my天の川に流るる
16
早々に彦坂(ひこざか)先輩に返事をすべきだ。しかしどう返答をし、どう彦坂先輩に忍んで接触をすべきか分からなかった。
星子(しょうこ)はそもそも、自身が彦坂先輩にどういう感情を抱いているのかが分からなかった。
だがそれが答えだ。
咲菜は笹森を好きだと言っていた。恋心とは明らかなものなのだ。七尾もそうだ。咲菜に対しては言葉尻が柔らかい。表情もまろい。つまり、明らかな感情か、相応の態度に出るもののはずだ。だが、彦坂先輩に対してはどうだ。これという感慨は、何も浮かばない。これが答えだ。
「返事したの?」
轆轤首が星子の肩に巻き付いた。玄関ホールの共有スペースは晴天でも薄暗い。むしろ晴れやかであればあるほど暗い。妖怪が出てきても不思議ではなかった。
「あ、おはよう、笹森くん」
家の近い笹森にしては早い登校だった。
「おはよう、星子ちゃん」
紫色の唇と痩(こ)けた頬は、すぐにでもどこかへ座らせてやりたくなる様相を呈している。
「朝早いんだね」
「ごまかすなよ」
笹森の声が低くなる。
「返事したのかって訊いてんだよ」
たとえこの場に他の人がいたとしても、彼の声を聞いた者は星子以外にいないだろう。
「な、何の?」
秘密にしろ、周りには言うなと言われている。星子は恍(とぼ)けた。そして同時に疑問が湧いた。何故、笹森は、今、星子が返事というものに窮していることを知っているのか。笹森は、彦坂先輩からの手紙を落とし物として拾っただけのはずだ。では、笹森の言う返事とは何についてのことなのだろう。
恍けたつもりが、真の疑問へ変わる。
「何のって……ラブレターもらったんでしょ、彦坂先輩から。返事は?」
星子は淀んだ双眸を見詰めてしまった。
「笹森くん……あのお手紙、読んだんだ……」
「読むでしょ、それは。読めとばかりに置かれてたよ」
「拾ったんじゃ、ないの……? 落とし物だって……」
「うん。星子の下駄箱の中に、落ちてた。星子の下駄箱のなかにラブレターなんか落ちてるわけないから、本当の持主に届けてあげなきゃいけないなって思ったんだよ。だって、星子みたいな地味な子が、選ばれるわけないじゃん。でも、本当に星子宛だったね?」
笹森に悪怯れた様子はなかった。
「きっと勇気を出して書いてくれたのに……わたし知らなかった。彦坂先輩にすごく失礼なことしちゃったんだよ……?」
「勇気を出して書いたって、書いてあった? ダメだよ、これは小説や古文じゃないんだから。行間読んじゃ」
「彦坂先輩に悪いとか、思わなかったの……?」
「星子はいきなり手紙よこされて、気持ち悪いとか思わなかったの? 一方的じゃない? あ、文面の話だけじゃなくて。自分の中の感情くらい、自分で処理すればいいのにさ……好きって気持ちなら、いつでも相手にぶつけていいと思ってるんだから、勝手だよな。テスト期間前よ? 今」
笹森は嗤っている。星子にはそれが蛇女に見えた。
それでは、この男を好きな咲菜はどうなってしまうのか。丁寧な態度を崩さない七尾は、咲菜にとって身勝手なのだろうか。
「わたしは、気持ち悪いとは、思わなかったよ……」
「それは彦坂先輩がイケメンだから。しかも強豪バレー部のエースだから。星子も"女"だよね、そういうところは。見た目とスペックだけ。でも喜びなよ、やっと選んでもらって、よかったね」
笹森の氷の舌が伸びて、頬や首筋を舐め擦っていくようだった。
「ブスな子にも言い寄られて追いかけ回されて、言葉選んで精一杯遠回しな拒絶して、断らなきゃいけないオレの気持ちとか、考えたことないよね、星子は。額縁入れて飾っておきなよ。もう二度ともらえないかもしれないよ?」
轆轤首は反対側からも星子に絡みつく。冷たい塒(とぐろ)の中で身動きが取れなくなった。
「笹森くんが嫌だったなら、否定はしないけれど……わたしは嫌じゃなかった。それは彦坂先輩だからかも知れないけれど、でも、わざわざ封筒用意して、お手紙書いて、ここに届けに来てくれたんだよ……? わたしはそれを――」
唇に氷柱が当たる。
「だからそれが一方的で自分勝手って言ってるの。星子はそれ、頼んだの? 手紙あったら読まなきゃいけなくなるでしょ。読んで、返事決めて、会いに行かなきゃいけなくなるんだよ。相手にコントロールされてるってこと」
