執愛隠した策士な御曹司は偽装婚約で激情露わに囲い堕とす
その日は長時間のフライトで疲れてしまい、空港からタクシーで笹塚にある実家のマンションに戻った千花は、母親の見舞いを明日にすることにして早めに休んだ。
翌日は午前七時に起き、洗面所で身支度をしながら考える。
(お母さん、入院する前に家の中をきちんと整理していったんだな。相変わらずきれいにしてる)
母が入院したのは三日前だが、しばらく帰れないのを見越して片づけていったようで、冷蔵庫にはバターや味噌といった日持ちのするものしか入っていなかった。
彼女は「日本に戻ってくるなら、実家で暮らすのはどうか」と言ってくれたが、千花は別に住まいを探すつもりでいる。互いにずっと独り暮らしをしてきたのだから、自分の生活リズムが出来上がっているはずであり、また一緒に暮らすとなるとストレスが溜まるはずだ。
とはいえ母の体調が心配なため、何かあったときにすぐに駆けつけられるところが望ましい。
(今日お母さんのお見舞いが終わったら、不動産屋に行ってみよう。最近の家賃の相場もわからないし、何軒か回ったほうがいいよね)
そんなふうに考えながら身支度を終え、簡単な朝食を取ったあと、家の中の掃除を開始する。
すると午前九時過ぎにインターホンが鳴り、「誰だろう」と思いつつモニターを見た。
(……えっ?)
映し出されているのは、奏の姿だ。まさか彼が実家に来るとは思わず、千花は驚きながらボタンを押して応答する。
「はい」
『おはよう、千花さん』
モニターに向かってニコニコしている奏は、昨日と同様にスーツ姿だ。
インターホンを切った千花は玄関に向かうとドアを開け、眉をひそめて問いかけた。
「こんな時間に来るなんて一体どういうこと? ていうか、何でわたしの実家を知ってるの」
「昔、千花さんに誘われて実家でお母さんの手料理をご馳走になったことがあるだろ。忘れちゃった?」
言われてみれば、交際していた当時にそんなことがあったような気がする。
しかしだからといってこうして訪ねてくる理由にはならず、千花は言葉を続けた。
「あのね、確かにわたしたちは大学時代につきあっていたけど、その関係は六年前にきっちり終わったはずでしょ。だからこうして来られるのはすごく迷惑なんだけど」
「だったら改めて言うよ。千花さん、俺ともう一度つきあって。絶対に後悔させないから」
眼差しに甘さをにじませてそんなことを言われ、端整な容貌を前にかあっと頭に血が上るのを感じながら、千花は即座に断りの文言を口にする。
「悪いけど、そういう気になれない。今は入院中の母が心配だし、日本に帰国したばかりでそんな余裕がないから」
「俺は六年前、千花さんに拒絶されたことがショックだったんだ。俺はあなたを駄目にするつもりは毛頭なくて、愛情があるからこそ、自分ができることをすべてしてあげたかった」
――奏は語った。
千花から別れを告げられ、その後渡仏したと知ったあと、なぜこういう結果に至ったのかを延々と考え続けたこと。
やがて〝金銭感覚と価値観の違い〟が理由ならば、それは埋められるギャップだと考えたこと。
「『諦められないなら想い続けよう』という結論を出した俺は、どうすれば千花さんにふさわしい男になれるのかを考えた。そして、自らが持っているスペックを磨き上げることに専念したんだ。それまであなたのために使っていた時間をすべて勉強に費やし、卒業後に実家が経営する早瀬ホールディングスに入社した」
入社後の奏は経営企画部に配属され、そこでめきめきと頭角を現したらしい。
従来の古風な事業体質を刷新するべく大胆なM&Aを次々と提案し、実行する。そうして四年間でグループ全体のポートフォリオを劇的に変革した結果、今から数ヵ月前に若くして主要子会社の代表に就任したのだという。
それを聞いた千花は、目を瞠って問いかけた。
「代表って、社長ってこと?」
「うん。ホールディングス全体のM&A戦略の提案と新規事業の発掘を軸に、IT分野やメディア、ファッションブランドへの投資を行ってる」
そう言って胸ポケットから名刺入れを取り出した彼が、一枚差し出してくる。
するとそこには〝早瀬インベストメント・ストラテジー 代表取締役 早瀬奏〟と書かれていて、千花は驚きつつそれを見つめた。
(いくら実家の会社とはいえ、二十六歳の若さで子会社の代表になるなんてすごい。しかも名刺の裏面にはグループ企業の名前がたくさん書いてあるし、早瀬ホールディングスってかなり大きな会社なんじゃないの……?)
