my天の川に流るる
13
笹森は咲菜に話しかけていた。暗い玄関が色濃い影を落とす。
星子(しょうこ)は2人の後姿を見ていた。七尾とは話せていたが、笹森と上手く話せるだろうか。たなばた祭りが、2人の距離を近付けたのは確かなのだ。咲菜は彼を目にしても強張らなくなっている。あとは互いに一個人を知り合っていくだけなのだ。もうすぐ、この高校一の美男美女が誕生する。
「五百鈴(いおり)、サッキーナ、何話してるのん?」
2人の間に鷲羽(わしゅう)さんが割って入る。両手に花とばかりだった。だが鷲羽さん本人も華やかだった。彼女は、星子が「パパ活をしている」と笹森に話したそうだ。星子には身に覚えがない。
何故、鷲羽さんは、曰く"パパ活をしている星子"と仲を深めようとするのだろう。
星子には、笹森のような明るさも、咲菜のような可愛らしさもない。人と距離を詰めるのが好きな鷲羽さんとも性格的な相似はない。
「早く帰ろー?」
2人の腕や肩に組み付き、外へ繋がる階段へ押していく。
咲菜が振り返った。
「星子ちゃんは……?」
鷲羽さんが押すのをやめた。笹森が振り返る。
「ああ、ごめんごめーん。後ろにいるのかと思ってた」
星子は靴を履き替え、3人のもとに駆け寄る。
「ごめんなさい、ぼーっとしちゃった」
星子は3人の後ろを歩く。階段を下りるときでも、鷲羽さんは彼等を放さなかった。
笹森は自転車通学のはずだった。徒歩15分かからない場所に自宅がある。玄関を背にしたとき、左手北側の正門に向かうはずだった。けれども咲菜と鷲羽さんから離れない。
「アタシ、自転車取ってくる」
鷲羽さんが駐輪場へ向かおうと、一歩踏み出した。笹森の腕を引いたままだった。
「五百鈴もでしょ?」
「ぼく、今日歩き。ちょっと寄るとこあんの」
「はぁー? 早く言えし」
鷲羽さんは彼の腕に拳を食らわせてから、駐輪場へ向かった。
「ぼくも今日電車だから、琴峯(ことみね)さん、方向一緒だよね。よろしく」
「あ……うん。よ、よろしくね、笹森くん」
咲菜は俯いた。彼女の小さな頭の奥で、笹森は星子を見下ろす。アーモンド色の双眸が淀みを湛えている。
星子も咲菜のように彼を視界から外した。
鷲羽さんを待っているうちに、1台の自転車が3人の脇を通った。ブレーキがかかり、傍で止まる。
「3人お揃いで」
七尾だ。咲菜が顔を上げた。
「なんだよ、七尾。ぼくがハーレムするの、邪魔すんなよ」
「ハーレムするならもっと選んだほうがいいぞ」
「はぁ? 琴峯さん可愛いだろうが」
「まぁ、それはそうなんだけど……」
「"星子"だってそれなりに可愛い」
笹森が言うと、七尾の顔面が一度、引き攣った。
「俺(ひと)の昔馴染みつかまえて"それなり"って、お前……」
「確かにぼくの幼馴染の女の子、あんまり可愛くないからね」
「星子ちゃんは、可愛いと思う……」
咲菜が割って入った。
「お料理上手だし、優しいし、可愛いと思う……」
笹森と七尾の表情が固まっている。咲菜の言い分をまったく理解していないという面構えに違いない。
星子は居た堪れなくなった。咲菜の可憐さを理解している2人が、彼女を奇異の目で見てしまうかもしれない。
笹森に軽蔑され、七尾に落胆されてしまうかもしれないのだ。好きな人に拒まれ、好かれている人に冷められてしまうかもしれないのだ。
「い、いいんだよ、咲菜ちゃん……」
笹森は嗤った。
「まぁ、マジで可愛いくなかったら、こんなこと言わないけどね」
美少女の咲菜に反論され、笹森は折れたようだ。 美少女が言うことならば、黒は白になる。白は赤になる。
「だ、大丈夫だよ。可愛くないのはよく分かってるから。だったらちゃんとお化粧しろって話だよね。アハハ、ちゃんと練習しなくっちゃ……」
だが化粧は校則違反だった。しかしほとんどの女子が化粧している。黒目を増強させるコンタクトレンズを使用している。週1の風紀検査を通過すれば問題視されない。
「別にいいんじゃね。プリントに粉付けて渡されても困るしな」
七尾が言った。
「へへ……」
そのうち、鷲羽さんが自転車に乗ってやって来た。
「あれ、七尾じゃん」
「おう」
「駅まで一緒に帰る?」
「そうするかな」
星子は4人を後ろから眺めて歩いた。七尾と咲菜、笹森と鷲羽さんで盛り上がっている。時折、鷲羽さんが七尾と咲菜に話を振る。
『プール行こうよ、プール。みんなでさ。エーゲアンビーチとか』
鷲羽さんの声が黄色めく。
「遠」
笹森は呟いて、足を遅くした。星子は隣に追いついてしまった。
「星子ちゃんってホラー映画とか観れるん?」
星子は頷いた。
「じゃあ、ぼくン家(ち)でホラー映画観ようよ。ゲジゲジ人間1作目からさ」
「ゲジゲジ人間は、苦手かも……」
「あれ観れないのにホラー映画観れるって、じゃあ何なら観れるのさ」
「"15日の木曜日"とか……"呪念"も観たけれど……あとはB級ホラー」
叔父が、夏場によく借りてきた。有料チャンネルのものも観ずに、夏場はB級ホラー映画を観ている。
「いいね。でもぼくは和風ホラーが好きだな」
笹森は顎を撫でた。
鷲羽さんが笹森の不在に気付く。足を止めて顧眄(こべん)する。
「五百鈴ーっ! 星子チャン困ってんじゃん」
「ハハッ」
「で、どうすんの? エーゲアンビーチ、行く?
