my天の川に流るる
25
◇
[明日よろしくな]
星子(しょうこ)はストラップ型の時計を見た。待ち合わせの時間になっても七尾は来ない。
市内の大型商業施設は何度も来たことがある。だが七尾とは初めてだった。そして連日開催されているらしい期間限定のイベントにも参加したことはなかった。
近くでも夏祭りがあるようで、浴衣姿が頻繁に行き交っている。
星子はフードコートの傍に立っていた。席が次々と埋まっていく。30分が経つと、星子は通路に置かれたベンチに座った。そしてその旨をメッセージに送った。到着の報告にも既読の印はつかない。
昨晩までは覚えていたようだが、朝になって忘れてしまったのだろうか。
『じゃあ、マジで今度こそ、絶対……デートしろ、俺と』
『今度こそ、本気で……楽しみにしてるから』
七尾の声が甦る。だが七尾の声で作り変えた記憶のような気もした。
「へへへ……」
昨日の様子を思い出してみるがいい。怒っていた。月也の言っていたことを加味すると、七尾は理不尽を突きつけられたのだ。その原因を忌み嫌うのは当然のことだ。予定の取り消しを連絡することさえ、忌まわしいということなのだ。
『星子、ちゃんと楽しんでくるんだよ』
叔父から、何かあればと封筒を渡されている。叔父は昨晩は酒を飲まず、服装やアクセサリーから吟味していた。
自身から放たれる爽花の香りが垢じみた空気に溶け入っていく。
七尾が想いを寄せる相手によく似合うピンク色のシフォン素材が座面から雪崩れ落ちていく。小振りな花柄が消えていく。
似合わなかったのだろうか。陰から一目見て、隣を歩くことを厭い、帰ってしまったのだろうか。
ピンク色のワンピースは、咲菜のような美少女には似合う。彼女はピンク色に負けない。フリルやレースに呑まれない。リボンを御せる。
『すごく似合っているね』
叔父は口が上手い。相手を錯覚させる力を持っている。ゆえに外貌と相俟って艶福に富んでいるのかもしれない。真に受けてしまった。真に受けたかったのだ。
『けれど、あの向日葵のワンピースはいいのかい?』
『いいんです。七尾くんは多分、こっちのほうが好きだから……』
『気に入っていたのにね』
叔父の下がった眉が今になって脳裏に焼き付いた。
「へへ……」
星子はピンク色を掴んだ。
待ち合わせの時間から45分が経つ。首が重くなった。ネックレスを外す。小振りなリボンが揺れる。耳も重くなった。花の飾りがついたノンホールピアスを外す。指も重くなった。工業製品の部品のような指輪を外す。腕が重い。ビーズのブレスレットを外す。踵が痛くなった。ヒールのある靴から一度足を抜く。
たなばた祭りと同じだ。慣れないもので着飾り、悔いている。
プランパーで痛めつけ、程良く腫れ上がった唇が乾いていく。
今やネイルシールさえ重く、端末を持つのも煩わしくなっていた。
肩口で惑うオーロラ光沢のシュシュも外し、手首に嵌めた。
60分が経った。連絡はない。既読の印もついていない。
[お店回――]
打ち込み、削除キーを連打する。
星子はベンチから尻を上げた。中敷きに叩きつけられる踵がまだ休憩を求めていたが、星子は店内を歩く。珍しいものはない。通い慣れたところだった。最近リニューアルして、女性向けの店がさらに増えていた。
ペットショップで犬猫を眺め、
本屋を歩き、奇々怪々な雑貨屋を散策し、オープンして間もない文具雑貨屋を逍遥(しょうよう)する。既読は待ち合わせの時間から95分経ってもついていなかった。
施設を1周し、靴を引き摺りながらフードコートに戻ってくる。昼食時を過ぎると席は空いていた。カウンター席ではスーツ姿の女性がPC作業をしながらペッパーランチを食っていたし、テーブル席では若者がアイスを放置しゲームしている。ボックス席では中年女性がコーヒーを片手に神妙な語らいに耽っていた。
待ち合わせの時間から約2時間が経っていた。相変わらず既読の印はつかない。
七尾の身に何かあったのではあるまいか。
人里離れた席に座り、端末と睨み合う。
[七尾くん、大丈夫?]