奏に対して大学時代のイメージしか抱いていない千花は、あまりにすごい肩書に困惑した。
それと同時に、彼がハイブランドのスーツを着こなしている理由がわかり、まるで違う人間を見ているかのように感じて気後れする。そんなこちらをよそに、奏が「でも、まだ途中だ」と言った。
「俺はゆくゆくは早瀬ホールディングス、つまりグループ全体のCEOになることを目指してる。そのためには現CEOである伯父の息子たちを押しのけて結果を出さなきゃいけないんだけど、絶対にやり遂げるつもりでいるよ」
「…………」
「すべては千花さんにふさわしい男になるためだから、俺とつきあうことを前向きに考えてほしい」
それを聞いた千花は「えっと……」と言いよどみ、意を決して告げる。
「――ごめん。六年前に別れた相手にそんなことを言われても、正直重いとしか思えない。だってわたしの中では奏はとうに過去の存在になってたし、この六年間ずっとSNSを見てたとか、飛行機が到着する時間を見越して待ってたとか言われても、どうコメントしていいかわかんないよ。それにフランスから日本に活動拠点を移すのってわたしにとっては大きな変化で、これから生活を安定させていかなきゃいけないし、母のこともあるから、すぐにそういうことは考えられない」
とはいえ大学生だった頃に比べ、今の奏は大人の雰囲気を漂わせた美青年になっていて、再会したときにときめきをおぼえなかったと言ったら嘘になる。
だが押せ押せでこられても、今は恋愛をする余裕がない。そんな心情を正直に伝えるのは罪悪感があるものの、思わせぶりな態度を取るほうがよほど残酷だ。
そんなふうに考えながら目の前の彼を見つめると、意外にも奏はあっさり「そっか」と答えた。
「確かに千花さんは帰国したばかりで、お母さんのこともあるから、すぐにそういうことを考えられないのも無理はないね。俺が無神経だった、申し訳ない」
「う、うん」
「今日は病院に見舞いに行くつもりだろうし、車で送っていってあげようと思ってここに来たんだ。よかったらこれから乗っていかない?」
それを聞いた千花は、慌てて首を横に振って言う。
「すごくありがたいけど、自分で行けるから大丈夫。奏はこれから仕事なんだよね? 早く出勤したほうがいいよ」
「そうだね。今の連絡先を知らなかったからアポなしで来たんだけど、よく考えると迷惑だったよな。困らせてしまって、本当にごめん」
謝られるとこちらが悪いことをしている気持ちになり、千花の胸がシクリと疼く。
奏が微笑んで言った。
「じゃあ、俺はこれで。渡した名刺に携帯電話の番号が記載されているから、何か困ったことがあったらすぐ連絡して」
「あ、……」
彼が玄関を出ていき、目の前でドアが閉まる。それを見送った千花は、モヤモヤとした気持ちになった。
(どうしよう、奏のことを傷つけた? でもつきあう気がないのに甘えるほうが、絶対よくないよね)
ため息をついた千花は、やりかけの掃除を終えて家を出る。
向かった先は、代々木にある母親が入院している病院だった。ナースステーションで記帳して病室に向かうと、四人部屋の奥のベッドに座った彼女が本を読んでいるのが見え、声をかける。
「お母さん」
「あら、千花」
テレビ電話などで月に一度ほど話していたが、直接会うのは五年ぶりだ。
千花がベッドの横の椅子に腰かけると、母親が申し訳なさそうに言う。
「昨日フランスから戻ってきたんでしょう。何時に着いたの?」
「夕方。十四時間くらいかかったから、結構疲れちゃった」
ウェブカメラ越しに顔を見るだけではわからなかったが、彼女は以前に比べてだいぶ痩せたようだった。