県内で有名な室内プール施設だ。近くの工事の熱を利用し、温水であることが特徴で、季節問わず人気だった。だが、交通の便が良くない。自家用車での来場が前提となっている。
「俺はやめておく」
七尾が言った。
「五百鈴はー?」
「ぼくも、水着のお姉さんには興味あるけど、漏斗胸(ろうときょう)バレちゃうから水着はちょっと……」
星子は思わず、笹森の胸を見てしまった。
「見ないでよ、えっち」
彼は両手で胸を覆う。首を伸ばし、白い舌を見せる。
「"ろーときょー"って何?」
鷲羽さんが訊ねた。
「ヘコんでんの、胸。ちょっとだけ。貧乳って意味じゃないよ」
「そうだっけ?」
笹森は胸を覆ったままだった。鷲羽さんは彼の素肌を知っているのか、首を傾げる。
「星子ちゃん、よく胸だって分かったね。前に、何かの宗教かとか言われたんだけど」
「叔父が、軽度だけれど、漏斗胸で……」
「ぼくも軽度。見た目じゃ分かんないけどねー」
「咲にゃんは?」
「あたしも、パパに訊いてみないと……」
「そっかー。みんなで何か、夏らしいことしたいー」
笹森は鷲羽さんを一瞥して、また星子に戻ってきた。
「オルカネード、観た?」
「オルカネードは地上波で観たよ」
「バイオテックハザードは?」
「3作目まで……」
星子は七尾の隣にいる咲菜の後姿を窺った。場所を入れ替わるべきだ。
「えー、ホラー映画の話? "恐怖の見取り図"今やってるよね。観に行かない?
七尾は?」
「パス」
「咲にゃんは?」
「あたし、怖いのあんまり好きじゃなくて……でも星子ちゃんが行くなら……」
「そっかぁ……」
鷲羽さんは笹森を見詰める。
「五百鈴は行くでしょ?」
「全国ロードショーは興味ないんだよなー」
「ちぇー」
ふと、鷲羽さんと目が合った。だが、逸らされてしまう。
テスト前の1週間は、強豪のバレーボール部を除いて部活動が停止になる。
吹奏楽部の音出しと、校庭から聞こえたサッカー部や野球部の声出しがないだけで、放課後は静かだった。日々は賑やかだったのだ。
教室では、近くのファストフードで軽食を買い込んだ女子たちが勉強会を開いている。
星子は渡り廊下を歩いていた。6組と7組の間にある渡り廊下から裏校舎に渡り、1階に降りると東側に図書室がある。今日は曇りで、外が暗かった。図書室ならばクーラーが効き、光量も十分だった。
咲菜は鷲羽さんと帰った。笹森と七尾も一緒のようだった。鷲羽さんの眼鏡に適わなかった。
星子は面白い話のひとつもできない自分が嫌になった。
教材を抱え、図書室に向かう。
扉を開くと冷気が彼女を迎えた。廊下で纏わりついた蒸れた空気が払われていく。
テスト前期間なだけあって、普段よりも利用者は多かったが、まだ席に余りはあった。部屋の隅の席に座る。教材を広げていると、斜向かいの男子生徒が顔を上げた。
「その席、クーラー直撃――」
日焼けしたことのなさそうな白い顔が星子を捉えた。濃い睫毛を携えながら、薄い目蓋は軽やかに目を剥く。月也だった。
「そこの席、クーラー直撃するので寒いですよ」
「そうなんだ。ありがとう、教えてくれて」
星子は広げた教科書を回収する。辺りを見回していると、月也は自分の教科書を手前に引いた。
「ここ、空いてます」
「ありがとう。じゃあここ、座るね」
月也はmol計算をやっているようだった。シャープペンシルがノートを叩いている。彼はタブレットを使わないようだった。
星子は数学の教科書を開いた。三角関数は苦手だ。だが彼女にとっては理数科目はどの単元でも苦手だった。
七尾は暗記をするなと言っていたが、彼は計算で出せるためにそう言っているのだ。三角関数の構造を理解している驕りだ。星子には暗記しかなかった。ノートに3段構えの表を描くと、角度を記していく。そして覚えたての記号と数字で埋めていく。空欄が目立つ。
直撃を免れたクーラーの冷気が頬を撫でていく。
「白川先輩」
mol計算をやっていた月也が腕を伸ばした。シャープペンシルが、星子の教科書に線を引く。
「もし覚えられなかったら、この公式だけ覚えておけば、sinかcosが出ますから」
「tanも……?」
「割り算で出ます」
月也は星子の教科書を遡って公式を見つける。
「あ……そうか……」
授業は理解しているつもりだった。解けていたはずだった。
「ただ丸暗記だと、焦りません?」
「うん……」
月也は反対側から問を読んだ。
「問1で、sinθが5分の3だと言っているので、つまりこの公式に当て嵌めると……5分の3の2乗足すことのcosθ2乗が1なので、あとは、方程式を解くだけ……」
月也は呟きながら、化学のノートの端に計算を始めた。星子も解説されたとおりに計算する。
「5分の4……?」
「はい。鋭角……ですもんね? で、tanθが、5が消えて4分の3と………」
星子は解答集を覗いた。
「あ、合ってる、合ってる」
月也は微笑を見せる。
「1年生なのに、もう2年生の授業、分かるんだね……」
「この前、七尾先輩に教えていただきましたから」
「それでもすごいよ」
さすがは市内トップの進学校を志望していただけある。星子も同じ解説を聞いていたというのにまったく訳が分からなかった。
「化学の勉強してるのに、ごめんね」
「首を突っ込んだのは僕のほうですから」
月也はmol計算に戻った。
星子は月也に教わった流れを汲んで、問題を解いていく。