テキスト欄に打ち込んだ。だがまだ削除キーを押した。もし彼の身に何かあったのならば返信している場合ではない。端末を握り締める。七尾の身に何かあったなら……
近くの店で呼び出し音が鳴った。マキシバーガーだった。注文した客がトレーを受け取っている。
『でも憧れるよね。手繋いでさ、放課後にマキシバーガーなんて行っちゃって、ポテトを"あーん"って食べさせ合いっこするの』
これは復讐なのかもしれなかった。1度目の約束を星子は当日直前に反故にした。
『ポテト"あ~ん"まで楽しく待っとけ』
笑っていた姿と、悄然とした背中が交互に目蓋の裏を明滅する。
七尾は来ないのだ。2時間経とうが、3時間待とうが、来ない。
星子はマキシバーガーでポテトを頼んだ。
油を吸いすぎて萎れたポテトは、いつもより塩の味が濃かった。
「早い解散だったね」
叔父の車に乗り込む。
叔父はレストラン街で昼食を摂ってから映画を観て、この商業施設の駐車場に建った銭湯施設に入るという話だった。だが星子が連絡を入れたとき、叔父は映画を観終え、外の喫茶店にいたらしい。迎えは大して待たなかった。
「結構色々、やれましたよ」
嘘ではなかった。"絶叫!恐怖のお化け屋敷"に入り、"出張・海のイキモノ展"を回ることもできた。咲菜の集めている雨傘ストラップのカプセルトイも数度試した。
「楽しかったかい」
「はい。あの、お金……使わなかったので返します」
事前に渡されていた封筒を運転席に差し出す。
「いいよ。持っていなさい。また使うだろうから……」
「でも……」
「また七尾くんや咲菜ちゃんとお出掛けするときに使うといい。アクセサリーやお化粧にかかるだろうから……」
ルームミラーを介して叔父と目が合った。艷冶(えんや)な印象を与える目が眇められる。
星子は目を逸らしてしまった。
「ピアス、落としちゃったのかい」
「い、いいえ…、落としそうだから、取ったんです……」
シートに座り直し、シートベルトを引く。
「七尾くん、自分で帰れるって話だったけれど……自転車で来たわけではないよね?」
帰る方角の空が無彩色に覆われていた。
「え! はい……」
七尾も送ると叔父はメッセージで来ていたが、星子が断った。何故なら七尾はいないのだ。不在の人間をどう送るというのか。
「そうかい。それなら帰るよ」
「お願いします」
車が発進する。ラジオからアナウンサーの戯けた口調が聞こえてくる。
「お昼は何を食べたのかな」
ウィンカーの音が叔父の声をさらに良く聞こえさせた。
「マキシバーガーです」
「そう。それなら夕食はどこか食べに行こうか」
「叔父さんは何を……?」
「ボクはお蕎麦」
「昨日買ったお肉が今日までで……もし叔父さんが嫌でなければ……」
「ボクは嫌ではないけれど、疲れてしまうだろう」
「いいえ……ちょっとお外に長くいたので、少し緊張状態なものですから……」
「そうかい。それなら、途中でコンビニに寄らせておくれ。食後のデザートやジュースを買おう」
ワンピースを脱ぎ、部屋着に着替える。顔を洗い、化粧を落とした。髪を解き、櫛を通す。ネイルシールを剥がしてから台所に向かった。
冷蔵庫の牛肉を取り出す。立ち読みした雑誌に「美味しい牛肉の焼き方」「美味しいヘルシーな牛肉ソースの作り方」が書かれていた。ちょうど買い置きしてある野菜や調味料で事足りる。
ビーズカーテンを掻き分け、叔父が台所に首を突き出した。
「何か手伝おうか」
叔父は何でも卒なくこなすが、料理だけは壊滅的だった。包丁を握らせれば指を切り、卵を割らせれば粉砕し、焼かせれば焦がすか肌を焼く。
「大丈夫ですよ。座っていてください」
牛肉を常温に戻す間、星子は部屋にいた。洗濯機も回したばかりだった。
外出時の鞄のなかの荷解きをしていると、端末が震える。テキストメッセージの長さではなかった。音声通話の着信だった。星子は咲菜に渡すカプセルトイを置くと、画面を覗く。七尾からだ。
心臓が跳ねた。鼓動が速くなる。息が間に合わない。
受話器を取るアイコンと置くアイコンを凝らす。今日一日マスカラを持ち上げていた目蓋が眼球を乾かす。
星子は目を泳がせた。絶交を告げられたとき、彼女はどうしたらいいのか分からなかった。
端末の振動が呼吸を呑んでいく。軈(やが)て止まった。しかし新たな律動を以ってもう一度震えた。画面にメッセージの一部が表示される。
星子は中身を開いた。
[ごめん星子。でもどうしても会いたい]
臓物のすべてを床にぶち撒けてしまうほどの溜息が漏れ出た。
[もうおうち帰ってきちゃった]
待ち合わせの時間からすでに6時間近く経っている。
送った瞬間に既読の印がつく。
[今お前の家の外にいる]
星子は眉を顰めた。そして跳び上がり、窓を開いた。驟雨(しゅうう)に荒らされた道路が見える。水溜りが電線と斑模様を映している。その傍に七尾が立っていた。目が合った。
星子は思わず窓を閉めてしまった。七尾が外にいた。七尾が外にいる。待ち合わせは6時間前、ヴィオンのフードコート前で間違いないはずだ。
玄関へ走る。
「どうしたんだいっ!」
リビングでソファーに身を沈めていた叔父も飛び起きた。
「七尾くんが来てて!」
