my天の川に流るる
9
◇
勉強を教えてくれませんか。
月也(つきや)が教室までやって来た。
星子(しょうこ)は呆気にとられる。
月也は中学時代、2年連続で生徒会役員だった。それはつまり、内申点のみならず学力の高さも意味するはずだ。星子の見てきた生徒会役員とは漏れなく成績優秀者だった。
「わたしが教えられることなんてないよ」
1年生時代の授業内容など疾(と)うに忘れている。
ふっさりとした長い睫毛に覆われた目が星子の奥に泳ぐ。
振り向くと、席に座る七尾が爪を見ていた。
「七尾先輩って成績どうなんですか」
「さぁ? このクラスだから理数系は得意だと思うけれど」
1年時の後期も後期に、志望大学の調査がある。この受験科目によって理数系クラスか文系クラスかが決まる。
「白川(しらかわ)先輩って理数系なんですね」
「ああ、わたしは進路決まってないから、一応」
大学受験をしないだけだ。
「合わなければ、文転できるし」
「進路、決まってないんですね」
月也は星子を覗く。それから眉を下げた。彼は星子の家庭事情を知っている。中学時代に話したことがある。
「いいえ、あの……」
彼もまた一人親家庭だ。その事情を起点に立ち回らなければならなかったことがある少年だった。
「でも、ある程度の成績はとっておかないといけないから。卒業できないと困るからね。勉強はしないと。ただ……教えられるほどは頭良くないの。ごめんね」
月也の肩に腕が回る。 星子は虚を突かれた。
衣替えだというのに従わず、未だに長袖を着ているのは笹森だ。
「やほ、後輩クン」
月也は、自身の肩に腕を回す上級生を見上げる。男女と紛うほどの体格差がある。
「こ、こんにちは……」
「星子ちゃんと勉強会がしたい。なるほど。その願い、叶えてしんぜよう」
月也は戸惑っている。勉強会がしたいとまでは彼は言っていない。
「ああ、ごめんね、月也くん。この人は笹森くん。同じクラスの……」
「笹森ガールズと勉強会なら、まずぼくを通さないと」
「はあ、すみません……」
「別に謝ることじゃなくて……」
「この笹森くんに任せなさい。数学5位の、このぼくに」
「え、数学5位なの?」
「数学5位なんですか」
月也と同時に同じ感想が出る。
「イエス」
笹森は親指を立てる。まだ爪を気にしている七尾を向いた。
「七尾!」
「何」
七尾は指先から目を離さない。
「ネイルでもしたんかい?」
「逆剥けがある」
三白眼が四指から持ち上がる。
「勉強会するぞ」
笹森の誘いに七尾は欠伸をした。
「なんで?」
「後輩のために一肌脱ぐのが先輩だろうが」
「1年に三角関数教えろってか?」
「ノり気じゃないね」
笹森は七尾に背を向け、星子たちに向き直る。
「数学Aはぼくが教えてあげる。こうでもしないとマジで勉強しないしね」
「別に、教えないとは言ってない」
七尾は椅子から尻を上げ、月也の前に立つ。
「三角比の表、憶えてんのか」
「はい」
「憶えなくていい」
七尾はそれだけ言ってまだ戻っていった。月也は立ち尽くしている。
「あいつ暗記科目マジで嫌いだからその辺は頼るなよ」
笹森の言葉に、月也より先に星子が反応した。
「そうなんだ?」
「理数系だけなら上から数えたほうが早いけど……ま、そういうこってす」
勉強会に咲菜も誘ったが、彼女は他の友人と約束をしたのだという。最近、咲菜は同じクラスの鷲羽(わしゅう)さんと仲が良かった。
昼食も誘われているようだった。咲菜が板挟みになる。星子は用事があると言って体育館裏を練り歩く。
咲菜は元々、クラスを率いるような賑やかな女子たちから一目置かれていた。彼女が内向的だったからこそ、共にいられた相手なのだ。咲菜に選ばれ、軈(やが)て彼女が外側の世界を選んだだけのことなのだ。
放課後はごった返す部室棟が、昼飯時は閑散として、体育館の青い陰を被っている。閉鎖されたプールの白い壁が眩しいほどの純白を放っている。
今年の7月は涼しいようだ。
サッカー部の1年の着替え場所にされている体育館脇のピロティは、コンクリートの屋根もあり、縁石に囲まれ、悪くなかった。この縁石に腰を下ろす。
保冷バッグから弁当箱を出す。入学初日も一人で弁当を食らった。叔父の土産の弁当箱とハンカチーフ。恥じることは星子にはなかった。だが一人で弁当を食らうことは恥ずかしいことなのだと知った日でもある。
その常識を知らなかったことが最も恥ずかしいことだった。
『ぉえ………ぉお、………っおぇ………』
近くで、誰かの嘔吐(えづ)きが聞こえた。
そして流水音がするやいなや、継続的なカエルの鳴き声があった。流水音とはまた別の響きを持っていた。
何者かが吐いている。例年より気温が低くとも、今日は快晴だ。暑気中(しょきあた)りはある。
星子は箸を止めた。
『ぉえ…………』
もう一度、吐瀉の音が響き渡る。水道が唸り、清涼感すら覚えた。
星子は弁当の蓋を閉じた。立ち上がる。体育館とプール棟の間の通路から人影が現れる。
青白い顔がまず目に入った。紫色の唇が慄(ふる)えている。明るい茶髪と、アーモンド色の双眸(そうぼう)を認めた途端、星子は後退った。
「あれ、星子ちゃん。どうしたの。こんなところで」