チャイムが鳴った。閉館の5分前だった。
月也は教科書とノートを閉じる。
「月也くんはタブレット、あんまり使わないんだね」
「バッテリーが気になってしまって、集中できないんです」
「分かるかも」
学校司書の先生が図書室を閉める支度を始めている。
テーブルを片付け、月也とともに部屋を出る。
「テスト、自信はあるの?」
ただ確実性を求め、彼は本来目指していた偏差値68の高校ではなく、通学時間も通学手段も大して変わらない、この偏差値55の高校に切り替えた。彼の話しぶりではそうだった。
「授業内容は理解していますが、自信があるかどうかは分かりません。緊張はしています。もし応用問題の難易度が高ければ……」
「もう2年生の授業も分かってるのに?」
「僕の頭が良いからではないですよ。先立って予習しているからです」
「……その予習ができることを、頭が良いって言うんじゃ……?」
月也は微笑する。
「それなら僕は頭が良いのかも知れませんけれど、七尾先輩の教え方が上手かったのも本当です」
星子は渋い面になる。七尾の教え方では何も分からなかった。彼の説明が悪いのではない。理解が追いつかなかった。それでも彼の説明は先に進んでしまうのだ。
「月也くんの教え方も上手かったよ。寄り添ってくれる感じがした。授業だと解けるんだけどな……」
「分かりますよ、それ。だから怖いんですよね。本当に理解できてるのか?って」
「えらいね、勉強……」
「給付型の奨学金狙ってるんです。そのためには成績、良くしておかないといけないので。国公立じゃないと行けませんから」
1年生の彼は受験まであと2年ある。だがすでに大学のことを考えている。この学校は進学校だ。それが当然で健全なのかもしれない。けれども星子は、叔父の勧められるまま、何となくこの高校を受験し、大学の道までは考えていない。
高校進学さえも叔父の厚意だ。大学まで望むことは贅沢だ。学力の限界値はすでに三角関数で求めることができている。
「和高(わたか)じゃなくて良かったなって今は思います。仮に入れたとしても、塾なしで成績をキープできるかどうか……何より、ここはみんな、好くしてくれますから。白川先輩もいらっしゃいますし」
「いいよね、この高校。わたしも好き。勉強は全然、ついていけないけれど」
「でも、中学校には悪いことをしました。和高に行ったら看板になれたのに。僕を哀れむ声もあるんでしょうね……自惚れたつもりはないですが。僕が、七尾先輩が和高に行かなかったことを惜しむみたいに」
隣の月也が俯いた。ただでさえ日当たりの悪い裏校舎の廊下は雨天と相俟ってさらに暗い。雨音が薄ぼんやりした空間に染み渡っていく。
「他人に期待してしまうのは仕方のないことだよ。大事なことは、月也くんが月也くんに合った環境にいることだと思うな。和高に何人行こうが、ただの数字だもの。月也くんがただの数字で見られて、"和高だからすごい"ってされるのは、わたしは嫌だな」
月也は顔を上げた。
「でも和高は、すごいですよ」
「わたしも和高はすごいと思うよ。思うけれど……月也くんのすごさは、頭が良いだけじゃなくて、ちゃんと頭の悪いわたしにも分かりやすく教えられるってところ。教科書忘れたお友達に、自分の教科書貸せちゃうってところ。ちゃんと将来のことを考えて今努力できるってところ。そういうところは、中学時代から変わってないってところ。"和高合格者1名"じゃなくて……」
合格者発表では発表されない事柄を、彼はたくさん抱えている。
「変わってないのは、白川先輩もです。良い意味で」
彼はふっさりとした睫毛を下瞼で反り返して微笑する。
「へへ……わたしの場合は、周りに甘えちゃって成長してないだけ。みんな優しいからね」
月也は深く息を吐く。
「やっぱり僕、この高校来てよかったです。入ったばかりの頃は腐ってましたがね。周りのこと見下して、莫迦にして、侮ってました。でも高校ってそれだけじゃダメですよね、勉強だけじゃ。失敗して、たまに成功して……ね、白川先輩」
澄んだ目が星子を射抜く。
「うん。でも月也くん、そんな失敗してる?」
「してますよ。結構、試行錯誤です。失敗した顔しないだけで」
「それが難しいんだよ。わたしはすぐ顔に出ちゃう」
星子は苦笑した。見た目はまだ幼さを残しながら、中身はすでに大人びている。
「白川先輩は、困ったら困った顔してください。そうしたら……僕が助けます。なんてね」
「頼もしいなぁ。でも実際、助けてもらっちゃったからな」
月也は笑っていたが、ふと、廊下の先に視線を投げ、表情を消した。星子はそれに気付くと、彼の目線の先を辿った。最東端の図書室から数部屋離れたところに保健室がある。そこから出てきた男子の後姿を、月也は見ていた。
「あの人、笹森さんじゃないですか?」
1cmに満たない大きさの笹森が、蹌踉(そうろう)とした足取りで廊下を歩いている。2人のいる方向とは反対へ消えていく。
「ああ、そうかも……」
「笹森さんは、身体があまり強くないんですか」
月也は以前、倒れかけた笹森を見ている。転倒しそうになったところを彼が支えたのだった。
星子は返答に窮した。笹森本人は、隠しているつもりのようだった。そして隠したいようだった。だが顔色にしても、歩き方にしても、隠し通すには無理がある。そして今、保健室から出て行ったのを見れば、とても隠し続けることはできない。
