十秒怪談
癒し
Mという男の話だ。
彼は熱帯魚を飼育している。これといった趣味を持たず、人付き合いも少ない彼にとって、美しく調和の取れた水槽を眺めることだけが、日々の仕事の疲れを癒やす唯一の時間だったという。
真っ白な砂利の上に鮮やかな緑の水草を茂らせ、複雑に絡み合う流木を配置した水槽。その中を、青や赤の蛍光色に光る数十匹のネオンテトラが群れをなして泳いでいる。
ある夜のこと。帰宅したMはスーツを着たまま、いつものようにエサを手に水槽の前に立った。
違和感があった。
水の中に、黒く長いものが縦になびいている。よく見ると、底に敷き詰めた砂利の間から、人間の髪の毛としか思えない黒い束が伸びていた。エアレーションが生み出す水流に揺れ、その隙間を色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいる。時折、魚の身体に髪が触れる。
ひどく不快だった。大切な魚たちが汚されていくような嫌悪感を覚え、彼はゴム手袋をはめて、それをつかみ出した。砂利を重しにして沈められていただけのようで、造作なく引き抜けた。
手袋に絡みついたそれは、やはり人間の長い髪だった。四、五十本ほどの束である。
しかし、一体誰がこんなことをしたのか。誰かが留守中の部屋へ侵入し、わざわざ水槽に髪の毛を沈めていった??
Mは不審者を疑い、室内をくまなく調べた。しかし、窓の鍵は閉まっており、部屋が荒らされた形跡はどこにもない。何も盗まれてはいなかった。
実害が水槽へのイタズラだけである以上、警察に通報してもまともに取り合ってもらえるとは思えなかった。気味の悪い髪の毛をビニール袋に密閉し、ゴミとして処分した。
翌日。仕事を終えて帰宅すると、また水槽の中に黒い髪が揺れていた。あろうことか、魚たちがエサと間違えてその髪をぱくついている。
怒りと同時に、ひどい寒気を覚えたという。
再びゴム手袋をして処分したが、それから一週間、同じことが続いた。オカルトの類を一切信じていなかった彼も、これがこの世の道理から外れた現象であることを認めざるを得なかった。
他に頼る相手もいないMはネットを検索し、見つけた霊能者の女性を家に呼んだ。
水槽を揺蕩う髪を一瞥した彼女は、すぐに厳しい顔つきになり、儀式を始めた。
部屋に簡易的な祭壇を設え、大量の汗を流しながら一心に祈祷を続け、最後に、ためらうことなく素手を水槽へ突っ込み、濡れた髪の毛を絡め取った。
「……これでもう大丈夫です」
枯れ果てた声でそう言い残し、彼女は足早に去っていった。
翌日。定時で仕事を切り上げて帰宅すると、水槽の中はきれいに全滅していた。
ネオンテトラが、だ。一匹残らず水面にぷかぷかと浮いていた。
ガラスの内側は、視界が利かないほどの大量の髪の毛が埋め尽くしていた。水流に身を委ね、それは黒々と蠢いている。
以来、彼は仕事から帰ると、ただぼんやりと、その黒い水槽を眺めて過ごしている。
彼は熱帯魚を飼育している。これといった趣味を持たず、人付き合いも少ない彼にとって、美しく調和の取れた水槽を眺めることだけが、日々の仕事の疲れを癒やす唯一の時間だったという。
真っ白な砂利の上に鮮やかな緑の水草を茂らせ、複雑に絡み合う流木を配置した水槽。その中を、青や赤の蛍光色に光る数十匹のネオンテトラが群れをなして泳いでいる。
ある夜のこと。帰宅したMはスーツを着たまま、いつものようにエサを手に水槽の前に立った。
違和感があった。
水の中に、黒く長いものが縦になびいている。よく見ると、底に敷き詰めた砂利の間から、人間の髪の毛としか思えない黒い束が伸びていた。エアレーションが生み出す水流に揺れ、その隙間を色鮮やかな熱帯魚たちが泳いでいる。時折、魚の身体に髪が触れる。
ひどく不快だった。大切な魚たちが汚されていくような嫌悪感を覚え、彼はゴム手袋をはめて、それをつかみ出した。砂利を重しにして沈められていただけのようで、造作なく引き抜けた。
手袋に絡みついたそれは、やはり人間の長い髪だった。四、五十本ほどの束である。
しかし、一体誰がこんなことをしたのか。誰かが留守中の部屋へ侵入し、わざわざ水槽に髪の毛を沈めていった??
Mは不審者を疑い、室内をくまなく調べた。しかし、窓の鍵は閉まっており、部屋が荒らされた形跡はどこにもない。何も盗まれてはいなかった。
実害が水槽へのイタズラだけである以上、警察に通報してもまともに取り合ってもらえるとは思えなかった。気味の悪い髪の毛をビニール袋に密閉し、ゴミとして処分した。
翌日。仕事を終えて帰宅すると、また水槽の中に黒い髪が揺れていた。あろうことか、魚たちがエサと間違えてその髪をぱくついている。
怒りと同時に、ひどい寒気を覚えたという。
再びゴム手袋をして処分したが、それから一週間、同じことが続いた。オカルトの類を一切信じていなかった彼も、これがこの世の道理から外れた現象であることを認めざるを得なかった。
他に頼る相手もいないMはネットを検索し、見つけた霊能者の女性を家に呼んだ。
水槽を揺蕩う髪を一瞥した彼女は、すぐに厳しい顔つきになり、儀式を始めた。
部屋に簡易的な祭壇を設え、大量の汗を流しながら一心に祈祷を続け、最後に、ためらうことなく素手を水槽へ突っ込み、濡れた髪の毛を絡め取った。
「……これでもう大丈夫です」
枯れ果てた声でそう言い残し、彼女は足早に去っていった。
翌日。定時で仕事を切り上げて帰宅すると、水槽の中はきれいに全滅していた。
ネオンテトラが、だ。一匹残らず水面にぷかぷかと浮いていた。
ガラスの内側は、視界が利かないほどの大量の髪の毛が埋め尽くしていた。水流に身を委ね、それは黒々と蠢いている。
以来、彼は仕事から帰ると、ただぼんやりと、その黒い水槽を眺めて過ごしている。