玄関扉を開ける。サンダルに爪先を突っ込み、庭へ走ると自転車と一緒に佇む七尾がいた。白地にブラウン糸のアウトステッチの半袖シャツが日焼けした肌によく似合っていた。紺色のテーラーワイドパンツも柔らかな印象を醸している。肩や裾が濡れているようだった。
「ごめんな」
三白眼が優しい。
「事故とか急病じゃなくて、良かったよ……」
「怒れよ」
「……な、なんで来てくれなかった……の……」
星子は俯いた。
「入ってもらいなさい」
叔父も出てきた。
「自転車はそこガレージに置くといい。また雨が降るみたいだから」
七尾は頭を下げた。
「叔父さんにも謝らないといけないことがあります」
「話なら中で聞くよ」
「靴下も服も濡れているので、汚してしまいます」
「服はボクのを着られるよね。おいで。ボクはちょっとコンビニに行ってくるから……星子、お洋服出してあげて」
叔父はそのまま車へと向かっていった。
「ごめんな」
七尾はもう一度謝った。
「と、とりあえず中、入って。叔父さんの服を出してくるから……」
七尾を風呂場に案内する。彼は足を洗い流していた。その間にタオルと着替えを用意する。
リビングで待っていると、叔父の服を着た七尾が現れる。
「本当に……悪かった」
「いいよ」
「怒ってくれ。お前にはその権利がある」
「前にドタキャンしたの、わたしだし……」
「それは関係ない」
七尾のコーラ飴に昨日の滾(たぎ)りは見えなかった。
「座って」
しかし彼はソファーではなく床に腰を下ろした。
「何か飲む?」
「いい……」
星子は七尾の右腕の青黒い汚れに気付いた。妹の絵の具遊びかと思った。だが右腕だけが戦慄いていた。左腕は拳を作り、整然と膝の上にある。
星子は麦茶を入れてから、その右腕を盗み見た。汚れではない。皮膚の下から染まっている。3本の線が滲むような模様をしている。叔父の借りてくるB級ホラー映画「蜴病(えきびょう)」の感染性の呪詛に似ていた。
「え」
だがB級ホラー映画だ。虚構だ。フィクションだ。実在するはずはない。だが七尾の右腕には感染性の呪詛と同じ徴(しるし)が刻まれている。昨日はなかったようだ。七尾はあと7日以内にテキストメッセージか、或いは口頭で"蜴病"について誰かに知らさなければならない。
「な、七尾くん……」
実在するはずはない。映画だ。創りものだ。しかし、"蜴病"なる者を視聴者に無作為に感染させるため制作れたのだとしたら……
「こ、この痣、な………何………」
「あ……いや、それは………」
「だ、大丈夫。大丈夫……ちゃんと、話して……」
映画版「蜴病」の主人公の結末は明言されなかった。だがおそらくは助からなかった。小説版「蜴病-パンデミック-」の主人公は自決を選んだ。ドラマCD版「蜴病-忍び寄る青痣-」の主人公は視聴者に感染させ難を逃れたことが示唆されている。
「いや……でも……」
七尾には助けられてばかりいる。七尾は人気者だ。七尾を喪い悲しむ者は数知れない。弟想いの姉がいて、兄によく懐いている妹がいる。母親も苦労をしたようだ。クラスメイトたちも月也も彼を慕っている。ところが星子はどうだ。叔父を養育の負担から解放できる。利があるだけだ。
蜥蜴女と対峙しなければならない恐怖があるだけだ。長い髪を垂らし、白い襤褸布を身に纏った怪女だ。
だが映画で見た蜥蜴女は、締切を破った人間たちの肩を小突いたりはしなかった。巨大な蛞蝓の夢を植え付けたりもしない。
「ちゃんと話して。大丈夫だから。わたし、平気……本当だよ」
星子は七尾の痣を見詰めた。撫でると、彼は痛がった。
「あ、ごめん……」
どの媒体でも、この青痣に触れられ、痛がる描写はなかった。そのために登場人物の皆々はただの痣でないことに気付くのだった。しかし彼は痛がっている。「蜴病」が現実で起きるとしたら、それは痛みを伴うのかもしれない。
「湿布、貼ろうか……」
救急箱を取り出し、湿布を貼る。包帯を手に取った。
「ただの痣だから……」
「た、ただの痣……? ほ、本当に……? 違うよね……?」
それは「蜴病」なのだ! 打ち明けなければ彼は死んでしまう!
漫画版「蜴病」に、この呪いが二重にかかることはすでに証明されていた。
七尾の葛藤に燃えているに違いない焦げ茶色を見詰める。
「……」
彼は優しいのだ。そして強いのだ。そのためにひとりで背負ってしまうのだ。耐えることができてしまうのだ。
だが強ければ、耐えさせていいのだろうか。気付いていながら、背負わせていていいのだろうか。
以前見てしまった、疲れた笑みがドリルよろしく胸を突く。
「お願い」
星子はレバーを思わせるローズブラウンの服に縋りついた。長身痩躯の叔父を包む布の胸元が、今は胸筋を浮かしている。
「……駐車場で、目の前を妊婦さんが歩いてて、転んだ」
「え」
「すごい痛がって、救急車呼んだんだけど、そうしたら産まれそうって言われて腕掴まれた」
「え、え……」
「で、腕掴まれたままだったから、救急車一緒に乗ることになった」
星子は手の中にある腕を見下ろした。日焼けした肌と湿布の明暗が強い。
「来れなかったのは……」
「病院まで付き添って、旦那さんが来るの待ってた」
「……そうだったんだ。わたし……てっきり、昨日のこと………怒ってるのかと思って」
「は」
「わたしのせいで七尾くん、鷲羽(わしゅう)さんたちから嫌なこと言われたし……」
