my天の川に流るる

11

[体調不良って聞いたけど大丈夫か?]
 七尾からメッセージが入っていた。
 鉄アレイと紛うほど重く感じられる機械板を持ち上げる。
 口の中が苦いのは、昨日彼の言ったことを聞かなかったせいか。
[大丈夫。ありがとうね]
 送信ボタンを押す。
 時計を見ると昼だった。今日は咲菜(さきな)は板挟みにならずに済む。今頃は鷲羽(わしゅう)さんと昼食を摂っているのだろう。
 星子(しょうこ)は気が重くなった。胃の辺りが重苦しいのは確かだった。
 鷲羽さんは何を見て、パパ活をしていると言い始めたのだろう。星子にはまったく身に覚えのないことだった。誰かと見間違っているのではなかろうか。
 足音が聞こえた。間もなくノックされる。返事をすると扉が開いた。長身痩躯が現れる。長い金髪を後ろで束ねた男性は20代半ばから後半に見えたが、すでに三十路に入って何年か経っているはずである。彼は叔父の慧霞(けいか)だ。
「うどんを作ったよ。食べられそうかい」
 叔父はプラスチックの折り畳みテーブルに盆を置いた。丼が乗っている。風邪薬の箱と水の入ったグラスも添えてある。
「……いただきます」 
「残してもいい。無理はしたらいけないよ。吐いてしまうのも体力を使うのだから」
「叔父さん。ありがとうございます」
 汗ばんだ布団から出ると、クーラーが肌に心地良かった。
「お礼なんていいんだよ。アイスも買ってあるから、好きなときにお食べ。お腹は温めて、ね」
 プラスチックのテーブルに座った星子の首を、柔らかな素材のタオルが這う。
「汗ばんでいるね。食べ終わったら着替えたほうがいい」
「ごめんなさい、叔父さん」
「謝らないでおくれ」
 彼はタオルを広げ、星子の首に掛けた。
「家事もできなくて……」
「家事はボクもできるよ。今日は休んでいなさい」
 だがこの叔父は料理が得意ではないのだ。うどんはどうにか解凍したようだ。そしてめんつゆを湯で薄めることはできたようだ。
「夜は何か買ってくるよ。君のお腹の調子を看ながらね……うなぎでもお寿司でも」
「叔父さんにお任せします。いただきます」
 星子は割箸を割る。
「食器は置いておきなさいな。後で取りにくるから」


『ママは――くんのところに行くから』
 母親の顔には靄がかかっていた。頭の輪郭すら分からないほどぼやけている。大きなカバンに服だの下着だのを詰めている。
『ねぇ、ママ、星ちゃんも一緒に行っていい?』
 顔のぼやけた母親が手を止めた。目も鼻も口も形を成していないというのに、睨まれているのが分かった。
『ダメ。――くんは子供嫌いなんだから』
『ママ……』
『ちゃんとパパのお世話しないと、パパに嫌われちゃうよ』
 星子は振り返った。居室にいたはずが、玄関に立っていた。三和土(たたき)には父親がいる。父親もまた頭部の大きさすら分からないほど首から上がぼけている
『星子、パパは出掛けてくるから、一人でお留守番できるだろ』
 キャリーケースを引き摺り、父親は外の光に呑まれている。
『できるよ、パパ』
『じゃあ、洗濯とごはん、頼むな。明後日、帰ってこれたら帰ってくるから』
『パパ、パパ、一緒に行っちゃダメ……?』
『あー、ダメだよ。パパはこれからデートなんだ』
 玄関ドアが閉まる。
『パパ……』
『ちゃんといい子にしてないと、ママに怒られちゃうぞ』
『ママ……』
 居室に向かった。引戸が閉まっていた。奥で赤児が泣いている。母親と知らない男の笑い声が聞こえた。

『選ばれないのが怖かったんじゃないの』
 笹森が耳元で囁く。


 目蓋が開いた。目頭が冷たい。鼻梁を横切る擽(くすぐ)ったさは羽虫か。
 指で拭う。形はなかった。
 足音が近付き、星子は起き上がった。ノックされ、返事をすると、ドアが開いた。叔父だ。
「七尾くんが来てくれているけれど、どうする。会っていくかい」
 星子は叔父の顔を見上げたまま硬直する。七尾が来ている。
「今、下で涼んでいてもらっているのだけれど……暑い中、プリントを届けに来てくれたのだから、そのまま帰すのも悪いからね」
「寝起きですから、顔だけ洗ってきます」
 星子は顔を洗い、髪を梳かすと、リビングに向かった。
