my天の川に流るる
12
星子(しょうこ)はアーモンド色の双眸を見上げた。手首の熱が消えていく。
「どうしたの、白川(しらかわ)さん」
保健室に行くべきは笹森のほうだ。
「行くよ、ほら」
"来いよ"。声は乗っていなかった。「W」字の笑みが解かれ、3文字を発した。
保健室に行きたいのは、彼なのではなかろうか。
「う、うん………」
先生に一言告げるため、顔を上げた。咲菜(さきな)と目が合う。小さな眉が垂れ下がっていた。彼女に悪い。
「先生、それじゃ、白川さんは連れて行きますんで」
彼は星子の痛む手首を引っ張った。
保健室の最短ルートは、7組と6組の間にある渡り廊下から裏校舎に渡り、1階まで下りる経路だ。
笹森に突き飛ばされた渡り廊下に差し掛かると、彼は手を放した。
「すごい被害者ぶるじゃん。本当に痛めてんの?」
色濃い隈と逆剥けた紫色の唇によって、笹森の無表情には凄みが増していた。
「本当は痛くなんてないんだよね?」
笹森は嗤っている。
星子は手首を見た。腫れてはいない。赤くなってもいない。
『痛くないよね? 痛くない、痛くない。それは気のせい。ママ、忙しいから』
「"オレ"の気を引きたいだけでしょ?」
『頭が痛い? それは星子が良い子にしてないからじゃないかな。パパ、今あんまりお金ないからさ、ママに言って』
鈍痛があったような気がした。シャープペンシルを握れない程度の痛みがあった気がした。だが握ろうと思えば握れたのかもしれない。
「ちょっと、マッサージしてただけだよ……痛くない。平気……」
笹森は莞爾(かんじ)とした。正解の音が聞こえた。
「あーあ、ぼくも七尾も騙されちゃった。でも今更戻れないし、保健室行こっか」
笹森が、錯覚を持ったままの腕を引く。
保健室には養護教諭はいなかったが、見知った顔があった。中学時代の委員会の後輩だ。
「あれ、白川先輩……と、笹森さん」
体操着姿で、備品をいじっている。
「月也(つきや)くん、怪我したの?」
「クラスの人が、熱中症かもしれなくて」
彼はベッドのほうを向いた。カーテンは開いたままだった。男子がひとり、仰向けに寝転がっている。
「先生は?」
「体育の先生は、保護者に連絡をすると……保健の先生は、今から呼びに行こうと思っていたところです。ただ、まだ、処置してないので……」
「じゃあ、やっておくよ」
星子は月也の手にある吸熱シートを奪う。
「……すみません」
「早く先生、呼んできてあげて」
後輩は頷くと、保健室を出て行った。
「偽善者。下手に手、出して、何かあったら責任取れんのかよ」
星子は笹森を見た。ただ返す言葉がなかった。彼女は何も言えないまま、冷蔵庫の下部にある冷凍庫を漁った。保冷剤があった。
「ねぇ」
「分かんないけど、放っておくほうが……見ちゃった責任って、あるかもだから……」
星子はベッドに寝転がる男子生徒を覗く。赤ら顔で、汗は引いているようだった。吸熱シートを額に貼る。保冷剤を腋に挿む。
笹森もついてきた。そして溜息を吐くと、掛布団を畳み始める。そして隣の掛布団と持って来ると、段差を作った。男子生徒の膝を乗せる。
「氷あるなら氷嚢作って」
彼はそう言うと、保健室の脇に置かれた扇風機のプラグを引き抜き、ベッドの傍へ移動する。
星子はすぐさま冷凍庫から氷を集め、ポリ袋に放り入れた。
笹森に渡すと彼は隣のベッドの枕を覆うタオルを引き抜き、氷嚢を包む。そして吸熱シートの上に置いた。
「1年、大丈夫か? 意識は? あんの?」
笹森は男子生徒の肩を揺する。目は開いていた。虚空を凝らしているが、笹森の姿は認識できているようだった。
「何年生? 名前は?」
1年生の唇が辿々しく動く。学年も名前も言えるようだった。
「星子ちゃん、水汲んで。スポドリのほうがいいけど」
星子は保健室を見回した。机を囲うように、スポーツドリンクが置かれている。1本もらった。紙コップを引き抜き、注いで渡す。
「氷嚢、もう2コ」
笹森は手慣れていた。
星子が氷嚢を渡すと、男子生徒の股関節の近くに置いた。
「笹森くん、慣れてるの……?」
「バスケ部だったから、ぼく」
笹森は隣のベッドに腰掛け、後ろへ倒れた。
「優勝より熱中症のほうが多かったわけ。冗談だけど。強豪校だったし」
笹森は手を天井に掲げた。
「1年、どうせ朝飯食いっ逸れたとかだろ。ぼくも中坊のときよくやった」
星子は扇風機よろしく、左右のベッドを見比べる。
そのうち月也が戻ってきた。養護教諭と、体育教諭が一緒だった。保護者に連絡がついたようだ。
「白川先輩は、どうして保健室に……?」
星子は笹森を振り返った。ベッドで、頭を擡げ、こちらを見ていた。
「わたしは何ともないの。笹森くんの付き添い」
手首は痛くないらしい。星子には痛みが分からなくなっていた。笹森が痛くないと言っている。では気のせいだ。ということは処置する必要がない。
「笹森さん、具合が悪いときにすみません……」
「はー? 別に具合悪くないけどー。星子ちゃんが手首骨折したって言うから付き添っただけ」
月也が目を剥いた。ふっさりとした睫毛が重そうだった。
「骨折したんですか」
