my天の川に流るる

10


 シャープペンシルが紙束越しに机を叩く音が止まる。
「合ってる」
 七尾が後輩のノートに赤ペンを走らせる。
 星子(しょうこ)は茫乎として笹森を見ていた。彼は参考書を開いてはいるが、見てはいなかった。ペンを回してばかりで、ノートに黒鉛の跡はない。
「お前等、集中力ねぇな」
 七尾が星子と笹森を見て、嘆息する。
「ブドウ糖ありますよ」
 月也(つきや)は鞄から袋を出す。白い塊が入っていた。
「意識高いな」
 七尾は一欠片、白い塊を口にした。
「笹森さんは」
 月也の問いかけに、アーモンド色の双眸は宙を凝らしている。
「五百鈴(いおり)――五百鈴、どうした」
 二度目で、笹森の淀んだ瞳に光が戻る。
「ほへ!」 
 彼は大袈裟に肩を上げる。
「大丈夫か? 最近、ぼーっとしすぎだ」
「ああ、うん。恋煩いだったりして。世の中よ 道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」――皇太后宮大夫俊成
 星子はおどけている笹森を見詰めた。
「それ、恋煩いの歌なのか?」
 七尾が訊ねた。
「恋煩い……とはまた違いますね」
 月也が答える。
「間違えた。思ひわび さても命はあるものを 憂きに堪(た)へぬは 涙なりけり……だ」――道因法師
 笹森は肩を竦める。
「古文は苦手だ」
 七尾は自身の勉強に戻った。月也もノートに向かっている。
 星子は笹森を瞥見する。目が合った。だが逸らされる。「W」の字は口元にはなかった。
「星子」
 七尾は三角関数の問題を解きながら、低い声を出した。
「え!」
「集中しろ!」
「あ、う、うん……」
 だが集中したとて、三角関数の発展問題を前にペンは進まない。 
「五百鈴、解けた?」
 笹森の反応はなかった。
「五百鈴、おい」
 七尾は隣に座る笹森の肩を掴む。
「へぇッ?」
「解けたかよ」
「ああ、ごめん、ごめん…… 」
 笹森のペンが徐ろに動く。
「お前、大丈夫か?」
 七尾の顔色が変わった。
「な、なんでよ」
「三角関数苦手か?」
「バレちゃっちゃっちゃぁ仕方ない」
 笹森の手はもたついていたが止まりはしなかった。
「星子、お前もボサッとするな。手を動かせ」
「まずsin2θが9分の8……」
 アーモンド色の眼が濁った。シャープペンシルがノートに叩きつけられる。握っていた手が戦慄き、笹森の身体が横へと傾いていく。正面に座っていた月也は慌てて、落ちていく笹森の身体を支えた。
「笹森さん?」
 笹森は月也に支えられ、しがみつき、転倒は免れたようだった。
「ごめ………貧血かも。思春期男子はね、お盛んですから」
 明るい茶髪は枯草よろしく艶がない。頬は痩(こ)け、彼がどれほど諧謔を弄しようとも、言葉より外貌に気を取られる。
「貧血ってお前……」
「男なら分かるでしょー? このクラス可愛い子多いしさー?」
 笹森の姿が、星子の喉から水気を奪っていく。笹森の体調不良は続いているようだった。
「分かんねーよ」
「はっはっは。ごめんね、星子ちゃん。下ネタ言って」
「……よせよ」
  笹森は七尾の肩に腕を回す。だがその眼差しは星子に向けられていた。色の悪い唇が「W」の字を描いている。彼は星子の後ろのカンペを読んでいる。
「アハハ、下ネタダッタンダ……」
 星子もまた笹森の後ろのカンペを読み上げる。
「乗っかんなよ」
 七尾はぼやき、ノートに向かう。隣のシャープペンシルの音は捗(はかど)っている。星子は斜向かいの笹森と視線を交わす。干乾びた顔面に「W」字の残骸があった。


「どうしてお二人はそんなに頭が良いのに、この高校を選んだんですか……」
 教材を片付ける月也の声は低い。
「ウチがバカ高みたいな言い方だな」
 七尾が鼻を鳴らす。
「そうではなくて……」
 月也が焦る。
「でも、それはわたしも月也くんに思ってた。和高(わたか)行けたんじゃないかなって……」
 和高は和田高校の略称だった。星子の住む市内トップの男子校だ。自転車通学にしても、この高校と大した差はない。
「僕は私立には行けないので、ここなら確実に受かると思ったんです。見下したいわけではないですけれど……」