それだけでなく、一度は謝らせた人たちに謝りに行かなければならない事態にまで発展した。
「それでなんで星子に怒るんだ」
「わたしがちゃんと、してなかったから……」
「は?」
「怒ってないならいいの。怒ってないなら……」
「怒ってねーよ。お前のことちゃんとできなかった自分にムカついてただけ。お前は何も悪くない」
「七尾くんに嫌われちゃったかもって、怖かったの。昨日のことすごく嬉しかったのにちゃんと伝えられなかった。七尾くんのこと傷付けちゃったかもって思って……」
「ああー、マジで今日来てよかった。本当に………マジで………」
彼は呻き、そして脱力した。
星子もまた身体から力が抜けた。七尾は怒っていなかった。そして痣は呪いではなかった。
そのうち、叔父が帰ってきた。
「牛さんは明日食べよう、星子。ピザを買ってきたから、みんなで食べよう。七尾くん、大丈夫かな」
「すみません。ごちそうになります」
「うふふ、いいよ」
叔父は微笑こそ浮かべていたが、星子の知る柔らかさは失せていた。
「叔父さん」
七尾の身体は回転椅子に乗っているかのように叔父の動きに合わせて回っていく。
叔父は買ってきたものを冷蔵庫に移していた。そしてビーズカーテンから出てきた。
「それで、ボクにお話があるんだったよね」
缶ジュースを2つ開け、星子と七尾の前に出す。
「僕は、星子さんとのデートの約束を破りました」
叔父がローテーブルの対面に腰を下ろす前に、七尾は言い切ってしまった。
「あ、でも、それは……」
星子は口を挟もうとしたが、七尾に一瞥されてしまう。星子と2人の間には透明な壁があった。触れたならば電流に身を縛られる。
「何故」
叔父の微笑が消える。たった2音の響きだというのに彼は雄弁だった。
「急用ができたからです」
「星子より優先するような急用かい」
「はい」
叔父は星子を見た。
「違います!」
七尾の手が、星子を制する。
「うちの星子はね、いつも可愛いけれど、今日はとびきり可愛かったんだよ。そんな子が1人で歩き回って、悪い男にナンパなんてされていたらどうするの」
「すみませんでした」
彼は鼻先が机上で潰れるほど頭を伏せる。
「いつもはやらない三つ編みでね、カールが残っているだろう? 昨晩からトリートメントしてさ。ワンピースに合わせた口紅がすごく似合っていたんだよ。耳飾りも首飾りもすごく似合ってた。星子は元々可愛いのにね……? これが誰のためだったか、分かるだろうね。1人で4時間も5時間もいたのが、誰のためだったか……」
七尾の首が叔父から星子を向いた。星子の胸を掘鑿(くっさく)する顔をしていた。
「そんなに……」
彼に帰りの連絡を入れていなかったことを思い出す。
「どういう急用なんだい。差し支えなければ教えてくれるかな」
先程星子も聞いた経緯が語られる。
クーラーが空気を冷やしていく。叔父の長い髪を揺らして遊んでいる。頭を下げ下げたままの七尾の頬に息を吹いて嘲笑っている。星子の喉を灼いていく。
「一個人の感情と、家族としての感情が、どうしても相容れないことがある」
何年でも頭を下げ続けてしまいそうな七尾が、何年でも腕を組み、相手を睨みつけ続けてしまいそうな叔父を窺った。
「ボクの妻は出産時の事故で亡くなっているんだよ。胎児もろともね。だから一個人的には、君のことを責められない。むしろ、他人事なのに、"ありがとう"とさえ思うよ」
叔父の眉が歪む。叔父は若いうちに結婚した。いとこが生まれると知ったとき、星子は嬉しかった。だがいとこには会えなかった。
七尾の熱いコーラ飴を、星子は横から見ていた。
「ただ、ボクはこの子の家族なんだよ。どんな事情があったにせよ、この子が傷付けられたら悲しいんだ。この子が蔑ろにされたなら赦せない。この子が裏切られるようなことがあるのなら、ボクはそいつを地獄の果てまで追いかけ回す。追いかけ回して、生まれた先でも一生付き纏うよ」
「叔父さんの怒りは当然です」
七尾はまた頭を下げた。
叔父の目は鋭い。今にもその目が、七尾の項(うなじ)めがけて斧を振り下ろしそうだった。
「あ、お、叔父さん……! 叔父さん、わたしは傷付いてないです。わたしは優しくて強い七尾くんのこと、誇りに思ってます。送り迎えしてくれた叔父さんには迷惑かけちゃったけれど、わたしは、そんな七尾くんがお友達で、そんな七尾くんのこと待ってたこと、誇りに思ってます……」
叔父のしょぼついた目が何度か屡瞬(しばたた)かれ、星子を見る。七尾もまた、驚いた様子で彼女を捉えた。
「七尾くんは、わたしのために怒って、落ち込んじゃう人だから……きっとすごく、苦しかったと思うから、平気です……」
凍てついていた叔父の表情が徐々に常温に戻されていく。雨天だというのにやはり夏は蒸し暑く、過労状態のクーラーは十分に仕事をしない。
「それに、最初にドタキャンしたのは、わたしのほうで――」
「それは関係ない!」
七尾が叫んだ。
叔父が笑う。
「お互い様というわけかい。じゃあ両成敗だな。ボクに付き合ってもらおう。3人でエーゲアンビーチ行こうか。ボクは"おぢさん"だから温泉だけどね……予定を空けておきなさい。その日にお迎えに行くから……」
「……すみません……」