日光を浴びて照り返すプールの壁にそのまま透けていきそうな笹森に彼女はたじろぐ。
「笹森くんこそ………」
声が震えた。膝に力が入らない。色濃い隈を浮かべながら、笑っている。
「さっき誰か吐いてたね」
笹森はまるで他人事だった。星子は胸元を握ってしまった。彼は吐いた者を見ているはずだ。吐いた者を見たどころか――
「熱中症、怖いねぇ」
星子は頷いた。首が据わらなくなる。
「な、七尾くんは……」
何を言っていいのか分からなくなった。
「校庭にいるんじゃない? なんで今日はここなの、星子ちゃん。ああ、あそこ日向だもんな……」
地面が擦れる。笹森の身体が傾く。
「笹森くん、ちょっと、……!」
咄嗟にその腕を掴んでしまった。笹森もまた星子の肩に掴まる。支えながら、ピロティの縁石に座らせる。弁当箱に添えていた保冷剤をハンカチーフに包み、首に当てる。
「大丈夫……熱中症じゃないから」
彼は目元に腕を当て、柱に凭れかかった。目立った発汗はない。ただ顔が青白く、唇が青い。
「先生、呼んでくるよ」
星子は身体を半転させ、立ち上がろうとした。だが腕を引かれる。体調不良者の膂力(りょりょく)ではなかった。
「いいよ。呼ばないで。大したことじゃないんだよ。徹夜、徹夜。テストのプレッシャーがヤバくて徹夜で猛勉してただけ、へへへ。期末テストの結果は期待しててよ……今度は七尾に勝つ。ははは」
笹森は目元を隠したまま、大きく息を吸う。胸元が大きく浮沈する。
「あいつにはナイショだよ? 猛勉してるなんて恥ずかしいから」
「うん………」
星子は笹森から目を離せなかった。余所見をすればコンクリートの地面と柱に染み込んでいってしまいそうだ。
「努力家なんだね……」
人は徹夜で勉強をすると吐くらしい。笹森の母親は日本舞踊の先生だと言っていた。世間体というものがあるのだろう。星子には他にかける言葉がなかった。
「努力じゃどうにもならないこと、あるのにね」
星子は笹森を見下ろす。頭の中は彼の顔色同様に白くなっていた。吐いていたのは彼ではなかろうか。
「拝んでも祈っても願っても叶わないこと、いっぱいあるのにね」
彼は本当に勉学のことを言っているのだろうか。彼は決して頭は悪くない。成績に固執する様子は今まで一度も見たことがなかった。そういうクラスメイトは目立たなくとも目立つものだ。留年の危機にあるほどの学力でもない。そういうクラスメイトもまた目立つものなのだ。
「白川さんは、進路は……」
「決まってないよ」
決まっている。就職活動をすることになる。
「そっか……」
「ねぇ、笹森くん……何か飲んだほうが良いんじゃないかな。わたし、買ってこようか……?」
彼の手が星子をさらに強く掴む。握られたままでいたことを忘れていた。
「さっき水道水飲んだから平気。日本の水道はお外のでも本当に綺麗。この国に生まれてよかったなぁ……」
昼休みが終わる頃に、笹森は立ち上がり、頬を叩いて、教室に戻っていった。
授業中の笹森はいつもどおりだった。顔色は悪いが、唇の色はある程度戻っている。
秘しておくよう言っていた徹夜と猛勉強も自ら友人たちに話している。
「おいってば」
頭に教科書が乗る。
「はぇ、七尾くん」
辺りを見回すと咲菜が立っている。
「ありがと、ふ、文貴(ふみき)、くん……」
「おう」
七尾が去っていく。
「ああ、ごめん、咲菜ちゃん。ぼーっとしてた」
「お昼、大丈夫だった? ごめんね……」
咲菜は小さく細い手を合わせる。
「気にしないで。平気、平気。色々校庭回ってみるのも楽しいよ」
咲菜はあるべき集団に還っただけだ。魅力のある彼女を引き留められるだけの資質が星子にはない。華やかさはない、流行には疎い、共通の友人や話題は少ない。隣の市から通っている星子はそもそも土台から違った。
「咲菜ちゃん。こっちおいでよ」
最近咲菜と仲の良い鷲羽さんが呼んだ。星子と鷲羽さんの間で戸惑っている。
「鷲羽さん呼んでるし、行ってきなよ」
「ごめんね、星子ちゃん」
咲菜はまた両手を合わせ、鷲羽さんの席に向かった。鷲羽さんは華やかで、咲菜の中学時代の学区とも近かったはずだ。見たところ友人も多い。よく笑い、よく話す。咲菜には似合っている。
星子は次の授業の用意をはじめた。ロッカーを漁っていると、廊下から呼ばれる。玄山月也が立っていた。
「月也くん。どうしたの?」
また数学Aを借りにきたのだろうか。今日こそは数学Aを持ってきていた。
「さっきの時間、調理実習でクッキー作ったんです。白川先輩と、この前お世話になったので七尾先輩と、勉強会開いてくださるそうなので、あの派手な先輩にも」
月也は教室の奥で友人に囲まれ談笑している笹森を掌で差した。
「へぇ~。ありがとう。渡しておくね。クッキー作るんだ。わたしたちのときはきゅうりの早切りだったのに」
星型に刳り抜かれたクッキーの袋を渡される。星子は仕上がりを眺めた。
「え、そうなんですか」
「うん。1分間で70枚切れたら合格だったかな」
よく焼けている。どころどころ焼けすぎて色を濃くしているのもまた素朴な感じがある。
「ありがとうね。わたし手作りクッキー好きなんだ。美味しくいただくよ」
