my天の川に流るる

15


 月也の自転車が正門に消えていくのを見送る。
「月也くん、科学部楽しみにしてそうだった。月也くんが楽しそうで、わたしも嬉しいよ。ありがとう、七尾くん」
 隣に立つ七尾を見上げる。
「月也のお姉ちゃん気取りかぁ?」
 手の甲が、頭の上を叩く。
「違うよ。月也くん、母子家庭だって言ってたでしょ。中学の頃から、お母さんに迷惑かけたくないって我武者羅だったから。自分は居ないほうが良かったのかも、なんて言うこともあったから、あの頃は心配だったな。でも逞しくなったなぁ……年末には、もっと、わたしの首が疲れるくらい、背も伸びるんだろうな。寂しいね」
「寂しいのか」
「きっと月也くんのお母さんなら、喜ぶだろうけれど……だって自分の子供の成長だもの。でもわたしには年下の男の子ってイメージだったから」
「背が伸びても、年下なのは変わらねーぞ」
「そうだけど、やっぱ変わるよ。印象がね」
「月也、縹緻(ツラ)がいいもんな。惚れるなよ」
 七尾は以前、笹森についても同じことを言った。
「笹森くんのこともそう言うじゃん……わたしそんな顔重視じゃないよ」
 何が七尾にそのような決めつけを起こさせたのだろう。真に顔重視ならば、華やかな笹森にも精悍な七尾にも、淑(しと)やかな月也にも惚れていなければならない。
「じゃあ、何重視なんだよ?」
「それは……」
 何も浮かばなかった。外見もひとつの基準であるが、絶対ではなかった。理想とする顔立ちもまた思い浮かばない。
「数学できて、サッカーできて、顔がかっこよくて、背も高くて? 頼もしくて、頭も良い……俺じゃん。俺じゃね? でもなー、星子(しょうこ)じゃなー」
 七尾は指をひとつずつ折っていく。
「言ってない!」
「そうだよな。星子は、色気より食い気だろ。カレシなんか、当分、要らねーだろ。要らねぇよな? なぁ?」
 冗談半分で緩んでいた表情が、徐々に躍起になる。
「え? え? カレシ?」
 話が飛躍している。まだ気になる相手もいないのだ。
「大体、星子、もしも、だ。もし……コクられたら、どうする? 付き合うか?」
「な、何?」
「心理テストだよ。でも、マジになって答えろ。大事な心理テストなんだ」
「大事な心理テストって何?」
「いいから答えろよ。コクられたら、どうする?」
「誰に? わたしの知ってる人?」
 告白とは、相手が肝心なのだ。相手次第で、歓喜か困惑か分かれるのだ。
「……じゃ、じゃあ、だ。これはあくまで、例え話だ。たとえば、年上のスポーツマンで、俺ほどじゃないがイケメンだったら? 高身長で、女子からもキャーキャー言われているような……」
 星子は昼間に見たバレーボール部の3年生を思い浮かべた。
「女子からキャーキャー言われてるような人と付き合うの、プレッシャーすごそう……」
 凛々しい眉が跳ねる。
「だろ? そうだよな?」
「うん。で、それで何が分かるの?」
 三白眼が星子を捉えた。
 星子は固唾を呑んだ。日焼けした顔は深刻げだ。
「ナイショ」
 彼は笑った。
「何それ! 教えてよ」
「ナイショったらナイショ。ほ~、星子はそういうタイプね~」
「何、何なの? 意地悪!」
「女子からキャーキャー言われてるような男と付き合いたいもんだろ、フツーは」
「他の子からキャーキャー言われるほどかっこいいから付き合いたいんじゃないの」
 七尾は楽しそうだった。そして嬉しそうだった。だが何が彼をそこまで上機嫌にさせているのだろう。星子は分からなかった。だが鷲羽(わしゅう)さんならば分かる気がした。共にいた時間と理解は比例しない。
「お前は可愛いやつだよ」
「バカにしてる……」
「はぁ? 月也に言われたときみたいに喜べ」
「だって七尾くんのは、バカにしてるし」
「してねーわ。マジで可愛いと思ってる」
「ゆるさないもん」
 星子は踵を返す。
「待てよ」
 七尾に肩を掴まれる。
「門まで送るわ」
「なんで?」
「……ぼーっと歩いてすっ転んで、膝擦り剥いたら可哀想だから?」
「ぼーっと歩かないよ。転ばない!」
「いいから。任せとけよ」
 七尾は星子の背中を叩いた。何を任せるのか定かでない。
 駅に向かう西門へ、構内から回る。西門前には外部活用の部室棟が軒を連ねている。反対側には第一体育館が構えている。普段は横の扉を空けて、バレーボール部やバスケットボール部が昇降口で休んでいる。
 星子は、今日、2年7組に来たバレーボール部の3年生たちのことを思い出した。咲菜を目当てに来たのではなかろうか。咲菜の名前が分からないあまり、近くにいた星子の苗字を辿って7組に来たのではあるまいか。或いは咲菜を白川姓と勘違いしている線も捨てきれない。
「今日の3年生さぁ」
「は?」
 七尾の素頓狂な声が星子の額を貫く。
「え?」
「いや、何。続けろ」
「咲菜ちゃんのこと見に来たんだろうね」
「星子いるか、って訊いてきただろ」
 星子は七尾を見た。七尾は眉間に皺を寄せると余所見した。
「そうなの?」
「あ、いや……」
「でもそれ、多分、咲菜ちゃんをわたしの名前と勘違いしてるんじゃないかな。よく一緒にいるからさ、知らない人から見たらどっちがどっちか混同しちゃったとか。だってわたしの知らない人たちだし」
 鷲羽さんも、彼等が星子を知るはずはないと言っていた。
「お前は呑気なやつだな」
「えー? なんでよ」
「琴峯(ことみね)さん見に来たって、お前は琴峯さんを全国レベルのアイドルだと思ってんのか」
「うん……咲菜ちゃんなら、狙えると思う」
「アイドルってのは、見た目だけじゃないんだぞ。喋りと、ノリの良さと、プレッシャーの強さとか、要るだろ、色々。琴峯さんは可愛いけど、適職(ガラ)じゃないだろ」
 これは独占欲だ。まだ見ぬファンたちへの嫉妬心だ。
 星子は甘酸っぱくなった。顔が綻ぶ。
「七尾くんは咲菜ちゃんのこと、よく見てるんだね」
 七尾の恋心に気付いていないふりをして、意地悪をしてみたくなった。彼から向けられる横柄な態度と比べれば些末なことだ。
「別にフツーだろ。男子なら、琴峯さんみたいな子のことは誰でも見る」
「はは、そうだよね」
「……ってことは、お前も見られてんだぞ。お前の理論で言うなら。分かってるなら、マヌケ面やめろ」
「失礼な。もともとこういう顔なの!」
 七尾と向かい合う。左右のコーラ飴が、夏の暑さで溶けていく。
 星子の頬が抓られる。
「な、何……」
 暴力というには痛みがない。接触というには故意的だ。
 見上げてしまった。七尾の手が落ちる。
「……別に」
 彼はおとなしくなった。西門を出る。
「送ってくれてありがとうね、七尾くん」
「ちゃんと、水飲めよ」
「うん。じゃ、また明日ね」





 玄関で呼び止められた。上足サンダルの色からして3年生だ。
 星子は言われるがまま、玄関から渡り廊下を渡り、第一体育館の出入り口に向かった。背の高い3年生が立っていた。制服姿だが、袖を捲り、首にはタオルを掛けている。ニキビ跡の残る瀟洒(しょうしゃ)な顔立ちが星子を向く。2年7組に来たとき、彼は彦坂先輩と呼ばれていたはずだ。
「白川さん」
 ぎこちない笑みで手を振ると彼は下の階に誘う。第一体育館は2階にある。聞かれたくない話のようだった。第一体育館は、全校集会でもない限り、朝に人気(ひとけ)はない。しかしテスト期間でも朝練はある部活がある。
 第一体育館の1階は、卓球部屋と多目的室、トレーニングルームがある。
 あまり日常的には使われないためか、薄暗く、閉鎖されたような雰囲気がある。
「あのさ……手紙、見てくれた?」
 彦坂先輩が訊ねた。
「手紙……?」
 星子は「手紙」の記憶を探る。手紙とは二つ折りになっている紙ではなかろうか。
「白川さんの下駄箱に入れておいたんだけど」
 だが下駄箱には何も入っていなかった。
「いつ頃ですか?」
「月曜日の朝」
 しかし星子には思い当たるところがない。
「ごめんなさい。ちょっと分からないです。手紙は入っていなかったと思います。もう1回、見てきます」
「あ、いや、いいよ。その……白川さんのこと、可愛いなって思ってて……」
 彦坂先輩は肩に掛けたタオルを外し、俯いた。
「可愛いなって思ってるんだけど、その……付き合いたいなって思ってて。みんなには言わないでほしいんだけど……」
 星子は目を屡瞬(しばたた)く。
「え……」
 何を言われたのか、彼女は彦坂先輩の言葉を繰り返す。まだ閉鎖的な廊下に彦坂先輩の残響があるような気がした。
 告白されている。しかし星子には現実味がない。
「えっと……」
「いきなりで、困らせちゃった? 返事は待つけど、みんなには内緒で。その、周りに色々、言われるからさ」
「でも……」
 一人では決められそうにない。
「どんな人なのかも、知らないし……」
 彦坂先輩は鼻を鳴らす。片側の口角を釣り上げ、鼻梁が歪む。
「白川さんは、あんまり周りに興味がないタイプなんだ」
 校則違反をしてまで化粧をしない。爪を塗らない。髪を加工しない。周りの女子たちはそれらをこなして女子社会に打ち解け、男子と交流を持っている。だが星子はしていなかった。周りに合わせる気がない。興味がないと見做(みな)されても仕方がない。
「あ……えっと……、はい」
 流行りが何かも分からない。どこの部活の誰がかっこいいのか知らない。何組の誰と何組の誰が付き合っているのか把握していない。
「そっか。みんなに見られると困るから、ここで。じゃあね……」
 星子は頻りに頷いて、先に階段を上がった。
 体育で校外3周走ったときよりも疲れた。汗はない。足の重さもない。だがすぐに座って、力を抜きたくなってしまった。
 第一体育館は1組側にある。7組までが遠かった。
 付き合いたいと思っている。可愛いと思っている。そして周りには知られたくない。
 星子はこの3点を何度も咀嚼する。可愛いと思っている。七尾も可愛いとは言っていた。付き合いたいと思っている。それは"可愛い"ならば傍に置いておきたいものだ。星子も可愛い雑貨があれば欲しくなる。そしてペンならば愛用し、ぬいぐるみならベッドに並べている。そして周りには知られたくないのだという。周りに知られたくないものなのだろうか。では、交際とは何なのだろう。互いによく知らない相手と秘めやかに関係を築くのか。周りに知られないように、閉鎖的なところで。
 星子は考えてみた。だが窓から入る日差しが強かった。校舎は蒸籠(せいろ)と化していた。彼女は考えるのをやめた。

 七尾が登校する。汗を拭いていた。朝でも日差しが強い。
「ねぇ、七尾くん」
 星子は塩レモン飴を机に置く。
「ああ、悪い。何?」
「あ、おはよう」
 気が急くあまり、最低限の礼儀というものを忘れていた。
 七尾は眉を顰める。
「お、おはよう……で、何」
「これはさ、心理テストなんだけど……」
「随分と唐突に……何」
 七尾はスポーツドリンクを呷る。見慣れない喉の隆起から、星子は目を逸らした。叔父にもあるが、叔父には出会ったから頃からあった。
「飲みてぇの? 飲む?」
 キャップを外した状態のまま差し出され、星子は首を振った。
「間接キスになっちゃうよ」
「何か問題あるのかよ。で、どんな心理テストしてくれるんだ?」
「たとえばだよ、たとえばね。これは心理テストだから! これは心理テストで……だからその……もし、もしだよ、七尾くんが、かっこいいから付き合いたいと思ってるけど、みんなには秘密にしてほしいって言われたら、どうする?」
 七尾はペットボトルのキャップを閉めた。プラスチックが軋む。締めすぎだ。
「………誰に言われた、それ」
 炎天下のなかを40分弱かけて登校してきた疲労は一切消えていた。受けた太陽光をすべて吸収したかのごとく、彼の目は燃え滾っている。
「誰に言われたって……心理テストだよ!」
「彦坂って3年じゃないだろうな」
「えっ! まっさかぁ~。これは心理テストだってば」
「いつ言われた? ……今朝か」
 星子は唇を尖らせる。
「内緒だから……」
「あのなぁ、」
 星子は七尾に手招きする。教室では人目がある。
「なんだよ」
 渡り廊下へ呼び寄せる。
「秘密にしてほしいって言われたから、知らないふりして……」
「あの3年に言われたのかよ」
 星子は頷いた。
「付き合うことにしたのか」
 腕を掴まれ、肉に指が食い込んだ。痣になるかもしれない。
 星子は首を振る。
「付き合うってどういうことか分からないし、返事は後でいいって……」
「星子はどうしたいんだよ」
「分からないから、七尾くんに訊いた。わたしよりこういうの、慣れてる……よね?」
 彼は交際したことがあるのだ。交際に至らずとも、告白され慣れているのではなかろうか。
「好きなのか、あの3年のこと……」
「好きも何も、知らないし……」 
「見てくれはいいじゃねぇか。背も高くてバレー部の花形じゃ、そうとう有名人だぜ。知らないってことはないだろ。卒業後もプロの道行くみたいだし」
 星子も顔くらいは見たことがある。だがどういう人かは知らない。
「どんな人か分からないって言ったら、周りに興味ないんだね、って言われた」
「モラっぽいのはいただけねぇな」
 七尾は恋愛分野の優位者にでもなったつもりなのか、薄ら嗤いばかり浮かべている。
「でも確かにわたしは周りに興味がないんだと思う。お化粧しないし、ネイルもしないし……」
「嫌味言われてんだよ、それは。気付け。つまりな、"おれのこと知らないんだ?"って言われてんの」
 星子は七尾を窺う。
「そ、そうだったんだ……」
「すげー、下に見られてるぞ」
「そ、そうかなぁ……?」
 罵倒があったわけではない。七尾は誤解している。それは今朝の出来事をありのまま伝えられないせいに違いない。
「昨日の心理テスト、憶えてるか。お前、何て答えた。モテる男と付き合うのはプレッシャーがすごそう、ってお前は言った。まさに彦坂(あいつ)がそうだ」
 星子は閉鎖的な第一体育館の1階に佇む彦坂先輩を思い浮かべた。
 何故、七尾も評価している男が2年7組の煌びやかなグループではない女子に告白するのか。星子はその答えに辿り着いた。
「あれかな、嘘告白ってやつ。よく罰ゲームであるでしょ。フツーは咲菜ちゃんとか、渚音海(なおみ)ちゃんにいくもの」
 "渚音海ちゃん"は7組で咲菜の次に可愛いのだという。本人のいないところで女子たちが話していた。つまり、渚音海ちゃんはクラスで2番目に可愛いのだ。
 七尾は頭を抱えた。
「星子を好きなのはマジだと思う。ただ、どうして秘密にしてほしいって言われたのかは――おわっ!」
 七尾が突然、星子に迫った。彼は自ら距離を詰めた様子ではなかった。均衡の取れなくなった躯体を支えると、星子は渡り廊下の手摺りと七尾の両腕に閉じ込められてしまった。制汗スプレーと汗の匂いが爆ぜる。背後から衝突されたらしい。
「何話してんのー?」
 鷲羽(わしゅう)さんだ。
「悪い」
「大丈夫だよ。それより七尾くんこそ、大丈夫?」
 七尾は頷いて、振り返る。
「危ねーな。星子が潰れるところだっただろ」
「へー、良かったじゃん」
 七尾の顔面に稲光が見えた。彼は鷲羽さんの胸ぐらを掴む。星子は目を剥き、肝を潰した。
「良くねぇよ。危ないだろうが。俺の星子に何かあったらどうする気だった!」
 渡り廊下に怒声が谺する。鷲羽さんの化粧と黒目拡張(サークル)レンズで強調された目が怯えを見せた。
「あ、あ、大丈夫、大丈夫だよ。七尾くん……落ち着いて……ね、わたしは平気だからさ! 放して……」
 星子は跳ねる心臓を呑み込み、ちらつく視界の中で、鷲羽さんの胸ぐらを掴む浅黒い拳を叩く。鷲羽さんも、日焼けした手も戦慄いている。
「ここに手摺りがあったから良かったけど、ガラス突き破って転落してたかも知れねーんだからな。分かってるのか」
「うん、うん……」
 心臓が暴れ回り、口から出ようとしている。胸ぐらを掴まれ、真正面から怒号を浴びた鷲羽さんの衝撃はどれほどか。
 まだ七尾の声が渡り廊下に残っている気がした。胸が浮沈する。彼の目も爛々として冷静ではないようだった。
「ちょっと、何、何、何。教室まで聞こえてたよー?」
 笹森が現れる。窓から入る日差しが彼を幽霊よろしく白く炙る。
「あ、あ、あ、わたしが落ちそうになって、七尾くんが注意してくれただけなの。アハハ、それだけのこと」
 星子は鷲羽さんの後ろに立ち、笹森の行く手を阻んだ。
「はー?」
「ちゃんと謝っとけよ」
 七尾は吐き捨て、笹森とすれ違い、教室へ戻っていく。
「何したの、星子ちゃん」
「ハハ、ハハハ……」
「行こ、五百鈴(いおり)」
 鷲羽さんは笹森の腕を掴み、教室へ戻ろうとした。だが笹森は動かない。
「あ、待って。星子ちゃん、ほい。落とし物」
 彼は封筒を差し出した。淡い色味で、個人間の手紙でやり取りされる類いのものだ。
「え……?」
「じゃ」
 鷲羽さんが笹森を睨む。その眼差しは濡れていた。
「何あれ」
「んー、ラブレター?」
 そして盛大に嗤うと、教室へ引っ張られていった。



『白川さんへ
 いきなり手紙を渡してすみません。驚かせたと思います。

 白川さんのことを朝練のときに見かけてから、まだ話したこともないのですが好きになってしまいました。
 よかったら付き合ってください。

 ただし、僕は部活が忙しいし、今年は受験なので、周りがとやかく口うるさいことを言うと思うので、もし付き合うことになったら周りには秘密にしておいてほしいです。

 今日の放課後、体育館の1階で待ってますのでお返事ください。

 ――彦坂雅天』
 星子は手紙を閉じた。封筒に戻す。
 第一体育館の1階で見た彦坂先輩の姿ばかりが脳裏に映る。
 月曜日の朝に下駄箱に入れたと彦坂先輩は言っていた。しかし星子は見た憶えがなかった。笹森はその翌日にこの封筒を見せた。そして今日、"落とし物"と言って渡してきた。
 月曜日の朝、上足サンダルに履き替えるとき、落としたまま気付かなかったに違いない。だがそれならば笹森は何故、すぐに返さなかったのだろう。
 放課後は皆、テスト勉強のためにすぐさま帰っていった。しかし何人かは教室で勉強をするようだ。疎らに席に人がいる。
 星子はどうするか、迷っていた。とてもテスト勉強に集中できそうにない。昼飯も喉を通らず、半分残してしまった。夏場では夕食にも回せない。
 月也に断りの連絡を入れるべきか迷っていると、後ろから七尾が来た。
「星子。科学部行くぞ」
 そうなれば選択はひとつだった。
「うん……でも今日はあんまり難しいの、できないかも……」
「単語テストで肩慣らしするか?」
「そうだね」
 彦坂先輩に悪いことをした。何故笹森はすぐに渡さなかったのか。同じ問いが延々と回り、理科室横の多目的室に着く頃には渦を描いていた。

 七尾は今日は苦手な古文をやるらしい。
 星子も古文を勉強することにした。

【花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。
 雨に向かひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに心づくしなり。
 咲きぬべきほどの梢を見れば、花や散るらむと疑はるるこそ、をかしけれ。】(徒然草)

【問1「咲きぬべき」の「ぬ」の意味として最も適切なものを選べ。
ア:打消 イ:完了 ウ:推量 エ:尊敬

問2「咲きぬべきほどの梢」の意味として最も適切なものを選べ。
ア:すでに咲いてしまった梢
イ:今にも咲きそうな梢
ウ:咲かないはずの梢
エ:咲くべきではない梢 】

 星子はすぐさま解けたが、七尾はテスト勉強用として配られたプリントを凝視している。書き込む様子がない。
「なぁ、星子」
「何」
「どこまでできた」
「問2」
 七尾は星子の手元を覗いた。
「なんで"イ"なんだ。"ア"じゃないのかよ」
「打消ってこと? でも"風立ちぬ"は『風が吹かない』じゃなくて『風が吹いた』って言うじゃん」
「……そうか?」
「そう。だから"完了"」
 七尾はプリントの裏を見た。答えが載っている。星子と見た。答えは"イ"だ。
「マジかよ。マジで分からん。じゃあ問2は"ア"?」
「うん」
 七尾はまたプリントの裏を見た。
「"ア"じゃねーのかよ」
 星子も問2の解答を見る。確かに答えは"ア"ではなかった。"イ"と記されている。
「え? 完了形なら過去形ってことだよね。印刷ミスなのかな……」
 星子はもう一度、選択肢を読み直す。
 2年生2人の狼狽ぶりに、漢文を読み解いていた月也が顔を上げ、問題文を覗く。
「答えはなんでしたっけ」
「"イ"だって。でも問1では、"ぬ"は"完了"だって……それなら正解は、過去形っぽい"ア"なんじゃ……」
 月也はまたもや問題文を見詰める。
「"咲きぬべき"だからだと思います。問1で"ぬ"に集中させておいてのこれは罠ですよね」
 月也は"ぬ"を丸で囲い、"べき"に下線を引く。
「"ぬべき"或いは"ぬべし"で、"きっと~するだろう"になりますから、"今にも咲きそうな"が正解になるんだと思います」
 七尾は左右に首を傾げる。
「何を言っているのかさっぱり分からん」
「以前の"That"と同じです。もうそういうものとして憶えるしかないみたいです」
 月也は笑った。
「悔しいよぉ」
 星子は唇を尖らせる。
「古文ならさ、月也くんに勝てると思ったのに……」
「僕は後出しで、逆算で答えを合わせただけですから、あまり正々堂々とはしていませんよ」
「先輩の顔まで立てられるんだからお前が思うよりずっと優秀だぞ、月也(こいつ)は」
 七尾が親指で差す。

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