終着駅のワンナイトは終わらない〜策士なイメチェン元後輩(一見ワンコ)の執着に囚われました〜【一話から】
2. 桐谷と橋谷
「おい、きりたに!プレゼン資料差し替えは!」
「きりや、です。はい、こちらに揃っております」
「はしや!修正まだ終わってねえのか!」
「今終わりました。はしたに、です」
「ややこしいなお前たちはよ!」
四年前の、とある顧客向けの新規プロジェクト。
とある事情で期中に支社から本社に戻ってきた雪那が橋谷玲司という男を初めて認識したのは、その時だった。三つ年下の彼は、背は高いが猫背でもそっとしていて声は大きくない。けれど、パワハラ気味の先輩にもいつも主張すべきところは主張するタイプだった。
まだ新卒三年目。若いのに知識も胆力もあってしっかりしている。それが雪那から見た玲司の印象だった。
その半年後、初めて任されたプロジェクトリーダーのチームに彼がいて、そのあまりの優秀さに舌を巻いた。こちらの意図を先回りして汲んでくれ、突発の修正にもきちんと対応してくれる。ぶつぶつ言う他のメンバーを「そういう仕事なんだから仕方じゃないっすか。そんなの言ってるくらいなら早く帰りたいんで俺やります」と言って画面に向かってくれる人。最年少でのリーダーということもあり、舐められないようにとガチガチだった心にその優しさが沁みた。
一方で彼はあまり話すのは好きではないようで、雪那が丁寧に感謝の意を伝えても「大したことしてないんで」と差し出したコーヒーも受け取らず去っていった。それからも大きい案件でも二度ほど担当営業として関わった。
厄介な担当課長がいる顧客のとんでもないイチャモンと修正要求の担当に手を挙げてくたのも彼だった。狭い会議室一つを借り切って何日も一緒にウンウン唸って仕様提案を考えて、営業との同席は嫌だとずっと断っていたと聞いたのに「こんなクレーマーの顔を一度見てみたいんで」と客先まで着いてきてくれた。その時はスーツ姿でスタイル良!と思ったような記憶がある。いつもゆるっとした長袖白Tシャツに細身の黒ズボン、ボサボサ髪の冴えない男の印象だったので驚いた。
はしやだかはしたにだか知らんが髪の長い男は気持ち悪いと言った暴言にもしらっとして、淡々と説明してくれたのは助かった。
相手に付け入る隙を与え優越感を織り交ぜさせつつ言質を取っていくのは営業の役割だ。何度かの理不尽なやり直しを経て、いずれ、その課長ではなく、上役の伝手で同席してもらえた部長に気に入られて最終、事なきを得た。
大幅修正で利益率の低い案件にはなってしまったことは怒られたが、次の注文を営業指名でもらえたのだからラッキーだった。そこから地方転勤、本社栄転、昇進となったのもこのときの功績あってのことだ。
最後の顧客部長への最終納品説明を前に、玲司と交わした夜明けのコーヒーを思い出す。
なにせ某課長が、直前にシステムの些細なバグを契機に全検証要求と報告資料にネチネチと指摘を入れてきたのだ。バグ修正後、プレゼン資料修正は営業の役割だと言うのに、彼は、元部署に頼まれた保守当番代行なんでと嘯いて、雪那の隣で何度目かわからないエナジードリンクを飲んで、検証プログラムの起動する画面を眺めていた。
彼がその日の当番を変わって居残ったことくらい、いくらなんでもわかっていた。
「俺、こう見えて負けず嫌いなんで。認められるチャンスだと思って全力なんです」
礼を言っても淡々と受け流され、今時の若者は定時死守、言われた仕事しかしないなんて嘆かれているのに、随分と貪欲だ。
もう一つこうしたらお客様に喜ばれると思うんです、と余分な提案をして開発チームには嫌われがちな雪那にもずっと付き合ってくれた優しい専属プログラマー。向上心のある雪那は会社に認められたいと意気込む玲司を素直に応援したいと思った。見た目はゆるっと男子なのに実力派で見どころあり、と上から目線で思っていた。
朝五時。白んできた空を背に、どうにか間に合ったと二人で微笑む。