「水着はあるね?」
「はい」
「よろしい。じゃあ星子、可愛い水着を買いに行こうね。あまり可愛い水着は、心配になるけれど……まぁ、七尾くんがいるんじゃ大丈夫かな」
叔父は腰を上げ、脇に置いていたビニール袋から次々と惣菜を並べた。
「お食べなさい。星子、食べられるね?」
カットフルーツやそうめんが星子の前に押し出される。この頃食欲が湧かないことを見破られている。
「はい」
「でも、呪いじゃなくて良かった」
星子は小さく切られたピザを口に入れてみた。腹の奥から蛞蝓の迫り上がってくる感覚はなかった。
「なんだ、"呪い"って」
七尾がジュースの缶を呷る。叔父も興味深そうだった。
「腕の痣……昔見た映画に似てたの」
「腕の痣……ああ、"蜴病"だね。ホラー映画」
叔父は七尾の湿布を見遣る。
「ホ、ホラー映画……?」
「観てみるかい。観てみよう。観るしかないよ。ピザもコーラもあるのだからね。ちょっと待っていてね。"蜴病"はどこにあったかな」
叔父はテレビを点け、明かりを消すとリビングを出ていった。
「星子、お前ホラー映画観れるのか」
「うん」
七尾は目を逸らした。咲菜と同じ反応をする。
「苦手……?」
「星子と一緒なら、観れる……かも」
[明日よろしくな]
星子(しょうこ)はストラップ型の時計を見た。待ち合わせの時間になっても七尾は来ない。
市内の大型商業施設は何度も来たことがある。だが七尾とは初めてだった。そして連日開催されているらしい期間限定のイベントにも参加したことはなかった。
近くでも夏祭りがあるようで、浴衣姿が頻繁に行き交っている。
星子はフードコートの傍に立っていた。席が次々と埋まっていく。30分が経つと、星子は通路に置かれたベンチに座った。そしてその旨をメッセージに送った。到着の報告にも既読の印はつかない。
昨晩までは覚えていたようだが、朝になって忘れてしまったのだろうか。
『じゃあ、マジで今度こそ、絶対……デートしろ、俺と』
『今度こそ、本気で……楽しみにしてるから』
七尾の声が甦る。だが七尾の声で作り変えた記憶のような気もした。
「へへへ……」
昨日の様子を思い出してみるがいい。怒っていた。月也の言っていたことを加味すると、七尾は理不尽を突きつけられたのだ。その原因を忌み嫌うのは当然のことだ。予定の取り消しを連絡することさえ、忌まわしいということなのだ。
『星子、ちゃんと楽しんでくるんだよ』
叔父から、何かあればと封筒を渡されている。叔父は昨晩は酒を飲まず、服装やアクセサリーから吟味していた。
自身から放たれる爽花の香りが垢じみた空気に溶け入っていく。
七尾が想いを寄せる相手によく似合うピンク色のシフォン素材が座面から雪崩れ落ちていく。小振りな花柄が消えていく。
似合わなかったのだろうか。陰から一目見て、隣を歩くことを厭い、帰ってしまったのだろうか。
ピンク色のワンピースは、咲菜のような美少女には似合う。彼女はピンク色に負けない。フリルやレースに呑まれない。リボンを御せる。
『すごく似合っているね』
叔父は口が上手い。相手を錯覚させる力を持っている。ゆえに外貌と相俟って艶福に富んでいるのかもしれない。真に受けてしまった。真に受けたかったのだ。
『けれど、あの向日葵のワンピースはいいのかい?』
『いいんです。七尾くんは多分、こっちのほうが好きだから……』
『気に入っていたのにね』
叔父の下がった眉が今になって脳裏に焼き付いた。
「へへ……」
星子はピンク色を掴んだ。
待ち合わせの時間から45分が経つ。首が重くなった。ネックレスを外す。小振りなリボンが揺れる。耳も重くなった。花の飾りがついたノンホールピアスを外す。指も重くなった。工業製品の部品のような指輪を外す。腕が重い。ビーズのブレスレットを外す。踵が痛くなった。ヒールのある靴から一度足を抜く。
たなばた祭りと同じだ。慣れないもので着飾り、悔いている。
プランパーで痛めつけ、程良く腫れ上がった唇が乾いていく。
今やネイルシールさえ重く、端末を持つのも煩わしくなっていた。
肩口で惑うオーロラ光沢のシュシュも外し、手首に嵌めた。
60分が経った。連絡はない。既読の印もついていない。
[お店回――]
打ち込み、削除キーを連打する。
星子はベンチから尻を上げた。中敷きに叩きつけられる踵がまだ休憩を求めていたが、星子は店内を歩く。珍しいものはない。通い慣れたところだった。最近リニューアルして、女性向けの店がさらに増えていた。
ペットショップで犬猫を眺め、
本屋を歩き、奇々怪々な雑貨屋を散策し、オープンして間もない文具雑貨屋を逍遥(しょうよう)する。既読は待ち合わせの時間から95分経ってもついていなかった。
施設を1周し、靴を引き摺りながらフードコートに戻ってくる。昼食時を過ぎると席は空いていた。カウンター席ではスーツ姿の女性がPC作業をしながらペッパーランチを食っていたし、テーブル席では若者がアイスを放置しゲームしている。ボックス席では中年女性がコーヒーを片手に神妙な語らいに耽っていた。
待ち合わせの時間から約2時間が経っていた。相変わらず既読の印はつかない。
七尾の身に何かあったのではあるまいか。
人里離れた席に座り、端末と睨み合う。
[七尾くん、大丈夫?]