大声を上げた月也を星子は部屋の隅に追いやった。1年に説明を続ける体育教諭の隣で、養護教諭がこちらを向いた。
「笹森くんが誤解しているだけ。何ともないの」
「そうなんですか? びっくりしましたよ。骨折なんて……」
「ちょっと手首、捻っちゃっただけ」
星子は手首を揺さぶって見せた。気のせいだ。本当はシャープペンシルを握れる。筆記もできる。ただやる気が足らなかった。
手首が前後に折れ曲がる。手が跳ねた。鈍い痛みが走る。痙攣を起こす。
後輩に曝した笑みが壊れる。
「骨折までは行かなくても、筋、傷めてるんじゃないですか。湿布貼りましょうよ」
「でも……」
「筋傷めると長いですよ。僕も中学時代に部活でやっちゃいましたけど、今でも痛みますから」
月也は中学時代、バレーボール部だった。だが男子バレーボール部は彼が2年生になったときに廃部になり、以降は女子バレーボール部のマネージャーをやっていた。
「……うん」
月也は星子を診察台に座らせ、湿布を取り出した。すでにどこに何があるか、把握しているようだった。
「先生、湿布をもらいます。それから包帯も1つ」
養護教諭が星子の元へやって来る。そして手首の処置をした。
灼熱感が冷感に包まれる。鼓動に合わせて響いている。
「ん、帰るよ」
体育教諭や養護教諭が来てもまったく臆せずベッドに寝転がっていた笹森は、やっと起き上がった。
養護教諭は笹森を見ていた。笹森の顔色は付き添いどころか、付き添われる側だ。
「帰るよ、星子ちゃん」
笹森は星子の腕を引いた。
「じゃあね、月也くん。月也くんも、気を付けてね」
笹森はさらに腕を引き、保健室から引き摺り出す。
「偽善者。良い子ぶりっ子。猫被り」
廊下に出ると、笹森は星子と対峙する。人差し指が、二度、三度、肩を突つく。
「ぼくの付き添いって何? 付き添いならもっと可愛い子選ぶんだけど?」
どすっ、どすっと指先が肩に刺さる。
「ごめ……なさ、……」
「ぼくが体調不良に見えるってわけ? ぼくのいつもの顔色なんか知ってるの? そんなぼくのこと見てるんだ? へー!」
どす、どす、どす……
「手首、痛くない、から……」
手首は痛くないはずだった。気のせいだったはずだった。だが痛みが湧いてしまった。
「後輩にまで媚び売っちゃってさ。ろくに熱中症の対処なんかできないくせに。気持ちだけじゃ誰も助けられないってそろそろ気付いたら?」
どす、どす、どす、どす……
「ごめんなさい……でも、助けてくれてありがとう」
「星子ちゃんが誰か助けたって、きっと誰も見てくれないよ。誰も星子ちゃんのこと選ばない。みんな星子ちゃんのこと忘れちゃうよ。悲しいね、星子ちゃん。全部、無駄。可哀想な星子ちゃん」
どす、どす、どす……
蜂の巣にされている肩の感覚が消えていく。
「別にいいよ、見てくれなくても……」
見てしまえば、選ばれてしまえば関わることになる。
「嘘だね」
「いいよ、忘れられても……」
忘れられてしまえば、関わることはない。関われば、上手く纏まらない。父と母がそうだった。今現在、咲菜が鷲羽(わしゅう)さんとの間で板挟みになっている。
「嘘だよ」
ぱん、と拳が肩を撥ねた。肌と肌がぶつかる。触覚がある。ここに居る。ここに在る。目の前に笹森がいる。
父親の帰宅を待ち望み、マヨネーズを啜って生き延びた身だ。
「ありがとうね、笹森くん」
「は?」
「笹森くんの言うとおり……選ばれないことのほうが多かったけれど、笹森くんみたいな人がこうして付き添ってくれたの、嬉しかったよ」
「"わたしは善人、お前は悪人"って? "なんでも赦しちゃうわたし"って? 悲劇のヒロインごっこ、楽しい?」
笹森は眉を顰めた。
「わたしは本当に感謝してるんだよ。感謝してる、つもりなんだ」
「何、つもりって」
「感謝が何だか、分からないから。感謝が分からないから、色んな人が離れていくの。だから選ばれないんだね、アハハ」
父親と母親に対して、感謝が伝われば、離れていかずに済んだのだろうか。叔父に感謝を尽くせば、叔父は出て行ったりしないのだろうか。咲菜に感謝が伝えきれていたならば、鷲羽さんと板挟みにせずにいられたのだろうか。
笹森は眉根にも鼻梁にも皺を寄せて星子を見下ろしていた。
「戻るよ。テスト範囲やってるのにさ。赤点取ったらどうしてくれんの?」
彼は星子の腕を毟り取って引き摺った。
湿布の奥で手首が疼く。片手で教材をしまう。
「星子ちゃん」
咲菜が席にやって来た。
「大丈夫だったの? 手、怪我したの?」
少し外気に触れただけで罅割れてしまいそうな玉のような肌の手が、星子の負傷した腕を包む。
「軽く捻っちゃっただけだよ。湿布は一応貼ってもらっただけ。ありがとう」
だが咲菜は湿布を見詰め、憂いを秘めた眼差しを落とす。
「星子ちゃん、今日、お昼――」
「サッキーナ」
鷲羽さんが咲菜の後ろを通り、抱きついた。
「あ……」
「テスト範囲の確認しよ」
「う、うん……」
戸惑う咲菜に、星子は笑いかける。
「またね」
星子は教科書を持って席を立った。ロッカーに向かい、次の授業の支度を始める。
「星子ォ」
首を曲げると、背凭れを抱いた七尾と視線が搗(か)ち合う。
「手、大丈夫か。折れてはないんだろ?」
「うん。折れてはないよ。ほら」