ミル挽き仕立てでカップで出てくるコーヒーを自動販売機で二人分買って、流石に完徹は眠たくなってきたのか、打ち合わせ机で投げ出した腕に顔を埋めてぐったりと突っ伏している玲司の前に差し出した。その向かいの椅子に腰を下ろして、「ありがとう」と心からの礼を言う。
「本当に、橋谷くんがいなかったらどうなってたことか……」
「仕事なんでいいですよ」
「でも私のお客様のせいで」
「酷いのはあっちで桐谷リーダーのせいじゃないでしょう」
「今はリーダーじゃないわよ」
「俺にとってはリーダーですよ。メインリーダーなんてなんとかしろしか言わないじゃないですか」
「ふふっ、そうねえ。フロント営業は駒でしかないから。でもやりがいもあるのよ。目に見える数字とかプレゼンが相手に響いたなって思えるときとか、ね」
玲司が心底嫌そうな顔をした。雪那は苦笑する。
「俺には営業は無理ですね。あんなペラペラと口運びできません。見た目もぱりっとしてなきゃいけなくて肩が凝りそう」
「あのね、ずっと思っていたのだけれど」
そうっとまだ前傾姿勢で組んだ腕の上に黒子のある顎を乗せていた玲司のあまりにも長い前髪を一房つまんだ。こんなものはセクハラだ。だが、完徹のテンションで雪那もおかしくなっていたのだろう。
前髪の下から少し垂れ目で色素の薄い瞳が現れて雪那をじっと見上げてくる。
窓辺の打ち合わせ机の前、朝日が色白の彼の顔の半分をさらに白く照らしていた。
「前髪を切ったら、すごくモテ……じゃなくて、清潔感が出るわ。見た目なんて大したことじゃないし、大事なのはある程度の清潔感があって、知識がしっかりしていることだし」
モテそう、なんで言いかけて、慌てて言い換える。あくまでも仕事のための助言だ。
「それって今は清潔感がないってことです?」
しかし思わぬ返しに焦った。いつもはいくらでも相手をヨイショできるのに、寝不足の今は、茶色味がかった瞳の、まっすぐな視線の前にしどろもどろになってうまくいかない。こんなことでは今日のプレゼンも不安でしかないと気を引き締めようとして、やはり玲司の瞬きもしない瞳を見て狼狽えてしまった。
「そ、そういうつもりじゃなくて……やっぱり顔がきちんと見えて相手の視線を合わせるというのが営業の基本というか………あくまでも営業って職を言っているのよ?!橋谷くんをどうこう言うつもりじゃ……せ、セクハラで訴えないで……!」
「あは、桐谷リーダーがそんなに焦ってるの初めて見たかもしれません」
玲司がどもっている雪那に向かってはっきりと笑った。垂れ目がさらに柔らかく垂れて、口元が弧を描くと、いつも注目する黒子がゆるりと持ち上がった。
可愛らしい笑顔だ。
ドキリとしたのを悟られたくて雪那は慌てて彼の前髪から手を離して手の中の耐熱紙コップを傾けた。
「あの……この案件終わったら個人的な打ち上げ、しませんか?正直、こんな頑張ったの俺たちだけですもん」
後輩に職場で見惚れたなんてあってはならない。仕事に男女なんて持ち込んではダメだ。やはり強い眠気のせいだろう。完成して気が抜けてしまったのだ。それだけ。
なんとなく顔が熱くなった雪那は、必死で自分の心を誤魔化した。
「あっ、もちろんもちろん!高いお店、奢ってあげる!営業の情報網で一番のところ。本当、神様仏様はしやさま!だから、ね」
突然の玲司からの提案に、両手を合わせて頭を下げるおどけた仕草をしたのは、自分のペースを取り戻したかったからだ。気恥ずかしさを誤魔化すための営業トーク。
玲司はおかしそうに笑った。
「そんな拝まないでください、きりたにさん?いっそ、たに、で、揃えません?」
「それを言えなら後輩が、や、に合わせるべきかと?」
「まあ……それでもいいんですけど」
「ぷはっ、いいの?名字は大事にしなよ」
「いやぁ、結婚したら変わるもんじゃないですか」
「結婚?!若いのにもうするの?」
「そんな年寄りみたいな……。できるならしたいですよそりゃ。きりたにさんは?」
「きりや、です。私はいいかなー?仕事が楽しい」
「うわ、らしい……」
「あははっ、まあ彼もまだまだそんな気なさそうだしね」
「え……彼……?」