 月也は母子家庭だ。中学時代に聞いたことがある。この高校ならば学科間の滑り止めが利く。たとえ普通科で不合格になったとしても、希望次第で国際コミュニケーション学科で合格することができる。同じ校舎、同じ学費、同じ公立だ。
「立派じゃん。ぼくなんか、家から近いからだよ。こんな近くに高校あったら、女子校でもない限り行くでしょ。そこでトップとれば大学だって推薦枠とれる。鶏口牛後。鯛の尾より鰯の頭。"魚(うお)は鯛"とは何かしら、だ。あ、でも男子校なら行かないな。ムサいもん」
 笹森の乾いた笑いは身体の内から乾いている。
「七尾先輩は」
「俺も大体そんな感じ。月也と。俺の家も母子家庭だし、チャリで通える」
「でも七尾先輩なら和高受かったと思います……なんなら、橋高(はしたか)だって……」
 県内最高偏差値の高校を挙げられ、七尾は目を丸くした。
「買い被りすぎだろ」
「七尾パイセンは確かに頭良いけど、橋高は言い過ぎだわね。古文と地歴公民のテスト見せてあげたいわ」
 だが月也の拗ねたような眼光は変わらない。
「いいんだよ、俺は。無理せず勉強して、無理せず過ごせて、無理せず受験して卒業できれば。それに俺がいないとこのマヌケが可哀想だろ」
 突然矛先が向けられ、星子は何の話をしていたのか忘れた。
「え」
 真相は違う。七尾は妹の学童の迎えのためにこの高校を選んだはずだ。和田高校ならば妹の学童の真反対になる。時折、叔父と買い物に行くとき、自転車を転がして妹と帰る七尾を見ることがある。
「なんだよー、星子ちゃん追って来たのかよー」
 笹森が笑っている。その活気すらも彼を内側から壊してしまいそうだった。



 勉強会が終わる。月也が何度も頭を下げ、駐輪場へ消えていった。
「帰るか」
 隣の七尾が自転車を転がす。しかし星子の頭の中には顔を真っ白くした笹森が居座っている。彼は寝てから帰ると言って教室に残った。
 椅子から傾き、月也にしがみついた姿が消えない。コマ送りで、延々と繰り返す。
 親友の想人を目蓋の裏に留めておいてはいけない。咲菜(さきな)に悪い。
 笹森に掴まれた感覚がまだ残っている。長い指は彼女の腕を巻くのに余っていたというのに、卵ひとつも握り潰せなそうな力だった。
 七尾が自転車を転がす。駅まで送ると彼は言った。
 だが足が進まない。先へ進む七尾が立ち止まり、振り返る。
「星子、どうした」
 星子は七尾の顔が見られなかった。彼は何か知っているのではなかろうか。知らないのだろうか。訊いてしまいそうだった。言ってしまいそうだった。
 だが笹森は隠そうとしている。
「腹でも痛いのか」
 彼女は首を振った。腹が痛ければ良かったと思ってしまった。笹森のつらさが少しでも分かれば、正しい選択というものが分かりそうだった。
 彼は今も、苦しんでいるのではないか。
 咲菜のためにと塗り潰したつもりの光景が、まだ鮮明だった。鉛筆で塗り潰せば、消しゴムで消える。消しゴムではボールペンは消えない。何ならば消せるのか。
 笹森の元へ行く気になった。同時に、苦しいときは、ひとりのほうが気が休まることを知っていた。星子もそうだった。病熱に伏せたときの叔父の優しさは甘い毒だった。受け取り方を知らない。受け取り方を教わらなかった。
 しかし、耳の内側で繰り返される懇願と、目蓋の裏で再生される転倒の光景の消し方を、他に知らない。
「五百鈴か」
「……ち、違うよ……」
「放っておいてやれ」
 七尾の声は強張っていた。星子は三白眼がおそるおそる迎える。燃え滾るような眼差しだというのに、寒気を覚える。
「七尾く、」
「放っておいてやれ」
「で、も………」
 厭に湿気を帯びた体温が、震える星子の手を握った。
 真っ直ぐな視線は針よろしく瞳孔を突き刺す。
 七尾は知っている。だが星子は知っていてはいけなかった。
「な、何のこと、かな……わたしはただ……」
「お前は優しいから、その心配は分かる。でも、それがあいつには優しさじゃないこともある」
 星子は知っていてはいけなかった。顔を背けた。七尾にはすぐに見透かされてしまうのだ。
「だ、だから、何の話……? わたしはお腹痛いだけ。ちょっとトイレ寄ってから、帰る………」