手首を回して見せる。冷感のなかで、鈍い痛みが起こる。
「ばか、お前……悪化するぞ」
「七尾くんに、謝らなきゃと思ってることがあるんだ」
「何だよ?」
三白眼が和らぐ。声音も柔らかい。
「七尾くんが言ってることはいつも正しいなって思ったの。ちゃんと言われた時に、保健室行っとけばよかったなって」
「俺の言い分を真正面から受け止めるからそう思うだけだよ。占いと一緒だ」
七尾は笑う。
「そうかな」
「なんだ? それとも今後、俺の言うこと全部聞くか?」
「……それは、分からないけれど……」
「気にすんな。謝ることじゃねぇよ。俺は言いたいこと言って、あとは星子の決めることだ」
その決断がいつも間違っている。
「うん……」
「病み上がりには厳しいか、この暑さは」
教室には冷房が付いているが、教室の収容人数や日当たりの割に設定温度は高い。
「大丈夫」
「ちゃんと水飲めよ」
「うん……ありがとう」
昼休みがもうすぐで終わる。星子は保冷バッグに空になった弁当箱を詰めて体育館横のピロティを出た。
教室に戻ると、咲菜が傍にやって来る。
「星子ちゃん、今日もごめんね。最近、どこで食べてるの? お外は、暑いし、危ないよ……」
腕に組み付く所作は、もし星子が男だったなら、一撃で惚れていただろう。
「へへへ、穴場を見つけちゃった」
「ごめんね」
「どうして咲菜ちゃんが謝るの」
必ず、昼食は2人で食べなければいけないという決まりはない。固定されたペアで食べるという規則もない。
「咲にゃん、何話してるの~?」
他の女子たちと話していた鷲羽さんが咲菜の傍へやって来た。
「あ、別に……ちょっと、星子ちゃんのことを……」
咲菜の麗らかな眉が強張った。星子はその異変に気付いたが、教室内に響き渡る甲高い叫び声に吹き飛んでしまった。
「きゃあ!」
「わぁ!」
「えっ」
鷲羽さんが咲菜に飛び付いた。そして飛び付かれた咲菜は星子に抱きつく。
「な、何、何……!」
クラス中の注意を浴び、星子の身体は上に伸び、固まった。
「ゴ、ゴキブリ……! ゴキブリがいる……!」
鷲羽さんが泣きそうな声を出した。
「えっ! えっ!」
咲菜も怯え始める。
「ゴキブリ……?」
星子は辺りを見回した。楕円形の悍(おぞ)ましい虫の姿は見えなかったが、他のクラスメイトの視線の流れで居場所は分かった。
「怖いよ、星子ちゃん……!」
細く小さな指が星子の腕に減り込む。咲菜が怖がっている。
星子は立ち上がった。教室の後ろに行くと、ヒトの身体の何百分の一の大きさの脅威が佇んでいた。毒液も持たず、牙も爪も角もないというのに、その外貌のために厭悪され、憎悪すら伴わない殺意を向けられる。
掃除用具入れは、憐れな節足動物の奥にあった。
「星子ちゃん……!」
咲菜をはじめ、多くの女子たちが戦慄している。男子たちもまた動揺している。
一騎討ちだ。
「白川さん」
後ろに人気(ひとけ)がある。だが振り返ることができなかった。穢れを背負わされた虫から目を逸らせば、襲いかかられてしまう気がした。
「ほい」
湿布が冷感を与える手に、棒状のものを握らされる。低い体温と硬い質感の指が、星子の指を配置した。
前に出すと、箒である。
「あとは頑張ってー」
湿布が冷感を発した。重みがかかり、鈍い痛みが走る。
生まれてきただけで虐げられる虫が、動く。悲鳴が谺(こだま)する。
「星子ちゃん……」
背後から聞こえる咲菜の声はいつにも増してか細い。
親友が怖がっている。星子は箒を構えた。重みが手首に加わる。身軽なあまり、命さえ軽い虫より、速く動ける自信はなかった。
「星子」
ベランダに出る掃き出し窓の近くに七尾が立っていた。慎重な挙措(きょそ)で掃き出し窓の鍵を外す。そしてゆっくりと開けた。
から……から………から………
「そのまま、動くな。そっち行くから……」
七尾は抜き足差し足で、星子の下へ遠回りでやって来ると、箒を奪う。そして誰に愛されることもなかった生き物をベランダに向けて払った。
掃き出し窓が閉められる。錠が降り、やっと教室内は息を吐いた。
七尾は掃除用具入れを開けた。彼に、笹森が飛びつく。
「それ8組の」
「お前な……女子にやらすなよ」
「えー、ぼく、虫嫌いなんだもん。男女差別反対ー」
星子は七尾を呼ぶ。笹森が背中に乗りかかり、渋い顔をしている。
「ありがとう……」
「手、痛いんだろ? 無理すんな」
「助かったよ」
「なんだ、助かったって。みんなの教室だぜ。何ひとりで背負ってんだよ」
「うん……でもわたしが一番近かったから………」
七尾は笹森を振り払うと、箒をぶら下げながら星子の横へ来た。
「かっこよかったぜ」
すれ違う。星子は俯いた。七尾に迷惑をかけてしまった。
「もしかして五百鈴(いおり)より七尾のほうがかっこいいー?」
咲菜を抱き締めた鷲羽さんが言った。星子はちょうど、彼女等と笹森と挟まれた位置にいた。避ける。
「はー? ぼくのほうがかっこいいけどー?」
「でもフツー、女子が怖がってたら助けない?」
「だって白川さんが、"自分できます"ってカンジでしゃしゃり出てたからさー」
そういうつもりはなかった。
「ご、ごめん……」
「できないなら下がってなー?」
