未来郵便図書館
第十一話 ちゃんと、言う
八月の最後の週になりました。
カレンダーを見ると、夏休みが終わるまであと五日しかありません。つむぎは毎朝、その数字を確認してから、一日を始めるようになっていました。
明日になれば、あと四日。
その次の日には、あと三日。
そうやって数字が減っていくたびに、胸の中に何かが積み重なっていく気がします。重いわけではないのに、気にならずにはいられない、そういう感じです。
あおいとは、毎日のように会っていました。あおいの転校が決まってから、二人でいる時間が自然と増えていました。特別なことをするわけではなく、商店街を歩いたり、川沿いに座ったり、かき氷を食べたりするだけです。でも、その一つひとつが、今年の夏のこととして、つむぎの中にたまっていきます。
みなとは工作教室で、模型をほぼ完成させていました。
田辺さんが「すごいわねえ」と言うと、みなとは「まだ細かいところが」と言いました。でも、つむぎが見ても、じゅうぶんすごいと思いました。町の形が、小さな木の板の上にちゃんとある。坂道も、商店街も、川沿いも。
「図書館のあたりは?」とつむぎが聞くと、みなとは模型の一角を指さしました。路地の入口のあたりに、小さな建物の形があります。
「ちゃんと入れたんだ」
「位置は少し自信がない。でも、あるとわかるくらいにはした」
つむぎはその小さな建物を見つめました。
模型の中の図書館は、本当に小さくて、でもちゃんとそこにあります。
本物も、まだそこにある。
夏休み残り四日の朝、つむぎは朝早く目が覚めました。
窓の外がまだ薄暗い時間です。でも、眠れませんでした。
お母さんに、言わなくてはいけない。
未来の自分からの手紙を受け取ってから、そのことはずっと頭にありました。言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。しまっておくと、なくなることばもある。
手紙はずっと、同じ方向を向いていました。
でも、言葉がまだ見つかりません。さみしかった、と言うだけなら言えます。でも、それだけでは足りない気がします。さみしかっただけじゃなくて、それでもお母さんのことが好きだということも、ちゃんと言いたい。
そういう言葉が、まだうまく形にならないのです。
つむぎは布団の中で、手さげを引き寄せました。暗がりの中で封筒を取り出して、手で触れてみます。
言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。だから、今のわたしが言って。だいじな人に、ちゃんと。
だいじな人。
つむぎにとって、お母さんは、大事な人です。それは迷いなく、そう思います。
だから言える、のかもしれない。
つむぎは目を閉じました。
今日ではないかもしれない。でも、今日かもしれない。準備ができたときに、言葉は出てくる、とユエは言っていました。
もうすぐ、その準備ができる気がします。
その日の午後、あおいから『今日、川沿いに行かない? みなとも誘う』とメッセージが来ました。
三人で川沿いに集まるのは、夏祭り以来でした。
川沿いには、背の高い草が生えていて、その隙間から川が見えます。流れはゆっくりで、水が光を受けてきらきらしています。石の上に腰をおろして、三人でしばらく川を見ていました。
「ねえ、正直に聞いていい?」
あおいが言いました。
「うん」
つむぎは答えました。みなとも黙ってあおいの方を見ます。
「二人は、あたしが引っこすの、さみしい?」
つむぎは、少しだけ間を置きました。
ここで「さみしくない」と言うのはうそです。「大丈夫だよ」と言ってごまかすのも、ちがう。
「さみしい。すごく、さみしい」
つむぎははっきり言いました。声が少し震えました。でも、言えました。
あおいが目を細めました。泣くのをこらえているような顔です。
「みなとは?」と聞くと、みなとはしばらく川の方を見ていました。
「ぼくも」
みなとは短く言いました。
「さみしい」
それだけでしたが、みなとにとってそれは、ものすごく大きな言葉だとつむぎにはわかりました。みなとが自分の気持ちを、そのまま言葉にして口から出したのを、つむぎははじめて聞いた気がします。
あおいが、ぽろっと涙をこぼしました。