 七尾は手がいっそう強まる。
「星子」
「優しさを振りまこうとか別に思ってないよ。ただ、わたしが嫌な思い、したくないだけ。我儘だって、よく言われるし……」
 彼の手は、肉感があった。ほぼ毎日長時間自転車を漕いでいる掌の腠理(そうり)すら感じられる。熱かった。力強かった。
「……分かった」
 彼は手を放した。
「時間、無駄に使わせちゃってごめんね。七尾くんだって忙しいのに。帰り、気を付けてね」
 星子は手を振った。トイレに行くだけなのだ。生徒用玄関ではなく、近場の職員玄関へ向かっていく。
 回り道をして教室に向かった。明かりは消されていた。笹森は帰っているのだ。すれ違ったのだ。
 何の心配もない。七尾の時間を徒(いたずら)に奪っただけだ。だが、それだけなのだ。
 しかし笹森は、人気(ひとけ)を避ける。日陰に擬態する。
 星子は消灯された無人の教室を覗いた。白い人影がある。幽霊がいた。
 星子は幽霊を見た。首がない。長袖のシャツが机に伏している。テレビや映画で見るように透けてはいなかった。
「さ、笹森……くん………?」
 不透明な後姿が跳ねた。見えなかった首が持ち上がる。青白い顔が振り返る。
「なんだ………来たの………?」
「わ、忘れ物、取りに来ただけ……」
「はは、じゃあ声かけないでよ。睡眠妨害でしょ」
 口調こそふざけていたが、暗い部屋の中で「W」字の口元がないのはよく分かった。
 ロッカーに近付く。笹森に近付く。生々しい匂いが鼻を穿つ。
「笹森くん……」
「うるさいなぁ、寝かせてよ……」
 机の色が変わっている。彼は身体を伏せたままだった。
「吐いちゃった……の………?」
「……すぐ片付けるよ。 姑かっつーの」
 悪態を吐く声音は、ふざけるときよりも弱々しい。身体を起こせもしない状態で、彼は掃除ができるのだろうか。
「いいよ、わたしが片付けるから、笹森くんは休んでて……」
「なんで? また良い子ぶるの? ぼくに好かれたいとか? 点数稼ぎのつもり?」
 笹森は鼻を鳴らした。腕で支えてやっと上体が起こせるようだった。
「絆創膏くれたことも、短冊のことも、感謝してるんだよ。ずっとずっと染み付いてる」
「選ばれない子だから、ちょっと選ばれたらいい気になるんだね。あの行動に他意はないよ、星子ちゃん。勘違いしないでね。自惚れるなよ」
 彼は咲菜の想人なのだ。何を自惚れることがあるのか。むしろ他意があってならなかった。
「自惚れないよ。勘違いしない」
 星子は備品のティッシュの箱を取った。掃除用具入れからビニール袋をもらい、笹森の傍に寄る。
「星子ちゃんは意地悪だよな。クラスメイトにこんなことされるぼくの気持ち、考えたことある?」
 彼は鼻で嗤った。
 七尾の言っていたことは真理だった。七尾は正しかった。
「ない」
「ほら、ないでしょ」
「うん……」
 星子は笹森の机を拭いた。ビニール袋が鳴る。
「安い同情、すんなよ」
「うん……嫌な思い、させちゃってごめんなさい」
 七尾は正しかった。笹森を傷付けた。だが帰ろうとは思わなかった。
 机を拭き終えると、備品のアルコールティッシュを取ってきた。
「帰れ」
「これ拭いて、ゴミ捨てたら、帰るよ」
 星子は机を拭き終え、ゴミ袋の口を縛った。プール棟の近くにゴミ捨て場がある。開いているか定かでないが、帰りに寄ってみることにした。
「それで七尾には、ぼくにいじめられたって泣きつくワケ」
「泣きつかないよ。それに言ったとしても、七尾くんはきっとわたしを怒るよ……」
 七尾は正しいことを言った。正しい忠告をした。それを破ったのは誰だ。
「じゃあ、女子に愚痴る? おお、怖い、怖い。琴峯(ことみね)さんに悪口聞かすなよ。可愛い子の耳が腐っちゃう」
 咲菜にはさらに言うはずがない。言えるわけがなかった。この教室で2人きりであること自体、秘さなければならないのだ。
「言わないよ」
「嘘だね、言うよ。絶対言う。あっはっは。賭けよっか?」
 この教室にいる限り、彼は青白い顔をして喋り続ける。七尾の言っていたことは、そういうことでもあるのだろう。余計に疲弊させ、余計に消耗させるのだ。遉(さすが)は親友だ。
「帰るね、笹森くん。お大事に」
