my天の川に流るる
17
星子(しょうこ)は頭を下げた。7組の教室よりもツートーンは明るい床材が視界いっぱいに広がる。
開けた傷は塞がらない。頭を下げたところで癒えはしない。傷跡になったとて元には戻らず、薄膜が張るだけなのだ。
「頭を上げてくれ。謝ってほしかったんじゃない」
七尾の顔を見たとき、星子は赦されないことを理解した。そして詫びが誰のためのものだったのかが分かった。
「星子に、言わなきゃいけないことがある」
彼の三白眼に力が籠もる。眉が吊り上がり、星子は身構えた。何を言われたとしても耐えなければならない。ひたすらにありきたりな言葉を述べることだけが謝意なのではない。今は、彼を加害者にすることなく、耐えることが謝意なのだ。詫びなのだ。償いなのだ。
星子は待った。だが、待てども待てども、彼は言葉を発さない。三白眼は強張ったまま、床を泳ぐ。
「……俺は意気地なしだ」
「なんで……?」
星子にとって、七尾は意気地なしではなかった。彼は逞しい。同じ7組の男子の中でもしっかりしている。担任の先生は学級委員や生徒会に推したいようだった。
「お前に嫌われたら、俺は終わる」
「それはわたしのほうだよ。七尾くんや咲菜ちゃんに嫌われたら、わたしのほうこそ楽しい高校生活は終わり。本当はわたしみたいな地味な子は、"シケた学校生活"になるはずだったのに、七尾くんと咲菜ちゃんがいてくれたおかげで、すごく楽しかったんだ」
七尾も咲菜も皆に優しい。ゆえにその他大勢に含まれる星子にも優しさをくれる。笹森が言っていた。2人は優しさゆえに、友達のいない孤独な女子に楽しい高校生活を与えているのだ。勘違いはできない。それらは恵まれたものであり、自ら築いたものではない。
「俺が星子を嫌うことは、ない」
「へへへ……」
星子はどういう顔をしていいか分からなくなった。誰もが口ではそう言うのだ。父母もそうだった。だが結局は互いに憎んでいた。状況が変われば、時が経てば、心境も同じではいられない。芽生える恋心があるように、朽ち果てる好意もあるものだ。
だがやはり七尾は優しい。彼も離婚による母子家庭で、たとえ星子と同じでなくとも、それなりの二親の事情を察してきたはずなのだ。
「謝りたいことがある」
星子の愛想笑いが引き攣った。七尾に謝ることはあっても、七尾から謝られることはない。
彼は星子の腕を引き寄せる。力は強かった。
「俺は星子が手紙をもらってたこと、知ってた。五百鈴(いおり)から見せてもらった。2枚目の手紙も……」
星子は溶けたコーラ飴のような双眸と向き合ってしまった。
「手紙って……彦坂先輩の………?」
首肯が返ってくる。
彼は知っていた。彦坂先輩から恋文を送られ、さらにその撤回文が来ていたことも彼は知っていた。「見せてもらった」と言うからには、内容も知っているのだろう。
「そっか……読んだんだ」
七尾は何も知らないものとして、彼の前での立ち振る舞いが甦る。
『やっと選んでもらって、よかったね』
そして恋文をもらい、直接面会し、4日足らずで撤回された。
『星子みたいな地味な子が、選ばれるわけないじゃん』
星子は目を伏せた。
『不憫だから。可哀想だから。惨めで悲惨で、哀れだから』
恥ずかしさが込み上がる。思い上がりだ。交際の是非を決める立場には最初からなかったというのに、その権利を握っている気になっていた。だがそれは今は、咲菜の元に移行した。七尾はその有様を俯瞰していたのだ。すべて知っていた。
「アハハ、わたし、恥ずかしいね! 舞い上がっちゃって。モテないってやっぱり可哀想だね。こんなことで調子に乗っちゃってさ……! バカみたいね。バカみたいっていうか、バカだったなぁ……よくよく考えれば分かることなのにね、アハハ!」
胸が痺れていく。恥ずかしければ頬が火照るはずだ。だがむしろ冷めていく。
七尾は掴んでいた手を放した。そして頭を下げた。
「悪かった。早く言うべきだった。星子を裏切っちまった」
「やめてよ、やめてよ、七尾くん。それこそ、そんなことで謝らないでよ。見せられちゃったなら、それは読んじゃうよ。謝ることじゃない」
何故、七尾は嗤い飛ばしてくれないのだろう。何故、笹森のように嘲ってはくれないのか。笑い話なのだ。茶番なのだ。滑稽な失敗談なのだ。
「でもお前は傷付いてる」
「傷付いて、ないよ。最初から分かってたことだもの。笹森くんもそう言ってた。やっぱモテる人は見る目があるんだなー。でも咲菜ちゃんのこと見てたら、モテる人も大変なんだなって……」
星子はまだ頭を下げている七尾から目を逸らした。
「それを悪いと思ってて、さっきの話、受け入れてくれたの……? それなら、やっぱり――」
咲菜には上手く言って、無かったことにするべきだ。手紙を読まれていたことなど、大したことではないのだ。だというのに、七尾は責任を感じている。虚構の義務だ。存在しない懲罰だ。
七尾は頭を上げた。
「いいや。それは関係ない」
星子は溶けたコーラ飴を見上げた。
「気を遣ってくれたんだよね。ありがとう……そんなことで嫌いにならないよ」
七尾にもらったものは大きいのだ。そして七尾に強いた役目もまた大きい。
「星子……怒ったり、泣いたりしていいんだぞ」
星子は首を振った。怒って、泣きたいのは七尾のほうではなかろうか。
「わたしが泣くことは何もないよ。怒ることも……」
「五百鈴は勝手に、お前宛の手紙を読んだんだぞ。それで俺も読んじまった……怒る理由はそれで十分だ……」