「どうなんだろうね。中学時代はバスケ部で強かったみたいだけれど……クーラーに弱いんじゃないかな。中と外で温度変化も激しいし!」
「……そうなんですね」
月也の声音は沈んでいる。
星子は目を泳がせる。
「あ、それより、この前の保健室の子は大丈夫だった?」
「はい。お世話になりました。あの後、早退してましたが、次の日には学校に来ていました。白川先輩のおかげです。ありがとうございます。巻き込んでしまって申し訳なかったです」
「とんでもない。それにあれは笹森くんのおかげなの。わたしは見てただけ。でも、何事もなかったのならよかった」
星子は気恥ずかしくなった。甦る笹森の指摘が、胸に安全ピンを刺すようだった。気持ちだけでは誰も助けられない。熱中症の対処をろくに知らなかった。笹森がいなければ、月也の同級生が今頃無事だった確証はどこにもない。
「僕が白川先輩を頼ってしまったのは事実です。白川先輩のほうは、手首の具合はどうなんですか」
「わたしはもうなんともないよ。月也くんに勧められたとおり、湿布貼っておいてよかったよ」
「そうですか。白川先輩はいつも他人優先ですから……僕が口煩くなっても、嫌いにならないでくださいね」
湿度は90%近辺だというのに、彼の髪はまるで夏を知らない。
「なるわけないよ。少し口煩いくらいが、わたしにはちょうどいいんだと思う。この前もね――」
七尾の注意を聞かず、失敗したのだ。雨の日に迎えも頼らず濡れて帰り、風邪をひいた。"体調不良の友人"を心配したつもりが怒らせてしまった。一人で虫を退治できるつもりで、結局は他人任せにしてしまった。
「白川先輩は反省できる人だからですよ」
「良く言ってくれてありがとう。でも無駄な反省なんだ。次に活かせないなら意味ないよね」
堅実な月也なら、頷くところだ。
「白川先輩のプライドじゃないですかね。見栄っ張りって意味ではなくて……だからその、白川先輩の中では信念ってことです。でも、それでも、もちろん結果次第で、後悔することもあると思いますけど」
「月也くんは優しいなー。甘えちゃいそう。なんてね。長々と喋っちゃった。バイバイ。気を付けて帰るんだよ」
1年生の月也は図書室を出てすぐの渡り廊下を渡れば教室だ。彼はまだ荷物を持っていなかった。星子は階段を上らねばならない。
「さようなら。テスト、お互い頑張りましょう」
月也と話すと、夏を忘れる。
2年7組はすでに消灯していた。ファストフードの匂いだけが仄かに残っている。彼女等の勉強はこれからだ。日頃、ともに賑々しくやっている仲間たちは、今日から1週間は競争相手になる。
雨音で静まり返る教室を見渡し、席に掛けた鞄を取る。
無人の教室に長居しては、また盗難犯の濡れ衣を着せられかねない。星子はそそくさと下駄箱に向かう。
「星子」
暗がりから不意に呼ばれる。濁りを帯びた声が星子の項を突く。
「ほへぇ!」
星子は驚きのあまり、框(かまち)を踏み外した。簀子(すのこ)が鳴り響く。
七尾の姿が薄らと浮き上がり、軈(やが)て顔色まで分かるようになった。
「びっくりしたよ、七尾くんか」
「悪い」
眉間に皺を寄せ、機嫌が悪そうだった。
「どうしたの。今日は学童の迎えは……?」
「テスト期間は姉ちゃん」
「そうなんだ。残ってたんだね。帰ったかと思った」
「"科学"部の連中と勉強会してた」
「そうなんだ。"化学"のテスト、良さそうだね」
「化学(ばけがく)じゃねーよ。プログラミングとかの」
「ああ、そうなんだ。七尾くん、科学部だっけ?」
「いや、たまに顔出してるだけ。廃部回避の幽霊部員みたいなもん」
七尾の眉根は依然として皺を刻んでいる。蒸し暑さに苛立っているのだろうか。
「……あ、えっと………雨だから、帰り、気を付けてね……」
「星子」
「う、うん?」
押さえつけるような声音に、星子はたじろぐ。何か怒らせるようなことをしただろうか。鷲羽さんと咲菜と3人で昼飯を食べるようになってから、彼は玉子焼きをねだりに来なくなった。そのことについて言いたいことがあるのだろうか。それ以外に思い当たる節がない。
「"カレシ"ってどう思う」
「カレシって?」
「だからカレシだよ」
「なんで?」
「……欲しいとか思うのか」
星子は納得した。咲菜を女子一般としたときの一般論を七尾は知りたがっている。だが彼は鈍い。彼は頭が良く、賢い。ところが色恋沙汰については訊ねる相手を間違えている。
「そういうのこそ、鷲羽さんに訊けばいいと思うよ」
「はぁ? なんで。お前に訊いてる。答えろよ。お前はどうなんだ?」
咲菜の親友として、咲菜を近くで見ていた者として、鷲羽さんでは意味がない。咲菜から何か聞いていないかと、彼は探っているようだ。
「あんまりそういう話しないからなー」
「誰と?」
「咲菜ちゃんと」
七尾は頭を抱えた。
「そんな難しい話してるか、俺は……?」
「でも欲しいんじゃないかな」
咲菜は笹森が好きだと言っていた。咲菜を好きな七尾には厳しい話だ。
「欲しいのか……」
咲菜が「欲しい」と思っているであろう交際相手は、七尾ではない。笹森だ。いずれ知ることになる。
星子は七尾が俯く前に声を上擦らせた。
「でも憧れるよね。手繋いでさ、放課後にマキシバーガーなんて行っちゃって、ポテトを"あーん"って食べさせ合いっこするの。田舎の何もないこの学校の近くもさ、特別に見えるんだろう、ね……」