「そんな大したものじゃないですよ。班で作ったんですけど、残り時間はテスト勉強に充てて良いということになったので、みんな計量とか焼き時間とか大雑把で……」
「美味しければいいんだよ、美味しければ。見た目もかわいいし。何より、わたしのこと思い出してくれて嬉しかった。ありがとう」
月也は微笑する。綿飴の繊細な一筋一筋が解き解(ほぐ)されるかのようだった。
「勉強会のときに、また」
彼は柔軟剤の香りを残して帰っていく。
3つの袋を抱え、まず七尾の席に向かった。
「七尾くん」
頬杖をついて所在なく黒板を凝視していた七尾が三白眼だけ星子によこす。
「後輩のつき……玄山くんから」
「なんで俺に」
「教科書のお礼だって」
「ほぉーん。女子みたいだな」
三白眼が受け取ったクッキーを品定めしている。
「調理実習だって」
「調理実習? クッキーなんか作ったか?」
「去年とは違うみたい。きゅうり切ったよね、確か」
「憶えてない」
星子は七尾の席から笹森に向かっていったが、男子の集団に囲まれていた。星子は咲菜のことが言えない。男子と話すのが得意ではなかった。声をかけるのも然り。
「五百鈴(いおり)!」
七尾の大声が教室内に谺(こだま)する。男子の談笑が止む。
「んー?」
「ん」
笹森が七尾を向く。七尾が星子を顎で差す。
「どったの、星子ちゃん」
色素の薄い眸子(ぼうし)に剣呑(けんのん)な気配が滲んでいた。
「寝不足のぼくのセクシーさに気付いちゃったかな」
「これ、つ……玄山くんから。憶えてるかな、後輩の……」
「憶えてるけど、なんでぼく」
「勉強会のことで」
「なるほどね。びっくりした。ぼくのこと好きになっちゃったのかと思った」
笹森はクッキーを受け取った。差し伸ばされた指先が震えている。星子を思わずその顔を確かめてしまった。血走った眼差しが星子を圧(お)す。
渡す。震える指が離れていく。
「星子ちゃん可愛いから緊張しちゃった。手、震えてやんの~」
彼は自ら手を曝した。そして男子たちから誂(からか)われにいく。
咲菜は鷲羽さんと昼食だった。
星子はどこで弁当を食らうか、場所を探して構内を練り歩く。
天気は曇り。だが雨は降らないようだ。
部室棟と体育館裏の通路に差し掛かる。ピロティに人が倒れている。
「ひっ!」
星子は肝を潰した。駆け寄る。
「大丈夫ですか……!」
縁石の上で仰向けになっている人物は顔に乗せていた腕を退かす。笹森だ。よく見るとまだ衣替えに取り残され、長袖だ。
「あれ、白川さん」
肌は毳(けば)だち、唇は萎(しお)れている。「W」字の口は作られたものだったようだ。
「わ、びっくりした。笹森くんか……、倒れてるのかと思った」
「ただ寝てるだけ」
彼は寝ているべきだ。だがそれはアスファルトの褥(しとね)ではない。
「保健室、行ったら……?」
「平気!」
彼は語気を強めた。聞き飽きたとばかりである。口煩いとばかりだった。
「そ、そう…、お邪魔しちゃってごめんなさい」
星子は立ち去ろうとした。今日は曇りだ。ピロティの反対側ならば、日向というほどの日光はなく、笹森の邪魔にはならない。
「ここでお昼ごはんにしたら」
「でも、お休みのところ、悪いし……」
「いいよ、別に。琴峯(ことみね)さんは?」
寝転がり、顔を隠したまま彼は訊ねた。
「鷲羽さんと食べるって」
「白川さん放(ほ)っぽって?」
咲菜への非難に聞こえた。そしてそうなるよう誘導した言い方をしたのかもしれない。
「鷲羽さんに誘われてて、咲菜ちゃん、困ってる気がしたから。選ばせるの、大変だもの」
「選ばれないのが怖かったんじゃないの」
笹森の萎びた唇から矢が放たれ、星子の心臓を射ち抜く。
父親も母親も、各々に新たな家庭を持った。少なくとも母親のほうには新たな娘か息子が誕生している。叔父は何も言わないが、おそらくそうだ。そのような話をしているのを聞いてしまったことがある。
脳裏に、小さくなっていく車が甦る。
「……そうかも」
咲菜の所為にしようとした。為倒(ためごか)しだ。偽善だ。
「選ばれないの、怖かったから……自分から離れてきちゃったの。咲菜ちゃんの所為じゃないよね」
保冷バッグを握った手が痺れる。昨日買い、今朝弁当箱に詰めた新商品の冷凍食品への期待を、今はもう忘れてしまった。
「選ばれないの怖かったし、分かってたから……アハハ」
「あれだけ仲良くしといて、なんで?」
星子は首を軋ませ、笹森を窺う。
「だって琴峯さん、星子ちゃんとすごい仲良かったのに、なんで鷲羽さん選ぶの」
「咲菜ちゃんは、もともと、1軍女子にいるはずの子だったってだけ……」
「それじゃあ白川さんはこれから独りなの? ぼっち飯?」
「うん……」
保冷バッグが、用済みの荷物に思えた。
「可哀想な星子ちゃん」
「可哀想じゃ、ないよ。全然」
叔父は毎月、そして出掛けるたびに小遣いを与えてくれる。食うにも着るにも困ったことはない。月に一度は車で観光地に連れ回してくれる。15歳も歳が離れていないのだ。クラス担任よりも若い叔父なのだ。尽くしてくれている。可哀想なはずはない。憐れまれる謂れはない。だが仕方がない。慣れたことだ。