「それが普通なのかな。でもわたしはやっぱり、人の気持ちが分からないから……ってことは人の心もないんだと思う。だから大丈夫だよ。ありがとうね。ちゃんと話してくれて。七尾くんがずっと気にしてることのほうが、わたしは気になっちゃうからさ。この話はここで終わり! 彦坂先輩だって今はもう咲菜ちゃんのことが好きなんだから」
昼休みの終わりを告げる5分前のチャイムが鳴った。
「行こう」
星子は教室に戻ろうとした。立ち竦む七尾の表情はいくらか凪いで見えた
「星子」
「うん?」
「ひとつ言っておくけどな」
だが見間違えたようだ。語気は強い。
「うん……」
星子は身構えた。気に障ることを言ったようだ。痛烈な指摘に備える。
「お前には人の心がある。その心があり過ぎて、大き過ぎて、自分を切り売りし過ぎだ」
「そう……かな………」
「俺の言ってることはいつも正しい……って言ってただろ、この前。その俺が言うんだから間違いない。違うか」
「確かに……でも、もしそうだとしたら………それくらいしないと、優しくしてくれたみんなに恩返しできないもの。わたしは可愛くないし、頭も良くないから」
「やめろ、それ」
「何のこと?」
「自分のこと、悪く言うの……」
星子は七尾と見詰め合ってしまった。
「別に、へそ曲げてるとかじゃないよ。周りの人、みんなそう言うから……ああそうなんだなって感じだよ。事実ならちゃんと受け入れなきゃ」
学習室に、他クラスの生徒が来ていた。七尾と星子を見て、戸惑っている。
「ほら、行こう」
七尾は眉間に皺を寄せていた。
咲菜と七尾を見送った。咲菜は家庭教師が来るために早く帰らなければならないはずだった。だが告白の返答のために時間を割かねばならない。
『一方的じゃない?』
笹森の言っていたことを実感する。
『自分の中の感情くらい、自分で処理すればいいのにさ……好きって気持ちなら、いつでも相手にぶつけていいと思ってるんだから、勝手だよな。テスト期間前よ?』
勉強時間そのものだけでなく、咲菜のような緊張しやすい気質の者に、その後も与える影響を考えていない。
『 言葉選んで精一杯遠回しな拒絶して、断らなきゃいけないオレの気持ちとか、考えたことないよね、星子は』
艶福の真逆にいる星子には思い至らなかった。艶福に恵まれた人間の背負わなければならない労力に気付こうとさえしなかった。立場に甘んじていた。その劣等感すら傲慢だった。
『だからそれが一方的で自分勝手って言ってるの。星子はそれ、頼んだの? 手紙あったら読まなきゃいけなくなるでしょ。読んで、返事決めて、会いに行かなきゃいけなくなるんだよ。相手にコントロールされてるってこと』
咲菜は真面目がゆえに、紙切れ一枚に従った。七尾を巻き込み、芝居をうってまで、動かなければならなかった。
『おバカ星子。行かなかったらどうなるの?』
笹森の言うとおりだった。星子は愚鈍だった。白痴だった。考える能が備わっていなかった。
『誰からも選ばれないし、モテもしないし、人の気持ちも分からない星子には分からないよね』
無理解のために笹森を傷付けたに違いない。彼が躍起になっていたのも頷ける。理解しようとする姿勢を見せもしなかった彼の孤独は、苛立ちは、いかほどか。
星子は生物の教科書のノートをまとめてから、笹森を探した。彼は渡り廊下にいた。
「笹森くん」
痩(こ)けて肌の毳(けば)だった顔が振り返る。だがその明るい茶色の瞳が星子を認めると、色の悪い唇が吊り上がる。だがすぐに、その双眸は淀み、星子を見下ろした。
「負け犬ちゃんが何の用?」
彼は裏校舎に向かっていた身体を表校舎に向けた。
「笹森くんに言いたいことがあって……」
彼は眉頭は力んでいた。
「何、捨て猫ちゃん」
「笹森くんのこと、何も知らないで、頭ごなしに色々否定しちゃってごめんなさい」
「何それ。テキトーに謝って、ぼくに媚びようって?」
「お手紙のこと……笹森くんは勝手だって、一方的だって言ってたよね。でもそれは本当だと気付いたの。笹森くんはモテるから、わたし、羨ましくて憧れて、笹森くんの大変なところ、何も見てなかった」
「……当たり前じゃん。地味で非モテの星子が、ぼくの"何か"なんて見れるわけないじゃん。眩しくて、目が潰れちゃうよ」
「うん……でも、気付こうともしなかったの。やっぱり人の心がなかったみたい」
七尾はあると言った。けれど彼は優しい。無いものをあると言える強さがある。だが星子にはなかった。
「人の心って何? 弱いやつ見たら捻り潰したくなる気持ちのこと? 調子こいてるやつがいたら、鼻っ柱 圧(へ)し折りたくなること? 強いやつにへこへこ頭下げて胡麻擂ること?」
「笹森くんが……言った、から………」
「ふーん。ぼくが言えば何でも従っちゃうんだ? 弱っちいやつって可哀想。じゃあ星子は弱っちいやつだから、やっぱり可哀想なんじゃん。星子は可哀想なんだよね。可哀想だろ?――なぁ!」
笹森は怒鳴った。表校舎の廊下を歩いていた生徒たちが驚き、渡り廊下を注目する。
星子もまた肩を跳ねさせ、仰け反っていた。心臓が脈を速めている。
廊下から、笹森の友人が何事か訊ねた。笹森は嚔(くしゃみ)だと答えた。だが、とてもそのような反射とは思えなかった。
「わ、わ、わたし、笹森くんのこと、傷付け、ちゃった……」
笹森は笑む。目元を眇め、星子を見下ろしている。
「よわよわクソザコ星子ちゃんが、ぼくを傷付けられるわけないでしょ」
そうだ。百戦錬磨で頭の良い笹森はそれ相応の場数を踏んでいる。関わってきた人間の数も種類も違う。傷付け、傷付けられた経験もまた多いはずだ。
「でも何を言ってもいいわけじゃなかったから……」