テキスト欄に打ち込んだ。だがまだ削除キーを押した。もし彼の身に何かあったのならば返信している場合ではない。端末を握り締める。七尾の身に何かあったなら……
近くの店で呼び出し音が鳴った。マキシバーガーだった。注文した客がトレーを受け取っている。
『でも憧れるよね。手繋いでさ、放課後にマキシバーガーなんて行っちゃって、ポテトを"あーん"って食べさせ合いっこするの』
これは復讐なのかもしれなかった。1度目の約束を星子は当日直前に反故にした。
『ポテト"あ~ん"まで楽しく待っとけ』
笑っていた姿と、悄然とした背中が交互に目蓋の裏を明滅する。
七尾は来ないのだ。2時間経とうが、3時間待とうが、来ない。
星子はマキシバーガーでポテトを頼んだ。
油を吸いすぎて萎れたポテトは、いつもより塩の味が濃かった。
「早い解散だったね」
叔父の車に乗り込む。
叔父はレストラン街で昼食を摂ってから映画を観て、この商業施設の駐車場に建った銭湯施設に入るという話だった。だが星子が連絡を入れたとき、叔父は映画を観終え、外の喫茶店にいたらしい。迎えは大して待たなかった。
「結構色々、やれましたよ」
嘘ではなかった。"絶叫!恐怖のお化け屋敷"に入り、"出張・海のイキモノ展"を回ることもできた。咲菜の集めている雨傘ストラップのカプセルトイも数度試した。
「楽しかったかい」
「はい。あの、お金……使わなかったので返します」
事前に渡されていた封筒を運転席に差し出す。
「いいよ。持っていなさい。また使うだろうから……」
「でも……」
「また七尾くんや咲菜ちゃんとお出掛けするときに使うといい。アクセサリーやお化粧にかかるだろうから……」
ルームミラーを介して叔父と目が合った。艷冶(えんや)な印象を与える目が眇められる。
星子は目を逸らしてしまった。
「ピアス、落としちゃったのかい」
「い、いいえ…、落としそうだから、取ったんです……」
シートに座り直し、シートベルトを引く。
「七尾くん、自分で帰れるって話だったけれど……自転車で来たわけではないよね?」
帰る方角の空が無彩色に覆われていた。
「え! はい……」
七尾も送ると叔父はメッセージで来ていたが、星子が断った。何故なら七尾はいないのだ。不在の人間をどう送るというのか。
「そうかい。それなら帰るよ」
「お願いします」
車が発進する。ラジオからアナウンサーの戯けた口調が聞こえてくる。
「お昼は何を食べたのかな」
ウィンカーの音が叔父の声をさらに良く聞こえさせた。
「マキシバーガーです」
「そう。それなら夕食はどこか食べに行こうか」
「叔父さんは何を……?」
「ボクはお蕎麦」
「昨日買ったお肉が今日までで……もし叔父さんが嫌でなければ……」
「ボクは嫌ではないけれど、疲れてしまうだろう」
「いいえ……ちょっとお外に長くいたので、少し緊張状態なものですから……」
「そうかい。それなら、途中でコンビニに寄らせておくれ。食後のデザートやジュースを買おう」
ワンピースを脱ぎ、部屋着に着替える。顔を洗い、化粧を落とした。髪を解き、櫛を通す。ネイルシールを剥がしてから台所に向かった。
冷蔵庫の牛肉を取り出す。立ち読みした雑誌に「美味しい牛肉の焼き方」「美味しいヘルシーな牛肉ソースの作り方」が書かれていた。ちょうど買い置きしてある野菜や調味料で事足りる。
ビーズカーテンを掻き分け、叔父が台所に首を突き出した。
「何か手伝おうか」
叔父は何でも卒なくこなすが、料理だけは壊滅的だった。包丁を握らせれば指を切り、卵を割らせれば粉砕し、焼かせれば焦がすか肌を焼く。
「大丈夫ですよ。座っていてください」
牛肉を常温に戻す間、星子は部屋にいた。洗濯機も回したばかりだった。
外出時の鞄のなかの荷解きをしていると、端末が震える。テキストメッセージの長さではなかった。音声通話の着信だった。星子は咲菜に渡すカプセルトイを置くと、画面を覗く。七尾からだ。
心臓が跳ねた。鼓動が速くなる。息が間に合わない。
受話器を取るアイコンと置くアイコンを凝らす。今日一日マスカラを持ち上げていた目蓋が眼球を乾かす。
星子は目を泳がせた。絶交を告げられたとき、彼女はどうしたらいいのか分からなかった。
端末の振動が呼吸を呑んでいく。軈(やが)て止まった。しかし新たな律動を以ってもう一度震えた。画面にメッセージの一部が表示される。
星子は中身を開いた。
[ごめん星子。でもどうしても会いたい]
臓物のすべてを床にぶち撒けてしまうほどの溜息が漏れ出た。
[もうおうち帰ってきちゃった]
待ち合わせの時間からすでに6時間近く経っている。
送った瞬間に既読の印がつく。
[今お前の家の外にいる]
星子は眉を顰めた。そして跳び上がり、窓を開いた。驟雨(しゅうう)に荒らされた道路が見える。水溜りが電線と斑模様を映している。その傍に七尾が立っていた。目が合った。
星子は思わず窓を閉めてしまった。七尾が外にいた。七尾が外にいる。待ち合わせは6時間前、ヴィオンのフードコート前で間違いないはずだ。
玄関へ走る。
「どうしたんだいっ!」
リビングでソファーに身を沈めていた叔父も飛び起きた。
「七尾くんが来てて!」
玄関扉を開ける。サンダルに爪先を突っ込み、庭へ走ると自転車と一緒に佇む七尾がいた。白地にブラウン糸のアウトステッチの半袖シャツが日焼けした肌によく似合っていた。紺色のテーラーワイドパンツも柔らかな印象を醸している。肩や裾が濡れているようだった。
「ごめんな」
三白眼が優しい。
「事故とか急病じゃなくて、良かったよ……」
「怒れよ」
「……な、なんで来てくれなかった……の……」
星子は俯いた。
「入ってもらいなさい」