それは明らかに病気によるもので、千花は内心ショックを受ける。
(わたしの馬鹿。お母さんはこんなに痩せてしまってるのに、何でもっと早く帰ってこなかったの)
自分たちは母ひとり子ひとりで、他に目ぼしい親戚はいない。
つまり頼れるのはお互いのみという状況なのに、入院の話をされるまで母親の体調不良に気がつかなかった。そんな自分に忸怩たる思いがこみ上げたものの、過剰に心配すれば彼女が心配すると思い、千花は精一杯明るい顔で話を続けた。
するとしばらくしたところで、看護師がカーテンを開けて顔を出す。
「佐久田さんの、ご家族の方ですよね。先生が病状について説明したいとおっしゃってるんですが」
「あ、はい。今行きます」
病室を出た千花は、看護師の案内で面談室に向かう。
そして五十代とおぼしき医師から母親の病状について詳しい説明を受けたが、十五分ほどして部屋を出た頃にはひどく重苦しい気持ちになっていた。
(お母さんの心臓、本当によくないんだ。手術が必要だって言ってたし、入院期間も長くなりそうだし、どうしたらいいんだろう)
千花を悩ませているのは、思いのほかかかりそうな入院費と治療費だ。
彼女の心臓の病は重く、いつ発作が起きてもおかしくない状態らしい。医療保険に加入しているが、それでは賄いきれない持ち出し分が少しあり、入院期間が長引けばどんどん金額がかさんでいくのは必至だ。
また、よりよい治療を受けためるには保険を超えた金額が必要になる。しかし母を支えられるのは娘の自分しかいないため、一人で何とかしなければならない。
(お母さんは「自分の貯金を崩してもいい」って言っていたけど、老後のことを考えるとなるべく手をつけないほうがいいよね。退院後もいつ職場復帰できるかわからないんだし、できるだけ温存しておかないと)
ならばやはり自分が費用を捻出しなければならず、物憂いため息をつく。
一応少しの蓄えはあり、それは新しい住まいを借りるための資金にしようと考えていたが、ライフプランを練り直さなければならないかもしれない。
その日の午後は、フランスで原稿を寄稿していた雑誌の日本の編集部に挨拶に訪れた。また、今までの実績からフランスの暮らしに関するコラムや、ファッションライターとしてハイブランドの記事を書かせてもらうなどいくつか新規の仕事が決まっており、それらの編集部にも挨拶に訪問する。
最後の打ち合わせの時間、千花が指定されたカフェで待っていると、ふいに横から声をかけられた。
「待たせてごめんね。だいぶ待った?」
翌日は午前七時に起き、洗面所で身支度をしながら考える。
(お母さん、入院する前に家の中をきちんと整理していったんだな。相変わらずきれいにしてる)
母が入院したのは三日前だが、しばらく帰れないのを見越して片づけていったようで、冷蔵庫にはバターや味噌といった日持ちのするものしか入っていなかった。
彼女は「日本に戻ってくるなら、実家で暮らすのはどうか」と言ってくれたが、千花は別に住まいを探すつもりでいる。互いにずっと独り暮らしをしてきたのだから、自分の生活リズムが出来上がっているはずであり、また一緒に暮らすとなるとストレスが溜まるはずだ。
とはいえ母の体調が心配なため、何かあったときにすぐに駆けつけられるところが望ましい。
(今日お母さんのお見舞いが終わったら、不動産屋に行ってみよう。最近の家賃の相場もわからないし、何軒か回ったほうがいいよね)
そんなふうに考えながら身支度を終え、簡単な朝食を取ったあと、家の中の掃除を開始する。
すると午前九時過ぎにインターホンが鳴り、「誰だろう」と思いつつモニターを見た。
(……えっ?)