 七尾のテレビを観ている後姿が目に入った。
「七尾くん……」
 日焼けした顔が振り向く。
「大丈夫か」
 麦茶の注がれたグラスが結露し、汗を流すようだった。
「あ……うん」
「朝、悪かったな」
 テレビが嗤っている。クーラーが嘲っている。
 星子は朝のことを思い出そうとしたが、記憶は泥沼を掻き回すようなものだった。
「……連絡しちまって」
 七尾からテキストメッセージが入っていたような気もする。
「ううん。嬉しかったよ」
 他人の家だから、七尾は学校で見るよりも縮こまって見えた。項垂れながら星子を窺っている。
「五百鈴(いおり)が気にしてたぜ」
 声音も沈んで聞こえる。テレビとクーラーに気圧(けお)されている。
「笹森くんが……そうなんだ」
 全身が倦怠感を取り戻す。夢の中での囁きが身体の内側を通って胃を灼いた。
「なんだよ。もっと喜べよ……」
 三白眼は外方を向いた。
「笹森くんには、悪いことをしちゃったからさ」
「昨日、なんか言われたのか」
 星子は首を振る。
「七尾くんの言ってることが正しかったって、ただそれだけ」
「やっぱりなんか言われたんだな」
 七尾の肩や首、そして喉に平生(へいぜい)の威厳が戻る。
「そうじゃなくて……ほら、雨だから、迎えに来てもらったほうがいいとか、そういうこと! 実際に雨に濡れて、欠席(ダウン)しちゃってるわけだし! アハハ」
 三白眼はまだ訝(いぶか)しんでいる。
「それに"やっぱり"、"やっぱり"って、わたし、何か笹森くんに言われることあるの?」
 星子は努めて笑みを浮かべた。七尾には知られたくない。七尾は知っているのだろうか。七尾が知っていたとしたら、彼はどうするのだろう。
「別に。五百鈴が、自分が傷付けたかも、なんて言うから、気になっただけだよ」
「それは昨日、わたしが余計なことしたから。ポイント稼ぎって言われちゃっただけ。でもそう思われても仕方ないよね。仲良いわけじゃないんだし」
 精悍な眉が引き攣る。
「仲、良くないって認識なんだな」
「仲良くないよ。個人的にはおうちに行ったことないもん」
 "たなばた祭り"の帰りに寄らせてもらったことがあったが、それは七尾と咲菜もいた。
「なんなんだ、その認識は」
 星子は目を伏せる。仲の良い女子同士は、昨日家に行ったの、家族ぐるみで夕食を一緒にしただのと話していた。
「だってよく話してるもの」
「俺はお前ん家(ち)に来た。じゃあ俺とお前は仲良いってことだよな」
 七尾は口角を上げた。
「う、うん。七尾くんがそれでいいなら」
「それじゃ嫌だ」
「え……っ」
 矢をそのまま手掴みで胸に突き刺された感じだった。
「そういうんじゃ、ないだろ……」
 星子は伏せたままの目を上げることができなかった。フローリングを泳ぐ。
 七尾とは、小中高と同じだったに過ぎない。同じ状況の同級生は他クラスにもいる。七尾とは、咲菜で繋がっているだけだ。咲菜を目当てに、彼は仲の良い昔馴染みを装っているだけだ。
「あ、そ、そうだね。ごめん、勘違いして……恥ずかしいね」
「は?」
 すでに消化されていてもおかしくない昼食が腹の中で暴れている。
 星子は深く息を吐いた。七尾の機嫌が悪い。
「さ、咲菜ちゃんはどうだった、今日……」
 彼の望む話題だ。
「いや、知らんけど……」
「あ、そ、そうなんだ……」
「………」
「………」
 テレビから聞こえるグルメリポーターが羨ましくなった。風を送り続けるクーラーも黙ってしまう。
「七尾くんは、鷲羽さんとはよく話すの……?」
「五百鈴がいれば、流れで。なんで……?」
 星子は首を振った。
「最近、咲菜ちゃんと仲良いから……」
「なんだ。ヤキモチかと思ったのによ」
「ヤキモチじゃ、ないよ。咲菜ちゃんはもともと、ああいうグループの子なんだし……」
 七尾は顔を覆った。眉根を揉んでいる。
「七尾くん……」
「お前と喋ると、たまに訳分からん方向に話が飛ぶ。別にいいけど」
「ご、ごめん。ア、アハハ……ずっと寝てたから、頭回ってないのかも」
「起こしちまった?」
「ちょうど目が覚めたところなの。寝過ぎて寝られないくらいだったから、来てくれて嬉しかった。妹さんのお迎えもあるんだよね……ごめんね」