だが星子は彦坂先輩からの手紙を読む機会を逸し、実際のところ記された日時に指定された場所へは行っていない。
「………それは笹森くんが、真面目だからじゃないのかな。きっと、手紙、読まなくたってよかったと思う。会いに行く必要だってない」
「おバカ星子。行かなかったらどうなるの? オレは"サイテーなクズ男"。相手は勝手にコクってきたくせに"悲劇の被害者"。星子は"女の子"だもんね。フってもフられても被害者でいられる」
耳の裏に冷風が吹きかかる。髪が揺れ、擽ったくなった。
「誰からも選ばれないし、モテもしないし、人の気持ちも分からない星子には分からないよね。シケた学校生活、可哀想。一生、地味だね」
だが彼が言うほど悲惨だっただろうか。親友がいる。昔馴染みがいる。後輩がいる。家に帰れば、協力的な叔父がいる。
「可哀想じゃないよ……」
可哀想だと受け入れれば、彼等彼女等の立場はどうなる。
「いーや、星子は可哀想な子。惨めな子。一回彦坂先輩にコクられたからっていい気になるなよ。返事、どうするの? "モテモテな先輩のカノジョにして、星子(わたし)を1軍女子の仲間入りさせてください"とでも言うわけ?」
妖怪は星子の肩を掴み、対面させる。妖怪や幽霊、魑魅魍魎の目を見てはいけないはずだ。ホラー映画の鉄則だった。
「笹森くんは、もうお手紙見てるんだよね……付き合うとしたら、みんなには言えないよ。だからよく分からなくて。返事も、どうしていいか……」
目の前の妖怪は星子の肩を打つ。星子は後退る。
「好きなの? なんで? 断るの一択じゃないの?」
「好きってわけじゃないけれど……付き合うってどういうことか、分からないし……もし彦坂先輩がいいなら、付き合ってみて、そこから好きになるかも知れないし……」
笹森は反対の肩も打った。
「は? 手紙、ちゃんと読んだ? 意味分かってんの? バカにされてんの分かんないかな」
笹森は鼻先がぶつかるほど迫った。
「星子じゃ地味だから、カノジョって思われんのは心外だって言われてんの! 学校では可愛い女子と遊びたいから黙ってろって言われてんの! 星子みたいな地味な子なら、"おれの言うこと聞くよね?"って言われてんの、分かんない?」
笹森は吠えた。玄関ホールに響き渡る。
「で、でも、そんなこと……」
そのようなことは一言も書かれていなかった。笹森は今し方、行間を読むなと言っていた。
「書いてあっただろ。なんで秘密にしたいのか、周りにとやかく言われる? 言わせとけばいいのに、なんでそこ気にするのさ」
「プロからも声かかってるとか、親御さんとか……先生からも、色々注意されるし……」
叔父がそうだった。交際するなら紹介しなさいと言っていた。仮に彦坂先輩の告白に色好い返事をするならば、その点については説得を試みるつもりでいた。
「マジでお人好し。断ったほうがいいよ。断りなよ。断れよ」
笹森は一言発するたび、星子の肩を人差し指で刺す。
「なんで、笹森くんが決めるの……」
「星子が傷付いて、ショック受けて、不登校になっちゃったら? クラスが気拙くなっちゃうだろ。辛気臭くなる。星子ちゃんはさ、自分のことしか見てないよね。クラスの一員って自覚あんの? 七尾が心配して、琴峯(ことみね)さんが気を揉んで、そうでしか注目してもらえないもんね。オレは星子のために言ってるの。不憫だから。可哀想だから。惨めで悲惨で、哀れだから」
笹森は反対の肩も指で突く。
「わたしは、別に可哀想じゃ……ないよ」
「可哀想! 可哀想、可哀想、可哀想! 可哀想だよ!」
星子は身を縮こまらせた。上から漬物石で蓋をされている。
「違……」
笹森の手が頭を撫でる。
「星子は可哀想だよ。"わたしは可哀想です"って言ってごらん」
声音が甘い。
「笹森くん……なんで、わたしのこと、そんなふうに言うの……? 前はそんなんじゃ、なかった……」
「星子が可哀想な子って気付いちゃったから。パパ活してるくせに、ぼくの前では清純ぶってさ」
「パパ活なんてしてない!」