七尾は肩を落としていた。星子の声も消え入っていく。嘘を吐くべきだったのか。失恋を突き付ける真似をしてしまった。
「七尾くん……」
「よし、帰るぞ、一緒に。駅まで送る」
七尾は顔を上げた。三白眼が星子を見下ろしている。
星子(しょうこ)は2人の後姿を見ていた。七尾とは話せていたが、笹森と上手く話せるだろうか。たなばた祭りが、2人の距離を近付けたのは確かなのだ。咲菜は彼を目にしても強張らなくなっている。あとは互いに一個人を知り合っていくだけなのだ。もうすぐ、この高校一の美男美女が誕生する。
「五百鈴(いおり)、サッキーナ、何話してるのん?」
2人の間に鷲羽(わしゅう)さんが割って入る。両手に花とばかりだった。だが鷲羽さん本人も華やかだった。彼女は、星子が「パパ活をしている」と笹森に話したそうだ。星子には身に覚えがない。
何故、鷲羽さんは、曰く"パパ活をしている星子"と仲を深めようとするのだろう。
星子には、笹森のような明るさも、咲菜のような可愛らしさもない。人と距離を詰めるのが好きな鷲羽さんとも性格的な相似はない。
「早く帰ろー?」
2人の腕や肩に組み付き、外へ繋がる階段へ押していく。
咲菜が振り返った。
「星子ちゃんは……?」
鷲羽さんが押すのをやめた。笹森が振り返る。
「ああ、ごめんごめーん。後ろにいるのかと思ってた」
星子は靴を履き替え、3人のもとに駆け寄る。
「ごめんなさい、ぼーっとしちゃった」
星子は3人の後ろを歩く。階段を下りるときでも、鷲羽さんは彼等を放さなかった。
笹森は自転車通学のはずだった。徒歩15分かからない場所に自宅がある。玄関を背にしたとき、左手北側の正門に向かうはずだった。けれども咲菜と鷲羽さんから離れない。
「アタシ、自転車取ってくる」
鷲羽さんが駐輪場へ向かおうと、一歩踏み出した。笹森の腕を引いたままだった。
「五百鈴もでしょ?」
「ぼく、今日歩き。ちょっと寄るとこあんの」
「はぁー? 早く言えし」
鷲羽さんは彼の腕に拳を食らわせてから、駐輪場へ向かった。
「ぼくも今日電車だから、琴峯(ことみね)さん、方向一緒だよね。よろしく」
「あ……うん。よ、よろしくね、笹森くん」
咲菜は俯いた。彼女の小さな頭の奥で、笹森は星子を見下ろす。アーモンド色の双眸が淀みを湛えている。
星子も咲菜のように彼を視界から外した。
鷲羽さんを待っているうちに、1台の自転車が3人の脇を通った。ブレーキがかかり、傍で止まる。
「3人お揃いで」
七尾だ。咲菜が顔を上げた。
「なんだよ、七尾。ぼくがハーレムするの、邪魔すんなよ」
「ハーレムするならもっと選んだほうがいいぞ」
「はぁ? 琴峯さん可愛いだろうが」
「まぁ、それはそうなんだけど……」
「"星子"だってそれなりに可愛い」
笹森が言うと、七尾の顔面が一度、引き攣った。
「俺(ひと)の昔馴染みつかまえて"それなり"って、お前……」
「確かにぼくの幼馴染の女の子、あんまり可愛くないからね」
「星子ちゃんは、可愛いと思う……」
咲菜が割って入った。
「お料理上手だし、優しいし、可愛いと思う……」
笹森と七尾の表情が固まっている。咲菜の言い分をまったく理解していないという面構えに違いない。
星子は居た堪れなくなった。咲菜の可憐さを理解している2人が、彼女を奇異の目で見てしまうかもしれない。
笹森に軽蔑され、七尾に落胆されてしまうかもしれないのだ。好きな人に拒まれ、好かれている人に冷められてしまうかもしれないのだ。
「い、いいんだよ、咲菜ちゃん……」
笹森は嗤った。
「まぁ、マジで可愛いくなかったら、こんなこと言わないけどね」
美少女の咲菜に反論され、笹森は折れたようだ。 美少女が言うことならば、黒は白になる。白は赤になる。
「だ、大丈夫だよ。可愛くないのはよく分かってるから。だったらちゃんとお化粧しろって話だよね。アハハ、ちゃんと練習しなくっちゃ……」
だが化粧は校則違反だった。しかしほとんどの女子が化粧している。黒目を増強させるコンタクトレンズを使用している。週1の風紀検査を通過すれば問題視されない。
「別にいいんじゃね。プリントに粉付けて渡されても困るしな」
七尾が言った。
「へへ……」
そのうち、鷲羽さんが自転車に乗ってやって来た。
「あれ、七尾じゃん」
「おう」
「駅まで一緒に帰る?」
「そうするかな」
星子は4人を後ろから眺めて歩いた。七尾と咲菜、笹森と鷲羽さんで盛り上がっている。時折、鷲羽さんが七尾と咲菜に話を振る。
『プール行こうよ、プール。みんなでさ。エーゲアンビーチとか』
鷲羽さんの声が黄色めく。
「遠」
笹森は呟いて、足を遅くした。星子は隣に追いついてしまった。
「星子ちゃんってホラー映画とか観れるん?」
星子は頷いた。
「じゃあ、ぼくン家(ち)でホラー映画観ようよ。ゲジゲジ人間1作目からさ」
「ゲジゲジ人間は、苦手かも……」
「あれ観れないのにホラー映画観れるって、じゃあ何なら観れるのさ」
「"15日の木曜日"とか……"呪念"も観たけれど……あとはB級ホラー」
叔父が、夏場によく借りてきた。有料チャンネルのものも観ずに、夏場はB級ホラー映画を観ている。
「いいね。でもぼくは和風ホラーが好きだな」
笹森は顎を撫でた。
鷲羽さんが笹森の不在に気付く。足を止めて顧眄(こべん)する。
「五百鈴ーっ! 星子チャン困ってんじゃん」
「ハハッ」
「で、どうすんの? エーゲアンビーチ、行く?