「誰にも選ばれないのに、可哀想じゃないんだ」
「誰にも選ばれなかったわけじゃ、ないよ」
父親にも母親にも選ばれず、おそらく咲菜からも選ばれないが、叔父からは選ばれた。
「じゃあ誰に選ばれたの? 誰?」
だが彼女は答えられなかった。
「琴峯さんとも、七尾とも上っ面の関係だったんだね」
星子は足元の蟻を見詰めていた。笹森は機嫌が悪いようだ。
「上辺だけの関係かもしれないけれど、みんな好くしてくれたから……」
「やっぱり上辺だけの関係だと思った。やっぱりそうなんだ。認めちゃうんだ」
七尾が気遣いをくれるのは、咲菜と仲が良いからだ。小学時代、中学時代が同じの男子は他クラスにも4人ほどいる。だが彼等と仲が良いかといえば、会えば挨拶を交わしはするけれども、祭りに出掛けたりはしない。
「上辺だけの関係は、ダメ……かな」
友人の多い笹森こそが模範解答だ。笹森の回答が正しい。何故ならば笹森は友人が多いからだ。友人の少ない星子では味わうことのなかった経験が豊富にあるはずなのだ。
「星子ちゃんはそれで満足かもしれないけどさ、2人はどうなのさ。利用してるってことだよね、2人を」
視界に罅(ひび)が入っていく。そして割れていく。
「わ、わたし……咲菜ちゃんたちを………」
「利用してるんだよ。自分勝手な星子ちゃん。可哀想な星子ちゃん。一人ぼっちの星子ちゃん」
笹森は頭を押さえ、高らかに笑い始めた。そして突然、鎮まり、胸板を浮沈させる。
「謝らなきゃ……」
「謝る必要なんてない。だってあの2人も星子ちゃんのこと、利用してるワケでしょ。今だってそうじゃない。琴峯さんは鷲羽さんから誘われるまで、ぼっちの星子ちゃんを宿り木にしてさ。七尾だって琴峯さんにかっこつけたいから、ドジでマヌケな星子ちゃんで点数稼いでるだけ……違う?」
「咲菜ちゃんたちのこと、悪く言わないで……咲菜ちゃんは優しい子だよ。最近になってもっと明るくなったの。七尾くんだって、わたしなんか利用しなくてもかっこよかった」
笹森は上体を起こした。冷徹な目と視線がぶつかる。星子は怖くなった。腰を浮かす。
萎びた唇が「W」字を作る。震える指先が星子に伸びた。彼女の頬を連打する。
「ぽよぽよぽよぽよぽよ……」
笹森は嗤っている。
「意地悪言ってごめんね、星子ちゃん。星子ちゃんがあんまりに健気(けなげ)だから、ちょっとイジメたくなっちゃったの。赦してにゃん」
散々星子の頬を突つくと、溜息を吐いて放した。柱まで身体を引き摺り、凭れかかる。
「……大丈夫……?」
「大丈夫じゃないって言ったら、膝枕してくれる?」
笹森は鑢(やすり)のような肌で笑っている。
「笹森くん……最近、具合悪そうだよ……」
「そんなの、ぼくが一番知ってる」
彼はまだ笑っている。
「どうして、保健室、行かないの……? 恥ずかしい……?」
笹森は深呼吸をする。発汗はない。顔色が悪い。手が震えている。頻りに額を撫でるのは頭痛がするのだろうか。
「保健室で何ができんの? これ、薬の副作用だよ……?」
彼はシャツに手をやった。ボタンを外そうとしている。だが指が縺れていた。星子は手を伸ばす。だが振り払われる。
「ここより、保健室のほうがいいよ。こんな硬いところで寝てたら、骨も痛くしちゃうよ……」
「こんなところ、みんなにバレたら、腫れ物になっちゃうだろ。ぼっちの星子ちゃんには分からないよね」
多数の友人に恵まれた笹森のその言い分が、やはり星子には分からなかった。笹森の言うとおりだ。
「でも……」
「放っておいて。ぼくをおかずにごはん食べてなよ。今星子ちゃんはね、ぼくの弱み握ってるんだから……ごはん美味しいでしょ」
空腹も食欲もどこかへ消えていた。
「なんで、そんな……」
「黙ってて。お願い、黙ってて。言わないで」
振り払った星子の手を彼は鷲掴む。
言わないで済むだろうか。言わないでいることに後悔はないだろうか。
「お願い……! なんでもするからさ……」
握る力が強くなる。手が震えている。大した力ではなかった。全力を出せば、今すぐに剥がせてしまう力だった。けれども笹森は肩を張り、力を込めているつもりなのだ。
「……分かった。でも1つだけ、条件があるの」
腕に纏わりつく力が緩む。ただ振動が与えられる。
「何………」
明るい茶色の瞳が重げに閉じた。彼は柱に頭を預け、晒された喉笛では首玉が慎重に転がる。
「屋外は危ないから、屋内で寝たほうがいいよ。夏だし……」
「誰かに見られるじゃん」
「笹森くんとも、上辺の関係かもしれないけど、笹森くん……わたし、たなばた祭りのときに、笹森くんが短冊持ってきてくれたこと、すごく嬉しかったんだ。上辺でもそれは嘘じゃないからさ。笹森くんにはちゃんと、日陰で、暑くないところで休んでてほしいんだよ」
笹森は柱から背中を離した。向き合う。
「偽善者!」
彼は叫んだ。星子は身を竦めた。
「良い子ぶるな」
「ご………ごめんなさい………」
「赦してあげる。弱み握ってるのは星子ちゃんのほうだから……」
彼は壁伝いに立ち上がった。
「星子ちゃんいじめたらちょっと元気になったわ。ははは、ありがと……」
蹌踉(そうろう)とした足取りで笹森はどこかへ消えていく。
