融けた海、融けた私。
 「……あ!」
 飛び起きると、シーツが自分の冷や汗でびっしょりと濡れていた。 激しい頭痛の残響が、こめかみをキリキリと締め付けている。 私は慌てて部屋を見回した。床には、レモンイエローの水着が転がっている。 ――グレーじゃない。ちゃんと、目がチカチカするほどの鮮やかな黄色だ。
 枕元のスマートフォンをひったくるように掴み、画面を点灯させる。
 
【午前7時45分】

 「夢……? 嘘、じゃあ、さっきのは全部……?」
 大学最後の夏。海に行く当日の朝。私は激しい頭痛で目を覚まし、頭痛薬を飲んで二度寝をして、そこから「5年後の未来で全ての色を失い、瑠璃と決裂する最悪の悪夢」を見ていたのだ。 画面には、瑠璃からのメッセージ通知が光っている。
 「希海、起きてるー? 10時に私の家ね! 待ってるよ!」
 まだ、赤も黄色も緑も、私の世界に残っている。 安堵で激しく胸をなでおろした、その時だった。
 私の脳裏に、夢の中の自分が言った言葉が、おぞましい鮮明さでフラッシュバックした。
 『#0000FFは、かつて私が愛し、そして失った、あの深い海の色』
 視界が、ぐにゃりと歪む。 私は、青色が見えない。幼少期のあの事故のせいで、私の目には「青」がグレーにしか見えないはずだ。 なのに。 スマートフォンに表示されている、瑠璃のアイコンの背景。彼女が毎日のように送ってくるメッセージの背景スキン。 それは、私の目には確かに【不気味な灰色】にしか見えないけれど。もしあれが、デジタル上の数値だとしたら……。
 赤の数値はゼロ。緑の数値もゼロ。青のパラメーターだけを限界まで突き動かした、純粋な、あの海の色。 『#0000FF』。
 「どうして……?」
 ガタガタと全身の震えが止まらなくなる。 なぜ瑠璃は、私が一番恐れていて、見ることすらできない「あの海の青」ばかりを、私の身の回りに配置してくるのだろう。高校時代、ほとんど話したこともないのに、私を遠くからいつも冷たい目で射抜くように見つめていた瑠璃が。大学に入った途端、なぜ急に優しく微笑みながら、私の隣の席に座ってきたのだろう。
 私は狂ったように立ち上がり、本棚の奥から、ずっと開くことのなかった高校の卒業アルバムを引き抜いた。 指を血がにじむほど強く押し付け、乱暴にページをめくる。 当時、他人の関係だった、瑠璃の個人写真のページ。その隅にあるプロフィール欄。 私は、彼女の父親の旧姓を見て、心臓が爆発しそうになった。
 ――一ノ瀬。
 頭の奥で、記憶の歯車がガチガチと音を立てて噛み合っていく。
 私が中学二年生のとき、あの事故が起きた。弟の陸翔が障害を負った。 家の中は地獄になった。両親は毎日、血を流し合うようななすりつけ合いのケンカを続け、精神を病んだ父親は、私を激しく責め立てた末に、離婚して家を飛び出していった。 その後、父親がどこで何をしているのか、私は一切知らされていなかった。
 父親が、別の女性と再婚したのは、私が高校一年生のときだ。 その再婚相手の連れ子が――「瑠璃」だったのだ。
 名字が変わっていたから、高校生の私は何も気づかなかった。 けれど、瑠璃は最初から、すべてを知っていたんだ。
  自分の新しい父親が、毎晩のように酒を煽り、ボロボロと涙を流しながら、「あいつが目を離さなければ、息子に障害が残ることも、前の家庭が壊れることもなかったのに。あいつが私の人生をめちゃくちゃにしたんだ」と、狂ったように実の娘を呪い続けていたのを、瑠璃は一番近くでずっと聞いて育ったのだ。
 高校時代、瑠璃が私を遠くから冷たい目で見ていた理由。 あれは、父親の人生を奪った私に対する、底冷えするような憎悪の視線だったのだ。
 なのに、大学に入った途端、なぜあんなに優しく微笑みながら近づいてきたのか。 なぜ、わざわざ「海」へ行こうと誘うのか。 なぜ、私の目に見えない「青」を私の周囲に配置し続けたのか。
 『希海、明日、海行こ。10時に私の家ね、絶対だよ』
 脳裏に響く瑠璃の無邪気な声が、歪んだ、冷酷な這い寄る狂気に変わっていく。 彼女は、私のすべてを知っている。だからその引き金である「海」へ連れ出し、私の罪悪感を極限まで煽って、私からすべての色を奪おうとしているのだ。 私を、あの悪夢の中で見た、色も感情もない、生ける屍のような絶望の未来へ引きずり下ろすために。
 すべては、彼女の「新しい父親」のための、5年をかけた復讐劇。
 じわじわと、視界の隅から、床の「レモンイエローの水着」の色が溶け出していく。 まだ家を出てすらいないのに。ただ瑠璃の計画に気づいただけで、胸の奥からどろりとした、筆舌に尽くしがたい恐怖が融け出してくる。
 スマートフォンの画面が突然切り替わり、大音量でバイブレーションが鳴り響いた。 画面に表示された文字は――【瑠璃】。
 ウーウーと震える端末は、まるで私を今すぐ捕食しにきた怪物の頭部のようだ。 出なければ、お父さんを奪った私を殺しに、彼女がこの部屋までやってくるかもしれない。
 震える指先で、通話ボタンをスライドする。耳元に、スマ ートフォンを当てた。
「あ……、もしもし、瑠璃……? ごめん、私、今日――」
 断りの言葉を口にしようとした、その瞬間。
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