「ふーん。でも、ぼくは鷲羽(わしゅう)ちゃんが言った、って教えてあげたのに、鷲羽ちゃんにちょっと好(よ)くされたらへらへら、へらへら。友達いないって可哀想だね。選ばれないから選べないんだもん。か~わいそッ」
星子は笹森を睨んだ。拳を握り締める。
「咲菜ちゃんは優しくしてくれる……七尾くんだって好くしてくれる……家族の人だって……」
笹森には父親がいないとしか言っていなかった。母親もいない。生きてはいるが、すでに父母ではない。
「違うよ。琴峯さんも七尾も、みんなに優しいの。みんなに優しいから、等しく星子にも優しくしてあげてるだけ。変に期待されて、あの2人も可哀想。家族の人は、知らないけど、家族なら好くするのは当たり前でしょ」
星子は唇を噛み、笹森に背を向けた。
◇
『白川さんへ
この前は、急な告白をしてすみませんでした。
返事を待っていましたが、これ以上は白川さんの負担になると思い、お互いに良くないと思ったので、この前のことはなかったことにしてください。
あの告白が嘘だったわけではありません。本当に好きだと思いました。
ただ、出会うのも、僕から動き出すのも遅かっただけです。
僕は今、別の人が気になっています。その人のほうが僕には合うと思っています。
どうか応援してください。
――彦坂雅天』
笹森が二つ折りの紙を星子の胸に叩きつけ、去っていく。
星子は紙を開いた。そして読み終え、嘆息する。身体から力が抜けた。
手紙の差出人が教室に来ていた。だが七尾は今日は席に座り、パンを食らっている。口元にクリームを付けている様が無防備だ。
彦坂先輩とその取り巻き2人は教室の窓を開け、鷲羽さんたちと話していた。彼等の目的は咲菜と、クラスの女子曰く7組で2番目に可愛い渚音海(なおみ)ちゃんのようだ。
彦坂先輩は一度も星子のほうを見ることなく、咲菜を誂(からか)い、鷲羽さんたちクラスの女子に横槍を入れられている。
彼女たちの愉しそうな横顔を眺め、弁当を食らう。冷凍食品の"おみくじグラタン"の籤の結果は大吉だ。
「星子」
七尾がやって来た。
「今日は玉子焼きないから、じゃが――」
じゃが巻きポークしかない、と言おうとしたが、彼は星子の弁当箱の傍にメロンパンを置いた。購買部のものだ。
「まぁ、元気出せ」
七尾はばつが悪そうだった。視線を逸らし、ぼやいて喋る。
「元気だよ、わたしは」
熱はない。咳はない。頭痛も鼻炎もない。
「……じゃあ半分こ」
「うん。ありがとう」
七尾は袋を破ると、メロンパンを半分に千切る。そして袋から出されたほうを持っていった。
半分にしては大きく残されたメロンパンを見下ろす。
『えー、てかさ、この前、彦坂先輩って星子チャンのこと探しに来てましたぁ?』
星子は自分の名前が聞こえ、顔を上げた。
『ああ、ちょっと……友達の友達の知り合いだったからさ』
彦坂先輩は答えた。鷲羽さんがこちらを見た。目が合ってしまった。だが即座に逸らされる。
『あははー、マジで他人じゃん。知り合いなわけないよなーって思ったんだよねー』
『ははは。なんでタメ口?』
彦坂先輩は笑っている。決断がもう少し早ければ、その笑みを浴びていたかのかもしれない。
会話の端で小さくなっていた咲菜が星子を振り返る。そして立ち上がった。
『咲菜チャン、どこ行くの?』
彦坂先輩の取り巻きの1人が訊ねる。咲菜は愛想笑いを浮かべ、星子の元へやって来る。そのとき星子は、彦坂先輩と目が合った。だが、彦坂先輩は鷲羽さんに話しかけられていた。
「星子ちゃん、ちょっといい?」
咲菜は悩ましげに眉を下げている。
「うん……」
星子は弁当を食べている途中だったが、蓋を閉じた。袖を引っ張られるままに、裏校舎へ向かう。蒸してはいるが、日陰のために茹だるほどではなかった。
「まだお弁当食べてたよね。ごめんね……」
星子は首を振った。
「気にしないで、そんなこと。ちょうど、もう食べられないなって思っていたところだし……それで、どうしたの?」
裏校舎の天文台室に通じる階段に咲菜を座らせる。
「さっき、3年生の人たちが来てたじゃない?」
「うん」
「あの人から、その……手紙をもらったのよ」
教室に来ていた3年生は3人いる。だが手紙と聞いて思い浮かぶのは1人だった。そしてどういう類いの手紙なのかも、星子は分かってしまった。
「手紙って……その、ラ、ラブレター?」
咲菜は躊躇っていた。だが頷いた。手紙に記されていたのは咲菜のことだったのだ。しかし、咲菜ならば納得するほかない。
「今日の朝、靴箱に入っていたの」
親友は重苦しげだった。星子は俯いた横顔を凝らす。
「それで……それでね、星子ちゃん」
星子は彼女のペースに任せた。
「あたしは別に、あの人のこと好きじゃないわ。なんだか偉そうだし……なんだかいやらしくて」
手紙では、『その人のほうが僕には合う』と書いてあった。
「知り合い……ってわけじゃ、ないんだよね………?」
咲菜と彦坂先輩は、顔見知りの雰囲気ではなかった。
「知り合いじゃないわ。なのに鷲羽さんたち、仲良く話してたでしょう? これからもまた来るって……あたし、どうしたらいいんだろう……もし断ったら、気拙くなっちゃうわよね……」
ならば、気拙くないように断ればいい。咲菜の好意の有無に触れず、断らなければいけない状況にすればいいのだ。
「もう付き合ってる人がいるってことにしたらいいんじゃないかな」
「で、でも、あたし、嘘とか、苦手で……すぐに顔に出ちゃうし……」
「男の子に協力してもらおうよ。咲菜ちゃんなら大丈夫だよ」
咲菜の交際相手役ならば、こちらから頼まずとも立候補者が溢れるに決まっている。だが咲菜の交際相手役はもう決まっている。他には有り得ない。
「な、な、七尾くんとか、ダメ……かなぁ?」
咲菜が言った。星子は顔を覆った親友を見遣る。そしてそれが妙案であることに気付く。彼女の想人の笹森では、彼女は緊張のあまり、交際相手として振る舞えないだろう。その点、七尾とはよく話している。
星子は自身の愚案に苦り切る。
「星子ちゃん………七尾くんに、頼んでくれる、かな………?」
「うん。分かった。いいよ」
七尾は快諾する。七尾は咲菜が好きなのだ。たとえ役であろうとも、手を抜くはずはない。
咲菜を残し、教室に戻る。扇子で扇いでいる七尾の席に向かう。背中では、まだバレーボール部の3年生が女子たちと花を咲かせ、満開の花畑を作っている。
「あのさ、七尾くん」
「んー?」
房飾りが揺蕩う。
「ちょっと話があって。来てくれる? 一緒に……」
精悍な眉が引き寄せられ合う。
「………星子」
彼は星子の腕を掴んだ。席に座ったままの彼は、下から覗き込む。上目遣いは媚び、阿(おもね)り、諂(へつ)らっている。
「な、何……? どうしたの?」
「星子、あのな……」
星子は後方の彦坂先輩とその集いを一瞥した。だが彼等彼女等が星子を気にすることはない。
「えっと、咲菜ちゃん待たせてて……あっちでいい?」
「……分かった」
咲菜のところへ七尾を案内する。咲菜ははにかみ、忙しない。
「あ、ごめんね、七……ふ、ふ、文貴(ふみき)くん……」
七尾は星子に目配せする。
「いいよ。で? 話って?」
咲菜もまた星子に目配せする。
「七尾くん、あのね、咲菜ちゃんが、彦坂先輩からラブレターもらったんだって」
七尾は渋げな面を見せた。片想い相手が知らず知らずのうちにラブレターをもらっていれば、そういう反応になるのだろう。
「……星子………」
「うん……それでね、咲菜ちゃん、断りづらいって。だからさ、七尾くん。その……」
「や、やっぱりあたしから言うわ、星子ちゃん。だって、あたしのことだもの」
咲菜は七尾の前に一歩出る。内容が内容だけに言い出しづらいのか、彼女は俯いてい。だがどこか畏まっているのは、彼女の持つ上品さのために違いない。
七尾は咲菜の頭頂部と星子とを左見右見(とみこうみ)していた。
「えっと……えっとね……えっと……」
およそ数十秒間のことだったが、星子にはそれよりも長く感じられた。七尾も落ち着きがなくなる。
「頑張って、咲菜ちゃん」
だがまた新たに十数秒が経つ。
「とりあえず、星子から事情聞いていいか?」
咲菜が顔を上げる。
「そ、そうよね。星子ちゃん……ごめんなさい」
日陰がより美少女を憐れげに見せる。
「気にしないで。あのね、七尾くん」
七尾の顔を見たとき、何故咲菜がすぐに用件を告げられなかったのか分かった。彼は不機嫌なようだった。陰が険しさにさらなる迫力を与える。星子の中に躊躇いが生まれる。だが咲菜のためだ。そして七尾にも悪い話ではないのだ。