県内で有名な室内プール施設だ。近くの工事の熱を利用し、温水であることが特徴で、季節問わず人気だった。だが、交通の便が良くない。自家用車での来場が前提となっている。
「俺はやめておく」
七尾が言った。
「五百鈴はー?」
「ぼくも、水着のお姉さんには興味あるけど、漏斗胸(ろうときょう)バレちゃうから水着はちょっと……」
星子は思わず、笹森の胸を見てしまった。
「見ないでよ、えっち」
彼は両手で胸を覆う。首を伸ばし、白い舌を見せる。
「"ろーときょー"って何?」
鷲羽さんが訊ねた。
「ヘコんでんの、胸。ちょっとだけ。貧乳って意味じゃないよ」
「そうだっけ?」
笹森は胸を覆ったままだった。鷲羽さんは彼の素肌を知っているのか、首を傾げる。
「星子ちゃん、よく胸だって分かったね。前に、何かの宗教かとか言われたんだけど」
「叔父が、軽度だけれど、漏斗胸で……」
「ぼくも軽度。見た目じゃ分かんないけどねー」
「咲にゃんは?」
「あたしも、パパに訊いてみないと……」
「そっかー。みんなで何か、夏らしいことしたいー」
笹森は鷲羽さんを一瞥して、また星子に戻ってきた。
「オルカネード、観た?」
「オルカネードは地上波で観たよ」
「バイオテックハザードは?」
「3作目まで……」
星子は七尾の隣にいる咲菜の後姿を窺った。場所を入れ替わるべきだ。
「えー、ホラー映画の話? "恐怖の見取り図"今やってるよね。観に行かない?
七尾は?」
「パス」
「咲にゃんは?」
「あたし、怖いのあんまり好きじゃなくて……でも星子ちゃんが行くなら……」
「そっかぁ……」
鷲羽さんは笹森を見詰める。
「五百鈴は行くでしょ?」
「全国ロードショーは興味ないんだよなー」
「ちぇー」
ふと、鷲羽さんと目が合った。だが、逸らされてしまう。
テスト前の1週間は、強豪のバレーボール部を除いて部活動が停止になる。
吹奏楽部の音出しと、校庭から聞こえたサッカー部や野球部の声出しがないだけで、放課後は静かだった。日々は賑やかだったのだ。
教室では、近くのファストフードで軽食を買い込んだ女子たちが勉強会を開いている。
星子は渡り廊下を歩いていた。6組と7組の間にある渡り廊下から裏校舎に渡り、1階に降りると東側に図書室がある。今日は曇りで、外が暗かった。図書室ならばクーラーが効き、光量も十分だった。
咲菜は鷲羽さんと帰った。笹森と七尾も一緒のようだった。鷲羽さんの眼鏡に適わなかった。
星子は面白い話のひとつもできない自分が嫌になった。
教材を抱え、図書室に向かう。
扉を開くと冷気が彼女を迎えた。廊下で纏わりついた蒸れた空気が払われていく。
テスト前期間なだけあって、普段よりも利用者は多かったが、まだ席に余りはあった。部屋の隅の席に座る。教材を広げていると、斜向かいの男子生徒が顔を上げた。
「その席、クーラー直撃――」
日焼けしたことのなさそうな白い顔が星子を捉えた。濃い睫毛を携えながら、薄い目蓋は軽やかに目を剥く。月也だった。
「そこの席、クーラー直撃するので寒いですよ」
「そうなんだ。ありがとう、教えてくれて」
星子は広げた教科書を回収する。辺りを見回していると、月也は自分の教科書を手前に引いた。
「ここ、空いてます」
「ありがとう。じゃあここ、座るね」
月也はmol計算をやっているようだった。シャープペンシルがノートを叩いている。彼はタブレットを使わないようだった。
星子は数学の教科書を開いた。三角関数は苦手だ。だが彼女にとっては理数科目はどの単元でも苦手だった。
七尾は暗記をするなと言っていたが、彼は計算で出せるためにそう言っているのだ。三角関数の構造を理解している驕りだ。星子には暗記しかなかった。ノートに3段構えの表を描くと、角度を記していく。そして覚えたての記号と数字で埋めていく。空欄が目立つ。
直撃を免れたクーラーの冷気が頬を撫でていく。
「白川先輩」
mol計算をやっていた月也が腕を伸ばした。シャープペンシルが、星子の教科書に線を引く。
「もし覚えられなかったら、この公式だけ覚えておけば、sinかcosが出ますから」
「tanも……?」
「割り算で出ます」
月也は星子の教科書を遡って公式を見つける。
「あ……そうか……」
授業は理解しているつもりだった。解けていたはずだった。
「ただ丸暗記だと、焦りません?」
「うん……」
月也は反対側から問を読んだ。
「問1で、sinθが5分の3だと言っているので、つまりこの公式に当て嵌めると……5分の3の2乗足すことのcosθ2乗が1なので、あとは、方程式を解くだけ……」
月也は呟きながら、化学のノートの端に計算を始めた。星子も解説されたとおりに計算する。
「5分の4……?」
「はい。鋭角……ですもんね? で、tanθが、5が消えて4分の3と………」
星子は解答集を覗いた。
「あ、合ってる、合ってる」
月也は微笑を見せる。
「1年生なのに、もう2年生の授業、分かるんだね……」
「この前、七尾先輩に教えていただきましたから」
「それでもすごいよ」
さすがは市内トップの進学校を志望していただけある。星子も同じ解説を聞いていたというのにまったく訳が分からなかった。
「化学の勉強してるのに、ごめんね」
「首を突っ込んだのは僕のほうですから」
月也はmol計算に戻った。
星子は月也に教わった流れを汲んで、問題を解いていく。
チャイムが鳴った。閉館の5分前だった。
月也は教科書とノートを閉じる。