 彼の機嫌は直ったようだった。口元が緩んでいる。三白眼の威勢も削がれている。
「気にすんな。じゃあまた寝込んだときは、来てやる」
 七尾は星子の頭に手を乗せ、帰っていく。
 星子は重みの影に触れた。
『お邪魔しました。ごちそうさまでした』
 七尾が叫ぶと、叔父が出てくる。二言三言、玄関先で話している。
 玄関扉の開閉音が聞こえ、リビングに叔父が戻ってきた。
「いいねぇ、彼。感じがいい。ボクは好きだな、ああいう好男子は」
 叔父は七尾を気に入っている。毎度同じ感想を述べる。
「優しい人です」
「いつの間にか下の名前で呼んでいるんだね」
 星子は叔父を見た。叔父は笑っている。叔父はいつでも微笑を湛えている。
「七尾くんには好きな人がいるんです。わたしの友人で……多分、ゆくゆくは、その子のことも下の名前で呼びたいんじゃないですかね」
 叔父の微笑が抜けていく。
「それじゃあ、彼は君を利用している、と………そういうことなのかな」
 叔父の眉が下がる。
「利用じゃないです。それにもし利用されていたとしてもいいんです。わたしは楽しかったし、嬉しいこともたくさんありましたし、七尾くんが優しいのは本当のことですから」
 咲菜が鷲羽さんとさらに仲が良くなれば、七尾は離れていくのだろう。胸に突き刺された矢がさらに奥へと入っていく。背中に至ってしまいそうだ。
 離れていくのは慣れている。慣れるようにした。
『選ばれないのが怖かったんじゃないの』
 叔父の手が額に触れる。
「起こして悪かったね。もう寝なさい。夕食は、出前になってしまうけれどいいかな」
「はい。すみません……」
「謝らない」
 長い指が星子の口に突き立った。



 病み上がりの身体には、外の気温が暑く感じられた。実際に暑かったのかもしれない。今年は涼しかったが、夏だというのに、いつまでも30℃を超えないわけにはいかないのだろう。
 下駄箱に辿り着くだけで疲れてしまった。叔父は高校付近まで送ると言っていたが、叔父にも仕事がある。昨日は趣味の晩酌もしていなかった。叔父の楽しみを奪ってしまったのだ。
 星子は玄関ホールの共有スペースで休んだ。叔父から持たされたスポーツドリンクを飲む。まだ冷えていた。甘みが口に広がり、心地良い冷たさが体内に染み渡っていく。
 深く息を吐く。体力の落ちた感じがあった。
 呼吸を整え、教室に向かう。休んだ次の日は、見えない壁が出入り口を塞いでいるようだった。
「おはよう」
 クラスにいるのは朝練のあるバレー部の男子と、週番の女子だった。単語帳を捲ったり、課題をやったりしている。
 星子もやり終わらなかった課題をやった。そのうちに教室には人が増えていく。星子の体調を気遣うクラスメイトもいた。
 徐々に教室内は騒がしくなっていく。
「おはよう、星子ちゃん」
 咲菜が登校してきていた。
「おはよう、咲菜ちゃん」
「体調、大丈夫だった? 連絡しようと思ってたのに、寝てたら悪いかと思って……」
 咲菜は両手を合わせた。爪が薄いピンクベージュに染まっている。派手ではなかった。校則違反だろうが、こういったものに疎い担任の先生と、生徒指導主任は欺けそうだ。
「気にしないで。それより、爪、可愛いね。よく似合ってる」
「ありがとう。鷲羽さんにいいポリッシュ教えてもらったのよ。最近、ハマってるんだって。塗ってもらったの」
 咲菜は気に入っているようだった。自身の爪を眺め、よく濡れた瞳を輝かせている。
「そうなんだ」
 咲菜は星子を見た。そしてネクタリンよろしく色付いた唇を開きかける。
「咲にゃん、こっちおいで~」
 鷲羽さんが呼んだ。他にも2人の女子と会話の最中のようだった。咲菜の眉が一瞬、引き攣る。
「あ、でも……」
 彼女は鷲羽さんと星子の狭間で、顔を左右させる。
「わたしトイレ行ってくるね」
 星子は席を立った。咲菜に手を振る。戸惑う必要はないというのに、彼女は困惑していた。
「星子ちゃん……!」
「うん?」
『咲にゃん、早く~』
「な、なんでもないわ。気を付けてね……」
