜したら昼間に寝ちゃってて。会社に行く予定を忘れてただけ。今はちょっと仕事がめちゃくちゃ重なってるだけだし一時的にだから平気」
「平気じゃないよね?その状況は彼女には見せるくせに……、っ」
私にはなんで言わないの、と言いかけて、稚拙な嫉妬と気がつき、雪那は慌てて言葉を区切る。代わりの問いかけを可能な限り、平静を装って尋ねた。
「私のせいなんでしょ?私を助けようとしたから、もしくは、私といて気を遣ってるから。無理してるよね?」
「違うよ!違う!俺の能力の問題。雪那さんのせいじゃないよ」
「そんなひどい顔して?」
雪那はぎゅうぎゅう抱きしめてくる玲司の頬をなぞった。綺麗な顔に髭は生えているし目の下のくぼみもひどい。
「疲れすぎだよ。もう仕事終わったの?ゆっくり休んで」
「やだ。雪那さん、帰る気でしょ?」
「自分の体調管理もできない人は嫌だから」
「そんな言い方ずるい。じゃあ今から一緒に寝て?枕になってくれるなら寝る」
「ちょっと……っ」
跪かれて履いたままだったパンプスを脱がされ、今度は抱き上げられた。
「ごめん。だって、このまま雪那さんが来てくれなくなるの嫌なんだ。俺には雪那さんしかないない。迂闊だったけど、信じて。ううん、信じられないと思ったときに教えて。お願いだから、勝手に幻滅して離れていくのだけはやめて。全部直すから」
ベッドに下ろされ、ギュッと腕を押さえつけられた。そんなに乱暴な仕草は初めてで、恐怖がよぎる。
けれど真剣な瞳は、雪那を傷つけると言うよりも、懇願しているように見えた。
「俺は雪那さんが好きだよ。他は何もいらない。だから、雪那さんは何もしなくていいんだよ。俺が雪那さんを幸せにするから。ねえ、信じて。あいつにはしっかり言い聞かせて二度と家にあげないから」
その言い分には少し、違和感を覚えた。
ーー何もしない幸せって何?
ーー言い聞かせるってどう言う関係?
でもそれは上手く言語化できなくて、聞くと不穏になる気がして、雪那は玲司の瞳をただ見返した。
その瞳の中の熱は確かに感じる、気がする。好きだと言うのはきっと嘘なんかじゃない……と信じたい。
「……うん、わかったわ」
頷くとパッと玲司の表情が明るくなった。
「ありがとう、雪那さん。ねえ、キスしていい?」
聞きながら、もはやほぼ触れそうな位置に唇がある。
黙っていても動かない。
その焦ったい距離感に雪那は、モヤモヤした気持ちを振り切るように自分で唇を重ねた。お返しは濃厚で、すぐにぎゅぎゅっと抱きしめ返される。額を重ねてまた覗き込んでくる玲司は照れている顔そのもので、本当に嬉しそうに見えた。
(信じて……大丈夫、だよね?)
男どころか友人すら見る目がない自分が、一体何をよりだからに信じたらいいのかわからない。
でも、この人を信じたいと思う。
それでも、一眠りした玲司の腕の中から抜け出して水を飲もうと開いた冷蔵庫に、遠慮もない様子で作り置きのおかずが入っていたのを見た時は、やっぱりひどく胸がモヤっとした。
とりあえず、苦手と言ってないで少し料理は勉強しようかなと思うけれど、包丁を握るとどうしても嫌なことばかり思い出して震えてしまう自分が情けなくて仕方なかった。
玲司の家に帰るのに全く違和感がなくなっていたある日、玄関に見知らぬ靴があった。
それが女物だったので、雪那はカバンを取り落とすほどに動揺した。ドクドクととにかく心臓が嫌な音を立てて吐き気すらする。どうしたらいいのかわからなくて立ち尽くした。
また?という思いが頭の中を支配する。
今度は怒りや呆れより、酷い悲しみだった。ガンガンと何かに殴られているかのように頭の中が痛む。凍りついたように玄関から全く動かない脚をどう動かすのかもわからない。
「だから誤解されるから早く帰れよ」
「そんな酷い顔して、取材受けられると本当に思ってるの?とにかくちゃんと寝なさいよ。明日は大事な日なんだから」
「うるさい。もう帰れって言ってる。人の話を聞け」