「あたしも、さみしい。二人と別れるの、さみしくてたまらない」
三人ともしばらく黙っていました。川の音だけがしています。
さみしい、と言ってしまったら、もっとつらくなると思っていました。でも、違いました。言ってしまった方が、胸の中が少し軽くなる気がします。
さみしいという気持ちを、三人で持てているから、かもしれない。
「でも」
あおいが言いました。涙を拭いてから、あおいらしい顔で続けます。
「ビデオ通話できるじゃん。毎週しよう」
「毎週は難しいかもしれない」
みなとが言いました。
「じゃあ、月一!」
「それならまあ」
「つむぎちゃんは?」
「する。絶対する」
あおいがまた少し泣きそうな顔になって、でもすぐに笑いました。
「二人とも、ありがとう。さみしいって言ってくれて、うれしかった」
つむぎはそれを聞いて、少し不思議な気持ちになりました。
さみしい、という言葉が、うれしい、につながる。
言葉というのは、思ったよりずっと、いろんな方向に届くのかもしれません。
川はずっと、ゆっくり流れていました。
夕方、三人で別れてから、つむぎは家に向かいました。
今日は、お母さんが少し早く帰る日でした。昨日、そう言っていました。夕ご飯をいっしょに作ろうか、とも言っていました。
つむぎは坂道を歩きながら、今日のことを考えていました。
あおいに「さみしい」と言えた。みなとも言えた。三人で、ちゃんと言い合えた。
だったら。
お母さんにも、言えるかもしれない。
言葉は、もうそこにある気がしました。準備ができた、というのは、こういう感じなのかもしれない。
家に入ると、台所からお母さんの声がしました。
「おかえり、つむぎ。早かったね」
「うん」
エプロンをつけたお母さんが、にんじんを切っていました。カレーを作るつもりらしく、玉ねぎとじゃがいもがまな板の横に並んでいます。
「いっしょに作る?」
「うん」
つむぎは手を洗って、お母さんの隣に立ちました。じゃがいもの皮をむく係になりました。
しばらく、二人でそれぞれ手を動かしていました。台所は、包丁の音と、お母さんが時々鼻歌を歌う声だけです。
つむぎはじゃがいもを一つむき終えて、次の一つを手にとりました。
言葉が、来ています。
「お母さん」
「うん?」
「わたし、ずっとだいじょうぶなふりしてた」
お母さんの手が、少し止まりました。
「ふりしてた?」
「うん。引っこしてきてから、ひとりで過ごすことが多くて、さみしかったんだけど、心配かけたくなくて、だいじょうぶって言ってた」
言えています。
声が少し震えていますが、止まりません。
「お母さんが仕事から帰ってきたとき、疲れてるのわかるから、さみしいって言ったら悪いかなって思って。だから、ずっと飲みこんでた」
じゃがいもを持つ手が、少しだけ強くなりました。
「でも、本当はさみしかった。ひとりのご飯とか、長い夏休みとか。さみしかった」
お母さんはまな板の前で、つむぎの方を向いていました。包丁を置いて、エプロンで手を拭いています。
「つむぎ」
「ごめんね、急に」
「あやまらなくていい」
お母さんがつむぎを抱きしめました。
つむぎは、少しだけびっくりしました。お母さんに抱きしめられるのは、小さいころ以来な気がして。でも、エプロンのにおいと、お母さんのぬくもりが、じわっと体に入ってきました。
「ごめんね、つむぎ。わたしも、気づいてたのに、ちゃんと聞けなかった。つむぎがだいじょうぶそうだから、甘えてた。本当はずっと、つむぎが心細くないか心配だったのに」
「お母さんも、心配してたの?」
「してた。でも、つむぎに心配をかけたくなくて、わたしもだいじょうぶなふりしてた」
つむぎは、それを聞いて少し笑ってしまいました。
「おんなじだ」
「おんなじだね」
お母さんも笑いました。でも、目が赤くなっていました。
二人でしばらく、台所の真ん中で抱き合っていました。
にんじんとじゃがいもは、まな板の上でそのままです。カレーは、もう少しあとになりそうでした。
つむぎは、胸の中にあったものが、少しずつほどけていく感じがしました。
さみしかった、と言えた。
お母さんも、心配してた、と言ってくれた。
言葉は、ちゃんと届いた。
夜、カレーを食べながら、お母さんがいろいろなことを話してくれました。