 星子は廊下に出た。7組から最も近いトイレは裏校舎だ。渡り廊下の半ばで立ち止まり、中庭を見下ろした。夏の日差しで蒸発しそうだった。何故、蒸発しないのだろう。蒸発し、雲になれたなら、誰も困る人はいない。叔父は責任感と義務感から解放される。しかし七尾は困るだろう。咲菜との接点を失ってしまうのだ。
 蒸発を果たし、雲になれるとしたら、それは七尾の恋が決着してからだ。彼は助けてくれたのだ。気を回してくれたのだ。心配をしてくれた。たとえそれが咲菜との恋路のためであろうとも、星子は嬉しかった。安らいだ。利用されるだけの価値があるならば、利用されるのが報恩だ。
「おはよう、星子ちゃん」
 上足サンダルが気の抜けた足音をたてる。笹森だ。ひとりでいる。トイレにでも行くのだろうか。教室でも、腹を壊しただの、便秘気味だのと言って、彼はトイレの同行を拒否している。
「おはよう……」
 星子は後退ってしまった。
「昨日休んじゃったんだ?」
 笹森は轆轤首(ろくろくび)よろしく星子の顔を覗き込む。落ち窪んだ目元といい、青白い顔色といい、まさに妖怪のような退廃的な雰囲気を帯びている。
「ちょっと体調、崩しちゃって……」
「体調不良、ツラいよね」
 しかし吐きはしなかった。立ち眩みも起こしていない。
「は………ハハハ……」
 笹森の温容が凍てつく。
「"笹森くんほどじゃないよ"って、思ったでしょ、今」
「そんな……」
「嫌な女」
「ごめん………なさい………」
 笹森は色の悪い唇で嗤っている。痩けた頬はまだ持ち上がるようだった。けれども淀んだアーモンド色の眼に喜楽はない。
「昨日はお節介な人がいなくて快適だった。みんな心配してくれてると思った?」
「そんなこと、ないよ……」
 七尾は、笹森が気にかけているというようなことを言った。それもまた彼の優しい嘘だったのだ。実際の笹森は反対だったではないか。だが何故、七尾の嘘を恨めるだろう。たとえ七尾が恋路のために友情を取り繕おうとも、彼の本心は優しい。
「琴峯(ことみね)さんから、連絡もらえたの?」
  笹森の口から咲菜の名前が出たことに、星子はたじろいだ。
「琴峯さん、昨日は鷲羽ちゃんたちとお泊まり勉強会だもん。誘われなかったの? 可哀想。お休みだったもんね。あ、でも来てても、誘われなかったかぁ」
 笹森は、外貌こそ体調不良者だったが、その声音、その態度、その空気感は活気の盛んな若者以上に溌剌としていた。
「うん……誘われなかった、と……思う」
 喉が痞(つか)える。
「可哀想」
「可哀想じゃ、ないよ……」
 七尾は家に来た。叔父は世話をしてくれた。
「七尾が家行ったの?」
 笹森の「W」字の口元が引き結ばれている。唇は逆剥け、罅割れている。痩けた頬には影が落ち、目元には色濃い隈が浮かぶ。
「え………いや、その………」
 事実無根の噂が流れている。七尾に迷惑がかかるかもしれない。しかし彼の訪問は事実なのだ。けれども事実がすべて事実として、正しく受け取られるとは限らない。
「寄っていくって、七尾、昨日、言ってたよ? 七尾には好きな人がいるんだよ、知ってた? だからね、星子ちゃん、勘違いしちゃダメだよ。先生が行けって言ったんだから、テスト前だし。大事なプリント、無いと困るだろ?」
 星子の頭には、まだ七尾の掌の重みがあった。骨張った叔父の薄く冷たい手とは質感が違う。
「………勘違い、しないよ………」
 七尾は優しい。嫌味のひとつも言わなかった。妹の学童保育所から遠回りをして炎天下を漕がされたというのに、労われてばかりいた。
「七尾は好きな人いるんだから、優しい優しい星子ちゃんなら、一緒に応援できるよね?」
 できなかった。七尾の好きな人は咲菜だ。そして咲菜は、今星子の目の前にいる笹森のことが好きなのだ。七尾の恋を応援するということは、咲菜の恋を応援しないということを意味するのだ。
「何。応援、できないの? まだ何か期待してる?」
「し、してない、よ………」
「そうだよね。琴峯さんにも選ばれない星子ちゃんだもん。鷲羽ちゃんにも誘われない星子ちゃんだもん。期待なんかするわけないよね。七尾みたいなぼくの次にモテるやつに選ばれるなんて……思うはずないよね。星子ちゃんは頭、良いもんね?」