眩しい光の中で、笑っていた玲司がきょとんと目を瞬いたのを、雪那は首を傾げて見つめた。
「きりや、です。はい、こちらに揃っております」
「はしや!修正まだ終わってねえのか!」
「今終わりました。はしたに、です」
「ややこしいなお前たちはよ!」
四年前の、とある顧客向けの新規プロジェクト。
とある事情で期中に支社から本社に戻ってきた雪那が橋谷玲司という男を初めて認識したのは、その時だった。三つ年下の彼は、背は高いが猫背でもそっとしていて声は大きくない。けれど、パワハラ気味の先輩にもいつも主張すべきところは主張するタイプだった。
まだ新卒三年目。若いのに知識も胆力もあってしっかりしている。それが雪那から見た玲司の印象だった。
その半年後、初めて任されたプロジェクトリーダーのチームに彼がいて、そのあまりの優秀さに舌を巻いた。こちらの意図を先回りして汲んでくれ、突発の修正にもきちんと対応してくれる。ぶつぶつ言う他のメンバーを「そういう仕事なんだから仕方じゃないっすか。そんなの言ってるくらいなら早く帰りたいんで俺やります」と言って画面に向かってくれる人。最年少でのリーダーということもあり、舐められないようにとガチガチだった心にその優しさが沁みた。
一方で彼はあまり話すのは好きではないようで、雪那が丁寧に感謝の意を伝えても「大したことしてないんで」と差し出したコーヒーも受け取らず去っていった。それからも大きい案件でも二度ほど担当営業として関わった。
厄介な担当課長がいる顧客のとんでもないイチャモンと修正要求の担当に手を挙げてくたのも彼だった。狭い会議室一つを借り切って何日も一緒にウンウン唸って仕様提案を考えて、営業との同席は嫌だとずっと断っていたと聞いたのに「こんなクレーマーの顔を一度見てみたいんで」と客先まで着いてきてくれた。その時はスーツ姿でスタイル良!と思ったような記憶がある。いつもゆるっとした長袖白Tシャツに細身の黒ズボン、ボサボサ髪の冴えない男の印象だったので驚いた。
はしやだかはしたにだか知らんが髪の長い男は気持ち悪いと言った暴言にもしらっとして、淡々と説明してくれたのは助かった。
相手に付け入る隙を与え優越感を織り交ぜさせつつ言質を取っていくのは営業の役割だ。何度かの理不尽なやり直しを経て、いずれ、その課長ではなく、上役の伝手で同席してもらえた部長に気に入られて最終、事なきを得た。
大幅修正で利益率の低い案件にはなってしまったことは怒られたが、次の注文を営業指名でもらえたのだからラッキーだった。そこから地方転勤、本社栄転、昇進となったのもこのときの功績あってのことだ。
最後の顧客部長への最終納品説明を前に、玲司と交わした夜明けのコーヒーを思い出す。
なにせ某課長が、直前にシステムの些細なバグを契機に全検証要求と報告資料にネチネチと指摘を入れてきたのだ。バグ修正後、プレゼン資料修正は営業の役割だと言うのに、彼は、元部署に頼まれた保守当番代行なんでと嘯いて、雪那の隣で何度目かわからないエナジードリンクを飲んで、検証プログラムの起動する画面を眺めていた。
彼がその日の当番を変わって居残ったことくらい、いくらなんでもわかっていた。
「俺、こう見えて負けず嫌いなんで。認められるチャンスだと思って全力なんです」
礼を言っても淡々と受け流され、今時の若者は定時死守、言われた仕事しかしないなんて嘆かれているのに、随分と貪欲だ。
もう一つこうしたらお客様に喜ばれると思うんです、と余分な提案をして開発チームには嫌われがちな雪那にもずっと付き合ってくれた優しい専属プログラマー。向上心のある雪那は会社に認められたいと意気込む玲司を素直に応援したいと思った。見た目はゆるっと男子なのに実力派で見どころあり、と上から目線で思っていた。
朝五時。白んできた空を背に、どうにか間に合ったと二人で微笑む。
ミル挽き仕立てでカップで出てくるコーヒーを自動販売機で二人分買って、流石に完徹は眠たくなってきたのか、打ち合わせ机で投げ出した腕に顔を埋めてぐったりと突っ伏している玲司の前に差し出した。その向かいの椅子に腰を下ろして、「ありがとう」と心からの礼を言う。
「本当に、橋谷くんがいなかったらどうなってたことか……」
「仕事なんでいいですよ」
「でも私のお客様のせいで」
「酷いのはあっちで桐谷リーダーのせいじゃないでしょう」
「今はリーダーじゃないわよ」
「俺にとってはリーダーですよ。メインリーダーなんてなんとかしろしか言わないじゃないですか」
「ふふっ、そうねえ。フロント営業は駒でしかないから。でもやりがいもあるのよ。目に見える数字とかプレゼンが相手に響いたなって思えるときとか、ね」
玲司が心底嫌そうな顔をした。雪那は苦笑する。
「俺には営業は無理ですね。あんなペラペラと口運びできません。見た目もぱりっとしてなきゃいけなくて肩が凝りそう」
「あのね、ずっと思っていたのだけれど」
そうっとまだ前傾姿勢で組んだ腕の上に黒子のある顎を乗せていた玲司のあまりにも長い前髪を一房つまんだ。こんなものはセクハラだ。だが、完徹のテンションで雪那もおかしくなっていたのだろう。
前髪の下から少し垂れ目で色素の薄い瞳が現れて雪那をじっと見上げてくる。
窓辺の打ち合わせ机の前、朝日が色白の彼の顔の半分をさらに白く照らしていた。
「前髪を切ったら、すごくモテ……じゃなくて、清潔感が出るわ。見た目なんて大したことじゃないし、大事なのはある程度の清潔感があって、知識がしっかりしていることだし」
モテそう、なんで言いかけて、慌てて言い換える。あくまでも仕事のための助言だ。
「それって今は清潔感がないってことです?」
しかし思わぬ返しに焦った。いつもはいくらでも相手をヨイショできるのに、寝不足の今は、茶色味がかった瞳の、まっすぐな視線の前にしどろもどろになってうまくいかない。こんなことでは今日のプレゼンも不安でしかないと気を引き締めようとして、やはり玲司の瞬きもしない瞳を見て狼狽えてしまった。
「そ、そういうつもりじゃなくて……やっぱり顔がきちんと見えて相手の視線を合わせるというのが営業の基本というか………あくまでも営業って職を言っているのよ?!橋谷くんをどうこう言うつもりじゃ……せ、セクハラで訴えないで……!」
「あは、桐谷リーダーがそんなに焦ってるの初めて見たかもしれません」
玲司がどもっている雪那に向かってはっきりと笑った。垂れ目がさらに柔らかく垂れて、口元が弧を描くと、いつも注目する黒子がゆるりと持ち上がった。
可愛らしい笑顔だ。
ドキリとしたのを悟られたくて雪那は慌てて彼の前髪から手を離して手の中の耐熱紙コップを傾けた。
「あの……この案件終わったら個人的な打ち上げ、しませんか?正直、こんな頑張ったの俺たちだけですもん」
後輩に職場で見惚れたなんてあってはならない。仕事に男女なんて持ち込んではダメだ。やはり強い眠気のせいだろう。完成して気が抜けてしまったのだ。それだけ。
なんとなく顔が熱くなった雪那は、必死で自分の心を誤魔化した。
「あっ、もちろんもちろん!高いお店、奢ってあげる!営業の情報網で一番のところ。本当、神様仏様はしやさま!だから、ね」
突然の玲司からの提案に、両手を合わせて頭を下げるおどけた仕草をしたのは、自分のペースを取り戻したかったからだ。気恥ずかしさを誤魔化すための営業トーク。
玲司はおかしそうに笑った。
「そんな拝まないでください、きりたにさん?いっそ、たに、で、揃えません?」
「それを言えなら後輩が、や、に合わせるべきかと?」
「まあ……それでもいいんですけど」
「ぷはっ、いいの?名字は大事にしなよ」
「いやぁ、結婚したら変わるもんじゃないですか」
「結婚?!若いのにもうするの?」
「そんな年寄りみたいな……。できるならしたいですよそりゃ。きりたにさんは?」
「きりや、です。私はいいかなー?仕事が楽しい」
「うわ、らしい……」
「あははっ、まあ彼もまだまだそんな気なさそうだしね」
「え……彼……?」
眩しい光の中で、笑っていた玲司がきょとんと目を瞬いたのを、雪那は首を傾げて見つめた。