新しい職場でのこと、この町に来てから感じたこと、つむぎのことをどれだけ考えてきたか。つむぎも、あおいのこと、みなとのこと、工作教室のことを話しました。
二人で話しながら、つむぎは気づきました。
こんなふうに、お母さんとゆっくり話したのは、引っこしてきてから初めてかもしれない。
「つむぎ、変わったね」
「変わった?」
「なんか、前より顔がやわらかくなった気がする。引っこしてきたとき、笑ってるけど、どこかこわばってる感じがあって。今はそれがない」
つむぎは少し考えました。
「友だちができたからかも」
「そうかもね。でも、友だちができたから変わったんじゃなくて、つむぎが変わったから友だちができたんじゃないかな、ってお母さんは思うけど」
つむぎは、お母さんの言葉をゆっくり受け取りました。
自分が変わったから、友だちができた。
それは、未来郵便図書館のおかげです。手紙のおかげです。ユエのおかげです。でも、手紙を読んで、最後に声を出したのは、いつも自分自身でした。
「お母さん、ありがとう」
「何が?」
「引っこしてきて、大変だったのに、毎日ご飯作ってくれて、夜は帰ってきてくれて」
お母さんが少し目を細めました。
「つむぎがいてくれたから、お母さんもがんばれたんだよ」
そういう言葉が、今日はちゃんと受け取れる気がしました。以前なら、そうなのかな、と流していたかもしれない。でも今日は、ちゃんと胸の中に入ってきます。
その夜、つむぎは坂道を歩いて、未来郵便図書館へ向かいました。
夜の坂道は少し暗くて、でも月が出ていたので足元は見えました。
路地に入ると、図書館の窓から光が漏れています。ユエはまだいるようでした。
ドアを開けると、ユエが振り返りました。
「こんな時間に」
「お母さんに、言えました」
ユエは少しだけ表情をやわらかくしました。
「そうですか」
「さみしかったって。だいじょうぶなふりをしてた、って。お母さんも、心配してたって言ってくれて」
「届きましたね」
「うん」
つむぎは棚の方を見ました。
ラベルのない引き出しが、今夜はひときわ強く光っていました。今まで見た中で、いちばん強い光です。
「ユエ」
「はい」
「あの引き出し、今夜は」
「そうですね。今夜、届くと思います」
つむぎは引き出しのそばへ歩きました。
光は、やわらかくて、でもたしかに強い。
つむぎはつまみに手をかけました。ユエは何も言いません。
引いてみると、引き出しはすっと開きました。
中に、白い封筒が一通。
今までの封筒と少しちがって、少し古びた色をしています。差出人の欄を見ると、ぼんやりとした字が、少しずつはっきりしてきます。
受取人の欄には、つむぎ自身の名前がありました。
でも差出人は、つむぎではありませんでした。
読めるかどうか、もう一度見ます。
ユエ
つむぎは、動けませんでした。
ユエからの手紙。
差出人はユエで、受取人はつむぎです。
封を開けました。中の便せんを広げると、ユエの話し方に少し似た、静かな文字が並んでいました。
つむぎへ。
この夏、来てくれてありがとう。
あなたが来てから、この町の言葉は少しずつ、届くようになりました。
図書館はもうすぐ役目を終えます。
でも、あなたが持ち帰った言葉は、ここを出てからも、ずっとあなたの中にあります。
ことばは、届いたとき、なくならない。
こんどは、きみがだれかの力になれる。
つむぎはしばらく、便せんを持ったまま立っていました。
涙が出るかと思ったのに、出ませんでした。その代わり、胸の中がじんわりとあたたかくなりました。
ふりかえると、ユエが静かに立っていました。
「これ、いつ書いたんですか?」
「わかりません。気づいたら、あの引き出しの中にありました」
「未来のユエが書いたってこと?」
「そうかもしれません。あるいは、ことばそのものが、そういう形をとったのかもしれません」
つむぎはもう一度、手紙を読みました。
この夏、来てくれてありがとう。
「わたしこそ、ありがとう。来て、よかった。この図書館に来て、ユエに会えて、よかった」
「ぼくも、よかったと思っています」
ユエの声は、いつものようにおだやかでした。でも、いつもより少しだけ、やわらかい気がしました。
つむぎは、便せんをそっと胸に当てました。
受け取ってばかりだった、と思いました。