勉強を教えてくれませんか。
月也(つきや)が教室までやって来た。
星子(しょうこ)は呆気にとられる。
月也は中学時代、2年連続で生徒会役員だった。それはつまり、内申点のみならず学力の高さも意味するはずだ。星子の見てきた生徒会役員とは漏れなく成績優秀者だった。
「わたしが教えられることなんてないよ」
1年生時代の授業内容など疾(と)うに忘れている。
ふっさりとした長い睫毛に覆われた目が星子の奥に泳ぐ。
振り向くと、席に座る七尾が爪を見ていた。
「七尾先輩って成績どうなんですか」
「さぁ? このクラスだから理数系は得意だと思うけれど」
1年時の後期も後期に、志望大学の調査がある。この受験科目によって理数系クラスか文系クラスかが決まる。
「白川(しらかわ)先輩って理数系なんですね」
「ああ、わたしは進路決まってないから、一応」
大学受験をしないだけだ。
「合わなければ、文転できるし」
「進路、決まってないんですね」
月也は星子を覗く。それから眉を下げた。彼は星子の家庭事情を知っている。中学時代に話したことがある。
「いいえ、あの……」
彼もまた一人親家庭だ。その事情を起点に立ち回らなければならなかったことがある少年だった。
「でも、ある程度の成績はとっておかないといけないから。卒業できないと困るからね。勉強はしないと。ただ……教えられるほどは頭良くないの。ごめんね」
月也の肩に腕が回る。 星子は虚を突かれた。
衣替えだというのに従わず、未だに長袖を着ているのは笹森だ。
「やほ、後輩クン」
月也は、自身の肩に腕を回す上級生を見上げる。男女と紛うほどの体格差がある。
「こ、こんにちは……」
「星子ちゃんと勉強会がしたい。なるほど。その願い、叶えてしんぜよう」
月也は戸惑っている。勉強会がしたいとまでは彼は言っていない。
「ああ、ごめんね、月也くん。この人は笹森くん。同じクラスの……」
「笹森ガールズと勉強会なら、まずぼくを通さないと」
「はあ、すみません……」
「別に謝ることじゃなくて……」
「この笹森くんに任せなさい。数学5位の、このぼくに」
「え、数学5位なの?」
「数学5位なんですか」
月也と同時に同じ感想が出る。
「イエス」
笹森は親指を立てる。まだ爪を気にしている七尾を向いた。
「七尾!」
「何」
七尾は指先から目を離さない。
「ネイルでもしたんかい?」
「逆剥けがある」
三白眼が四指から持ち上がる。
「勉強会するぞ」
笹森の誘いに七尾は欠伸をした。
「なんで?」
「後輩のために一肌脱ぐのが先輩だろうが」
「1年に三角関数教えろってか?」
「ノり気じゃないね」
笹森は七尾に背を向け、星子たちに向き直る。
「数学Aはぼくが教えてあげる。こうでもしないとマジで勉強しないしね」
「別に、教えないとは言ってない」
七尾は椅子から尻を上げ、月也の前に立つ。
「三角比の表、憶えてんのか」
「はい」
「憶えなくていい」
七尾はそれだけ言ってまだ戻っていった。月也は立ち尽くしている。
「あいつ暗記科目マジで嫌いだからその辺は頼るなよ」
笹森の言葉に、月也より先に星子が反応した。
「そうなんだ?」
「理数系だけなら上から数えたほうが早いけど……ま、そういうこってす」
勉強会に咲菜も誘ったが、彼女は他の友人と約束をしたのだという。最近、咲菜は同じクラスの鷲羽(わしゅう)さんと仲が良かった。
昼食も誘われているようだった。咲菜が板挟みになる。星子は用事があると言って体育館裏を練り歩く。
咲菜は元々、クラスを率いるような賑やかな女子たちから一目置かれていた。彼女が内向的だったからこそ、共にいられた相手なのだ。咲菜に選ばれ、軈(やが)て彼女が外側の世界を選んだだけのことなのだ。
放課後はごった返す部室棟が、昼飯時は閑散として、体育館の青い陰を被っている。閉鎖されたプールの白い壁が眩しいほどの純白を放っている。
今年の7月は涼しいようだ。
サッカー部の1年の着替え場所にされている体育館脇のピロティは、コンクリートの屋根もあり、縁石に囲まれ、悪くなかった。この縁石に腰を下ろす。
保冷バッグから弁当箱を出す。入学初日も一人で弁当を食らった。叔父の土産の弁当箱とハンカチーフ。恥じることは星子にはなかった。だが一人で弁当を食らうことは恥ずかしいことなのだと知った日でもある。
その常識を知らなかったことが最も恥ずかしいことだった。
『ぉえ………ぉお、………っおぇ………』
近くで、誰かの嘔吐(えづ)きが聞こえた。
そして流水音がするやいなや、継続的なカエルの鳴き声があった。流水音とはまた別の響きを持っていた。
何者かが吐いている。例年より気温が低くとも、今日は快晴だ。暑気中(しょきあた)りはある。
星子は箸を止めた。
『ぉえ…………』
もう一度、吐瀉の音が響き渡る。水道が唸り、清涼感すら覚えた。
星子は弁当の蓋を閉じた。立ち上がる。体育館とプール棟の間の通路から人影が現れる。
青白い顔がまず目に入った。紫色の唇が慄(ふる)えている。明るい茶髪と、アーモンド色の双眸(そうぼう)を認めた途端、星子は後退った。
「あれ、星子ちゃん。どうしたの。こんなところで」