笹森は冷えた眼差しを星子にくれると、鷲羽さんと話しはじめる。
星子は肩を縮めて席に戻った。
「星子ちゃん」
しかし咲菜は鷲羽さんから離れ、星子を追ってきた。
「ありがとう、星子ちゃん」
「わたしは何にもしてないよ。やってくれたのは七尾くん。大活躍。わたしは……恥ずかしい」
星子は前髪を撫でる。しかし咲菜は首を振った。
「星子ちゃんは、ずっと庇っててくれた……」
「ありがとう、咲菜ちゃん。そう言ってくれて」
しかし1年のとき、咲菜が星子を庇い、相手にしたのは生身の人間だ。これからの人間関係と生活があるというのに、彼女は立ち向かったのだ。それに比べ、星子は不快害虫たったの一匹に怯んだ。
「それにしても七尾くん、かっこよかったね」
咲菜は笑う。
「うん。かっこよかった」
「もっと言え」
七尾が8組から戻ってきたところだった。星子の席の近くを通り、自分の席に向かっていく。
「こらっ、白川さんと琴峯(ことみね)さんは笹森ガールズでしょ!」
鷲羽さんと話していた笹森は、星子たちに叫ぶと、七尾に絡みつく。
「暑苦しいな」
七尾が吐き捨てた。
鷲羽さんが、咲菜の元へやって来る。
「あ、わたし……」
星子は椅子から尻を浮かす。
「星子チャンってさぁ、七尾と仲良いの?」
鷲羽さんが咲菜を押し退け、前のめりになって訊ねた。
「あ………仲が良いっていうか……」
「星子ちゃんは七尾くんと、小学校からずっと一緒なのよ」
咲菜が代わりに答えた。
「そうなの? 初めて知った!」
「そうだよ。星子ちゃんは七尾の幼馴染で、七尾はぼくの弟子で、だから星子ちゃんはぼくのファン」
笹森が咲菜と鷲羽さんの間に割り込んできた。
「お前の弟子になった覚えはない」
七尾が自分の席から口を挟む。
「照れんなよ」
笹森は振り返る。咲菜も七尾を振り返る。
「照れてねーわ」
七尾は外方を向いた。
「あ、色男があっち向いちゃった」
「ってかさぁ、アタシも星子チャンと仲良くなりたーい」
笹森の口角が吊り上がる。眇められた目元の奥で、明るい茶色の瞳が淀んでいた。
「へー、いいじゃん。青春じゃん、友情じゃーん」
笹森は嗤って、七尾のほうへ行ってしまった。
「明日からさー、お昼一緒に食べよ。星子チャンってチャリだっけ?」
「電車……」
星子は鷲羽さんの勢いに気圧(けお)された。
「あー、そうなんだ。アタシ、チャリ」
ここ最近、咲菜は帰りも鷲羽さんと一緒だった。鷲羽さんが自転車を転がし、駅まで咲菜を送っているようだった。
「でも星子チャンっていつも反対側から出て行くよね?」
「あ、うん……ちょっと、本屋さんに用があったから」
本屋に用はなかった。ただ遠回りをしていただけのことだ。
「えー、星子チャンって本読むのー? 何読むのー? どんなの読むのー?」
「お弁当の本だよ。料理の本とか」
「へー! 星子チャンって料理するんだー。咲にゃんも最近料理してるんだもんね。アタシも料理しようかなー?」
鷲羽さんは咲菜と揃いのベージュピンクの爪を晒しながら、口元を隠す。
「咲にゃんとお弁当の具、交換こしてたんでしょー? アタシともしよ?」
「う、うん……そんな、上手いものじゃないけれど……」
何故、鷲羽さんは急に仲良くする気になったのだろう。星子には、咲菜ほどの美貌はない。可憐さもない。鷲羽さんと気の合うような溌剌さもなかった。
ホームルームが終わり、下校のチャイムが鳴る。すでに帰宅や部活の移動に備えていたクラスメイトたちが、一気に出入り口から溢れ出した。
鷲羽さんが星子の席へやって来る。ごった返す教室で、遅れて咲菜もやって来た。
「五百鈴と七尾は? 一緒には帰らないの?」
鷲羽さんは辺りを見回した。笹森はどこかへ消え、七尾は教室から出ようとしているところだった。
「一緒には帰ってないよ」
星子が答えると、鷲羽さんは一瞬、眉間に皺を寄せた。
「そうなんだー。なんでー? 仲良いんでしょ?」
「七尾くんは自転車だし……」
「でもサッキーナ、この前、星子チャンは七尾と帰ったって……」
鷲羽さんの目が鋭くなって咲菜を刺した。
「それは違うのよ。みんなでお祭りに行ったの。その帰りの話よ。あたしは笹森くんと、星子ちゃんは七尾くんと……」
「4人でお祭り行ったんだ? いいな! 今度アタシも誘ってよ。せっかく仲良くなったんだしさ!」
咲菜は眉を下げ、笑っている。
「あれはたまたま、七尾くんがチケットを持っていただけよ。だから星子ちゃんがその時一緒にいたあたしを誘ってくれただけなのよ」
「七尾、星子チャン誘ったんだ? じゃあやっぱり仲良いじゃん。一緒に帰ろ?」
鷲羽さんは星子の腕に組み付いた。
「うん……」
下駄箱まで行くと、裏校舎から笹森が現れた。蹣跚(まんさん)とした足取りで、頗(すこぶ)る顔色が悪い。
「みんなで帰るん?」
紫色の唇が「W」字を作る。
「五百鈴、顔色わっる」
鷲羽さんが、ベージュピンクの爪を見せながら口元を隠して笑う。
「職員室のクーラー、ガン冷えでさ。ズルいよなー、大人は」
上足サンダルと下足を交換しながら、星子は2人のやり取りを聞いていた。咲菜は先に靴を履き、三和土(たたき)に立っている。そのまま3年生や他のクラスの男子に声を掛けられてしまいそうだった。