この夏、つむぎは何通もの手紙を受け取りました。
でも、言葉は受け取るだけのものではありません。
誰かに渡すことも、できるのです。
「ユエ」
「はい」
「わたしも、手紙を書いてもいいですか」
ユエは少しだけ目を見開きました。
それから、ゆっくりとうなずきました。
「もちろんです。ここは、届くべき言葉を預かる場所ですから」
ユエは、カウンターの引き出しから、白い封筒と便せんを出しました。
「どなたに書きますか?」
つむぎは少し考えました。
あおい。みなと。お母さん。未来の自分。
書きたい人は、たくさんいました。
でも、いちばん最初に浮かんだのは、夏休みが始まったばかりの日の自分でした。
「少し前の、わたしに書きます」
ユエは何も言わず、便せんをつむぎの前に置きました。
つむぎは鉛筆を持って、ゆっくり書きました。
だいじょうぶ。
ちゃんと、言葉は届くから。
書いてから、つむぎは少しだけ笑いました。
夏休みのはじめの自分がこの手紙を読んだら、きっと何のことかわからないでしょう。
でも、それでいいと思いました。
すぐにはわからなくても、いつか届く言葉がある。
つむぎはこの夏、それを知ったのです。
図書館を出ると、夜の空に星が出ていました。
夏の星座が、はっきりと見えます。
つむぎは少し立ち止まって、空を見上げました。
明日、あおいに会おうと思いました。そして、もう一度ちゃんと話をしよう。さみしい、ということと、それでも友だちだということと、来年も会いたいということ。
みなとにも、何か言えることがあるかもしれない。みなとは「さみしい」と言えた。それがどれだけのことか、つむぎにはわかります。だから、それをちゃんと受け取ったよ、と伝えたいと思いました。
お母さんには、明日の朝、おはようと言いたいと思いました。それだけでいい。でも、ちゃんと、言いたいと思いました。
言葉は、小さくても届く。
この夏に、それをいちばん教えてもらいました。
つむぎは手さげをにぎって、坂道をくだりはじめました。
夜風が、もう完全に夏ではない涼しさを持っていました。
夏が、終わろうとしています。
でもつむぎの中には、この夏に受け取った言葉が、全部残っています。
カレンダーを見ると、夏休みが終わるまであと五日しかありません。つむぎは毎朝、その数字を確認してから、一日を始めるようになっていました。
明日になれば、あと四日。
その次の日には、あと三日。
そうやって数字が減っていくたびに、胸の中に何かが積み重なっていく気がします。重いわけではないのに、気にならずにはいられない、そういう感じです。
あおいとは、毎日のように会っていました。あおいの転校が決まってから、二人でいる時間が自然と増えていました。特別なことをするわけではなく、商店街を歩いたり、川沿いに座ったり、かき氷を食べたりするだけです。でも、その一つひとつが、今年の夏のこととして、つむぎの中にたまっていきます。
みなとは工作教室で、模型をほぼ完成させていました。
田辺さんが「すごいわねえ」と言うと、みなとは「まだ細かいところが」と言いました。でも、つむぎが見ても、じゅうぶんすごいと思いました。町の形が、小さな木の板の上にちゃんとある。坂道も、商店街も、川沿いも。
「図書館のあたりは?」とつむぎが聞くと、みなとは模型の一角を指さしました。路地の入口のあたりに、小さな建物の形があります。
「ちゃんと入れたんだ」
「位置は少し自信がない。でも、あるとわかるくらいにはした」
つむぎはその小さな建物を見つめました。
模型の中の図書館は、本当に小さくて、でもちゃんとそこにあります。
本物も、まだそこにある。
夏休み残り四日の朝、つむぎは朝早く目が覚めました。
窓の外がまだ薄暗い時間です。でも、眠れませんでした。
お母さんに、言わなくてはいけない。
未来の自分からの手紙を受け取ってから、そのことはずっと頭にありました。言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。しまっておくと、なくなることばもある。
手紙はずっと、同じ方向を向いていました。
でも、言葉がまだ見つかりません。さみしかった、と言うだけなら言えます。でも、それだけでは足りない気がします。さみしかっただけじゃなくて、それでもお母さんのことが好きだということも、ちゃんと言いたい。