日光を浴びて照り返すプールの壁にそのまま透けていきそうな笹森に彼女はたじろぐ。
「笹森くんこそ………」
声が震えた。膝に力が入らない。色濃い隈を浮かべながら、笑っている。
「さっき誰か吐いてたね」
笹森はまるで他人事だった。星子は胸元を握ってしまった。彼は吐いた者を見ているはずだ。吐いた者を見たどころか――
「熱中症、怖いねぇ」
星子は頷いた。首が据わらなくなる。
「な、七尾くんは……」
何を言っていいのか分からなくなった。
「校庭にいるんじゃない? なんで今日はここなの、星子ちゃん。ああ、あそこ日向だもんな……」
地面が擦れる。笹森の身体が傾く。
「笹森くん、ちょっと、……!」
咄嗟にその腕を掴んでしまった。笹森もまた星子の肩に掴まる。支えながら、ピロティの縁石に座らせる。弁当箱に添えていた保冷剤をハンカチーフに包み、首に当てる。
「大丈夫……熱中症じゃないから」
彼は目元に腕を当て、柱に凭れかかった。目立った発汗はない。ただ顔が青白く、唇が青い。
「先生、呼んでくるよ」
星子は身体を半転させ、立ち上がろうとした。だが腕を引かれる。体調不良者の膂力(りょりょく)ではなかった。
「いいよ。呼ばないで。大したことじゃないんだよ。徹夜、徹夜。テストのプレッシャーがヤバくて徹夜で猛勉してただけ、へへへ。期末テストの結果は期待しててよ……今度は七尾に勝つ。ははは」
笹森は目元を隠したまま、大きく息を吸う。胸元が大きく浮沈する。
「あいつにはナイショだよ? 猛勉してるなんて恥ずかしいから」
「うん………」
星子は笹森から目を離せなかった。余所見をすればコンクリートの地面と柱に染み込んでいってしまいそうだ。
「努力家なんだね……」
人は徹夜で勉強をすると吐くらしい。笹森の母親は日本舞踊の先生だと言っていた。世間体というものがあるのだろう。星子には他にかける言葉がなかった。
「努力じゃどうにもならないこと、あるのにね」
星子は笹森を見下ろす。頭の中は彼の顔色同様に白くなっていた。吐いていたのは彼ではなかろうか。
「拝んでも祈っても願っても叶わないこと、いっぱいあるのにね」
彼は本当に勉学のことを言っているのだろうか。彼は決して頭は悪くない。成績に固執する様子は今まで一度も見たことがなかった。そういうクラスメイトは目立たなくとも目立つものだ。留年の危機にあるほどの学力でもない。そういうクラスメイトもまた目立つものなのだ。
「白川さんは、進路は……」
「決まってないよ」
決まっている。就職活動をすることになる。
「そっか……」
「ねぇ、笹森くん……何か飲んだほうが良いんじゃないかな。わたし、買ってこようか……?」
彼の手が星子をさらに強く掴む。握られたままでいたことを忘れていた。
「さっき水道水飲んだから平気。日本の水道はお外のでも本当に綺麗。この国に生まれてよかったなぁ……」
昼休みが終わる頃に、笹森は立ち上がり、頬を叩いて、教室に戻っていった。
授業中の笹森はいつもどおりだった。顔色は悪いが、唇の色はある程度戻っている。
秘しておくよう言っていた徹夜と猛勉強も自ら友人たちに話している。
「おいってば」
頭に教科書が乗る。
「はぇ、七尾くん」
辺りを見回すと咲菜が立っている。
「ありがと、ふ、文貴(ふみき)、くん……」
「おう」
七尾が去っていく。
「ああ、ごめん、咲菜ちゃん。ぼーっとしてた」
「お昼、大丈夫だった? ごめんね……」
咲菜は小さく細い手を合わせる。
「気にしないで。平気、平気。色々校庭回ってみるのも楽しいよ」
咲菜はあるべき集団に還っただけだ。魅力のある彼女を引き留められるだけの資質が星子にはない。華やかさはない、流行には疎い、共通の友人や話題は少ない。隣の市から通っている星子はそもそも土台から違った。
「咲菜ちゃん。こっちおいでよ」
最近咲菜と仲の良い鷲羽さんが呼んだ。星子と鷲羽さんの間で戸惑っている。
「鷲羽さん呼んでるし、行ってきなよ」
「ごめんね、星子ちゃん」
咲菜はまた両手を合わせ、鷲羽さんの席に向かった。鷲羽さんは華やかで、咲菜の中学時代の学区とも近かったはずだ。見たところ友人も多い。よく笑い、よく話す。咲菜には似合っている。
星子は次の授業の用意をはじめた。ロッカーを漁っていると、廊下から呼ばれる。玄山月也が立っていた。
「月也くん。どうしたの?」
また数学Aを借りにきたのだろうか。今日こそは数学Aを持ってきていた。
「さっきの時間、調理実習でクッキー作ったんです。白川先輩と、この前お世話になったので七尾先輩と、勉強会開いてくださるそうなので、あの派手な先輩にも」
月也は教室の奥で友人に囲まれ談笑している笹森を掌で差した。
「へぇ~。ありがとう。渡しておくね。クッキー作るんだ。わたしたちのときはきゅうりの早切りだったのに」
星型に刳り抜かれたクッキーの袋を渡される。星子は仕上がりを眺めた。
「え、そうなんですか」
「うん。1分間で70枚切れたら合格だったかな」
よく焼けている。どころどころ焼けすぎて色を濃くしているのもまた素朴な感じがある。
「ありがとうね。わたし手作りクッキー好きなんだ。美味しくいただくよ」