「どうしたの、白川(しらかわ)さん」
保健室に行くべきは笹森のほうだ。
「行くよ、ほら」
"来いよ"。声は乗っていなかった。「W」字の笑みが解かれ、3文字を発した。
保健室に行きたいのは、彼なのではなかろうか。
「う、うん………」
先生に一言告げるため、顔を上げた。咲菜(さきな)と目が合う。小さな眉が垂れ下がっていた。彼女に悪い。
「先生、それじゃ、白川さんは連れて行きますんで」
彼は星子の痛む手首を引っ張った。
保健室の最短ルートは、7組と6組の間にある渡り廊下から裏校舎に渡り、1階まで下りる経路だ。
笹森に突き飛ばされた渡り廊下に差し掛かると、彼は手を放した。
「すごい被害者ぶるじゃん。本当に痛めてんの?」
色濃い隈と逆剥けた紫色の唇によって、笹森の無表情には凄みが増していた。
「本当は痛くなんてないんだよね?」
笹森は嗤っている。
星子は手首を見た。腫れてはいない。赤くなってもいない。
『痛くないよね? 痛くない、痛くない。それは気のせい。ママ、忙しいから』
「"オレ"の気を引きたいだけでしょ?」
『頭が痛い? それは星子が良い子にしてないからじゃないかな。パパ、今あんまりお金ないからさ、ママに言って』
鈍痛があったような気がした。シャープペンシルを握れない程度の痛みがあった気がした。だが握ろうと思えば握れたのかもしれない。
「ちょっと、マッサージしてただけだよ……痛くない。平気……」
笹森は莞爾(かんじ)とした。正解の音が聞こえた。
「あーあ、ぼくも七尾も騙されちゃった。でも今更戻れないし、保健室行こっか」
笹森が、錯覚を持ったままの腕を引く。
保健室には養護教諭はいなかったが、見知った顔があった。中学時代の委員会の後輩だ。
「あれ、白川先輩……と、笹森さん」
体操着姿で、備品をいじっている。
「月也(つきや)くん、怪我したの?」
「クラスの人が、熱中症かもしれなくて」
彼はベッドのほうを向いた。カーテンは開いたままだった。男子がひとり、仰向けに寝転がっている。
「先生は?」
「体育の先生は、保護者に連絡をすると……保健の先生は、今から呼びに行こうと思っていたところです。ただ、まだ、処置してないので……」
「じゃあ、やっておくよ」
星子は月也の手にある吸熱シートを奪う。
「……すみません」
「早く先生、呼んできてあげて」
後輩は頷くと、保健室を出て行った。
「偽善者。下手に手、出して、何かあったら責任取れんのかよ」
星子は笹森を見た。ただ返す言葉がなかった。彼女は何も言えないまま、冷蔵庫の下部にある冷凍庫を漁った。保冷剤があった。
「ねぇ」
「分かんないけど、放っておくほうが……見ちゃった責任って、あるかもだから……」
星子はベッドに寝転がる男子生徒を覗く。赤ら顔で、汗は引いているようだった。吸熱シートを額に貼る。保冷剤を腋に挿む。
笹森もついてきた。そして溜息を吐くと、掛布団を畳み始める。そして隣の掛布団と持って来ると、段差を作った。男子生徒の膝を乗せる。
「氷あるなら氷嚢作って」
彼はそう言うと、保健室の脇に置かれた扇風機のプラグを引き抜き、ベッドの傍へ移動する。
星子はすぐさま冷凍庫から氷を集め、ポリ袋に放り入れた。
笹森に渡すと彼は隣のベッドの枕を覆うタオルを引き抜き、氷嚢を包む。そして吸熱シートの上に置いた。
「1年、大丈夫か? 意識は? あんの?」
笹森は男子生徒の肩を揺する。目は開いていた。虚空を凝らしているが、笹森の姿は認識できているようだった。
「何年生? 名前は?」
1年生の唇が辿々しく動く。学年も名前も言えるようだった。
「星子ちゃん、水汲んで。スポドリのほうがいいけど」
星子は保健室を見回した。机を囲うように、スポーツドリンクが置かれている。1本もらった。紙コップを引き抜き、注いで渡す。
「氷嚢、もう2コ」
笹森は手慣れていた。
星子が氷嚢を渡すと、男子生徒の股関節の近くに置いた。
「笹森くん、慣れてるの……?」
「バスケ部だったから、ぼく」
笹森は隣のベッドに腰掛け、後ろへ倒れた。
「優勝より熱中症のほうが多かったわけ。冗談だけど。強豪校だったし」
笹森は手を天井に掲げた。
「1年、どうせ朝飯食いっ逸れたとかだろ。ぼくも中坊のときよくやった」
星子は扇風機よろしく、左右のベッドを見比べる。
そのうち月也が戻ってきた。養護教諭と、体育教諭が一緒だった。保護者に連絡がついたようだ。
「白川先輩は、どうして保健室に……?」
星子は笹森を振り返った。ベッドで、頭を擡げ、こちらを見ていた。
「わたしは何ともないの。笹森くんの付き添い」
手首は痛くないらしい。星子には痛みが分からなくなっていた。笹森が痛くないと言っている。では気のせいだ。ということは処置する必要がない。
「笹森さん、具合が悪いときにすみません……」
「はー? 別に具合悪くないけどー。星子ちゃんが手首骨折したって言うから付き添っただけ」
月也が目を剥いた。ふっさりとした睫毛が重そうだった。
「骨折したんですか」
大声を上げた月也を星子は部屋の隅に追いやった。1年に説明を続ける体育教諭の隣で、養護教諭がこちらを向いた。