そういう言葉が、まだうまく形にならないのです。
つむぎは布団の中で、手さげを引き寄せました。暗がりの中で封筒を取り出して、手で触れてみます。
言えないままだと、きっとあとでかなしくなる。だから、今のわたしが言って。だいじな人に、ちゃんと。
だいじな人。
つむぎにとって、お母さんは、大事な人です。それは迷いなく、そう思います。
だから言える、のかもしれない。
つむぎは目を閉じました。
今日ではないかもしれない。でも、今日かもしれない。準備ができたときに、言葉は出てくる、とユエは言っていました。
もうすぐ、その準備ができる気がします。
その日の午後、あおいから『今日、川沿いに行かない? みなとも誘う』とメッセージが来ました。
三人で川沿いに集まるのは、夏祭り以来でした。
川沿いには、背の高い草が生えていて、その隙間から川が見えます。流れはゆっくりで、水が光を受けてきらきらしています。石の上に腰をおろして、三人でしばらく川を見ていました。
「ねえ、正直に聞いていい?」
あおいが言いました。
「うん」
つむぎは答えました。みなとも黙ってあおいの方を見ます。
「二人は、あたしが引っこすの、さみしい?」
つむぎは、少しだけ間を置きました。
ここで「さみしくない」と言うのはうそです。「大丈夫だよ」と言ってごまかすのも、ちがう。
「さみしい。すごく、さみしい」
つむぎははっきり言いました。声が少し震えました。でも、言えました。
あおいが目を細めました。泣くのをこらえているような顔です。
「みなとは?」と聞くと、みなとはしばらく川の方を見ていました。
「ぼくも」
みなとは短く言いました。
「さみしい」
それだけでしたが、みなとにとってそれは、ものすごく大きな言葉だとつむぎにはわかりました。みなとが自分の気持ちを、そのまま言葉にして口から出したのを、つむぎははじめて聞いた気がします。
あおいが、ぽろっと涙をこぼしました。
「あたしも、さみしい。二人と別れるの、さみしくてたまらない」
三人ともしばらく黙っていました。川の音だけがしています。
さみしい、と言ってしまったら、もっとつらくなると思っていました。でも、違いました。言ってしまった方が、胸の中が少し軽くなる気がします。
さみしいという気持ちを、三人で持てているから、かもしれない。
「でも」
あおいが言いました。涙を拭いてから、あおいらしい顔で続けます。
「ビデオ通話できるじゃん。毎週しよう」
「毎週は難しいかもしれない」
みなとが言いました。
「じゃあ、月一!」
「それならまあ」
「つむぎちゃんは?」
「する。絶対する」
あおいがまた少し泣きそうな顔になって、でもすぐに笑いました。
「二人とも、ありがとう。さみしいって言ってくれて、うれしかった」
つむぎはそれを聞いて、少し不思議な気持ちになりました。
さみしい、という言葉が、うれしい、につながる。
言葉というのは、思ったよりずっと、いろんな方向に届くのかもしれません。
川はずっと、ゆっくり流れていました。
夕方、三人で別れてから、つむぎは家に向かいました。
今日は、お母さんが少し早く帰る日でした。昨日、そう言っていました。夕ご飯をいっしょに作ろうか、とも言っていました。
つむぎは坂道を歩きながら、今日のことを考えていました。
あおいに「さみしい」と言えた。みなとも言えた。三人で、ちゃんと言い合えた。
だったら。
お母さんにも、言えるかもしれない。
言葉は、もうそこにある気がしました。準備ができた、というのは、こういう感じなのかもしれない。
家に入ると、台所からお母さんの声がしました。
「おかえり、つむぎ。早かったね」
「うん」
エプロンをつけたお母さんが、にんじんを切っていました。カレーを作るつもりらしく、玉ねぎとじゃがいもがまな板の横に並んでいます。
「いっしょに作る?」
「うん」
つむぎは手を洗って、お母さんの隣に立ちました。じゃがいもの皮をむく係になりました。
しばらく、二人でそれぞれ手を動かしていました。台所は、包丁の音と、お母さんが時々鼻歌を歌う声だけです。
つむぎはじゃがいもを一つむき終えて、次の一つを手にとりました。
言葉が、来ています。