「星子ちゃんはさ、良い子だね。弱っちくて、甘っちょろくて、良い子ぶりっ子で。バレーボール部の3年生からの手紙、勝手に抜き取ったのぼくだよ。勝手に開いて、七尾にも見せちゃった。もちろん、その後の手紙もね」
笹森は鼻を鳴らす。
「それは七尾くんから聞いた」
「………は?」
「七尾くんから聞いたから、知ってる」
「つまらな……それで? 怒ったの? サイテーって?」
「怒ってないよ。七尾くんはすごく気にしてたし……もう反省してる人のこと怒っても仕方がないし……」
「ほんとぉ? 怖かっただけじゃないの、怒るの。怒るの怖かったから、"赦し"て逃げただけなんじゃないの。怒って嫌われるのが嫌だっただけでしょ。怒って悪者になるのが嫌だっただけでしょ。ずっと完璧な被害者でいたかっただけなんだよね?」
笹森は一歩、一歩、躙(にじ)り寄る。裏校舎の陰と、痩せ萎んだ輪郭が重なっていく。
怒るとは殴ることだ。蹴ることだ。罵ることだ。何故、七尾にそれができるのだろう。星子にはその衝動が湧かなかった。
「でも、叩いたら、七尾くん、痛いよ。悪口言ったら、七尾くん、悲しくなっちゃうよ」
殴られ 、蹴られ、罵られ、身を丸めて痣を作る七尾を想像した途端、星子は身体中の骨が痺れるような思いがした。胸が硬くなり、喉が締まる。
「は? 叩けなんて言ってないでしょ」
怒るとは殴ることだ。父は母にそうしていたし、母も星子にそうしていた。そして、バカだの、クズだの、死ねだのと吠えるものだ。
殴れば手が痛む。吠えれば喉が嗄れる。
「わたし、怒り方、分からないから……」
「怒られたことないの? 良い子ぶりっ子だもんね。可愛がられて育ったんだろうな」
父は母を殴ったあと、母と星子にコンビニエンスストアでプリンを買ってきてくれる。母も星子を殴ったあとは保冷剤を当ててくれる。良い子だね、と言ってくれていた。結果として、別々の家庭を持つことを選んだが、その時ばかりは確かに可愛がられていたはずなのだ。
笹森は眉根を寄せた。
「――お母さんのほうには」
彼は、星子に父親がいないことを思い出したようだったが。だが星子には母親もいないのだ。しかしこの場で家庭の事情を打ち明ける必要はないように思われた。父母に可愛がられたことがあるのは事実なのだ。
「うん……」
「だからフられたんじゃない? 彦坂先輩(あいつ)も身勝手だよな。勝手にコクって、脈無さそうって思ったら、失恋遍歴(ペケ)つく前に自分からフるとか。プライド高すぎでしょ。フられたら悔しくなるような女に最初(はな)からコクるなよ」
「彦坂先輩の陰口言いたかったんじゃないの。わたしはただ、笹森くんに謝りたくて……」
「謝りたくてって何? 偽善者。謝りたくて? オレが傷付いてると思ってる? 星子なんかがぼくを傷付けられるわけないじゃん。星子ちゃんの言うことなんて、ぼくはすぐ忘れちゃうんだから。だってそうでしょ、選ばれないし、誰の特別にもなれないし、陰の薄い星子ちゃんなんか」
「う、うん……傷付いてないのなら、良かったの……」
「まだ分かんないかな。星子ちゃんみたいな、ゆるふわ人生のよわよわ陰キャがぼくのこと一丁前に傷付けられると思ってるのが烏滸がましいの」
緩い制限のなかで、付和雷同に生きていられる人生を、星子は確かに歩んでいる。叔父は門限こそ厳しいが、生活費とは別に毎月決まった額の小遣いをくれ、共に出掛けるときはすべて支払ってくれていた。家賃もとらず、光熱費もとらず、学費は出してくれている。実際、衣食住に困ったことはない。
「そうだよね……傷付けてないよね。でも、呼び止めちゃったことはごめん」
「だからなんで謝るの? どういうつもりで謝ったの?」
「時間、奪っちゃったから! じゃあね!」
星子は踵を返しかけたが、笹森が彼女を呼び止めた。
「そっかそっか。彦坂先輩の捨て猫ちゃんでも、ぼくにできる嫌がらせ、あるんだね。ぼくの時間を奪うこと……」
「うん……」
「謝ったら赦されると思ってるんだ? 赦さないよ。おいで」
星子は首を傾げた。
「おいで」
星子は笹森の傍に寄る。すると両肩に重みが乗った。衣替えの日は疾(と)うに過ぎているというのに、彼はまだ長袖を着ていた。
「保健室連れて行ってよ、ぼくの肘置き」
「具合、悪いの……?」
「肘置きは喋らない」
彼は階段は離れて降りたが、また保健室までは星子に圧しかかった。
「誰かに見られたら、変に思われない?」
咲菜とはおそらく出会(でくわ)さないはずだ。だが裏校舎の特に人気(ひとけ)の少ない1階とはいえ、人通りがまったくないわけではない。
「変に見られるって、付き合ってるかもってこと? あのさぁ、フツーに考えて、ぼくと星子が釣り合って見えんの? 高校生になれば分かるでしょ、王様と肘置きの関係だって」
「そうだね」
今まで、咲菜の目を気にしていた。そして誰かに見られ、咲菜の耳に入ることを警戒していた。ところがそれは杞憂だったのだ。星子は自身の思い上がりに気恥ずかしくなる。地味で陰気な生徒と、派手で人気者な生徒を同位同列に扱ってしまっていた。
躊躇いがちだった足取りが、平生(へいぜい)の調子を取り戻す。
「待って。速い」
笹森の腕が星子を後ろに引き寄せる。吐息が耳にかかり、髪や産毛を揺らす。
「汗臭くない……?」
「別に……」
「でも、汗かいたから……」
「臭くないよ。無味無臭。なんならシャンプーの匂いするけど? 何? まだ文句あんの?」
「な、ないよ」
笹森を保健室まで運ぶ。よくクーラーが効いている。養護教諭はいなかった。
「ベッドまで運んで」
星子は振り返る。だが最後まで首を回すことはできなかった。