 星子は俯いた。
「笹森くんの夢、みたの」
 笹森の薄ら笑いが消えた。
「ハァ?」
「笹森くんが夢に出てきたんだ」
「な、何言ってんの……」
 彼は声が低くなっていた。
『選ばれないのが怖かったんじゃないの』
 星子の喉はラムネ瓶と化した。ビー玉が邪魔をして、声が震える。
「選ばれないのが怖いんじゃないのって、笹森くん、言ったじゃない」
 口にすると、息が詰まる。家を出ていく母親と、児童養護施設から帰る父親の後姿が鮮明に甦る。
「……だから? 被害者ぶる気? 謝らないよ」
「そうじゃないよ。笹森くんのその言葉が、結構、その……印象に残ってて。それって多分、わたしのなかで、考えが甘かったってことなんだろうなって……だからちゃんと、心に刻み付けておかなきゃって思ったの」
 星子は戦慄く手で、張り詰めた胸を押さえる。
「なんだよ!」
 笹森は、彼女の肩を突き飛ばした。体調不良を隠せていないほどの体調不良者の力でも、性差は埋めがたかった。星子は後ろに足を出したが、バランスを崩す。彼女の身体は廊下に転がったが、咄嗟に手を出した。衝撃を受け止めた肘が跳ね、骨が軋んだ。手首に鈍い痛みが走った。
 だが星子はすぐに立ち上がった。手首が熱を持つ。背に隠してしまった。
「変なこと言ってごめん………」
「うざ……」
 笹森は踵を返した。教室へ戻っていく。トイレに行くのではなかったのか。そういう気分ではなくなったのか。
 星子もまた廊下を戻った。8組と共同の水場で手首を冷やす。
「星子」
 振り返ると、七尾が立っていた。
「おはよう。体調はもう大丈夫なのか」
 星子は目を逸らす。笹森は、七尾の恋路を応援しようと言った。けれど彼女にはできなかった。
「ああ、うん。昨日は、ありがとう。ごめんね、忙しいのに……」
「いいよ、別に。むしろ叔父さんにも気を遣わせたみたいで、悪かったな」
「叔父さんは七尾くんが来てくれて、喜んでたよ」
 笑みを作る。叔父が七尾の来訪を喜んでいたのは本当のことだ。だが七尾には苦労させた。恩着せがましいことのひとつも言わない。
 三白眼は流水に当てられた手を見遣る。
「火傷したのか」
「ちょっとぶつけちゃっただけ」
 七尾は滝行中の星子の手首を奪った。そして水道の栓を捻る。
「痛い?」
 浅黒い指が星子の手首を押す。鈍痛が込み上げる。
「ちょっと……」
「曲げると?」
「ちょっとだけ……」
「保健室行くぞ」
「平気、平気。そこまでじゃないよ」
「湿布、要るだろ」
「でも、半袖だし、目立つし……」
 星子は教室を窺う。扉の窓から笹森が来るのが見えた。
「笹森くん、七尾くんに用があるんじゃないかな? 心配してくれて、ありがとうね」
 星子の言葉で七尾の気が逸れた。彼の手を振り払う。
「ちゃんと治さねぇと長引くぞ」
「うん。ありがとう」
 教室の扉が開いた。笹森が七尾を呼ぶ。
「何してんの? おアツいね」
「星子が手首、怪我したみたいだから」
「えっ。骨折?」
 笹森は目を眇(すが)める。星子は後退った。
「違うよ。何でも、ないよ……」
 彼女は教室に戻った。冷気の飛んだ手首が徐々に熱を持ち、脈を打つ。痛みが混じる。
 チャイムが鳴った。

 授業が始まったとき、星子はペンを握れなかった。筆記が手首にまで干渉するとは考えが及ばなかった。
 七尾は正しかった。そして正しい彼に背き、また失敗している。
 星子は灼熱感と疼痛を撫で摩する。
『先生ぇ!』
 笹森が手を挙げた。一斉に視線を浴びる。
『白川(しらかわ)さんがお手々痛がってるんで、保健室連れて行っていいっすか?』
 今度は星子が一斉に視線を浴びた。だが彼女はぼんやりと広げた教科書を凝らしていた。" シラカワサン"が誰なのか、彼女は分かっていなかった。叔父の苗字は"宵岬(よいざき)"だ。重要でないときの記名は「宵岬星子」だ。叔父とは兄妹を偽る。説明が簡単だ。
 炎症の熱か摩擦熱か分からなくなっていた。 摩する手を止められる。
「白川さん、保健室、行くよ」
< 11 / 20 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop