my天の川に流るる
18
血色は悪いが形の良い唇にリップクリームを滑らせる。
「星子(しょうこ)は恋愛偏差値0だね」
「……うん」
誰かに惹かれたことはあれども好きになったことはない。交際経験もない。
「こういうときは、熟練者(フツー)は、キスしてリップ付けるんだよ」
「キスして? どうやって?」
笹森は勢いよく起き上がった。そして頭が宙を泳ぐ。目眩を起こしたようだ。
「大丈夫?」
星子は頭を支えきれず、崩れそうになった身体に手を伸ばす。だが彼女のほうが力強く引き寄せられた。視界が暗くなる。何かが迫っていた。目を閉じる。衝撃はなかった。おそるおそる、目蓋を上げる。罅割れながらも艶の乗った唇が見えた。それしか見えなかった。
「……こうやって」
星子は首を竦めた。ココナッツミルクの香りが脳を燻(いぶ)す。
「……逃げないの? このままだと、チュウするよ。チュウ、されたいの?」
さらに身体を引いた。
「ぼくがチュウしてあげるって言ってるのに、逃げるんだ?」
「付き合ってないのに、良くない、から………」
「ふーん」
星子の後頭部から加わる力で、彼女は笹森のほうに傾いた。前髪越しの額に柔らかな感触が弾む。すぐに消え失せた。
星子はこの柔らかさを知っていた。前髪を撫でつける。
「蚊がいたの?」
以前、七尾が前髪にいた蚊を叩いたと言っていたときと同じ弾力だった。同年代だというのに男子の掌は厚く、角張り、骨張って大きい。だが力加減次第で、柔らかい接触が可能なようなのだ。まるで猫の肉球だ。
「はぁ?」
「前に七尾くんもそうやって蚊を追い払ってくれたから……」
笹森は黙った。普段とは異質の「W」字の口元は、少しも笑っていない。わずかながら立体感を持っている。
アーモンド色の瞳が上目で星子を捉えている。
「……あっち行けよ」
「じゃ、じゃあ、そろそろ帰るね」
「……ムカつくよ、星子って」
「ご、ごめんね。また来週、テスト、頑張ろうね」
星子は保健室を出た。養護教諭と鉢合わせた。
教室に戻ると、真っ先に机に伏せる七尾の姿に星子は飛び上がった。頭を机上に預け、ベランダの方を向いている。
「七尾くん! 大丈夫?」
彼は徐ろに身体を起こす。
「ああ……星子。どこ行ってた?」
「笹森くんと保健室に……」
七尾の眉根に皺が寄る。
「……そうかよ。大丈夫だったか」
具合は悪そうだった。しかし笹森は隠したいようだった。
「うん、笹森くん、元気そうだったよ」
七尾は目を側める。
「七尾くんのほうこそ……無茶なお願いしちゃってごめんなさい。本当にありがとう」
星子は頭を下げた。
「よせよ」
「でも……」
「俺は好きでやったんだ。謝られることじゃねぇよ」
「……ありがとう」
「お前こそ、俺を赦してくれて、ありがとう。ちゃんと琴峯(ことみね)さんはあの3年をフったんだし、この話はこれで終わりだ。あの3年にも悪ぃだろ、ずっと自分の失恋話されてちゃ。曲がりなりにも好きなやつに告白するだけの度胸はあるんだ」
七尾は咲菜が好きなのだ。だが告白できないでいる自身に思うところがあるに違いない。
「そうだね」
「さっさと科学部行くぞ。月也待たせてるんだろ?」
「ああ、そうだ、そうだ。早く行かなきゃ」
星子は教材をまとめる。
「星子」
「うん……?」
「五百鈴(いおり)のこと、平気なのか」
「"平気なのか"って?」
七尾は俯いてしまった。星子は気付いた。そして自身の愚問に苦笑する。
「保健の先生とすれ違ったから、大丈夫だと思うよ」
笹森は自力で動けるようだった。口も回る。そして養護教諭が保健室に入っていったのだ。
「そういうことじゃなくて」
「え……?」
「手紙! 勝手に読まれたこと」
笹森に下駄箱を漁られ、手紙を抜かれ、差出人の彦坂(ひこざか)先輩に不義理をしてしまった。
「なんで、読んじゃったんだろうね」
笹森が気にするべきは、咲菜や"クラスで2番目に可愛い"渚音海(なおみ)ちゃんのはずだ。
「……お前に、気がある…………とかは」
「それはないよ。笹森くんに、わたしは"地味"とか"ぶりっ子"とか言われたもの」
「は? そんなこと言われたのか」
笹森との関係に誤解があるのは困る。咲菜に悪い。
「うん。それに……あのね、ただの噂で、本当の話じゃないんだけど、七尾くんも知ってると思うけど、わたし、パパ活してるって噂があるみたいでさ、笹森くんはわたしがパパ活してるって思ってるから。すごくドン引きしてたし、アハハ……困ったな」
笹森に侮蔑される理由はあっても、好かれる理由はない。
星子は髪に手櫛を入れる。七尾は理解しただろうか。だが彼の顔面には皺という皺、隆起という隆起が刻まれていた。予想に反した表情に、彼女は面食らった。
「あ、あ、本当に誤解なんだよ。あ、笹森くんがわたしに気があるってこともだけれど、わたしがパパ活してるって噂も……本当にしてないから。本当だよ……」
不必要なことを言ってしまったらしい。口にするまでその重大さに気付かなかった。
「なんだよ、それ………!」
七尾は唸っている。彼ならば、笑い飛ばすものだと思っていた。汚れを拭き取った紙をゴミ箱に放り入れるように、笑って済む話だと思っていた。
「本当に、してなくて……」
否定すれば否定するほど疑われることは、入学当初の盗難騒動で理解していたはずだ。
「帰ったらお買い物して、晩ごはん作って洗濯とお風呂掃除もしなきゃだから、そんな時間ないよ……あ、あは、……アハハ……」
全身から汗が噴き出す。背中が蒸れた。襟から汗の匂いが込み上がる。
七尾に侮蔑されてしまう。見捨てられてしまう。父母が出ていった日の光景が脳裏に閃く。
相手の顔を見るのが怖かった。吐息が隙間風のような音をたてていた。
「いつからだ?」
「だから、して………ないって。してない………」
呼吸はできているはずだった。だが息を吸えていない感じがした。
「してない………はー、してない………はー、はー、してないよ………」
酸素を取り込もうとするたび、声が声になっていない感じがあった。伝えなければいけない。だが届かなければ伝わらない。
「星子……?」
「はー………してないよ………はー………はー………本当に………はー………」
「星子!」
七尾の声が大雑把な息吹きに紛れていく。耳が遠くなっていく。だが自身の息遣いばかり大音量のように耳の中で反響している。
背中に温かなものが触れた。星子を屈ませると、上下に往復する。
「落ち着け。息、合わせろ」
背中に添わる温度が正しい呼吸の律動に合わせて上下に動く。
「はー………、はー……………はー………っ、はー………」
「大丈夫だ。大丈夫だから。星子はそんなことするやつじゃない」
星子は頷いた。
「ご、め………」
「喋るな」
星子は目を閉じた。胸元を掴む手を剥がされ、そのまま七尾の手の中に委ねた。
呼吸が落ち着く。肺に酸素が満ち足りていく。
「もう、大丈夫……」
「飴、舐めるか」
七尾は自分の机に戻ると、飴をひとつ差し出した。星形の個包装に占いの書いてある飴だった。
「ありがとう……」
「溶けてたら悪ぃな」
「ん……大丈夫」
包装を破り、口に入れる。レモンの甘酸っぱさが広がる。
「美味しい」
「妹からもらった。またもらってきてやるよ」
彼が笑う。
「ごめん、七尾くん。変なこと言って……」
「言わせたのは俺だろ。気にすんな」
星子は彼の笑顔から顔を背けた。眩しい。眩しいところには濃い影ができてしまうのだ。
七尾はこの忌まわしい噂を知らなかったようだが、周りの人たちにも知れ渡っていると知ったとき、彼は離れるのだろう。離れなければ健全ではない。離れるのが自然だ。離れないならば、離れるしかない。
「行くぞ」
星子はこわごわと七尾を向いた。何故、彼に見捨てられることを恐れたのだろう。噂が付き纏う以上、いずれ彼と離れなければならなくなる。彼女は卑怯な考えが厭になった。あまりにも利己的だった。人心を持ち得ていない証だ。人面獣心の徒に温もりをくれたこの昔馴染みへ何故、仇を返せるのか。
「……うん」
口の中で飴を転がす。
勉強会を終え、月也を見送る。
「今日も、疲れたな」