叔父も出てきた。
「自転車はそこガレージに置くといい。また雨が降るみたいだから」
七尾は頭を下げた。
「叔父さんにも謝らないといけないことがあります」
「話なら中で聞くよ」
「靴下も服も濡れているので、汚してしまいます」
「服はボクのを着られるよね。おいで。ボクはちょっとコンビニに行ってくるから……星子、お洋服出してあげて」
叔父はそのまま車へと向かっていった。
「ごめんな」
七尾はもう一度謝った。
「と、とりあえず中、入って。叔父さんの服を出してくるから……」
七尾を風呂場に案内する。彼は足を洗い流していた。その間にタオルと着替えを用意する。
リビングで待っていると、叔父の服を着た七尾が現れる。
「本当に……悪かった」
「いいよ」
「怒ってくれ。お前にはその権利がある」
「前にドタキャンしたの、わたしだし……」
「それは関係ない」
七尾のコーラ飴に昨日の滾(たぎ)りは見えなかった。
「座って」
しかし彼はソファーではなく床に腰を下ろした。
「何か飲む?」
「いい……」
星子は七尾の右腕の青黒い汚れに気付いた。妹の絵の具遊びかと思った。だが右腕だけが戦慄いていた。左腕は拳を作り、整然と膝の上にある。
星子は麦茶を入れてから、その右腕を盗み見た。汚れではない。皮膚の下から染まっている。3本の線が滲むような模様をしている。叔父の借りてくるB級ホラー映画「蜴病(えきびょう)」の感染性の呪詛に似ていた。
「え」
だがB級ホラー映画だ。虚構だ。フィクションだ。実在するはずはない。だが七尾の右腕には感染性の呪詛と同じ徴(しるし)が刻まれている。昨日はなかったようだ。七尾はあと7日以内にテキストメッセージか、或いは口頭で"蜴病"について誰かに知らさなければならない。
「な、七尾くん……」
実在するはずはない。映画だ。創りものだ。しかし、"蜴病"なる者を視聴者に無作為に感染させるため制作れたのだとしたら……
「こ、この痣、な………何………」
「あ……いや、それは………」
「だ、大丈夫。大丈夫……ちゃんと、話して……」
映画版「蜴病」の主人公の結末は明言されなかった。だがおそらくは助からなかった。小説版「蜴病-パンデミック-」の主人公は自決を選んだ。ドラマCD版「蜴病-忍び寄る青痣-」の主人公は視聴者に感染させ難を逃れたことが示唆されている。
「いや……でも……」
七尾には助けられてばかりいる。七尾は人気者だ。七尾を喪い悲しむ者は数知れない。弟想いの姉がいて、兄によく懐いている妹がいる。母親も苦労をしたようだ。クラスメイトたちも月也も彼を慕っている。ところが星子はどうだ。叔父を養育の負担から解放できる。利があるだけだ。
蜥蜴女と対峙しなければならない恐怖があるだけだ。長い髪を垂らし、白い襤褸布を身に纏った怪女だ。
だが映画で見た蜥蜴女は、締切を破った人間たちの肩を小突いたりはしなかった。巨大な蛞蝓の夢を植え付けたりもしない。
「ちゃんと話して。大丈夫だから。わたし、平気……本当だよ」
星子は七尾の痣を見詰めた。撫でると、彼は痛がった。
「あ、ごめん……」
どの媒体でも、この青痣に触れられ、痛がる描写はなかった。そのために登場人物の皆々はただの痣でないことに気付くのだった。しかし彼は痛がっている。「蜴病」が現実で起きるとしたら、それは痛みを伴うのかもしれない。
「湿布、貼ろうか……」
救急箱を取り出し、湿布を貼る。包帯を手に取った。
「ただの痣だから……」
「た、ただの痣……? ほ、本当に……? 違うよね……?」
それは「蜴病」なのだ! 打ち明けなければ彼は死んでしまう!
漫画版「蜴病」に、この呪いが二重にかかることはすでに証明されていた。
七尾の葛藤に燃えているに違いない焦げ茶色を見詰める。
「……」
彼は優しいのだ。そして強いのだ。そのためにひとりで背負ってしまうのだ。耐えることができてしまうのだ。
だが強ければ、耐えさせていいのだろうか。気付いていながら、背負わせていていいのだろうか。
以前見てしまった、疲れた笑みがドリルよろしく胸を突く。
「お願い」
星子はレバーを思わせるローズブラウンの服に縋りついた。長身痩躯の叔父を包む布の胸元が、今は胸筋を浮かしている。
「……駐車場で、目の前を妊婦さんが歩いてて、転んだ」
「え」
「すごい痛がって、救急車呼んだんだけど、そうしたら産まれそうって言われて腕掴まれた」
「え、え……」
「で、腕掴まれたままだったから、救急車一緒に乗ることになった」
星子は手の中にある腕を見下ろした。日焼けした肌と湿布の明暗が強い。
「来れなかったのは……」
「病院まで付き添って、旦那さんが来るの待ってた」
「……そうだったんだ。わたし……てっきり、昨日のこと………怒ってるのかと思って」
「は」
「わたしのせいで七尾くん、鷲羽(わしゅう)さんたちから嫌なこと言われたし……」
それだけでなく、一度は謝らせた人たちに謝りに行かなければならない事態にまで発展した。
「それでなんで星子に怒るんだ」
「わたしがちゃんと、してなかったから……」
「は?」
「怒ってないならいいの。怒ってないなら……」
「怒ってねーよ。お前のことちゃんとできなかった自分にムカついてただけ。お前は何も悪くない」
「七尾くんに嫌われちゃったかもって、怖かったの。昨日のことすごく嬉しかったのにちゃんと伝えられなかった。七尾くんのこと傷付けちゃったかもって思って……」
「ああー、マジで今日来てよかった。本当に………マジで………」
彼は呻き、そして脱力した。
星子もまた身体から力が抜けた。七尾は怒っていなかった。そして痣は呪いではなかった。
そのうち、叔父が帰ってきた。