「体調、やっぱり……」
「疲れただけだよ。ズボラな星子と違ってぼくは繊細なの!」
星子はベッドまで進む。呻きとも溜息とも判じられない息遣いが耳元で籠る。
『星子、寝んねの時間だよ』
「笹森、ほら、寝んね……」
星子は横向きに笹森をベッドへ降ろそうとした。
「子供扱いすんなよ」
笹森は自ら離れようとしたが、星子の肩に腕が引っ掛かる。機(はず)みで、彼の躯体は均衡を崩した。腕に巻き込まれたままの星子もまたベッドへ吸い寄せられる。
肩から落ち、身体を打つ。ベッドが軋む。布団から空気が抜ける。保健室の匂いが膨らみ、雲散していく。予期していた痛みはなかった。だが彼女は自身がベッドに受け止められていることも忘れていた。上を向いているというのに天井は見えなかった。
翳った視界に掲げられたアーモンド色の月から目を離せなかった。微細な襞まで見える。餅搗きをするうさぎは見えない。
それが二つ並んでいることに気付くと、星子が口を開いた。だがその前に、翳りが引き、月が沈む。
笹森は身体を起こした。そして背を向ける。
「………ごめん」
「大丈夫? 怪我、してない?」
星子も起き上がった。痩せ細った背中を窺う。
「危機感とかないの?」
「危機感……?」
笹森の具合の悪さは、命に関わるのか。星子はたじろいだ。
「保健の先生、呼んでくるよ」
走り出す星子の腕を笹森が掴む。
「先生はそのうち来るから……」
彼はベッドに腰を降ろす。
「ここで待ってなよ……」
星子の腕が揺らされる。星子は笹森を見下ろした。
「でも、危機感って……」
「……座ってろよ、天然娘」
青白い顔が汗ばんでいる。保健室は涼しかった。暑気による発汗ではないようだった。
「でも……」
「いいから。枕にでもなっててよ」
笹森は星子の肘を引き、ベッドに座らせた。そして彼女の肩に頭を預ける。
ブラウス越しに笹森の体温と重みが伝わる。
膝の上に置いた手に、骨の浮かんだ白い手が乗る。
「笹森く、」
「黙って」
指の股を割って、長い指が星子の掌を握る。関節と関節がぶつかり合い、窮屈だった。振動が届く。冷えていながら汗ばんでいる。暑さの汗ではない。父母が家から出ていった日の夢から覚めたとき、星子も知っている汗ばみ方だった。
「なんでも受け入れるの、良くないと思うよ」
「なんでもじゃないよ」
「ぼくのこと好きとかやめてね」
笹森を好いているのは咲菜だ。
「うん」
「………星子みたいな地味で非モテの陰キャに好かれても、気持ち悪いから」
「うん」
星子の声は上擦った。それならば真反対の咲菜に好かれることについては嫌ではないということだ。
「何。泣くの?」
「泣かないよ」
「ムカつくなぁ。周りの人に、星子見てるとムカつくって、言われない?」
母のことを思い出した。
「言われたことあるよ」
「ほら、やっぱり……」
『ほら、星子。ちゃんといい子にしないからだぞ』
殴打の雨に打たれながら聞こえた父の声が甦る。父は母の癇癪を恐れていた。
「へへへ……」
何故、「いい子」になれないのだろう。何故「良い子ぶりっ子」の域を出られないのだろう。咲菜のような優しい気質でいられたならば、月也のような聡明な頭脳があったならば、母は拳を痛めてまで躾をしなかっただろう。父もまた育て甲斐を感じたはずだろう。
「星子」
掌を握る力が強くなる。
「うん……?」
「キス、しよっか」
星子は笹森を見遣る。
「どうして?」
「したいでしょ、ぼくと」
星子は顔を背けた。好き合う者同士ですることだ。ドラマや映画では、多少一方的でも、視聴者のほうにはそれが好き合っている者、好き合うことになる者同士であるとの理解と不文律がある。だが笹森とは好き合っていない。
「そんなことをしたら、笹森くんのことを好きな子たちに悪いよ」
「ぼくのこと好きな女の子たちの話なんてどうでもよくない? それとも、マウントだった?」
咲菜の恋はどうなってしまうのか。
「よくないよ。好き合ってる人たちがすることだよ」
もし彼が咲菜の恋慕に気付けば、ゆくゆくは咲菜と交わすものだ。彼は艶福家で、本人もそれを自負している。そしてこの点についておおらかだ。何人もの女子と関わりを持ったことがあるのだろう。けれども咲菜という清らかで淑やかな美少女を前にすれば、そのような経歴は過ぎた日のことなのだ。目的地までに通過した駅について、考えるはずはない。
「ふーん。星子は自分のキスに価値や意味があると思ってるんだ。へー、過大評価」
笹森はベッドに寝転んだ。両腕で顔を覆っている。
「星子みたいな地味でぼっちの子にキスしたからって、空気とチュウするのと変わらないだろ」
星子は色の悪い唇を見詰めた。逆剥けている。
「……確かに、そうかも……」
猫の頭に接吻したとして、猫と好き合っているとは限らない。ぬいぐるみに接吻したとして、ぬいぐるみと好き合っているわけではない。リップクリームに接吻したとして、リップクリームとは好き合っていない。
逆剥け、罅割れ、色の悪くなった唇は、何を求めていたのだろう。
「リップクリーム、使う?」
「はぁ?」
笹森は腕を退かす。批難の眼差しが刺さる。
「ちゃんとティッシュで拭き取るよ。嫌、かな……乾燥してるみたいだったから……」
「……いいよ、拭かなくて。塗って」
笹森はまた両腕で目元を隠した。
「いいの……? 本当に?」
「塗って」
「でも、ちゃんと拭くよ」
「いいから、塗れよ。早く」
星子は制服のポケットに入れていたリップクリームを取り出した。スティックタイプだった。蓋を取ると、ココナッツミルクの香りが広がる。回転軸を回し、わずかに浮かしてから、笹森の唇に当てた。