 暗い部屋でビニール袋が喚く。
「それは自分で捨てる」
  笹森は気怠げに腕を伸ばす。冷えた手と手がぶつかる。
「帰り道だし、平気」
 星子は身体ごとビニールを引いた。
「偽善者」
「うん……」
「なんで怒らないの」
 言われ慣れている。何かが他人にそう感じさせるようなのだ。意思疎通はいつでも難しい。
「よく言われるから。いい子ぶってるとか、ポイント稼ぎとか。だから笹森くんがそう思うのも仕方ない」
 人からの好かれ方が分からない。媚びたつもりはない。ただ偽善者であり、良い子を装っているために嫌われる。では前者とは、良い子とは、何なのだろう。知ってさえいれば、父親からも母親からも見放されず済んだに違いない。ところが理解していなかった。理解する能を持ち合わせていなかった。結果、笹森を傷付けている。
「言われ慣れてたなら、言っていいんだ?」
「言われ慣れてるってことは、みんなそう思ってるってこと。事実ってこと……事実なら仕方ないし……」
 笹森は嗤い声を上げる。胃酸で焼けた喉は掠れていた。
「ぼっちの星子ちゃん。星子ちゃんはパパ活してるって、この前 鷲羽(わしゅう)ちゃんが言ってたよ。ヤバいね」
 それは事実ではない。言葉は拳となるようだった。頭に一撃を食らう。
「そんなこと、してない!」
 咲菜と最近仲の良い、鷲羽さんの顔が浮かんだ。何故、そのようなこと言ったのだろう。
「清純そうに見えてさ、やることやってるんだね」
「してないよ……してない……」
「年上の男の車から降りてきたの見たって言ってたよ。あっはっは。年上男に飽きて、ぼくに乗り換えようって?」
「違う……」
 星子は目を白黒させる。何故そのような噂がたったのか。
「でも鷲羽ちゃんは、そう言ってた」
「違うのに………」
 言っても、聞き入れられない。一度たった噂は、尾鰭背鰭胸鰭がつく。魚となって泳ぎ出しては捕まえることもできない。1年生のときに味わったことだ。
「いいよ、いつでも相手してあげる。ぼくの若い身体でよければ、さ」
「ごめん、笹森くん。今日はもう帰るよ。そんな噂聞いてたのに、普通にしててくれてありがとう……」
 星子は呼吸が浅くなった。息遣いを隠し、廊下を走った。
「うわっ、と」
 人とぶつかる。
「ごめんなさ、」
 肩を掴まれ、衝突は緩和された。
「星子? 五百鈴はもう帰ってたのか」
「さ、笹森くん? なんで笹森くん? 帰ったみたい。アハハ……忘れ物取りに行ったとき、いなかったよ」
 体育館と玄関ホールを繋ぐ渡り廊下の外灯が、七尾の日焼けした顔を照らし出した。ゴミ袋を一瞥した険しい目付きに星子は怯む。
「下駄箱に靴あったけどな」
「……あ、あ、あの、七尾くん……」
 七尾は教室へ向かっていった。7組は8組の次に、下駄箱から遠い。上足サンダルは滑りやすく、走るのに向かない。七尾を追う。
 彼は教室の前から入り、明かりを点けた。
 笹森の青白い顔が持ち上がる。
「何……白川(しらかわ)さんに泣きつかれた?」
「星子に何か言ったのか」
 笹森は七尾の後ろに星子がいるのを認めると、目を逸らした。
「別に。妹ちゃんの迎えはいいのかよ?」
「さっき姉に頼んだ」
「ほぇ~」
 七尾は提げていた小さなビニール袋に手を突っ込むと、ゼリー飲料を机に置いた。
「腹に何か容れとけ」
「何~、文きゅん、どういう風の吹き回し~?」
「"お盛ん"なんだろ? どうせまた"励む"んだんべ。なんか容れとけ」
「はっはっは」
 笹森はゼリー飲料を揉んでばかりで、飲もうとはしなかった。
「星子、雨降るみたいだけど、迎え呼んだほうがいいんじゃないか」
 予報では曇りのはずだった。
「折り畳み傘あるから……」
 叔父を呼ぶほどのことではない。
「五百鈴も、とっとと帰るぞ。荷物は持ってやる。明日の昼飯、奢りな」
「えー」
「ほら、言ったろ、星子。ただの貧血だぜ、しかもド下ネタ由来の。初心(うぶ)な小娘は帰った、帰った」
 七尾は手の甲で追い払う真似をした。
「う、うん………」

 天気予報は確かに曇りだった。だが空気の匂いが雨を告げていた。ゴミ捨て場は開いていた。だが錆びた扉が重かった。全体重を乗せて開き、また全体重を使って閉める。
