執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
石田は本社で蔓延しつつある噂に憤りをおぼえ、奏に伝えるべきだと考えてこうして接触してきたらしい。

奏は窓の外に視線を向け、じっと考えた。

(さっきの会議で何となく雰囲気がおかしかったのは、そのせいか。おそらく噂を流しているのは聡真で、本格的に俺を排除するべく動き出したんだろうな)

そんなこちらを見つめ、彼が「それから」と言葉を続けた。

「噂はもうひとつあるんです。早瀬さんが自身の恋人を通訳として雇い、高額な手当てを支給しているというもので、『会社を私物化をしているのではないか』とささやかれています。心当たりはありますか」

石田が指摘したのは、千花の件で間違いない。

彼女を連れ歩き、行く先々で「恋人だ」と紹介しているのは事実で、噂になっても何らおかしくはないが、通訳として高額な報酬を渡していることまで知られているのは驚きだ。

(一体どこから? 確かに千花さんには商談に同席してもらい、フランス語の通訳をしてもらったことはあるけど……)

考え込んだ奏は、やがて顔を上げて彼に告げる。

「心当たりはあるが、心配には及ばないよ。石田くん、有益な情報をありがとう。俺は本社を離れているから、こちら側の話を聞けるのはとても助かる」
「いえ。また何か新しいことがわかったら、連絡します」

* * *

ゴールデンウイークが明けた翌週、世間は休み気分から脱却し、通常どおりの雰囲気に戻っている。

月曜の午前、千花は実家のリビングでノートパソコンを開き、ファッションコラムの執筆をしていた。窓の外からは春らしい日差しが差し込み、気温がぐんぐん上がっているのがわかる。

タイピングする手を止めた千花は、壁掛けの時計を見て考えた。

(午前のうちに結構文字数を書けたから、午後一で奏の会社に行こうかな。でも夜にデートするなら、夕方に出社したほうがいいかも)

奏の面影を思い浮かべると、心がじんわりと熱を持つ。

母親が心臓発作を起こしたという連絡を受け、病院に急行したのは先週の水曜日の話だ。動揺する千花に奏はずっと寄り添ってくれ、「俺が力になる」「絶対に千花さんを一人にしないし、お母さんの手術費用も心配しなくていい」と告げて、キスをしてきた。

彼の真摯な言葉、熱を持った眼差しに胸が震え、支えようとしてくれることにこれ以上ないほどの心強さを感じた千花は、それを受け入れた。

(あの夜以来、自分の中にあった奏に対する意地みたいなものがきれいになくなったような気がする。今は彼のことを素直な目で見られるし、経済力や家柄も含めて奏なんだって受け入れられる)

あれから五日、奏からはプライベートでのデートの誘いが増え、帰り際にキスをされるようになった。

強引さはまったくなく、少しでもこちらが嫌がるそぶりを見せればやめる気配を漂わせながらのキスには気遣いが溢れていて、千花は恋愛の初めのような甘酸っぱい気持ちでいっぱいになっている。

(奏と一緒にいるのは、すごく楽しい。家柄の違いとかは気になるけど、意固地にならずに復縁を前向きに考えてもいいのかな)

そのときインターホンの音が鳴り響き、モニターで確認すると宅配で荷物が届いたのがわかる。

差出人は〝株式会社鳳栄社 ÉLÉNA(エレナ)編集部 大倉怜子〟となっており、中には先日寄稿した雑誌の見本誌が入っていた。

フルカラーであるためにずっしりと重いそれを手に取った千花は、パラパラとページをめくる。そして自らが執筆したプレス発表会の記事に目を通し始めた。

(写真、すごくきれいに撮れててよかった。それに誌面レイアウトも見やすい)

しかし文章を読み進めていくうち、ふと違和感をおぼえる。
急いでノートパソコンのマウスを動かし、原稿の最終校のデータをチェックして、愕然とした。

(わたしが書いた文章が、最終校から勝手に変更されている。一体どうして……)

文章には著作権があり、第三者が勝手に変更することはできない。

ごく些細な語句でも書き換える場合には許可を取るのが常識だが、担当編集者である怜子からは何も連絡がきていないはずだ。

自身の手元にあるデータと雑誌を見比べ、変更箇所をピックアップした千花は、スマートフォンを手に取った。そして怜子に電話をかけると、五コール目で「はい、大倉です」と彼女が出る。