「そんな大したものじゃないですよ。班で作ったんですけど、残り時間はテスト勉強に充てて良いということになったので、みんな計量とか焼き時間とか大雑把で……」
「美味しければいいんだよ、美味しければ。見た目もかわいいし。何より、わたしのこと思い出してくれて嬉しかった。ありがとう」
月也は微笑する。綿飴の繊細な一筋一筋が解き解(ほぐ)されるかのようだった。
「勉強会のときに、また」
彼は柔軟剤の香りを残して帰っていく。
3つの袋を抱え、まず七尾の席に向かった。
「七尾くん」
頬杖をついて所在なく黒板を凝視していた七尾が三白眼だけ星子によこす。
「後輩のつき……玄山くんから」
「なんで俺に」
「教科書のお礼だって」
「ほぉーん。女子みたいだな」
三白眼が受け取ったクッキーを品定めしている。
「調理実習だって」
「調理実習? クッキーなんか作ったか?」
「去年とは違うみたい。きゅうり切ったよね、確か」
「憶えてない」
星子は七尾の席から笹森に向かっていったが、男子の集団に囲まれていた。星子は咲菜のことが言えない。男子と話すのが得意ではなかった。声をかけるのも然り。
「五百鈴(いおり)!」
七尾の大声が教室内に谺(こだま)する。男子の談笑が止む。
「んー?」
「ん」
笹森が七尾を向く。七尾が星子を顎で差す。
「どったの、星子ちゃん」
色素の薄い眸子(ぼうし)に剣呑(けんのん)な気配が滲んでいた。
「寝不足のぼくのセクシーさに気付いちゃったかな」
「これ、つ……玄山くんから。憶えてるかな、後輩の……」
「憶えてるけど、なんでぼく」
「勉強会のことで」
「なるほどね。びっくりした。ぼくのこと好きになっちゃったのかと思った」
笹森はクッキーを受け取った。差し伸ばされた指先が震えている。星子を思わずその顔を確かめてしまった。血走った眼差しが星子を圧(お)す。
渡す。震える指が離れていく。
「星子ちゃん可愛いから緊張しちゃった。手、震えてやんの~」
彼は自ら手を曝した。そして男子たちから誂(からか)われにいく。
咲菜は鷲羽さんと昼食だった。
星子はどこで弁当を食らうか、場所を探して構内を練り歩く。
天気は曇り。だが雨は降らないようだ。
部室棟と体育館裏の通路に差し掛かる。ピロティに人が倒れている。
「ひっ!」
星子は肝を潰した。駆け寄る。
「大丈夫ですか……!」
縁石の上で仰向けになっている人物は顔に乗せていた腕を退かす。笹森だ。よく見るとまだ衣替えに取り残され、長袖だ。
「あれ、白川さん」
肌は毳(けば)だち、唇は萎(しお)れている。「W」字の口は作られたものだったようだ。
「わ、びっくりした。笹森くんか……、倒れてるのかと思った」
「ただ寝てるだけ」
彼は寝ているべきだ。だがそれはアスファルトの褥(しとね)ではない。
「保健室、行ったら……?」
「平気!」
彼は語気を強めた。聞き飽きたとばかりである。口煩いとばかりだった。
「そ、そう…、お邪魔しちゃってごめんなさい」
星子は立ち去ろうとした。今日は曇りだ。ピロティの反対側ならば、日向というほどの日光はなく、笹森の邪魔にはならない。
「ここでお昼ごはんにしたら」
「でも、お休みのところ、悪いし……」
「いいよ、別に。琴峯(ことみね)さんは?」
寝転がり、顔を隠したまま彼は訊ねた。
「鷲羽さんと食べるって」
「白川さん放(ほ)っぽって?」
咲菜への非難に聞こえた。そしてそうなるよう誘導した言い方をしたのかもしれない。
「鷲羽さんに誘われてて、咲菜ちゃん、困ってる気がしたから。選ばせるの、大変だもの」
「選ばれないのが怖かったんじゃないの」
笹森の萎びた唇から矢が放たれ、星子の心臓を射ち抜く。
父親も母親も、各々に新たな家庭を持った。少なくとも母親のほうには新たな娘か息子が誕生している。叔父は何も言わないが、おそらくそうだ。そのような話をしているのを聞いてしまったことがある。
脳裏に、小さくなっていく車が甦る。
「……そうかも」
咲菜の所為にしようとした。為倒(ためごか)しだ。偽善だ。
「選ばれないの、怖かったから……自分から離れてきちゃったの。咲菜ちゃんの所為じゃないよね」
保冷バッグを握った手が痺れる。昨日買い、今朝弁当箱に詰めた新商品の冷凍食品への期待を、今はもう忘れてしまった。
「選ばれないの怖かったし、分かってたから……アハハ」
「あれだけ仲良くしといて、なんで?」
星子は首を軋ませ、笹森を窺う。
「だって琴峯さん、星子ちゃんとすごい仲良かったのに、なんで鷲羽さん選ぶの」
「咲菜ちゃんは、もともと、1軍女子にいるはずの子だったってだけ……」
「それじゃあ白川さんはこれから独りなの? ぼっち飯?」
「うん……」
保冷バッグが、用済みの荷物に思えた。
「可哀想な星子ちゃん」
「可哀想じゃ、ないよ。全然」
叔父は毎月、そして出掛けるたびに小遣いを与えてくれる。食うにも着るにも困ったことはない。月に一度は車で観光地に連れ回してくれる。15歳も歳が離れていないのだ。クラス担任よりも若い叔父なのだ。尽くしてくれている。可哀想なはずはない。憐れまれる謂れはない。だが仕方がない。慣れたことだ。