 額に水滴が当たる。頬に当たる。鼻に当たる。軈(やが)て勢いを増していく。傘を差すと、次第に聴覚を支配した。傘に当たる雨音は鼓動に似ていた。外の音から星子を遮断する。
 しかし笹森から聞いた噂が雨音を消す。
 火のないところに煙は立たない。どこで火を点けたのだろう。雨は消してはくれないようだ。鷲羽さんは何を見たのだろう。何故そのような噂がたったのだろう。
 鷲羽さんは最近、咲菜と仲が良い。
 いつ頃たったのか。笹森は「この前」と言っていた。
 星子は水溜りに足を踏み入れてしまった。靴下に斑模様が浮かぶ。爪先から冷えていく。そして踵まで届いていく。
 濡衣は隣にいる人間にも水飛沫を飛ばす。低俗な噂は周りにまで及ぶ。
 咲菜も巻き込んでしまうかもしれない。
「……咲菜ちゃん………」
 一度、親友は勇気を振り絞った。彼女が気の強い性質でないことは後に知った。控えめで慎ましやかな女の子なのだ。その他大勢に立ち向かうのは容易ではなかったはずだ。それでも彼女は庇った。違うと言った。
『白川さんはそんなことしないよ!』
 水に浸かった革靴がじゅぶ……じゅぶ……と鳴る。
『白川さん、友達になってくれる……?』
 咲菜と一緒にいるのは、良くないことなのだ。




 朝食の支度をしようと、ビーズカーテンを潜ろうとしたとき、前方が塞がった。額に大きな掌が乗る。広く硬い掌に落ち着いた。
「熱があるんじゃないかい、君」
 慧霞(けいか)は自身の額にも掌を当てた。高い位置にある金髪の奥で、眉が垂れる。
「叔父さん……」
「目も潤んでいるし、顔も赤い。熱を計ってみなさい」
 額に置かれた掌が頬を辿り、頤(おとがい)を支える。叔父の神経質そうな眉が歪む。
 星子はこの表情に弱かった。すぐさま体温計を探し出すと、腋に挿(はさ)む。
 37.9℃。
「お休みなさい。叔父さんが学校に連絡しておくから」
 叔父は体温計を奪う。
「でも、テスト前だし……」
「そんな体調で君を学校へ行かせられません」
「もう1回……今度は右で計ります」
 しかし叔父は体温計を返さなかった。
「風邪はひき始めが大事だよ。ボクも今日はお休みだから。お布団に入っておいで」
「あ、でも、でも……」
 テスト前に休んでは、どのような噂が流れるか分からない。テスト勉強をしていたのかと嗤われるに違いない。
「倒れたら、そのほうが問題だよ」
 叔父が高校まで、片道30分弱かけて迎えに来なくてはならない。
「そうですね……連絡、お願いします」
 星子は部屋に戻った。
 雨に濡れたのが悪かった。七尾の言うとおりにしておけば、今頃は違う現実があったのかもしれない。雨が降る前に電車に乗れたのかもしれない。傘が不要になるほどの大雨に打たれる時間は短かったはずだ。雨上がりの夜更けに、叔父をコインランドリーに向かわせることもなかった。そして制服を乾かしてもらえば、翌日に熱を出している。
 布団に入る。毛穴ひとつひとつに炭酸が入り込むかのように肌が痺れる。
 咲菜に休みの報告を入れようと端末を握った。蒲鉾板ほどの機械が今日は重く感じられる。指が耐えられず、放してしまった。
 雨のようになってしまいたかった。繊維に染み込み、消えるのが良い。雲になれば、纏まることができる。父母を見れば分かる。自分が存在しているために、上手く纏まらない。
  笹森は吐いても、立ち眩みを起こしても、登校している。彼ならば上手く立ち回ったのだろう。
 足音が聞こえた。ノックは控えめだった。扉が開き、叔父が入ってきた。
「叔父さん、ごめんなさい……」
  その手には盆が握られていた。
「何を謝ることがあるんだい」
 叔父はベッドの傍に腰を下ろす。物音が聞こえ、星子の額に吸熱シートが貼られた。
「休んでしまって……」
「何を言うのかと思えば。ちゃんと水分補給をなさい。うどんでいいかな。無理に食べなくてもいいけれど……買い物にいってくるから、寝ているんだよ。行けそうだったら病院に行こう」
 吸熱シートの上から軽く額を叩(はた)く。長身痩躯が扉に消えていく。

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