「笹森くんが誤解しているだけ。何ともないの」
「そうなんですか? びっくりしましたよ。骨折なんて……」
「ちょっと手首、捻っちゃっただけ」
星子は手首を揺さぶって見せた。気のせいだ。本当はシャープペンシルを握れる。筆記もできる。ただやる気が足らなかった。
手首が前後に折れ曲がる。手が跳ねた。鈍い痛みが走る。痙攣を起こす。
後輩に曝した笑みが壊れる。
「骨折までは行かなくても、筋、傷めてるんじゃないですか。湿布貼りましょうよ」
「でも……」
「筋傷めると長いですよ。僕も中学時代に部活でやっちゃいましたけど、今でも痛みますから」
月也は中学時代、バレーボール部だった。だが男子バレーボール部は彼が2年生になったときに廃部になり、以降は女子バレーボール部のマネージャーをやっていた。
「……うん」
月也は星子を診察台に座らせ、湿布を取り出した。すでにどこに何があるか、把握しているようだった。
「先生、湿布をもらいます。それから包帯も1つ」
養護教諭が星子の元へやって来る。そして手首の処置をした。
灼熱感が冷感に包まれる。鼓動に合わせて響いている。
「ん、帰るよ」
体育教諭や養護教諭が来てもまったく臆せずベッドに寝転がっていた笹森は、やっと起き上がった。
養護教諭は笹森を見ていた。笹森の顔色は付き添いどころか、付き添われる側だ。
「帰るよ、星子ちゃん」
笹森は星子の腕を引いた。
「じゃあね、月也くん。月也くんも、気を付けてね」
笹森はさらに腕を引き、保健室から引き摺り出す。
「偽善者。良い子ぶりっ子。猫被り」
廊下に出ると、笹森は星子と対峙する。人差し指が、二度、三度、肩を突つく。
「ぼくの付き添いって何? 付き添いならもっと可愛い子選ぶんだけど?」
どすっ、どすっと指先が肩に刺さる。
「ごめ……なさ、……」
「ぼくが体調不良に見えるってわけ? ぼくのいつもの顔色なんか知ってるの? そんなぼくのこと見てるんだ? へー!」
どす、どす、どす……
「手首、痛くない、から……」
手首は痛くないはずだった。気のせいだったはずだった。だが痛みが湧いてしまった。
「後輩にまで媚び売っちゃってさ。ろくに熱中症の対処なんかできないくせに。気持ちだけじゃ誰も助けられないってそろそろ気付いたら?」
どす、どす、どす、どす……
「ごめんなさい……でも、助けてくれてありがとう」
「星子ちゃんが誰か助けたって、きっと誰も見てくれないよ。誰も星子ちゃんのこと選ばない。みんな星子ちゃんのこと忘れちゃうよ。悲しいね、星子ちゃん。全部、無駄。可哀想な星子ちゃん」
どす、どす、どす……
蜂の巣にされている肩の感覚が消えていく。
「別にいいよ、見てくれなくても……」
見てしまえば、選ばれてしまえば関わることになる。
「嘘だね」
「いいよ、忘れられても……」
忘れられてしまえば、関わることはない。関われば、上手く纏まらない。父と母がそうだった。今現在、咲菜が鷲羽(わしゅう)さんとの間で板挟みになっている。
「嘘だよ」
ぱん、と拳が肩を撥ねた。肌と肌がぶつかる。触覚がある。ここに居る。ここに在る。目の前に笹森がいる。
父親の帰宅を待ち望み、マヨネーズを啜って生き延びた身だ。
「ありがとうね、笹森くん」
「は?」
「笹森くんの言うとおり……選ばれないことのほうが多かったけれど、笹森くんみたいな人がこうして付き添ってくれたの、嬉しかったよ」
「"わたしは善人、お前は悪人"って? "なんでも赦しちゃうわたし"って? 悲劇のヒロインごっこ、楽しい?」
笹森は眉を顰めた。
「わたしは本当に感謝してるんだよ。感謝してる、つもりなんだ」
「何、つもりって」
「感謝が何だか、分からないから。感謝が分からないから、色んな人が離れていくの。だから選ばれないんだね、アハハ」
父親と母親に対して、感謝が伝われば、離れていかずに済んだのだろうか。叔父に感謝を尽くせば、叔父は出て行ったりしないのだろうか。咲菜に感謝が伝えきれていたならば、鷲羽さんと板挟みにせずにいられたのだろうか。
笹森は眉根にも鼻梁にも皺を寄せて星子を見下ろしていた。
「戻るよ。テスト範囲やってるのにさ。赤点取ったらどうしてくれんの?」
彼は星子の腕を毟り取って引き摺った。
湿布の奥で手首が疼く。片手で教材をしまう。
「星子ちゃん」
咲菜が席にやって来た。
「大丈夫だったの? 手、怪我したの?」
少し外気に触れただけで罅割れてしまいそうな玉のような肌の手が、星子の負傷した腕を包む。
「軽く捻っちゃっただけだよ。湿布は一応貼ってもらっただけ。ありがとう」
だが咲菜は湿布を見詰め、憂いを秘めた眼差しを落とす。
「星子ちゃん、今日、お昼――」
「サッキーナ」
鷲羽さんが咲菜の後ろを通り、抱きついた。
「あ……」
「テスト範囲の確認しよ」
「う、うん……」
戸惑う咲菜に、星子は笑いかける。
「またね」
星子は教科書を持って席を立った。ロッカーに向かい、次の授業の支度を始める。
「星子ォ」
首を曲げると、背凭れを抱いた七尾と視線が搗(か)ち合う。
「手、大丈夫か。折れてはないんだろ?」
「うん。折れてはないよ。ほら」
手首を回して見せる。冷感のなかで、鈍い痛みが起こる。