隣に立つ七尾を仰ぐ。彼は今日、咲菜の交際相手役を演じなければならなかったのだ。暑さと勉強だけではない消耗があるはずだ。
「そうだね」
「星子」
「うん?」
「テストが終わったらさ……」
星子は俯いた。悪い噂のために、離れたいと言い出されたなら、答えはひとつに決まっていた。学級委員や生徒会選挙の打診をされる七尾だ。大学進学も考えているのだ。悪評は振り落として損はない。
テストが終われば夏休みだ。2学期まで顔を会わせず済む。科学部での勉強会も今日を以て終了した。面倒見のよい七尾は、まったく無関係の月也まで拒絶はしないだろう。今が、絶好の、絶交の機会なのだ。
「あ、あ、あ、あのね、七尾くん」
星子は卑怯だった。
『選ばれないのが怖かったんじゃないの』
笹森の言葉が耳の奥から流れてきた。
「何」
「やっぱり、ちゃんと……言っておかなきゃ、だからさ………」
「何を」
七尾は眉を顰めていた。声音も低い。三白眼が鋭さを増していた。
「今は、ちゃんと話せるから。ちゃんと、考えたんだけど……わ、わたし、変な噂あるからさ、あんまり……その、わたしと一緒にいるの、よくないかも、なんて……アハハ………月也くんは多分何も知らないし、全然関係ないから、もし科学部入るなら、仲良くしてあげてほしくて………どういう立場なんだ、って感じだけど……アハハ……」
「何の話」
「さっき、教室で話した、こと………」
「あんだけ三角関数教えたのに、別のこと考えてたってか」
「それは、その………問題は、ちゃんと、解いてたよ……でも、あのさ、大事なことだから。七尾くんまで、変な目で見られたら、嫌だから……」
七尾は唇を「へ」の字に曲げる。
「なんで俺まで変な目で見られるんだ?」
「パパ活してるって子と一緒にいたら、先生からも、同級生(みんな)からも、印象悪くなっちゃうよ。"そういうの、平気な人なんだ"、とか……」
手が震える。喉が痞(つか)えた。
「そんな偏見ヤローはこっちから願い下げだっつの。俺は"そういうの、平気なやつ"なんで。それに他の奴等は知らんけど、先生にまで知られてるなら学校側からお前に何かあるはずだ。それか叔父さんに。何か言われたのか?」
星子は首を振った。その件に関して、学校側から何か言われたことはなかった。叔父からも、そのような連絡を受けたという話はない。
「問題はそっちじゃねぇ。その噂でお前が見縊られてバカにされて、他の奴等が星子になら何してもいい、何言ってもいいみたいになんのが嫌なんだよ。母子家庭で、元カノと2週間しか続かなくて、お得意のサッカーも中学で辞めちまった。色々言われるのは慣れてっから、俺は」
背中を叩かれる。
「だから気にすんな。自分のことだけ考えとけ。テスト前なんだし。俺はお前が思うほど繊細(ヤワ)じゃねぇ。でもお前は自分で思ってるほど強くない。悪いことじゃないが、たまには労ってやれ。俺は大丈夫だ」
「ごめんね……」
「……テストが終わったら、デートしてやるよ」
彼はまた背を叩く。猫が尾の付け根を叩かれると喜ぶ気持ちが、星子も分かったような気がした。
「え?」
「マキシバーガーでポテト"あ~ん"だろ。楽しみにしとけよ、爆モテの七尾くんが直々に"あ~ん"してやるんだからよ」
「う、うん……」
「駄菓子屋のおばあのところでバイトしてきたから、要らん心配すんなよ。じゃあな」
七尾は今度は肩の後ろを叩くと、顔も見せずに駐輪場へ行ってしまった。
星子はその後姿が見えなくなるまで佇んでいた。
◇
テスト初日のホームルームで、笹森の欠席が告げられた。ホームルームが終了すると、賑やかなクラスメイトたちはテスト直前の勉強も疎かに、笹森のことを噂しはじめる。
『昨日聞いたんだけどさ、なんか、ハワイ旅行に行くらしい。フツー、マジだと思わないでしょ』
鷲羽(わしゅう)さんだ。
『はー? ナメすぎじゃね』
笹森とよく一緒にいる男子が苦り切っている。
『いや、あいつ、そういうナメたところ昔からあったよ』
『大学行く気ないとか?』
『それより留年しちまうぞ』
『ひえー!』