「あ、怜子? 佐久田です。さっきエレナの見本誌が届いたよ、ありがとう」

千花はまず装丁や印刷のきれいさを褒め、本題に入る。

「それで、わたしが書いた記事を読んだんだけど。もしかして怜子のほうで、何か変更した?」
『変更してほしい部分は校正の時点で赤字で指摘して、千花自身がそれを修正したでしょ。私が勝手に変更することはないよ』
「でもわたしの手元にある最終校と、構成や文章が違うの。メールで変更指示がきてないかどうかを確認してもそんなことはないし、だとしたら怜子が……」

するとこちらの言葉を遮り、怜子がわずかに語気を強めて言う。

『あのね、私は編集者なんだから、勝手に人の文章を変えたりはしないよ。いきなりそんな難癖をつけてきて、馬鹿にしてるの?』
「そういうわけじゃ……」
『変更がある場合はその都度ライターの確認を取ってるんだから、人聞きの悪いこと言わないで。そっちでメールの見落としがあるんじゃない?』

電話の向こうで深く息を吐いた彼女が、言葉を続けた。

『それから次に掲載する予定の原稿、締め切りは明日の予定だから、遅れないように頼むね』

それを聞いた千花は驚き、声を上げる。

「えっ? あの原稿の締め切りって、十五日の予定だったんじゃ」
『いろいろ忙しいから予定より早めてほしいって、このあいだ口頭で伝えたよ。とにかくそういうことだから、よろしく』
「ちょっ、怜子……!」

一方的に通話を切られ、千花は呆然と手の中のスマートフォンを見つめる。

(一体どういうこと? 原稿の構成変更や文章の書き換えの話なんて、わたしは何も聞いてない。それだけじゃなく、次の原稿の締め切り変更も初耳なんだけど)

先ほどの怜子の態度は冷ややかで、千花は複雑な思いを押し殺す。

自分は彼女を怒らせるようなことを、何かしてしまったのだろうか。考えても思い当たることは何もなく、千花はマウスを動かしてメールフォルダを開くと、改めて怜子から何も連絡がきていないことを確認する。

そのときスマートフォンが振動し、千花は手に取ってディスプレイを見た。すると奏からメッセージが届いており、タップしてアプリを開く。

(……えっ?)

メッセージの内容は、「急に忙しくなったから、お願いしていたフランス語通訳の仕事をしばらくなしにしたい」「会社にも出社しなくていいよ」というもので、しばし呆然とした。

(いきなり「出社しなくていい」って、何でだろ。たとえ奏が忙しくても、仕事の指示さえしてくれれば一人で作業できるのに)

そんなことを考えていると再び彼からメッセージが届き、「たとえ会う時間がなくても、手当はきちんと払うから安心して」と書かれている。それを見た千花は、モヤモヤとした気持ちを押し殺した。

(別にお金のことなんて、気にしなくていいのに。これじゃあまるで、わたしが奏の愛人みたい)

しかし奏は会社の代表として多忙な日々を送っているのだから、こちらに関わる時間を捻出するのが難しいときもあるだろう。

その上で「手当はきちんと払う」と言ってくれているのは、千花の経済状況を慮ってのことだ。それに怜子によって締め切りを明日に早められた仕事があるのだから、奏の会社に出勤しなくてよくなったのは好都合に違いない。

そんなふうに気持ちの折り合いをつけ、千花はやりかけだった原稿の執筆に取りかかる。そして集中して記事を仕上げ、その日の深夜に怜子にメールでデータを送信した。

翌日は午前十一時からハイジュエリーブランドの取材が入っており、十時過ぎに家を出る。

すると玄関を出たところでふいにスマートフォンが鳴り、バッグから出して確認したところ、ディスプレイに表示されているのはこのあと取材に行くブランドの関係者の名前だった。

千花は「何かあったのかな」と考えつつ、電話に出る。

「はい、佐久田です」
『お世話になっております、Eclipsera(エクリプセラ)の広報担当の山瀬(やませ)です。佐久田さん、そろそろこちらに到着されますか?』
「えっ?」
『午前十時のお約束でしたが、十分過ぎてもお見えにならないのでご連絡したのですが』
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