「ばか、お前……悪化するぞ」
「七尾くんに、謝らなきゃと思ってることがあるんだ」
「何だよ?」
三白眼が和らぐ。声音も柔らかい。
「七尾くんが言ってることはいつも正しいなって思ったの。ちゃんと言われた時に、保健室行っとけばよかったなって」
「俺の言い分を真正面から受け止めるからそう思うだけだよ。占いと一緒だ」
七尾は笑う。
「そうかな」
「なんだ? それとも今後、俺の言うこと全部聞くか?」
「……それは、分からないけれど……」
「気にすんな。謝ることじゃねぇよ。俺は言いたいこと言って、あとは星子の決めることだ」
その決断がいつも間違っている。
「うん……」
「病み上がりには厳しいか、この暑さは」
教室には冷房が付いているが、教室の収容人数や日当たりの割に設定温度は高い。
「大丈夫」
「ちゃんと水飲めよ」
「うん……ありがとう」
昼休みがもうすぐで終わる。星子は保冷バッグに空になった弁当箱を詰めて体育館横のピロティを出た。
教室に戻ると、咲菜が傍にやって来る。
「星子ちゃん、今日もごめんね。最近、どこで食べてるの? お外は、暑いし、危ないよ……」
腕に組み付く所作は、もし星子が男だったなら、一撃で惚れていただろう。
「へへへ、穴場を見つけちゃった」
「ごめんね」
「どうして咲菜ちゃんが謝るの」
必ず、昼食は2人で食べなければいけないという決まりはない。固定されたペアで食べるという規則もない。
「咲にゃん、何話してるの~?」
他の女子たちと話していた鷲羽さんが咲菜の傍へやって来た。
「あ、別に……ちょっと、星子ちゃんのことを……」
咲菜の麗らかな眉が強張った。星子はその異変に気付いたが、教室内に響き渡る甲高い叫び声に吹き飛んでしまった。
「きゃあ!」
「わぁ!」
「えっ」
鷲羽さんが咲菜に飛び付いた。そして飛び付かれた咲菜は星子に抱きつく。
「な、何、何……!」
クラス中の注意を浴び、星子の身体は上に伸び、固まった。
「ゴ、ゴキブリ……! ゴキブリがいる……!」
鷲羽さんが泣きそうな声を出した。
「えっ! えっ!」
咲菜も怯え始める。
「ゴキブリ……?」
星子は辺りを見回した。楕円形の悍(おぞ)ましい虫の姿は見えなかったが、他のクラスメイトの視線の流れで居場所は分かった。
「怖いよ、星子ちゃん……!」
細く小さな指が星子の腕に減り込む。咲菜が怖がっている。
星子は立ち上がった。教室の後ろに行くと、ヒトの身体の何百分の一の大きさの脅威が佇んでいた。毒液も持たず、牙も爪も角もないというのに、その外貌のために厭悪され、憎悪すら伴わない殺意を向けられる。
掃除用具入れは、憐れな節足動物の奥にあった。
「星子ちゃん……!」
咲菜をはじめ、多くの女子たちが戦慄している。男子たちもまた動揺している。
一騎討ちだ。
「白川さん」
後ろに人気(ひとけ)がある。だが振り返ることができなかった。穢れを背負わされた虫から目を逸らせば、襲いかかられてしまう気がした。
「ほい」
湿布が冷感を与える手に、棒状のものを握らされる。低い体温と硬い質感の指が、星子の指を配置した。
前に出すと、箒である。
「あとは頑張ってー」
湿布が冷感を発した。重みがかかり、鈍い痛みが走る。
生まれてきただけで虐げられる虫が、動く。悲鳴が谺(こだま)する。
「星子ちゃん……」
背後から聞こえる咲菜の声はいつにも増してか細い。
親友が怖がっている。星子は箒を構えた。重みが手首に加わる。身軽なあまり、命さえ軽い虫より、速く動ける自信はなかった。
「星子」
ベランダに出る掃き出し窓の近くに七尾が立っていた。慎重な挙措(きょそ)で掃き出し窓の鍵を外す。そしてゆっくりと開けた。
から……から………から………
「そのまま、動くな。そっち行くから……」
七尾は抜き足差し足で、星子の下へ遠回りでやって来ると、箒を奪う。そして誰に愛されることもなかった生き物をベランダに向けて払った。
掃き出し窓が閉められる。錠が降り、やっと教室内は息を吐いた。
七尾は掃除用具入れを開けた。彼に、笹森が飛びつく。
「それ8組の」
「お前な……女子にやらすなよ」
「えー、ぼく、虫嫌いなんだもん。男女差別反対ー」
星子は七尾を呼ぶ。笹森が背中に乗りかかり、渋い顔をしている。
「ありがとう……」
「手、痛いんだろ? 無理すんな」
「助かったよ」
「なんだ、助かったって。みんなの教室だぜ。何ひとりで背負ってんだよ」
「うん……でもわたしが一番近かったから………」
七尾は笹森を振り払うと、箒をぶら下げながら星子の横へ来た。
「かっこよかったぜ」
すれ違う。星子は俯いた。七尾に迷惑をかけてしまった。
「もしかして五百鈴(いおり)より七尾のほうがかっこいいー?」
咲菜を抱き締めた鷲羽さんが言った。星子はちょうど、彼女等と笹森と挟まれた位置にいた。避ける。
「はー? ぼくのほうがかっこいいけどー?」
「でもフツー、女子が怖がってたら助けない?」
「だって白川さんが、"自分できます"ってカンジでしゃしゃり出てたからさー」
そういうつもりはなかった。
「ご、ごめん……」
「できないなら下がってなー?」
笹森は冷えた眼差しを星子にくれると、鷲羽さんと話しはじめる。