「お母さん」
「うん?」
「わたし、ずっとだいじょうぶなふりしてた」
お母さんの手が、少し止まりました。
「ふりしてた?」
「うん。引っこしてきてから、ひとりで過ごすことが多くて、さみしかったんだけど、心配かけたくなくて、だいじょうぶって言ってた」
言えています。
声が少し震えていますが、止まりません。
「お母さんが仕事から帰ってきたとき、疲れてるのわかるから、さみしいって言ったら悪いかなって思って。だから、ずっと飲みこんでた」
じゃがいもを持つ手が、少しだけ強くなりました。
「でも、本当はさみしかった。ひとりのご飯とか、長い夏休みとか。さみしかった」
お母さんはまな板の前で、つむぎの方を向いていました。包丁を置いて、エプロンで手を拭いています。
「つむぎ」
「ごめんね、急に」
「あやまらなくていい」
お母さんがつむぎを抱きしめました。
つむぎは、少しだけびっくりしました。お母さんに抱きしめられるのは、小さいころ以来な気がして。でも、エプロンのにおいと、お母さんのぬくもりが、じわっと体に入ってきました。
「ごめんね、つむぎ。わたしも、気づいてたのに、ちゃんと聞けなかった。つむぎがだいじょうぶそうだから、甘えてた。本当はずっと、つむぎが心細くないか心配だったのに」
「お母さんも、心配してたの?」
「してた。でも、つむぎに心配をかけたくなくて、わたしもだいじょうぶなふりしてた」
つむぎは、それを聞いて少し笑ってしまいました。
「おんなじだ」
「おんなじだね」
お母さんも笑いました。でも、目が赤くなっていました。
二人でしばらく、台所の真ん中で抱き合っていました。
にんじんとじゃがいもは、まな板の上でそのままです。カレーは、もう少しあとになりそうでした。
つむぎは、胸の中にあったものが、少しずつほどけていく感じがしました。
さみしかった、と言えた。
お母さんも、心配してた、と言ってくれた。
言葉は、ちゃんと届いた。
夜、カレーを食べながら、お母さんがいろいろなことを話してくれました。
新しい職場でのこと、この町に来てから感じたこと、つむぎのことをどれだけ考えてきたか。つむぎも、あおいのこと、みなとのこと、工作教室のことを話しました。
二人で話しながら、つむぎは気づきました。
こんなふうに、お母さんとゆっくり話したのは、引っこしてきてから初めてかもしれない。
「つむぎ、変わったね」
「変わった?」
「なんか、前より顔がやわらかくなった気がする。引っこしてきたとき、笑ってるけど、どこかこわばってる感じがあって。今はそれがない」
つむぎは少し考えました。
「友だちができたからかも」
「そうかもね。でも、友だちができたから変わったんじゃなくて、つむぎが変わったから友だちができたんじゃないかな、ってお母さんは思うけど」
つむぎは、お母さんの言葉をゆっくり受け取りました。
自分が変わったから、友だちができた。
それは、未来郵便図書館のおかげです。手紙のおかげです。ユエのおかげです。でも、手紙を読んで、最後に声を出したのは、いつも自分自身でした。
「お母さん、ありがとう」
「何が?」
「引っこしてきて、大変だったのに、毎日ご飯作ってくれて、夜は帰ってきてくれて」
お母さんが少し目を細めました。
「つむぎがいてくれたから、お母さんもがんばれたんだよ」
そういう言葉が、今日はちゃんと受け取れる気がしました。以前なら、そうなのかな、と流していたかもしれない。でも今日は、ちゃんと胸の中に入ってきます。
その夜、つむぎは坂道を歩いて、未来郵便図書館へ向かいました。
夜の坂道は少し暗くて、でも月が出ていたので足元は見えました。
路地に入ると、図書館の窓から光が漏れています。ユエはまだいるようでした。
ドアを開けると、ユエが振り返りました。
「こんな時間に」
「お母さんに、言えました」
ユエは少しだけ表情をやわらかくしました。
「そうですか」
「さみしかったって。だいじょうぶなふりをしてた、って。お母さんも、心配してたって言ってくれて」
「届きましたね」
「うん」
つむぎは棚の方を見ました。
ラベルのない引き出しが、今夜はひときわ強く光っていました。今まで見た中で、いちばん強い光です。
「ユエ」
「はい」
「あの引き出し、今夜は」