映し出されているのは、奏の姿だ。まさか彼が実家に来るとは思わず、千花は驚きながらボタンを押して応答する。
「はい」
『おはよう、千花さん』
モニターに向かってニコニコしている奏は、昨日と同様にスーツ姿だ。
インターホンを切った千花は玄関に向かうとドアを開け、眉をひそめて問いかけた。
「こんな時間に来るなんて一体どういうこと? ていうか、何でわたしの実家を知ってるの」
「昔、千花さんに誘われて実家でお母さんの手料理をご馳走になったことがあるだろ。忘れちゃった?」
言われてみれば、交際していた当時にそんなことがあったような気がする。
しかしだからといってこうして訪ねてくる理由にはならず、千花は言葉を続けた。
「あのね、確かにわたしたちは大学時代につきあっていたけど、その関係は六年前にきっちり終わったはずでしょ。だからこうして来られるのはすごく迷惑なんだけど」
「だったら改めて言うよ。千花さん、俺ともう一度つきあって。絶対に後悔させないから」
眼差しに甘さをにじませてそんなことを言われ、端整な容貌を前にかあっと頭に血が上るのを感じながら、千花は即座に断りの文言を口にする。
「悪いけど、そういう気になれない。今は入院中の母が心配だし、日本に帰国したばかりでそんな余裕がないから」
「俺は六年前、千花さんに拒絶されたことがショックだったんだ。俺はあなたを駄目にするつもりは毛頭なくて、愛情があるからこそ、自分ができることをすべてしてあげたかった」
――奏は語った。
千花から別れを告げられ、その後渡仏したと知ったあと、なぜこういう結果に至ったのかを延々と考え続けたこと。
やがて〝金銭感覚と価値観の違い〟が理由ならば、それは埋められるギャップだと考えたこと。
「『諦められないなら想い続けよう』という結論を出した俺は、どうすれば千花さんにふさわしい男になれるのかを考えた。そして、自らが持っているスペックを磨き上げることに専念したんだ。それまであなたのために使っていた時間をすべて勉強に費やし、卒業後に実家が経営する早瀬ホールディングスに入社した」
入社後の奏は経営企画部に配属され、そこでめきめきと頭角を現したらしい。
従来の古風な事業体質を刷新するべく大胆なM&Aを次々と提案し、実行する。そうして四年間でグループ全体のポートフォリオを劇的に変革した結果、今から数ヵ月前に若くして主要子会社の代表に就任したのだという。
それを聞いた千花は、目を瞠って問いかけた。
「代表って、社長ってこと?」
「うん。ホールディングス全体のM&A戦略の提案と新規事業の発掘を軸に、IT分野やメディア、ファッションブランドへの投資を行ってる」
そう言って胸ポケットから名刺入れを取り出した彼が、一枚差し出してくる。
するとそこには〝早瀬インベストメント・ストラテジー 代表取締役 早瀬奏〟と書かれていて、千花は驚きつつそれを見つめた。
(いくら実家の会社とはいえ、二十六歳の若さで子会社の代表になるなんてすごい。しかも名刺の裏面にはグループ企業の名前がたくさん書いてあるし、早瀬ホールディングスってかなり大きな会社なんじゃないの……?)
奏に対して大学時代のイメージしか抱いていない千花は、あまりにすごい肩書に困惑した。
それと同時に、彼がハイブランドのスーツを着こなしている理由がわかり、まるで違う人間を見ているかのように感じて気後れする。そんなこちらをよそに、奏が「でも、まだ途中だ」と言った。
「俺はゆくゆくは早瀬ホールディングス、つまりグループ全体のCEOになることを目指してる。そのためには現CEOである伯父の息子たちを押しのけて結果を出さなきゃいけないんだけど、絶対にやり遂げるつもりでいるよ」
「…………」
「すべては千花さんにふさわしい男になるためだから、俺とつきあうことを前向きに考えてほしい」
それを聞いた千花は「えっと……」と言いよどみ、意を決して告げる。
「――ごめん。六年前に別れた相手にそんなことを言われても、正直重いとしか思えない。だってわたしの中では奏はとうに過去の存在になってたし、この六年間ずっとSNSを見てたとか、飛行機が到着する時間を見越して待ってたとか言われても、どうコメントしていいかわかんないよ。それにフランスから日本に活動拠点を移すのってわたしにとっては大きな変化で、これから生活を安定させていかなきゃいけないし、母のこともあるから、すぐにそういうことは考えられない」
とはいえ大学生だった頃に比べ、今の奏は大人の雰囲気を漂わせた美青年になっていて、再会したときにときめきをおぼえなかったと言ったら嘘になる。
だが押せ押せでこられても、今は恋愛をする余裕がない。そんな心情を正直に伝えるのは罪悪感があるものの、思わせぶりな態度を取るほうがよほど残酷だ。
そんなふうに考えながら目の前の彼を見つめると、意外にも奏はあっさり「そっか」と答えた。
「確かに千花さんは帰国したばかりで、お母さんのこともあるから、すぐにそういうことを考えられないのも無理はないね。俺が無神経だった、申し訳ない」
「う、うん」
「今日は病院に見舞いに行くつもりだろうし、車で送っていってあげようと思ってここに来たんだ。よかったらこれから乗っていかない?」
それを聞いた千花は、慌てて首を横に振って言う。
「すごくありがたいけど、自分で行けるから大丈夫。奏はこれから仕事なんだよね? 早く出勤したほうがいいよ」
「そうだね。今の連絡先を知らなかったからアポなしで来たんだけど、よく考えると迷惑だったよな。困らせてしまって、本当にごめん」
謝られるとこちらが悪いことをしている気持ちになり、千花の胸がシクリと疼く。
奏が微笑んで言った。
「じゃあ、俺はこれで。渡した名刺に携帯電話の番号が記載されているから、何か困ったことがあったらすぐ連絡して」
「あ、……」
彼が玄関を出ていき、目の前でドアが閉まる。それを見送った千花は、モヤモヤとした気持ちになった。
(どうしよう、奏のことを傷つけた? でもつきあう気がないのに甘えるほうが、絶対よくないよね)
ため息をついた千花は、やりかけの掃除を終えて家を出る。
向かった先は、代々木にある母親が入院している病院だった。ナースステーションで記帳して病室に向かうと、四人部屋の奥のベッドに座った彼女が本を読んでいるのが見え、声をかける。
「お母さん」
「あら、千花」
テレビ電話などで月に一度ほど話していたが、直接会うのは五年ぶりだ。
千花がベッドの横の椅子に腰かけると、母親が申し訳なさそうに言う。
「昨日フランスから戻ってきたんでしょう。何時に着いたの?」
「夕方。十四時間くらいかかったから、結構疲れちゃった」
ウェブカメラ越しに顔を見るだけではわからなかったが、彼女は以前に比べてだいぶ痩せたようだった。
それは明らかに病気によるもので、千花は内心ショックを受ける。
(わたしの馬鹿。お母さんはこんなに痩せてしまってるのに、何でもっと早く帰ってこなかったの)
自分たちは母ひとり子ひとりで、他に目ぼしい親戚はいない。
つまり頼れるのはお互いのみという状況なのに、入院の話をされるまで母親の体調不良に気がつかなかった。そんな自分に忸怩たる思いがこみ上げたものの、過剰に心配すれば彼女が心配すると思い、千花は精一杯明るい顔で話を続けた。
するとしばらくしたところで、看護師がカーテンを開けて顔を出す。
「佐久田さんの、ご家族の方ですよね。先生が病状について説明したいとおっしゃってるんですが」
「あ、はい。今行きます」
病室を出た千花は、看護師の案内で面談室に向かう。
そして五十代とおぼしき医師から母親の病状について詳しい説明を受けたが、十五分ほどして部屋を出た頃にはひどく重苦しい気持ちになっていた。
(お母さんの心臓、本当によくないんだ。手術が必要だって言ってたし、入院期間も長くなりそうだし、どうしたらいいんだろう)
千花を悩ませているのは、思いのほかかかりそうな入院費と治療費だ。
彼女の心臓の病は重く、いつ発作が起きてもおかしくない状態らしい。医療保険に加入しているが、それでは賄いきれない持ち出し分が少しあり、入院期間が長引けばどんどん金額がかさんでいくのは必至だ。
また、よりよい治療を受けためるには保険を超えた金額が必要になる。しかし母を支えられるのは娘の自分しかいないため、一人で何とかしなければならない。
(お母さんは「自分の貯金を崩してもいい」って言っていたけど、老後のことを考えるとなるべく手をつけないほうがいいよね。退院後もいつ職場復帰できるかわからないんだし、できるだけ温存しておかないと)
ならばやはり自分が費用を捻出しなければならず、物憂いため息をつく。
一応少しの蓄えはあり、それは新しい住まいを借りるための資金にしようと考えていたが、ライフプランを練り直さなければならないかもしれない。
その日の午後は、フランスで原稿を寄稿していた雑誌の日本の編集部に挨拶に訪れた。また、今までの実績からフランスの暮らしに関するコラムや、ファッションライターとしてハイブランドの記事を書かせてもらうなどいくつか新規の仕事が決まっており、それらの編集部にも挨拶に訪問する。
最後の打ち合わせの時間、千花が指定されたカフェで待っていると、ふいに横から声をかけられた。
「待たせてごめんね。だいぶ待った?」