開けた傷は塞がらない。頭を下げたところで癒えはしない。傷跡になったとて元には戻らず、薄膜が張るだけなのだ。
「頭を上げてくれ。謝ってほしかったんじゃない」
七尾の顔を見たとき、星子は赦されないことを理解した。そして詫びが誰のためのものだったのかが分かった。
「星子に、言わなきゃいけないことがある」
彼の三白眼に力が籠もる。眉が吊り上がり、星子は身構えた。何を言われたとしても耐えなければならない。ひたすらにありきたりな言葉を述べることだけが謝意なのではない。今は、彼を加害者にすることなく、耐えることが謝意なのだ。詫びなのだ。償いなのだ。
星子は待った。だが、待てども待てども、彼は言葉を発さない。三白眼は強張ったまま、床を泳ぐ。
「……俺は意気地なしだ」
「なんで……?」
星子にとって、七尾は意気地なしではなかった。彼は逞しい。同じ7組の男子の中でもしっかりしている。担任の先生は学級委員や生徒会に推したいようだった。
「お前に嫌われたら、俺は終わる」
「それはわたしのほうだよ。七尾くんや咲菜ちゃんに嫌われたら、わたしのほうこそ楽しい高校生活は終わり。本当はわたしみたいな地味な子は、"シケた学校生活"になるはずだったのに、七尾くんと咲菜ちゃんがいてくれたおかげで、すごく楽しかったんだ」
七尾も咲菜も皆に優しい。ゆえにその他大勢に含まれる星子にも優しさをくれる。笹森が言っていた。2人は優しさゆえに、友達のいない孤独な女子に楽しい高校生活を与えているのだ。勘違いはできない。それらは恵まれたものであり、自ら築いたものではない。
「俺が星子を嫌うことは、ない」
「へへへ……」
星子はどういう顔をしていいか分からなくなった。誰もが口ではそう言うのだ。父母もそうだった。だが結局は互いに憎んでいた。状況が変われば、時が経てば、心境も同じではいられない。芽生える恋心があるように、朽ち果てる好意もあるものだ。
だがやはり七尾は優しい。彼も離婚による母子家庭で、たとえ星子と同じでなくとも、それなりの二親の事情を察してきたはずなのだ。
「謝りたいことがある」
星子の愛想笑いが引き攣った。七尾に謝ることはあっても、七尾から謝られることはない。
彼は星子の腕を引き寄せる。力は強かった。
「俺は星子が手紙をもらってたこと、知ってた。五百鈴(いおり)から見せてもらった。2枚目の手紙も……」
星子は溶けたコーラ飴のような双眸と向き合ってしまった。
「手紙って……彦坂先輩の………?」
首肯が返ってくる。
彼は知っていた。彦坂先輩から恋文を送られ、さらにその撤回文が来ていたことも彼は知っていた。「見せてもらった」と言うからには、内容も知っているのだろう。
「そっか……読んだんだ」
七尾は何も知らないものとして、彼の前での立ち振る舞いが甦る。
『やっと選んでもらって、よかったね』
そして恋文をもらい、直接面会し、4日足らずで撤回された。
『星子みたいな地味な子が、選ばれるわけないじゃん』
星子は目を伏せた。
『不憫だから。可哀想だから。惨めで悲惨で、哀れだから』
恥ずかしさが込み上がる。思い上がりだ。交際の是非を決める立場には最初からなかったというのに、その権利を握っている気になっていた。だがそれは今は、咲菜の元に移行した。七尾はその有様を俯瞰していたのだ。すべて知っていた。
「アハハ、わたし、恥ずかしいね! 舞い上がっちゃって。モテないってやっぱり可哀想だね。こんなことで調子に乗っちゃってさ……! バカみたいね。バカみたいっていうか、バカだったなぁ……よくよく考えれば分かることなのにね、アハハ!」
胸が痺れていく。恥ずかしければ頬が火照るはずだ。だがむしろ冷めていく。
七尾は掴んでいた手を放した。そして頭を下げた。
「悪かった。早く言うべきだった。星子を裏切っちまった」
「やめてよ、やめてよ、七尾くん。それこそ、そんなことで謝らないでよ。見せられちゃったなら、それは読んじゃうよ。謝ることじゃない」
何故、七尾は嗤い飛ばしてくれないのだろう。何故、笹森のように嘲ってはくれないのか。笑い話なのだ。茶番なのだ。滑稽な失敗談なのだ。
「でもお前は傷付いてる」
「傷付いて、ないよ。最初から分かってたことだもの。笹森くんもそう言ってた。やっぱモテる人は見る目があるんだなー。でも咲菜ちゃんのこと見てたら、モテる人も大変なんだなって……」
星子はまだ頭を下げている七尾から目を逸らした。
「それを悪いと思ってて、さっきの話、受け入れてくれたの……? それなら、やっぱり――」
咲菜には上手く言って、無かったことにするべきだ。手紙を読まれていたことなど、大したことではないのだ。だというのに、七尾は責任を感じている。虚構の義務だ。存在しない懲罰だ。
七尾は頭を上げた。
「いいや。それは関係ない」
星子は溶けたコーラ飴を見上げた。
「気を遣ってくれたんだよね。ありがとう……そんなことで嫌いにならないよ」
七尾にもらったものは大きいのだ。そして七尾に強いた役目もまた大きい。
「星子……怒ったり、泣いたりしていいんだぞ」
星子は首を振った。怒って、泣きたいのは七尾のほうではなかろうか。
「わたしが泣くことは何もないよ。怒ることも……」
「五百鈴は勝手に、お前宛の手紙を読んだんだぞ。それで俺も読んじまった……怒る理由はそれで十分だ……」