星子は机の抽斗(ひきだし)の中身を空にしながら、鷲羽さんたちのやり取りを聞き流していた。
「星子ちゃん」
咲菜が傍に来た。そして鷲羽さんたちの無遠慮な会話にたじろいだ。
「あ、あ、咲菜ちゃん!」
自身の話し声で掻き消すことはできない。言葉も続かない。
「テスト、頑張ろうね!」
「うん!」
咲菜は抽斗の中身を抱えながら廊下に出ていった。
「星子」
「ほぇ、」
咲菜と入れ替わるように七尾が立っている。
「笹森くん、ちょっとびっくりだね」
笹森は本当に旅行に行ったのだろうか。夏だというのに長袖をやめず、顔を青白くしていた彼に旅行など耐えられるのだろうか。
「土産、ねだっておくか。何がいい? ド定番のマカダミアのチョコか?」
「え……いいよ、お土産なんて……」
「今はテストでいっぱいいっぱいだもんな。赤点取ったら慰めてやる」
「本当、かなぁ……」
勉強不足、確認不足だと言われてしまいそうだ。
「なんだよ。俺がお前を慰めてやらなかった日があるか?」
「あ、あった……かなぁ? なかった、かも……?」
「ま、ポテト"あ~ん"まで楽しく待っとけ」
笹森の話に夢中になってい鷲羽さんが振り返る。
「えー、七尾、何の話?」
「こっちの話」
七尾は英単語帳を指に引っ掛け、廊下へ出て行く。
◇
3日間のテスト期間が終わった。教室は解放感に溢れ、男子も女子も長らく続いた緊張の鬱憤を晴らしている。黄色い声が四方八方十六方から聞こえてくる。廊下を駆け抜けていく姿もあった。
星子は黒煙の照りつける問題用紙を眺めながら溜息を吐く。化学はおそらく赤点だ。国語と英語には手応えがあった。数学は赤点は免れたかもしれないが、理数科目の強いこのクラスでは平均点に届かないかもしれない。
「星子、大丈夫か」
七尾は余裕そうだった。だが今日こそ綽々(しゃくしゃく)としているが、彼は初日の古典で萎れていた。
「化学は……厳しい、かも……」
「ははっ、まぁ、ちょっと今回のは難しかったかもな」
星子は胸を打たれた。そして項垂れる。
「おい、どうした」
「七尾くんが難しいんじゃ、わたしが解けるはずないじゃん……赤点だ………」
「赤点だったら慰めてやるって言ったろ?」
七尾が背中を叩く。
「どうやって……?」
「ばっか、お前……そんなこと、教室(ここ)で訊くなよ……スケベ!」
彼は口角を上げる。日焼けした肌に白い歯が眩しい。
「え? え?」
星子は何が"スケベ"なのか分からず戸惑っていると、咲菜が傍にやって来る。
「星子ちゃん! 今回、本当にダメかも」
彼女は星子の腕に縋りつく。そうは言っても、彼女には家庭教師が付いているはずで、彼女の頭も悪くない。勉学に勤しんだところに身にならない連中もいるが、咲菜はその類いではない。
「わたしも、化学と数学は厳しいよ」
親友とテストの感想を述べ合っていると、男子と話していた鷲羽さんが咲菜に声をかけた。
「サッキーナ、放課後、暇? みんなでぱーっと打ち上げ行かない?」
咲菜は星子を一瞥した。可憐な顔に翳りが見えた。鷲羽さんは咲菜しか見ていない。
星子は咲菜に笑いかけ、教室を出る。共に七尾もついてきた。
「大丈夫だよな、今日……」
「へ」
「デートだろ。テスト終わったら……」
「あ、今日のことだったんだ」
"テストが終わったら"というのはテスト最終日のことだったらしい。
「……厳しい?」
「ううん。大丈夫」
しかし叔父には昨日、一昨日と同じ時間に帰ると告げてしまった。
ホームルームが終わり、部活動に行く者たちは活気が漲(みなぎ)っていたし、部活のない者たちはこれからの予定に胸を躍らせているようだった。
星子は叔父に連絡をしようと端末を取り出し、紫色に照る画面を点ける。1件のメッセージが入っていた。笹森からだ。
[うちに来てよ]
星子は何度か読み直してしまった。送信主も確認する。送信主は"いおり"だ。"いおり"とは笹森五百鈴のはずだ。他に同じ名前の知り合いはいない。橙色のトラ猫のアイコンも笹森のアカウントのはずだ。
[笹森くん、こんにちは。 送る相手間違ってないかな?]