「もう……食べ物は冷蔵庫にいれておいたからちゃんと食べてよ」
「勝手なことをするな。面倒くさいな。さっさと出ていけ」
「彼女いるならそれくらいやってもらいなさいよ」
「関係ないだろう」
玄関から続く広い廊下の奥から少しずつ声が大きくなって聞こえてくる。ピクっとようやく腕が動いて、落とした鞄を拾い上げた。そのまま慌てて出ていこうとしたけれど、ドアの開いた音と共に角から寝癖のついた玲司と知らない女の人が現れるのが先だった。
「……雪那さん!違うから!」
雪那を見つけるなり、無精髭を生やしたままの玲司がぎょっとした顔をしたのがわかった。
腕を掴んで半ば引きずっていた見知らぬ彼女を放り出して、雪那に慌てて駆け寄ってくる。
手首をがっちり掴まれて「違う!」ともう一度強い口調で主張された。いつも柔和な玲司の顔がはっきりと引き攣っていた。
「なんでもないんだよ。寝ていたらコイツが勝手に来ただけで」
「そりゃあ決まっていた取材をすっぽかしたら何があったのかと心配して家まで来るのは当然でしょ?」
「もう取材なんていらないって言ったはずだ」
「前から決まってた話を勝手にキャンセルできるわけないでしょう。ちゃんとしてよ、社長なのよ」
「うるさい」
彼女と話す玲司の口調はまるで知らない誰かだ。いつも穏やかだが、時々早口で捲し立てる玲司が、面倒くさそうに言葉を切って、低く唸るような音になっている。随分事親しい間柄のようだ。
玲司の影から彼女を見ると、ショートカットが良く似合う頭の形のいいとても綺麗な女性だった。隙がなくメイクされた長いまつ毛の大きな二重の瞳に真っ赤なルージュの唇、大ぶりのリングイヤリングがよく似合っている。ヒールも履かずに背が高く、スタイルが良い。魅力的な体の線に沿うようなニットワンピースの服装を見て、玲司が教えてくれたブランドだと理解し、また軋むような嫌な音を心臓が立てた。
「初めまして、芦本優希と言います。ユースアラウンドの広報兼橋谷の秘書みたいなものを……」
「誰が挨拶していいと言った。帰れ」
雪那の視線に気がついた彼女が、あちらから頭を下げて来た。それに対する玲司の反応は厳しい。
「挨拶せずに帰る方が不穏でしょうよ。むしろ身元を明かす方が変な誤解をされないわ」
「……そうなの?」
ほんと?とでも言いたげに、雪那に向ける声音は同一人物とはとても思えないほど柔らかだ。伺う様子は犬みたいないつもの玲司。
「必死すぎて笑えるわ。なりふり構わず追いかけてやっと捕まえたお姫様だものね。せいぜい無理してカッコつけて頑張れば?」
「……無理……?」
「黙れ。余分なことを言うな」
「はいはい。とにかく明日はちゃんと出社してよ。すみません、失礼します」
そう言って彼女が玄関から一歩も動いていない雪那の横を通り抜ける。だが、パンプスを履くときに彼女がちらりと見上げて来た目にギクリとした。
かつて見て来た雪那の彼氏と呼ばれる人の隣でこちらを睨んできたものと同じ色をしていた。胸の内が凍る。
玄関ドアが閉まる音がした後も、雪那は扉から目が離せなかった。
「雪那さん、本当に違うから。俺は全然、浮気なんて……」
「なんで彼女を家にあげたの?」
「ごめんね、雪那さんとは鉢合わせないようにしてたんだけど、今日は本当に勝手に来たんだよ。俺、前に何回か過労で倒れたことがあって。それ以来、コール三回出なかったら合鍵使っていいって言う話にしてて。無神経だった。鍵のこと、正直忘れてたんだ。ごめんね、すぐ返してもらうから」
その言葉にギュッと胸が引き絞られた気がした。鍵を渡す云々の前だって問題あると思う。
「鉢合わせない……って、最近も来てたの?」
「こないだハウスキーパー探してって頼んだら、自分がやるって言うから」
「は……?そんなのおかしいでしょ?」
とんでもない不信感を玲司に対して抱いた。
それに気がついたのだろう。玲司がさらに慌てた様子に変わった。
「うん、そうだよね。不愉快だよね。ごめんね、ちょっと色々溜め込みすぎて、この修羅場が終わったらちゃんとしようと思ってはいるから、もう少しだけ待って」