「それが普通なのかな。でもわたしはやっぱり、人の気持ちが分からないから……ってことは人の心もないんだと思う。だから大丈夫だよ。ありがとうね。ちゃんと話してくれて。七尾くんがずっと気にしてることのほうが、わたしは気になっちゃうからさ。この話はここで終わり! 彦坂先輩だって今はもう咲菜ちゃんのことが好きなんだから」
昼休みの終わりを告げる5分前のチャイムが鳴った。
「行こう」
星子は教室に戻ろうとした。立ち竦む七尾の表情はいくらか凪いで見えた
「星子」
「うん?」
「ひとつ言っておくけどな」
だが見間違えたようだ。語気は強い。
「うん……」
星子は身構えた。気に障ることを言ったようだ。痛烈な指摘に備える。
「お前には人の心がある。その心があり過ぎて、大き過ぎて、自分を切り売りし過ぎだ」
「そう……かな………」
「俺の言ってることはいつも正しい……って言ってただろ、この前。その俺が言うんだから間違いない。違うか」
「確かに……でも、もしそうだとしたら………それくらいしないと、優しくしてくれたみんなに恩返しできないもの。わたしは可愛くないし、頭も良くないから」
「やめろ、それ」
「何のこと?」
「自分のこと、悪く言うの……」
星子は七尾と見詰め合ってしまった。
「別に、へそ曲げてるとかじゃないよ。周りの人、みんなそう言うから……ああそうなんだなって感じだよ。事実ならちゃんと受け入れなきゃ」
学習室に、他クラスの生徒が来ていた。七尾と星子を見て、戸惑っている。
「ほら、行こう」
七尾は眉間に皺を寄せていた。
咲菜と七尾を見送った。咲菜は家庭教師が来るために早く帰らなければならないはずだった。だが告白の返答のために時間を割かねばならない。
『一方的じゃない?』
笹森の言っていたことを実感する。
『自分の中の感情くらい、自分で処理すればいいのにさ……好きって気持ちなら、いつでも相手にぶつけていいと思ってるんだから、勝手だよな。テスト期間前よ?』
勉強時間そのものだけでなく、咲菜のような緊張しやすい気質の者に、その後も与える影響を考えていない。
『 言葉選んで精一杯遠回しな拒絶して、断らなきゃいけないオレの気持ちとか、考えたことないよね、星子は』
艶福の真逆にいる星子には思い至らなかった。艶福に恵まれた人間の背負わなければならない労力に気付こうとさえしなかった。立場に甘んじていた。その劣等感すら傲慢だった。
『だからそれが一方的で自分勝手って言ってるの。星子はそれ、頼んだの? 手紙あったら読まなきゃいけなくなるでしょ。読んで、返事決めて、会いに行かなきゃいけなくなるんだよ。相手にコントロールされてるってこと』
咲菜は真面目がゆえに、紙切れ一枚に従った。七尾を巻き込み、芝居をうってまで、動かなければならなかった。
『おバカ星子。行かなかったらどうなるの?』
笹森の言うとおりだった。星子は愚鈍だった。白痴だった。考える能が備わっていなかった。
『誰からも選ばれないし、モテもしないし、人の気持ちも分からない星子には分からないよね』
無理解のために笹森を傷付けたに違いない。彼が躍起になっていたのも頷ける。理解しようとする姿勢を見せもしなかった彼の孤独は、苛立ちは、いかほどか。
星子は生物の教科書のノートをまとめてから、笹森を探した。彼は渡り廊下にいた。
「笹森くん」
痩(こ)けて肌の毳(けば)だった顔が振り返る。だがその明るい茶色の瞳が星子を認めると、色の悪い唇が吊り上がる。だがすぐに、その双眸は淀み、星子を見下ろした。
「負け犬ちゃんが何の用?」
彼は裏校舎に向かっていた身体を表校舎に向けた。
「笹森くんに言いたいことがあって……」
彼は眉頭は力んでいた。
「何、捨て猫ちゃん」
「笹森くんのこと、何も知らないで、頭ごなしに色々否定しちゃってごめんなさい」
「何それ。テキトーに謝って、ぼくに媚びようって?」
「お手紙のこと……笹森くんは勝手だって、一方的だって言ってたよね。でもそれは本当だと気付いたの。笹森くんはモテるから、わたし、羨ましくて憧れて、笹森くんの大変なところ、何も見てなかった」
「……当たり前じゃん。地味で非モテの星子が、ぼくの"何か"なんて見れるわけないじゃん。眩しくて、目が潰れちゃうよ」
「うん……でも、気付こうともしなかったの。やっぱり人の心がなかったみたい」
七尾はあると言った。けれど彼は優しい。無いものをあると言える強さがある。だが星子にはなかった。
「人の心って何? 弱いやつ見たら捻り潰したくなる気持ちのこと? 調子こいてるやつがいたら、鼻っ柱 圧(へ)し折りたくなること? 強いやつにへこへこ頭下げて胡麻擂ること?」
「笹森くんが……言った、から………」
「ふーん。ぼくが言えば何でも従っちゃうんだ? 弱っちいやつって可哀想。じゃあ星子は弱っちいやつだから、やっぱり可哀想なんじゃん。星子は可哀想なんだよね。可哀想だろ?――なぁ!」
笹森は怒鳴った。表校舎の廊下を歩いていた生徒たちが驚き、渡り廊下を注目する。
星子もまた肩を跳ねさせ、仰け反っていた。心臓が脈を速めている。
廊下から、笹森の友人が何事か訊ねた。笹森は嚔(くしゃみ)だと答えた。だが、とてもそのような反射とは思えなかった。
「わ、わ、わたし、笹森くんのこと、傷付け、ちゃった……」
笹森は笑む。目元を眇め、星子を見下ろしている。
「よわよわクソザコ星子ちゃんが、ぼくを傷付けられるわけないでしょ」
そうだ。百戦錬磨で頭の良い笹森はそれ相応の場数を踏んでいる。関わってきた人間の数も種類も違う。傷付け、傷付けられた経験もまた多いはずだ。
「でも何を言ってもいいわけじゃなかったから……」