送信する。そして叔父とのチャットルームを開く。
[七尾くんとちょっと寄り道してから帰ります。時間が分かったらまた連絡します]
送信。
顔を上げる。
『えー? 七尾も一緒に行こうよ』
『俺は用事あるから』
『なんでー? サッキーナもいて渚音海(なおみ)もいんのにー? いいじゃん、カラオケ。ボーリングでもいいからさ!』
鷲羽さんと、彼女と仲の良い男子たちとが、七尾を口説いているのが廊下から聞こた。
七尾の予定を埋めてしまった。七尾はクラスの打ち上げに行きたいのではないか。教科選択を経たこの2年次のクラス編成が3年次にも影響するとは専らの噂だった。つまり高校の3年間のうち2年間の付き合いになる。そしてその初めての打ち上げなのだ。夏休み前ということもあり、盛り上がるに違いない。何よりも七尾にとっては、咲菜が参加している。
"デートしてやるよ"と彼は言っていた。"デートしてやるよ"とはつまり、彼の厚意なのだ。気遣いなのだ。彼の優しさに託(かこ)つけ、彼を操ってしまったのだ。本意ではない。ゆえに優先される事柄でもない。しかし七尾にとっては、重要な予行演習だったのかもしれなかった。とはいえ打ち上げならば、予行演習どころか実践できる。
手の中の端末が震えた。
[星子、うち来て。場所分かるよね]
笹森は海外旅行になど行ってはいない。
色の悪い唇と痩(こ)けた頬が甦る。
「七尾くん」
廊下に出て声をかけると、鷲羽さんたちの視線を浴びる。男子たちは気拙(きまず)そうだった。鷲羽さんは口元だけで笑っている。
「なんだよ、星子」
「ごめん。ちょっと用事できちゃった」
「はぁ?」
「用事できちゃったからさ……ごめんね」
鷲羽さんが前に出てきた。
「えぇ? 用事って何!」
語気が強い。眉間に寄った皺には警戒が滲む。
「ちょっと………おうちの用事が入っちゃって……」
「なーんだ。そうなんだ。星子チャンのことも誘おうと思ったのに残念すぎー。咲にゃん寂しがるなぁ」
しかしその表情には安堵が込められていた。
「星子」
「本当にごめんね」
七尾は三白眼を泳がせる。そして急に小さくなったように見えた。肩が落ちたのだった。
「……いや、急に言い出したのは、俺のほうだし………」
「なんか星子チャンと約束してた? ちょうどいいじゃん、七尾~」
鷲羽さんは低姿勢をとって、七尾を下から覗き込んでいる。
「いや、フツーに部活」
彼の笑みは疲れていた。
「は? 七尾、部活入ってたっけ?」
「囲碁・将棋・チェス部」
「そんなんあった?」
「あったよ」
七尾は踵を返し、カラスアゲハよろしく手を振った。
星子は廊下を去っていく後姿を見詰めてしまった。悄然として見えた。何故、打ち上げに行かないのだ。仲の良い笹森がいないからだろうか。だが咲菜がいるはずだ。
「じゃあねー、星子チャン」
鷲羽さんは男子たちを引き連れて、これから打ち上げ会場に向かうようである。
手の中の端末が震え続ける。
[場所分かるでしょ]
[行ってらっしゃい。気を付けるんだよ] [帰りが遅くなるようなら迎えに行くから。七尾くんのことも送るよ]
[渡したいものがあるから]
星子はメッセージのすべてを読み、どれにも返信しなかった。
また端末が震える。
[テストお疲れ様でございました。玄山です。白川先輩はまだ学校にいらっしゃいますか。科学部に仮入部届を出しに行こうと思うのですが、白川先輩も仮入部なさるんですか?]
後輩からのメッセージを乾いた目で追う。
[まだ学校にいるよー! わたしはちょっと考え中。化学赤点っぽいのに科学部はさすがにね]
汗を模した絵文字を添えて送信する。
七尾は何故、打ち上げに行かなかったのか。先に承諾した予定を取り消したからか。彼は用意周到なところがあるのだ。無軌道が赦せなかったというのか。
七尾に悪いことをしてしまった!
星子の内部に火が点いた。
手の中の端末が震える。連続した。
[仮入部してみてからでもいいんじゃないですか? 化学と関係あるかは]
[お願い、星子。会いたい]
"選ばれないのが怖かったんじゃないの"
星子はスマホを閉じた。