「咲菜ちゃんの、カレシのふり、してほしいの。彦坂先輩の告白、断るとき……」
星子は早口になった。七尾は喜ぶはずだ。彦坂先輩以外、損をすることはないはずなのだ。
七尾の目は、高いところにありながら星子を見上げるようだった。広い肩が落ち、小さくなって見えた。
「なんで、俺……?」
快諾のはずだった。二つ返事どころか三つ返事で承諾するはずではなかったのか。
「……あ、ご、ごめんなさい。嫌よね、こんなこと……」
咲菜がたじろいでいる。
「やらないとは言ってないよ。ただ、どうして俺なんだ」
七尾は星子を凝らしたままだった。だが星子を見ているわけではないようだった。
彼はこの提案をしたのがどちらであるのか、すでに見通しているようだった。
「あ、あたしが、な、なな、文貴くんなら安心だって、星子ちゃんに言ったのよ……」
咲菜を一瞥する七尾の目は優しかった。
「俺は星子に訊いてるからさ……」
声音も柔らかかった。子猫や子犬を前にしているかのようだった。そして仄かな熱を帯びて星子を射す。
「わ、わたしはね、……七尾くんが一番、しっかりしてると思ったから……ちゃんと咲菜ちゃんのこと、考えてくれるって……」
咲菜の交際相手の役に就くことは、七尾にとっての利益に決まっていた。だが誤りだったというのか。彼のためではなかったのだ。
「俺が一番、都合が良かった?」
七尾の眉が下がる。怒気はない。棘は消えた。笑みさえ浮かべているのだ。だが愉しそうではなかった。喜んでもいるのでもなかった。
だが他に適任がいたとして、軽々と頼めただろうか。
「ごめんなさい、ごめんなさい。星子ちゃんは本当に悪くないのよ。あたしがひとりでやることだったのに、あたしが相談なんかしちゃったから……」
「咲菜ちゃんは悪くないよ! 誰だって困るよ、誰だっていきなりそんなお手紙もらったら、困っちゃうよ。七尾くん。わたしが誰かにカレシ役をやってもらおうって言ったの……」
『好きって気持ちなら、いつでも相手にぶつけていいと思ってるんだから、勝手だよな』
笹森の声が、耳の奥から聞こえた。
『言葉選んで精一杯遠回しな拒絶して、断らなきゃいけないオレの気持ちとか、考えたことないよね』
七尾の姿が揺らめいて見えた。天文台室に通じる階段が輪郭を失う。
「……いいよ、分かった。やる」
快諾とは程遠い。七尾の顔に輝きはない。彼は咲菜が好きなはずだ。では何故喜ばないのか。咲菜の交際相手の役に就けるのだ。想人の役に立出るのだ。自身の立ち回りで、想いを寄せた相手が助かるのだ。何故、彼は喜ばないのか。
「七尾くん………」
「星子は琴峯さんのために、色々考えたんだもんな」
七尾は鼻を鳴らした。
「いや、分かった。詳しい話は追々」
彼は笑みを見せた。だが星子には分かった。作り笑いだった。三白眼が垂れ下がり、和らいでいる。彼はそうは笑わない。
「それとは別に、話がある。琴峯さん、ちょっと星子、借りるわ」
七尾は星子の手首を掴むと、裏校舎のさらに裏に3年ほど前増築されたという多目的棟に引っ張った。
床材も壁材もまだ新しく、学習室が並んでいる。裏校舎の裏にあるというのに採光は豊かだが、時間帯と相俟って人気(ひとけ)はない。
星子は用件を急くことができなかった。咲菜には聞かせられない怒りか、或いは悲しみが待っている。それは七尾の自由な時機(タイミング)であるべきだ。
何を見間違えたのだろう。何故、彼は喜ばないのか。
七尾の後姿から目が離せないあまり、眼球が乾いていく。
彼は喜ばなかった。つまりそれは為倒(ためごか)しに過ぎなかった。理由を掘り上げ、彼を利用していた。彼の恋心を掌で転がそうとしていた。彼の気持ちを決めつけ、揉みくちゃの粘土にしていた。
「星子」
開け放しの学習室のひとつに入る。8畳ほどの部屋で、数学選択や選択物理・選択生物の際に使われる。
「あ、あのね、言い訳のつもりじゃないのだけれど……でも多分、言い訳なんだけれど……わたしは人の気持ちが分からない人間だって笹森くんも言ってて……だから、わたしは七尾くんが傷付くとか、ちゃんと考えてなかった。咲菜ちゃんは可愛いから、悪い気しないよね、とか思っちゃったの。ごめんなさい、巻き込んで……」