「そうですね。今夜、届くと思います」
つむぎは引き出しのそばへ歩きました。
光は、やわらかくて、でもたしかに強い。
つむぎはつまみに手をかけました。ユエは何も言いません。
引いてみると、引き出しはすっと開きました。
中に、白い封筒が一通。
今までの封筒と少しちがって、少し古びた色をしています。差出人の欄を見ると、ぼんやりとした字が、少しずつはっきりしてきます。
受取人の欄には、つむぎ自身の名前がありました。
でも差出人は、つむぎではありませんでした。
読めるかどうか、もう一度見ます。
ユエ
つむぎは、動けませんでした。
ユエからの手紙。
差出人はユエで、受取人はつむぎです。
封を開けました。中の便せんを広げると、ユエの話し方に少し似た、静かな文字が並んでいました。
つむぎへ。
この夏、来てくれてありがとう。
あなたが来てから、この町の言葉は少しずつ、届くようになりました。
図書館はもうすぐ役目を終えます。
でも、あなたが持ち帰った言葉は、ここを出てからも、ずっとあなたの中にあります。
ことばは、届いたとき、なくならない。
こんどは、きみがだれかの力になれる。
つむぎはしばらく、便せんを持ったまま立っていました。
涙が出るかと思ったのに、出ませんでした。その代わり、胸の中がじんわりとあたたかくなりました。
ふりかえると、ユエが静かに立っていました。
「これ、いつ書いたんですか?」
「わかりません。気づいたら、あの引き出しの中にありました」
「未来のユエが書いたってこと?」
「そうかもしれません。あるいは、ことばそのものが、そういう形をとったのかもしれません」
つむぎはもう一度、手紙を読みました。
この夏、来てくれてありがとう。
「わたしこそ、ありがとう。来て、よかった。この図書館に来て、ユエに会えて、よかった」
「ぼくも、よかったと思っています」
ユエの声は、いつものようにおだやかでした。でも、いつもより少しだけ、やわらかい気がしました。
つむぎは、便せんをそっと胸に当てました。
受け取ってばかりだった、と思いました。
この夏、つむぎは何通もの手紙を受け取りました。
でも、言葉は受け取るだけのものではありません。
誰かに渡すことも、できるのです。
「ユエ」
「はい」
「わたしも、手紙を書いてもいいですか」
ユエは少しだけ目を見開きました。
それから、ゆっくりとうなずきました。
「もちろんです。ここは、届くべき言葉を預かる場所ですから」
ユエは、カウンターの引き出しから、白い封筒と便せんを出しました。
「どなたに書きますか?」
つむぎは少し考えました。
あおい。みなと。お母さん。未来の自分。
書きたい人は、たくさんいました。
でも、いちばん最初に浮かんだのは、夏休みが始まったばかりの日の自分でした。
「少し前の、わたしに書きます」
ユエは何も言わず、便せんをつむぎの前に置きました。
つむぎは鉛筆を持って、ゆっくり書きました。
だいじょうぶ。
ちゃんと、言葉は届くから。
書いてから、つむぎは少しだけ笑いました。
夏休みのはじめの自分がこの手紙を読んだら、きっと何のことかわからないでしょう。
でも、それでいいと思いました。
すぐにはわからなくても、いつか届く言葉がある。
つむぎはこの夏、それを知ったのです。
図書館を出ると、夜の空に星が出ていました。
夏の星座が、はっきりと見えます。
つむぎは少し立ち止まって、空を見上げました。
明日、あおいに会おうと思いました。そして、もう一度ちゃんと話をしよう。さみしい、ということと、それでも友だちだということと、来年も会いたいということ。
みなとにも、何か言えることがあるかもしれない。みなとは「さみしい」と言えた。それがどれだけのことか、つむぎにはわかります。だから、それをちゃんと受け取ったよ、と伝えたいと思いました。
お母さんには、明日の朝、おはようと言いたいと思いました。それだけでいい。でも、ちゃんと、言いたいと思いました。
言葉は、小さくても届く。
この夏に、それをいちばん教えてもらいました。
つむぎは手さげをにぎって、坂道をくだりはじめました。
夜風が、もう完全に夏ではない涼しさを持っていました。
夏が、終わろうとしています。
でもつむぎの中には、この夏に受け取った言葉が、全部残っています。