my天の川に流るる
26
手が熱い。火傷はしていないだが爛(ただ)れている感じがあった。しかし心地良かった。握っては開き、握っては開く。クーラーは空気を冷やし続けているが、まだそこに、七尾の体温がある。
心臓が、彼に包まれた四指に移ってしまったのだ。
『七尾くん……』
硬い質感を思い出し、星子は片手を抱いた。
ガーゼケットの下で重なった爪先まで、彼の熱が駆け巡っていく。
◇
終業式の日は、朝から教室が浮ついていた。明日から夏休みが始まるだけでなく、普段よりも早く帰れるのだから、彼等彼女等が浮かれるのも無理はない。
星子もまた、浮足立っていた。帰りに、七尾とマキシバーガーに寄る。学校のすぐ近くにある。
彼女は緊張もしていた。七尾からの誘いだったが、最寄りのマキシバーガーでは顔見知りたちも多く利用しているはずだ。特に今日のような日は、この高校の生徒が客の大半を占めるのではなかろうか。
終業式を終え、星子は運動部の男子と掃除当番を代わった。部活が忙しいのだと言っていた。
掃除場所の中庭に行くと、すでに渚音海(なおみ)ちゃんがいた。男子3人はまた別の近くを担当している他クラスの男子とふざけ合っている。
担当教員に仕事が割り振られ、男子たちは倉庫の片付けになった。
掃除が終わり、星子と渚音海ちゃんは1つずつゴミ袋の口を結んだ。
『ゴミ袋、持っていくよ。ついでだし』
渚音海ちゃんが話しかけられていた。近くを掃除していた他クラスの男子だった。すでにゴミ袋をひとつ担いでいる。
『あ、でも……』
渚音海ちゃんはヘアアイロンで作ったストレートヘアを流し、星子を見遣った。男子も星子と目を合わせ、すぐに逸らした。
『いいよ、ついでだし。重いっしょ』
男子は渚音海ちゃんのゴミ袋にさらに手を差し出す。
容貌の秀でた者は、周りが放っておかないのだ。
「わたしは大丈夫」
渚音海ちゃんの気拙げな表情に笑って返す。
男子は彼女からゴミ袋を奪い取り、両手を塞いでゴミ捨て場に向かう。
星子もゴミ捨て場に向かう。男子は容易に片手ずつ2つ持っていったが、星子は両手を使っても重かった。
「手伝うよ、白川さん」
ゴミを捨てて解散だと言っていたが、渚音海ちゃんはついてきた。そして星子に割り当てられたゴミ袋を半分持った。
「ごめんなさい。ありがとう……」
渚音海ちゃんは背が高かった。生まれつきか、痛みか、茶色を帯びた長い髪は一本の乱れも許さず、風に靡いて艶めく。
「白川さんは夏休み、何かするの?」
渚音海ちゃんが話しかけた。
「プールと、肝試し……かな」
「そうなんだ。1学期、あんまり絡みなかったケド、2学期もよろしくね」
「うん。もちろん。こちらこそ、よろしく……」
渚音海ちゃんは他クラスでも有名な女子だった。廊下ですれ違いざまに彼女の話をしているのを聞く。今し方の男子も鼻を伸ばしていた。
むしろ"よろしく"されるのは星子のほうだ。
「またお昼、一緒に食べようね」
星子は渚音海ちゃんを見上げた。咲菜を介し、さらに鷲羽(わしゅう)さんを介して、渚音海ちゃんたちのような華やかなグループと机を繋げて昼食を摂っていた。添えものだった。星子にとっては、共に昼食を摂っている認識はなかった。だが渚音海ちゃんにとっては違うようだった。
「うん!」
星子は嬉しくなった。
足音が止まる。
「あれ、坂口さんじゃん」
笹森と鉢合わせる。彼は帰るところだったようだ。明るい茶色の瞳が日の光によって、トパーズのような深浅(しんせん)の煌めきを見せる。
「あー、笹森くん。今、帰り?」
「そ。坂口さんは掃除当番?」
「そうなの。じゃあね。また2学期に」
「待ってよ、登校日があるじゃん。ぼくに会わない気ー?」
「そういうわけじゃないケド。じゃあね」
渚音海ちゃんは星子にすまなげな視線をくれて歩き出そうとする。
「いいよ、ゴミ袋持っていってあげる。ぼくは美人さんには弱いからねー?」
渚音海ちゃんは微苦笑を滲ませた。
「誰のこと……?」