「月也くんはタブレット、あんまり使わないんだね」
「バッテリーが気になってしまって、集中できないんです」
「分かるかも」
学校司書の先生が図書室を閉める支度を始めている。
テーブルを片付け、月也とともに部屋を出る。
「テスト、自信はあるの?」
ただ確実性を求め、彼は本来目指していた偏差値68の高校ではなく、通学時間も通学手段も大して変わらない、この偏差値55の高校に切り替えた。彼の話しぶりではそうだった。
「授業内容は理解していますが、自信があるかどうかは分かりません。緊張はしています。もし応用問題の難易度が高ければ……」
「もう2年生の授業も分かってるのに?」
「僕の頭が良いからではないですよ。先立って予習しているからです」
「……その予習ができることを、頭が良いって言うんじゃ……?」
月也は微笑する。
「それなら僕は頭が良いのかも知れませんけれど、七尾先輩の教え方が上手かったのも本当です」
星子は渋い面になる。七尾の教え方では何も分からなかった。彼の説明が悪いのではない。理解が追いつかなかった。それでも彼の説明は先に進んでしまうのだ。
「月也くんの教え方も上手かったよ。寄り添ってくれる感じがした。授業だと解けるんだけどな……」
「分かりますよ、それ。だから怖いんですよね。本当に理解できてるのか?って」
「えらいね、勉強……」
「給付型の奨学金狙ってるんです。そのためには成績、良くしておかないといけないので。国公立じゃないと行けませんから」
1年生の彼は受験まであと2年ある。だがすでに大学のことを考えている。この学校は進学校だ。それが当然で健全なのかもしれない。けれども星子は、叔父の勧められるまま、何となくこの高校を受験し、大学の道までは考えていない。
高校進学さえも叔父の厚意だ。大学まで望むことは贅沢だ。学力の限界値はすでに三角関数で求めることができている。
「和高(わたか)じゃなくて良かったなって今は思います。仮に入れたとしても、塾なしで成績をキープできるかどうか……何より、ここはみんな、好くしてくれますから。白川先輩もいらっしゃいますし」
「いいよね、この高校。わたしも好き。勉強は全然、ついていけないけれど」
「でも、中学校には悪いことをしました。和高に行ったら看板になれたのに。僕を哀れむ声もあるんでしょうね……自惚れたつもりはないですが。僕が、七尾先輩が和高に行かなかったことを惜しむみたいに」
隣の月也が俯いた。ただでさえ日当たりの悪い裏校舎の廊下は雨天と相俟ってさらに暗い。雨音が薄ぼんやりした空間に染み渡っていく。
「他人に期待してしまうのは仕方のないことだよ。大事なことは、月也くんが月也くんに合った環境にいることだと思うな。和高に何人行こうが、ただの数字だもの。月也くんがただの数字で見られて、"和高だからすごい"ってされるのは、わたしは嫌だな」
月也は顔を上げた。
「でも和高は、すごいですよ」
「わたしも和高はすごいと思うよ。思うけれど……月也くんのすごさは、頭が良いだけじゃなくて、ちゃんと頭の悪いわたしにも分かりやすく教えられるってところ。教科書忘れたお友達に、自分の教科書貸せちゃうってところ。ちゃんと将来のことを考えて今努力できるってところ。そういうところは、中学時代から変わってないってところ。"和高合格者1名"じゃなくて……」
合格者発表では発表されない事柄を、彼はたくさん抱えている。
「変わってないのは、白川先輩もです。良い意味で」
彼はふっさりとした睫毛を下瞼で反り返して微笑する。
「へへ……わたしの場合は、周りに甘えちゃって成長してないだけ。みんな優しいからね」
月也は深く息を吐く。
「やっぱり僕、この高校来てよかったです。入ったばかりの頃は腐ってましたがね。周りのこと見下して、莫迦にして、侮ってました。でも高校ってそれだけじゃダメですよね、勉強だけじゃ。失敗して、たまに成功して……ね、白川先輩」
澄んだ目が星子を射抜く。
「うん。でも月也くん、そんな失敗してる?」
「してますよ。結構、試行錯誤です。失敗した顔しないだけで」
「それが難しいんだよ。わたしはすぐ顔に出ちゃう」
星子は苦笑した。見た目はまだ幼さを残しながら、中身はすでに大人びている。
「白川先輩は、困ったら困った顔してください。そうしたら……僕が助けます。なんてね」
「頼もしいなぁ。でも実際、助けてもらっちゃったからな」
月也は笑っていたが、ふと、廊下の先に視線を投げ、表情を消した。星子はそれに気付くと、彼の目線の先を辿った。最東端の図書室から数部屋離れたところに保健室がある。そこから出てきた男子の後姿を、月也は見ていた。
「あの人、笹森さんじゃないですか?」
1cmに満たない大きさの笹森が、蹌踉(そうろう)とした足取りで廊下を歩いている。2人のいる方向とは反対へ消えていく。
「ああ、そうかも……」
「笹森さんは、身体があまり強くないんですか」
月也は以前、倒れかけた笹森を見ている。転倒しそうになったところを彼が支えたのだった。
星子は返答に窮した。笹森本人は、隠しているつもりのようだった。そして隠したいようだった。だが顔色にしても、歩き方にしても、隠し通すには無理がある。そして今、保健室から出て行ったのを見れば、とても隠し続けることはできない。
「どうなんだろうね。中学時代はバスケ部で強かったみたいだけれど……クーラーに弱いんじゃないかな。中と外で温度変化も激しいし!」
「……そうなんですね」