「星子ちゃんはさ、良い子だね。弱っちくて、甘っちょろくて、良い子ぶりっ子で。バレーボール部の3年生からの手紙、勝手に抜き取ったのぼくだよ。勝手に開いて、七尾にも見せちゃった。もちろん、その後の手紙もね」
笹森は鼻を鳴らす。
「それは七尾くんから聞いた」
「………は?」
「七尾くんから聞いたから、知ってる」
「つまらな……それで? 怒ったの? サイテーって?」
「怒ってないよ。七尾くんはすごく気にしてたし……もう反省してる人のこと怒っても仕方がないし……」
「ほんとぉ? 怖かっただけじゃないの、怒るの。怒るの怖かったから、"赦し"て逃げただけなんじゃないの。怒って嫌われるのが嫌だっただけでしょ。怒って悪者になるのが嫌だっただけでしょ。ずっと完璧な被害者でいたかっただけなんだよね?」
笹森は一歩、一歩、躙(にじ)り寄る。裏校舎の陰と、痩せ萎んだ輪郭が重なっていく。
怒るとは殴ることだ。蹴ることだ。罵ることだ。何故、七尾にそれができるのだろう。星子にはその衝動が湧かなかった。
「でも、叩いたら、七尾くん、痛いよ。悪口言ったら、七尾くん、悲しくなっちゃうよ」
殴られ 、蹴られ、罵られ、身を丸めて痣を作る七尾を想像した途端、星子は身体中の骨が痺れるような思いがした。胸が硬くなり、喉が締まる。
「は? 叩けなんて言ってないでしょ」
怒るとは殴ることだ。父は母にそうしていたし、母も星子にそうしていた。そして、バカだの、クズだの、死ねだのと吠えるものだ。
殴れば手が痛む。吠えれば喉が嗄れる。
「わたし、怒り方、分からないから……」
「怒られたことないの? 良い子ぶりっ子だもんね。可愛がられて育ったんだろうな」
父は母を殴ったあと、母と星子にコンビニエンスストアでプリンを買ってきてくれる。母も星子を殴ったあとは保冷剤を当ててくれる。良い子だね、と言ってくれていた。結果として、別々の家庭を持つことを選んだが、その時ばかりは確かに可愛がられていたはずなのだ。
笹森は眉根を寄せた。
「――お母さんのほうには」
彼は、星子に父親がいないことを思い出したようだったが。だが星子には母親もいないのだ。しかしこの場で家庭の事情を打ち明ける必要はないように思われた。父母に可愛がられたことがあるのは事実なのだ。
「うん……」
「だからフられたんじゃない? 彦坂先輩(あいつ)も身勝手だよな。勝手にコクって、脈無さそうって思ったら、失恋遍歴(ペケ)つく前に自分からフるとか。プライド高すぎでしょ。フられたら悔しくなるような女に最初(はな)からコクるなよ」
「彦坂先輩の陰口言いたかったんじゃないの。わたしはただ、笹森くんに謝りたくて……」
「謝りたくてって何? 偽善者。謝りたくて? オレが傷付いてると思ってる? 星子なんかがぼくを傷付けられるわけないじゃん。星子ちゃんの言うことなんて、ぼくはすぐ忘れちゃうんだから。だってそうでしょ、選ばれないし、誰の特別にもなれないし、陰の薄い星子ちゃんなんか」
「う、うん……傷付いてないのなら、良かったの……」
「まだ分かんないかな。星子ちゃんみたいな、ゆるふわ人生のよわよわ陰キャがぼくのこと一丁前に傷付けられると思ってるのが烏滸がましいの」
緩い制限のなかで、付和雷同に生きていられる人生を、星子は確かに歩んでいる。叔父は門限こそ厳しいが、生活費とは別に毎月決まった額の小遣いをくれ、共に出掛けるときはすべて支払ってくれていた。家賃もとらず、光熱費もとらず、学費は出してくれている。実際、衣食住に困ったことはない。
「そうだよね……傷付けてないよね。でも、呼び止めちゃったことはごめん」
「だからなんで謝るの? どういうつもりで謝ったの?」
「時間、奪っちゃったから! じゃあね!」
星子は踵を返しかけたが、笹森が彼女を呼び止めた。
「そっかそっか。彦坂先輩の捨て猫ちゃんでも、ぼくにできる嫌がらせ、あるんだね。ぼくの時間を奪うこと……」
「うん……」
「謝ったら赦されると思ってるんだ? 赦さないよ。おいで」
星子は首を傾げた。
「おいで」
星子は笹森の傍に寄る。すると両肩に重みが乗った。衣替えの日は疾(と)うに過ぎているというのに、彼はまだ長袖を着ていた。
「保健室連れて行ってよ、ぼくの肘置き」
「具合、悪いの……?」
「肘置きは喋らない」
彼は階段は離れて降りたが、また保健室までは星子に圧しかかった。
「誰かに見られたら、変に思われない?」
咲菜とはおそらく出会(でくわ)さないはずだ。だが裏校舎の特に人気(ひとけ)の少ない1階とはいえ、人通りがまったくないわけではない。
「変に見られるって、付き合ってるかもってこと? あのさぁ、フツーに考えて、ぼくと星子が釣り合って見えんの? 高校生になれば分かるでしょ、王様と肘置きの関係だって」
「そうだね」
今まで、咲菜の目を気にしていた。そして誰かに見られ、咲菜の耳に入ることを警戒していた。ところがそれは杞憂だったのだ。星子は自身の思い上がりに気恥ずかしくなる。地味で陰気な生徒と、派手で人気者な生徒を同位同列に扱ってしまっていた。
躊躇いがちだった足取りが、平生(へいぜい)の調子を取り戻す。
「待って。速い」
笹森の腕が星子を後ろに引き寄せる。吐息が耳にかかり、髪や産毛を揺らす。
「汗臭くない……?」
「別に……」
「でも、汗かいたから……」
「臭くないよ。無味無臭。なんならシャンプーの匂いするけど? 何? まだ文句あんの?」
「な、ないよ」
笹森を保健室まで運ぶ。よくクーラーが効いている。養護教諭はいなかった。
「ベッドまで運んで」
星子は振り返る。だが最後まで首を回すことはできなかった。
「体調、やっぱり……」