「牛さんは明日食べよう、星子。ピザを買ってきたから、みんなで食べよう。七尾くん、大丈夫かな」
「すみません。ごちそうになります」
「うふふ、いいよ」
叔父は微笑こそ浮かべていたが、星子の知る柔らかさは失せていた。
「叔父さん」
七尾の身体は回転椅子に乗っているかのように叔父の動きに合わせて回っていく。
叔父は買ってきたものを冷蔵庫に移していた。そしてビーズカーテンから出てきた。
「それで、ボクにお話があるんだったよね」
缶ジュースを2つ開け、星子と七尾の前に出す。
「僕は、星子さんとのデートの約束を破りました」
叔父がローテーブルの対面に腰を下ろす前に、七尾は言い切ってしまった。
「あ、でも、それは……」
星子は口を挟もうとしたが、七尾に一瞥されてしまう。星子と2人の間には透明な壁があった。触れたならば電流に身を縛られる。
「何故」
叔父の微笑が消える。たった2音の響きだというのに彼は雄弁だった。
「急用ができたからです」
「星子より優先するような急用かい」
「はい」
叔父は星子を見た。
「違います!」
七尾の手が、星子を制する。
「うちの星子はね、いつも可愛いけれど、今日はとびきり可愛かったんだよ。そんな子が1人で歩き回って、悪い男にナンパなんてされていたらどうするの」
「すみませんでした」
彼は鼻先が机上で潰れるほど頭を伏せる。
「いつもはやらない三つ編みでね、カールが残っているだろう? 昨晩からトリートメントしてさ。ワンピースに合わせた口紅がすごく似合っていたんだよ。耳飾りも首飾りもすごく似合ってた。星子は元々可愛いのにね……? これが誰のためだったか、分かるだろうね。1人で4時間も5時間もいたのが、誰のためだったか……」
七尾の首が叔父から星子を向いた。星子の胸を掘鑿(くっさく)する顔をしていた。
「そんなに……」
彼に帰りの連絡を入れていなかったことを思い出す。
「どういう急用なんだい。差し支えなければ教えてくれるかな」
先程星子も聞いた経緯が語られる。
クーラーが空気を冷やしていく。叔父の長い髪を揺らして遊んでいる。頭を下げ下げたままの七尾の頬に息を吹いて嘲笑っている。星子の喉を灼いていく。
「一個人の感情と、家族としての感情が、どうしても相容れないことがある」
何年でも頭を下げ続けてしまいそうな七尾が、何年でも腕を組み、相手を睨みつけ続けてしまいそうな叔父を窺った。
「ボクの妻は出産時の事故で亡くなっているんだよ。胎児もろともね。だから一個人的には、君のことを責められない。むしろ、他人事なのに、"ありがとう"とさえ思うよ」
叔父の眉が歪む。叔父は若いうちに結婚した。いとこが生まれると知ったとき、星子は嬉しかった。だがいとこには会えなかった。
七尾の熱いコーラ飴を、星子は横から見ていた。
「ただ、ボクはこの子の家族なんだよ。どんな事情があったにせよ、この子が傷付けられたら悲しいんだ。この子が蔑ろにされたなら赦せない。この子が裏切られるようなことがあるのなら、ボクはそいつを地獄の果てまで追いかけ回す。追いかけ回して、生まれた先でも一生付き纏うよ」
「叔父さんの怒りは当然です」
七尾はまた頭を下げた。
叔父の目は鋭い。今にもその目が、七尾の項(うなじ)めがけて斧を振り下ろしそうだった。
「あ、お、叔父さん……! 叔父さん、わたしは傷付いてないです。わたしは優しくて強い七尾くんのこと、誇りに思ってます。送り迎えしてくれた叔父さんには迷惑かけちゃったけれど、わたしは、そんな七尾くんがお友達で、そんな七尾くんのこと待ってたこと、誇りに思ってます……」
叔父のしょぼついた目が何度か屡瞬(しばたた)かれ、星子を見る。七尾もまた、驚いた様子で彼女を捉えた。
「七尾くんは、わたしのために怒って、落ち込んじゃう人だから……きっとすごく、苦しかったと思うから、平気です……」
凍てついていた叔父の表情が徐々に常温に戻されていく。雨天だというのにやはり夏は蒸し暑く、過労状態のクーラーは十分に仕事をしない。
「それに、最初にドタキャンしたのは、わたしのほうで――」
「それは関係ない!」
七尾が叫んだ。
叔父が笑う。
「お互い様というわけかい。じゃあ両成敗だな。ボクに付き合ってもらおう。3人でエーゲアンビーチ行こうか。ボクは"おぢさん"だから温泉だけどね……予定を空けておきなさい。その日にお迎えに行くから……」
「……すみません……」
「水着はあるね?」
「はい」
「よろしい。じゃあ星子、可愛い水着を買いに行こうね。あまり可愛い水着は、心配になるけれど……まぁ、七尾くんがいるんじゃ大丈夫かな」
叔父は腰を上げ、脇に置いていたビニール袋から次々と惣菜を並べた。
「お食べなさい。星子、食べられるね?」
カットフルーツやそうめんが星子の前に押し出される。この頃食欲が湧かないことを見破られている。
「はい」
「でも、呪いじゃなくて良かった」
星子は小さく切られたピザを口に入れてみた。腹の奥から蛞蝓の迫り上がってくる感覚はなかった。
「なんだ、"呪い"って」
七尾がジュースの缶を呷る。叔父も興味深そうだった。
「腕の痣……昔見た映画に似てたの」
「腕の痣……ああ、"蜴病"だね。ホラー映画」
叔父は七尾の湿布を見遣る。
「ホ、ホラー映画……?」
「観てみるかい。観てみよう。観るしかないよ。ピザもコーラもあるのだからね。ちょっと待っていてね。"蜴病"はどこにあったかな」
叔父はテレビを点け、明かりを消すとリビングを出ていった。
「星子、お前ホラー映画観れるのか」
「うん」
七尾は目を逸らした。咲菜と同じ反応をする。
「苦手……?」
「星子と一緒なら、観れる……かも」