月也の声音は沈んでいる。
星子は目を泳がせる。
「あ、それより、この前の保健室の子は大丈夫だった?」
「はい。お世話になりました。あの後、早退してましたが、次の日には学校に来ていました。白川先輩のおかげです。ありがとうございます。巻き込んでしまって申し訳なかったです」
「とんでもない。それにあれは笹森くんのおかげなの。わたしは見てただけ。でも、何事もなかったのならよかった」
星子は気恥ずかしくなった。甦る笹森の指摘が、胸に安全ピンを刺すようだった。気持ちだけでは誰も助けられない。熱中症の対処をろくに知らなかった。笹森がいなければ、月也の同級生が今頃無事だった確証はどこにもない。
「僕が白川先輩を頼ってしまったのは事実です。白川先輩のほうは、手首の具合はどうなんですか」
「わたしはもうなんともないよ。月也くんに勧められたとおり、湿布貼っておいてよかったよ」
「そうですか。白川先輩はいつも他人優先ですから……僕が口煩くなっても、嫌いにならないでくださいね」
湿度は90%近辺だというのに、彼の髪はまるで夏を知らない。
「なるわけないよ。少し口煩いくらいが、わたしにはちょうどいいんだと思う。この前もね――」
七尾の注意を聞かず、失敗したのだ。雨の日に迎えも頼らず濡れて帰り、風邪をひいた。"体調不良の友人"を心配したつもりが怒らせてしまった。一人で虫を退治できるつもりで、結局は他人任せにしてしまった。
「白川先輩は反省できる人だからですよ」
「良く言ってくれてありがとう。でも無駄な反省なんだ。次に活かせないなら意味ないよね」
堅実な月也なら、頷くところだ。
「白川先輩のプライドじゃないですかね。見栄っ張りって意味ではなくて……だからその、白川先輩の中では信念ってことです。でも、それでも、もちろん結果次第で、後悔することもあると思いますけど」
「月也くんは優しいなー。甘えちゃいそう。なんてね。長々と喋っちゃった。バイバイ。気を付けて帰るんだよ」
1年生の月也は図書室を出てすぐの渡り廊下を渡れば教室だ。彼はまだ荷物を持っていなかった。星子は階段を上らねばならない。
「さようなら。テスト、お互い頑張りましょう」
月也と話すと、夏を忘れる。
2年7組はすでに消灯していた。ファストフードの匂いだけが仄かに残っている。彼女等の勉強はこれからだ。日頃、ともに賑々しくやっている仲間たちは、今日から1週間は競争相手になる。
雨音で静まり返る教室を見渡し、席に掛けた鞄を取る。
無人の教室に長居しては、また盗難犯の濡れ衣を着せられかねない。星子はそそくさと下駄箱に向かう。
「星子」
暗がりから不意に呼ばれる。濁りを帯びた声が星子の項を突く。
「ほへぇ!」
星子は驚きのあまり、框(かまち)を踏み外した。簀子(すのこ)が鳴り響く。
七尾の姿が薄らと浮き上がり、軈(やが)て顔色まで分かるようになった。
「びっくりしたよ、七尾くんか」
「悪い」
眉間に皺を寄せ、機嫌が悪そうだった。
「どうしたの。今日は学童の迎えは……?」
「テスト期間は姉ちゃん」
「そうなんだ。残ってたんだね。帰ったかと思った」
「"科学"部の連中と勉強会してた」
「そうなんだ。"化学"のテスト、良さそうだね」
「化学(ばけがく)じゃねーよ。プログラミングとかの」
「ああ、そうなんだ。七尾くん、科学部だっけ?」
「いや、たまに顔出してるだけ。廃部回避の幽霊部員みたいなもん」
七尾の眉根は依然として皺を刻んでいる。蒸し暑さに苛立っているのだろうか。
「……あ、えっと………雨だから、帰り、気を付けてね……」
「星子」
「う、うん?」
押さえつけるような声音に、星子はたじろぐ。何か怒らせるようなことをしただろうか。鷲羽さんと咲菜と3人で昼飯を食べるようになってから、彼は玉子焼きをねだりに来なくなった。そのことについて言いたいことがあるのだろうか。それ以外に思い当たる節がない。
「"カレシ"ってどう思う」
「カレシって?」
「だからカレシだよ」
「なんで?」
「……欲しいとか思うのか」
星子は納得した。咲菜を女子一般としたときの一般論を七尾は知りたがっている。だが彼は鈍い。彼は頭が良く、賢い。ところが色恋沙汰については訊ねる相手を間違えている。
「そういうのこそ、鷲羽さんに訊けばいいと思うよ」
「はぁ? なんで。お前に訊いてる。答えろよ。お前はどうなんだ?」
咲菜の親友として、咲菜を近くで見ていた者として、鷲羽さんでは意味がない。咲菜から何か聞いていないかと、彼は探っているようだ。
「あんまりそういう話しないからなー」
「誰と?」
「咲菜ちゃんと」
七尾は頭を抱えた。
「そんな難しい話してるか、俺は……?」
「でも欲しいんじゃないかな」
咲菜は笹森が好きだと言っていた。咲菜を好きな七尾には厳しい話だ。
「欲しいのか……」
咲菜が「欲しい」と思っているであろう交際相手は、七尾ではない。笹森だ。いずれ知ることになる。
星子は七尾が俯く前に声を上擦らせた。
「でも憧れるよね。手繋いでさ、放課後にマキシバーガーなんて行っちゃって、ポテトを"あーん"って食べさせ合いっこするの。田舎の何もないこの学校の近くもさ、特別に見えるんだろう、ね……」
七尾は肩を落としていた。星子の声も消え入っていく。嘘を吐くべきだったのか。失恋を突き付ける真似をしてしまった。
「七尾くん……」
「よし、帰るぞ、一緒に。駅まで送る」
七尾は顔を上げた。三白眼が星子を見下ろしている。