「疲れただけだよ。ズボラな星子と違ってぼくは繊細なの!」
星子はベッドまで進む。呻きとも溜息とも判じられない息遣いが耳元で籠る。
『星子、寝んねの時間だよ』
「笹森、ほら、寝んね……」
星子は横向きに笹森をベッドへ降ろそうとした。
「子供扱いすんなよ」
笹森は自ら離れようとしたが、星子の肩に腕が引っ掛かる。機(はず)みで、彼の躯体は均衡を崩した。腕に巻き込まれたままの星子もまたベッドへ吸い寄せられる。
肩から落ち、身体を打つ。ベッドが軋む。布団から空気が抜ける。保健室の匂いが膨らみ、雲散していく。予期していた痛みはなかった。だが彼女は自身がベッドに受け止められていることも忘れていた。上を向いているというのに天井は見えなかった。
翳った視界に掲げられたアーモンド色の月から目を離せなかった。微細な襞まで見える。餅搗きをするうさぎは見えない。
それが二つ並んでいることに気付くと、星子が口を開いた。だがその前に、翳りが引き、月が沈む。
笹森は身体を起こした。そして背を向ける。
「………ごめん」
「大丈夫? 怪我、してない?」
星子も起き上がった。痩せ細った背中を窺う。
「危機感とかないの?」
「危機感……?」
笹森の具合の悪さは、命に関わるのか。星子はたじろいだ。
「保健の先生、呼んでくるよ」
走り出す星子の腕を笹森が掴む。
「先生はそのうち来るから……」
彼はベッドに腰を降ろす。
「ここで待ってなよ……」
星子の腕が揺らされる。星子は笹森を見下ろした。
「でも、危機感って……」
「……座ってろよ、天然娘」
青白い顔が汗ばんでいる。保健室は涼しかった。暑気による発汗ではないようだった。
「でも……」
「いいから。枕にでもなっててよ」
笹森は星子の肘を引き、ベッドに座らせた。そして彼女の肩に頭を預ける。
ブラウス越しに笹森の体温と重みが伝わる。
膝の上に置いた手に、骨の浮かんだ白い手が乗る。
「笹森く、」
「黙って」
指の股を割って、長い指が星子の掌を握る。関節と関節がぶつかり合い、窮屈だった。振動が届く。冷えていながら汗ばんでいる。暑さの汗ではない。父母が家から出ていった日の夢から覚めたとき、星子も知っている汗ばみ方だった。
「なんでも受け入れるの、良くないと思うよ」
「なんでもじゃないよ」
「ぼくのこと好きとかやめてね」
笹森を好いているのは咲菜だ。
「うん」
「………星子みたいな地味で非モテの陰キャに好かれても、気持ち悪いから」
「うん」
星子の声は上擦った。それならば真反対の咲菜に好かれることについては嫌ではないということだ。
「何。泣くの?」
「泣かないよ」
「ムカつくなぁ。周りの人に、星子見てるとムカつくって、言われない?」
母のことを思い出した。
「言われたことあるよ」
「ほら、やっぱり……」
『ほら、星子。ちゃんといい子にしないからだぞ』
殴打の雨に打たれながら聞こえた父の声が甦る。父は母の癇癪を恐れていた。
「へへへ……」
何故、「いい子」になれないのだろう。何故「良い子ぶりっ子」の域を出られないのだろう。咲菜のような優しい気質でいられたならば、月也のような聡明な頭脳があったならば、母は拳を痛めてまで躾をしなかっただろう。父もまた育て甲斐を感じたはずだろう。
「星子」
掌を握る力が強くなる。
「うん……?」
「キス、しよっか」
星子は笹森を見遣る。
「どうして?」
「したいでしょ、ぼくと」
星子は顔を背けた。好き合う者同士ですることだ。ドラマや映画では、多少一方的でも、視聴者のほうにはそれが好き合っている者、好き合うことになる者同士であるとの理解と不文律がある。だが笹森とは好き合っていない。
「そんなことをしたら、笹森くんのことを好きな子たちに悪いよ」
「ぼくのこと好きな女の子たちの話なんてどうでもよくない? それとも、マウントだった?」
咲菜の恋はどうなってしまうのか。
「よくないよ。好き合ってる人たちがすることだよ」
もし彼が咲菜の恋慕に気付けば、ゆくゆくは咲菜と交わすものだ。彼は艶福家で、本人もそれを自負している。そしてこの点についておおらかだ。何人もの女子と関わりを持ったことがあるのだろう。けれども咲菜という清らかで淑やかな美少女を前にすれば、そのような経歴は過ぎた日のことなのだ。目的地までに通過した駅について、考えるはずはない。
「ふーん。星子は自分のキスに価値や意味があると思ってるんだ。へー、過大評価」
笹森はベッドに寝転んだ。両腕で顔を覆っている。
「星子みたいな地味でぼっちの子にキスしたからって、空気とチュウするのと変わらないだろ」
星子は色の悪い唇を見詰めた。逆剥けている。
「……確かに、そうかも……」
猫の頭に接吻したとして、猫と好き合っているとは限らない。ぬいぐるみに接吻したとして、ぬいぐるみと好き合っているわけではない。リップクリームに接吻したとして、リップクリームとは好き合っていない。
逆剥け、罅割れ、色の悪くなった唇は、何を求めていたのだろう。
「リップクリーム、使う?」
「はぁ?」
笹森は腕を退かす。批難の眼差しが刺さる。
「ちゃんとティッシュで拭き取るよ。嫌、かな……乾燥してるみたいだったから……」
「……いいよ、拭かなくて。塗って」
笹森はまた両腕で目元を隠した。
「いいの……? 本当に?」
「塗って」
「でも、ちゃんと拭くよ」
「いいから、塗れよ。早く」
星子は制服のポケットに入れていたリップクリームを取り出した。スティックタイプだった。蓋を取ると、ココナッツミルクの香りが広がる。回転軸を回し、わずかに浮かしてから、笹森の唇に当てた。