ぎゅっといつものように抱きしめられる。いや、いつもよりもよほど力が強い。
「ごめんなさい。ただハウスキーパーを委託してるつもりだったけど、雪那さんを不愉快にしてごめんなさい。でも本当の本当に、何にもなくて、仕事上の関係で。でも、ごめんなさい。怒ってくれてもいいけど、呆れて捨てないで」
玲司の肩に頭を強く押さえつけられる。逃すまいとするようだ。小さな震えが伝わって来た。
けれど、雪那は胸の中にすくった不快感を無視できなかった。
「溜め込みすぎって、何?倒れるって何?なんでそんな状態なの教えてくれないの?」
「倒れてないよ。寝過ごしただけ……」
「寝過ごすほど無理してたの?」
「その、昨日も徹夜したら昼間に寝ちゃってて。会社に行く予定を忘れてただけ。今はちょっと仕事がめちゃくちゃ重なってるだけだし一時的にだから平気」
「平気じゃないよね?その状況は彼女には見せるくせに……、っ」
私にはなんで言わないの、と言いかけて、稚拙な嫉妬と気がつき、雪那は慌てて言葉を区切る。代わりの問いかけを可能な限り、平静を装って尋ねた。
「私のせいなんでしょ?私を助けようとしたから、もしくは、私といて気を遣ってるから。無理してるよね?」
「違うよ!違う!俺の能力の問題。雪那さんのせいじゃないよ」
「そんなひどい顔して?」
雪那はぎゅうぎゅう抱きしめてくる玲司の頬をなぞった。綺麗な顔に髭は生えているし目の下のくぼみもひどい。
「疲れすぎだよ。もう仕事終わったの?ゆっくり休んで」
「やだ。雪那さん、帰る気でしょ?」
「自分の体調管理もできない人は嫌だから」
「そんな言い方ずるい。じゃあ今から一緒に寝て?枕になってくれるなら寝る」
「ちょっと……っ」
跪かれて履いたままだったパンプスを脱がされ、今度は抱き上げられた。
「ごめん。だって、このまま雪那さんが来てくれなくなるの嫌なんだ。俺には雪那さんしかないない。迂闊だったけど、信じて。ううん、信じられないと思ったときに教えて。お願いだから、勝手に幻滅して離れていくのだけはやめて。全部直すから」
ベッドに下ろされ、ギュッと腕を押さえつけられた。そんなに乱暴な仕草は初めてで、恐怖がよぎる。
けれど真剣な瞳は、雪那を傷つけると言うよりも、懇願しているように見えた。
「俺は雪那さんが好きだよ。他は何もいらない。だから、雪那さんは何もしなくていいんだよ。俺が雪那さんを幸せにするから。ねえ、信じて。あいつにはしっかり言い聞かせて二度と家にあげないから」
その言い分には少し、違和感を覚えた。
ーー何もしない幸せって何?
ーー言い聞かせるってどう言う関係?
でもそれは上手く言語化できなくて、聞くと不穏になる気がして、雪那は玲司の瞳をただ見返した。
その瞳の中の熱は確かに感じる、気がする。好きだと言うのはきっと嘘なんかじゃない……と信じたい。
「……うん、わかったわ」
頷くとパッと玲司の表情が明るくなった。
「ありがとう、雪那さん。ねえ、キスしていい?」
聞きながら、もはやほぼ触れそうな位置に唇がある。
黙っていても動かない。
その焦ったい距離感に雪那は、モヤモヤした気持ちを振り切るように自分で唇を重ねた。お返しは濃厚で、すぐにぎゅぎゅっと抱きしめ返される。額を重ねてまた覗き込んでくる玲司は照れている顔そのもので、本当に嬉しそうに見えた。
(信じて……大丈夫、だよね?)
男どころか友人すら見る目がない自分が、一体何をよりだからに信じたらいいのかわからない。
でも、この人を信じたいと思う。
それでも、一眠りした玲司の腕の中から抜け出して水を飲もうと開いた冷蔵庫に、遠慮もない様子で作り置きのおかずが入っていたのを見た時は、やっぱりひどく胸がモヤっとした。
とりあえず、苦手と言ってないで少し料理は勉強しようかなと思うけれど、包丁を握るとどうしても嫌なことばかり思い出して震えてしまう自分が情けなくて仕方なかった。