星子は肩を縮めて席に戻った。
「星子ちゃん」
しかし咲菜は鷲羽さんから離れ、星子を追ってきた。
「ありがとう、星子ちゃん」
「わたしは何にもしてないよ。やってくれたのは七尾くん。大活躍。わたしは……恥ずかしい」
星子は前髪を撫でる。しかし咲菜は首を振った。
「星子ちゃんは、ずっと庇っててくれた……」
「ありがとう、咲菜ちゃん。そう言ってくれて」
しかし1年のとき、咲菜が星子を庇い、相手にしたのは生身の人間だ。これからの人間関係と生活があるというのに、彼女は立ち向かったのだ。それに比べ、星子は不快害虫たったの一匹に怯んだ。
「それにしても七尾くん、かっこよかったね」
咲菜は笑う。
「うん。かっこよかった」
「もっと言え」
七尾が8組から戻ってきたところだった。星子の席の近くを通り、自分の席に向かっていく。
「こらっ、白川さんと琴峯(ことみね)さんは笹森ガールズでしょ!」
鷲羽さんと話していた笹森は、星子たちに叫ぶと、七尾に絡みつく。
「暑苦しいな」
七尾が吐き捨てた。
鷲羽さんが、咲菜の元へやって来る。
「あ、わたし……」
星子は椅子から尻を浮かす。
「星子チャンってさぁ、七尾と仲良いの?」
鷲羽さんが咲菜を押し退け、前のめりになって訊ねた。
「あ………仲が良いっていうか……」
「星子ちゃんは七尾くんと、小学校からずっと一緒なのよ」
咲菜が代わりに答えた。
「そうなの? 初めて知った!」
「そうだよ。星子ちゃんは七尾の幼馴染で、七尾はぼくの弟子で、だから星子ちゃんはぼくのファン」
笹森が咲菜と鷲羽さんの間に割り込んできた。
「お前の弟子になった覚えはない」
七尾が自分の席から口を挟む。
「照れんなよ」
笹森は振り返る。咲菜も七尾を振り返る。
「照れてねーわ」
七尾は外方を向いた。
「あ、色男があっち向いちゃった」
「ってかさぁ、アタシも星子チャンと仲良くなりたーい」
笹森の口角が吊り上がる。眇められた目元の奥で、明るい茶色の瞳が淀んでいた。
「へー、いいじゃん。青春じゃん、友情じゃーん」
笹森は嗤って、七尾のほうへ行ってしまった。
「明日からさー、お昼一緒に食べよ。星子チャンってチャリだっけ?」
「電車……」
星子は鷲羽さんの勢いに気圧(けお)された。
「あー、そうなんだ。アタシ、チャリ」
ここ最近、咲菜は帰りも鷲羽さんと一緒だった。鷲羽さんが自転車を転がし、駅まで咲菜を送っているようだった。
「でも星子チャンっていつも反対側から出て行くよね?」
「あ、うん……ちょっと、本屋さんに用があったから」
本屋に用はなかった。ただ遠回りをしていただけのことだ。
「えー、星子チャンって本読むのー? 何読むのー? どんなの読むのー?」
「お弁当の本だよ。料理の本とか」
「へー! 星子チャンって料理するんだー。咲にゃんも最近料理してるんだもんね。アタシも料理しようかなー?」
鷲羽さんは咲菜と揃いのベージュピンクの爪を晒しながら、口元を隠す。
「咲にゃんとお弁当の具、交換こしてたんでしょー? アタシともしよ?」
「う、うん……そんな、上手いものじゃないけれど……」
何故、鷲羽さんは急に仲良くする気になったのだろう。星子には、咲菜ほどの美貌はない。可憐さもない。鷲羽さんと気の合うような溌剌さもなかった。
ホームルームが終わり、下校のチャイムが鳴る。すでに帰宅や部活の移動に備えていたクラスメイトたちが、一気に出入り口から溢れ出した。
鷲羽さんが星子の席へやって来る。ごった返す教室で、遅れて咲菜もやって来た。
「五百鈴と七尾は? 一緒には帰らないの?」
鷲羽さんは辺りを見回した。笹森はどこかへ消え、七尾は教室から出ようとしているところだった。
「一緒には帰ってないよ」
星子が答えると、鷲羽さんは一瞬、眉間に皺を寄せた。
「そうなんだー。なんでー? 仲良いんでしょ?」
「七尾くんは自転車だし……」
「でもサッキーナ、この前、星子チャンは七尾と帰ったって……」
鷲羽さんの目が鋭くなって咲菜を刺した。
「それは違うのよ。みんなでお祭りに行ったの。その帰りの話よ。あたしは笹森くんと、星子ちゃんは七尾くんと……」
「4人でお祭り行ったんだ? いいな! 今度アタシも誘ってよ。せっかく仲良くなったんだしさ!」
咲菜は眉を下げ、笑っている。
「あれはたまたま、七尾くんがチケットを持っていただけよ。だから星子ちゃんがその時一緒にいたあたしを誘ってくれただけなのよ」
「七尾、星子チャン誘ったんだ? じゃあやっぱり仲良いじゃん。一緒に帰ろ?」
鷲羽さんは星子の腕に組み付いた。
「うん……」
下駄箱まで行くと、裏校舎から笹森が現れた。蹣跚(まんさん)とした足取りで、頗(すこぶ)る顔色が悪い。
「みんなで帰るん?」
紫色の唇が「W」字を作る。
「五百鈴、顔色わっる」
鷲羽さんが、ベージュピンクの爪を見せながら口元を隠して笑う。
「職員室のクーラー、ガン冷えでさ。ズルいよなー、大人は」
上足サンダルと下足を交換しながら、星子は2人のやり取りを聞いていた。咲菜は先に靴を履き、三和土(たたき)に立っている。そのまま3年生や他のクラスの男子に声を掛けられてしまいそうだった。