「誰にも選ばれないのに、可哀想じゃないんだ」
「誰にも選ばれなかったわけじゃ、ないよ」
父親にも母親にも選ばれず、おそらく咲菜からも選ばれないが、叔父からは選ばれた。
「じゃあ誰に選ばれたの? 誰?」
だが彼女は答えられなかった。
「琴峯さんとも、七尾とも上っ面の関係だったんだね」
星子は足元の蟻を見詰めていた。笹森は機嫌が悪いようだ。
「上辺だけの関係かもしれないけれど、みんな好くしてくれたから……」
「やっぱり上辺だけの関係だと思った。やっぱりそうなんだ。認めちゃうんだ」
七尾が気遣いをくれるのは、咲菜と仲が良いからだ。小学時代、中学時代が同じの男子は他クラスにも4人ほどいる。だが彼等と仲が良いかといえば、会えば挨拶を交わしはするけれども、祭りに出掛けたりはしない。
「上辺だけの関係は、ダメ……かな」
友人の多い笹森こそが模範解答だ。笹森の回答が正しい。何故ならば笹森は友人が多いからだ。友人の少ない星子では味わうことのなかった経験が豊富にあるはずなのだ。
「星子ちゃんはそれで満足かもしれないけどさ、2人はどうなのさ。利用してるってことだよね、2人を」
視界に罅(ひび)が入っていく。そして割れていく。
「わ、わたし……咲菜ちゃんたちを………」
「利用してるんだよ。自分勝手な星子ちゃん。可哀想な星子ちゃん。一人ぼっちの星子ちゃん」
笹森は頭を押さえ、高らかに笑い始めた。そして突然、鎮まり、胸板を浮沈させる。
「謝らなきゃ……」
「謝る必要なんてない。だってあの2人も星子ちゃんのこと、利用してるワケでしょ。今だってそうじゃない。琴峯さんは鷲羽さんから誘われるまで、ぼっちの星子ちゃんを宿り木にしてさ。七尾だって琴峯さんにかっこつけたいから、ドジでマヌケな星子ちゃんで点数稼いでるだけ……違う?」
「咲菜ちゃんたちのこと、悪く言わないで……咲菜ちゃんは優しい子だよ。最近になってもっと明るくなったの。七尾くんだって、わたしなんか利用しなくてもかっこよかった」
笹森は上体を起こした。冷徹な目と視線がぶつかる。星子は怖くなった。腰を浮かす。
萎びた唇が「W」字を作る。震える指先が星子に伸びた。彼女の頬を連打する。
「ぽよぽよぽよぽよぽよ……」
笹森は嗤っている。
「意地悪言ってごめんね、星子ちゃん。星子ちゃんがあんまりに健気(けなげ)だから、ちょっとイジメたくなっちゃったの。赦してにゃん」
散々星子の頬を突つくと、溜息を吐いて放した。柱まで身体を引き摺り、凭れかかる。
「……大丈夫……?」
「大丈夫じゃないって言ったら、膝枕してくれる?」
笹森は鑢(やすり)のような肌で笑っている。
「笹森くん……最近、具合悪そうだよ……」
「そんなの、ぼくが一番知ってる」
彼はまだ笑っている。
「どうして、保健室、行かないの……? 恥ずかしい……?」
笹森は深呼吸をする。発汗はない。顔色が悪い。手が震えている。頻りに額を撫でるのは頭痛がするのだろうか。
「保健室で何ができんの? これ、薬の副作用だよ……?」
彼はシャツに手をやった。ボタンを外そうとしている。だが指が縺れていた。星子は手を伸ばす。だが振り払われる。
「ここより、保健室のほうがいいよ。こんな硬いところで寝てたら、骨も痛くしちゃうよ……」
「こんなところ、みんなにバレたら、腫れ物になっちゃうだろ。ぼっちの星子ちゃんには分からないよね」
多数の友人に恵まれた笹森のその言い分が、やはり星子には分からなかった。笹森の言うとおりだ。
「でも……」
「放っておいて。ぼくをおかずにごはん食べてなよ。今星子ちゃんはね、ぼくの弱み握ってるんだから……ごはん美味しいでしょ」
空腹も食欲もどこかへ消えていた。
「なんで、そんな……」
「黙ってて。お願い、黙ってて。言わないで」
振り払った星子の手を彼は鷲掴む。
言わないで済むだろうか。言わないでいることに後悔はないだろうか。
「お願い……! なんでもするからさ……」
握る力が強くなる。手が震えている。大した力ではなかった。全力を出せば、今すぐに剥がせてしまう力だった。けれども笹森は肩を張り、力を込めているつもりなのだ。
「……分かった。でも1つだけ、条件があるの」
腕に纏わりつく力が緩む。ただ振動が与えられる。
「何………」
明るい茶色の瞳が重げに閉じた。彼は柱に頭を預け、晒された喉笛では首玉が慎重に転がる。
「屋外は危ないから、屋内で寝たほうがいいよ。夏だし……」
「誰かに見られるじゃん」
「笹森くんとも、上辺の関係かもしれないけど、笹森くん……わたし、たなばた祭りのときに、笹森くんが短冊持ってきてくれたこと、すごく嬉しかったんだ。上辺でもそれは嘘じゃないからさ。笹森くんにはちゃんと、日陰で、暑くないところで休んでてほしいんだよ」
笹森は柱から背中を離した。向き合う。
「偽善者!」
彼は叫んだ。星子は身を竦めた。
「良い子ぶるな」
「ご………ごめんなさい………」
「赦してあげる。弱み握ってるのは星子ちゃんのほうだから……」
彼は壁伝いに立ち上がった。
「星子ちゃんいじめたらちょっと元気になったわ。ははは、ありがと……」
蹌踉(そうろう)とした足取りで笹森はどこかへ消えていく。