「坂口さん以外、いないでしょ。ほら、貸して」
笹森はゴミ袋をあっさりと担いでしまった。
「いいの? 帰るところだったんでしょ」
「結構重いじゃん、これ。他の男子は何してんのよー。まったく、女子に何持たせてんのよー」
「1つは持っていってくれたんだケドね」
笹森と渚音海ちゃんは美男美女で、よく似合っていた。身長差からしても見映えがよかった。表情に富んだ笹森と、凛とした渚音海ちゃんは理想の2人組みのようでさえある。だが星子は咲菜のことを思い出した。親友の恋心を蔑ろにするところだった。
「ありがとう、笹森くん」
「ありがとう……」
星子は渚音海ちゃんの後ろに隠れた。眩しさの直視は目の毒だった。
「いいよ。じゃあね、坂口さん。暇だったら連絡するー」
彼は踵を返し、ゴミ捨て場に向かっていく。
渚音海ちゃんとは、玄関前で解散した。
教室へ荷物を取りに行こうとしたところで、女子トイレを掃除中らしき鷲羽さんに呼び止められる。彼女は向かいの男子トイレを掃除中の男子と廊下で話しているところだった。
「あ、ねー、星子チャン、今、暇? 今ちょっと、ホント忙しくてさー。あのさ、ゴメンなんだけど、ゴミ捨て行ってくんない?」
先程のゴミ袋と比べる随分と小さかった。
「うん。分かった」
「あとさー、トイレットペーパーもお願いしていー? ホント、マジ、忙しくてぇ」
「うん。いくつ?」
「あー、テキトーに? ンハハハ。ってか春翔(はると)ぉ、春翔もお願いしなよー」
デッキブラシは杖と化し、鷲羽さんは片手で口元を隠す。
同じ7組の幸田春翔くんは躊躇いがちに笑い、鼻の下を擦っている。7組であること以外、星子と接点はなかった。
「いやー、でも、悪いし?」
「いいじゃん、ついでなんだから」
「いいよ、持ってくる」
星子が言うと、彼は軽く頭を下げた。
ゴミ袋を手にし、星子はゴミ捨て場に向かった。部室棟を越え、プール棟の近くにある。ゴミ捨て場はコンクリートで覆われた要塞のような造りで、扉は重かった。分厚い鉄扉で、体重を使わなければ開かない。
開扉に難渋する。指に鉄錆と、剥がれかけて捲れた塗装の赤茶色がついた。
開かない。
「邪魔」
後ろから陰が迫る。笹森がゴミ袋を担いでいた。部室棟から来たようだ。社交的な彼は、運動部の人々と話し込んでいたのだろう。
「あ……ご、ごめんなさい……」
鉄扉から退くと、笹森は難なく開けてしまった。
「開けてくれて、ありがとう……」
笹森は舌打ちをしてゴミ捨て場の中に入っていく。星子も中へ入った。
内部はコンクリートの衝立によって仕切られ、西側には庇(ひさし)があり、大きな影を落としていた。校内全体のゴミ袋が集まり山をなしている。
笹森はゴミ袋を投げ捨て、コンクリートの城から出ていく。そして鉄扉を閉めていってしまった。
「あ!」
星子は駆けた。鉄扉は下方に正方形の穴が連なっていたが、それではまだ中に人がいたとは見えなかったのだろう。
鉄扉に指を掛ける。指に塗装と錆びがつくだけだった。
『じゃあママ、もう行くからね』
母親が出て行った日を思い出した。もう帰ってこないと口酸っぱく言われていたが、訳が分からず、一日中、玄関で母親を待っていた。知らず知らずのうちに喧嘩をしていたものと思っていた。母親の怒りが治まれば、帰ってくるのだと思っていた。
赤錆の模様を星子は凝らしていた。
母親は帰ってこない。父親も出て行った。
星子はゴミ袋の山から漂う匂いに包まれながら、庇の影に入った。
戻らない日々の後悔が押し寄せる。二親の仲を上手く取り持つことができたなら、今頃は家族3人で暮らせていたのかもしれない。何故、泣いて縋らなかったのだろう。だが、泣いて縋り、泣き喚いて留まる親だっただろうか。
もし、叔父のもとに無事に子供が生まれていたならば……
叔父の喪失のもとに、今の星子の長閑(のどか)な暮らしがある。叔父の喪失、2人分の命を踏み潰した位置で、穏やかに暮らしている。
『選ばれないのが怖かったんじゃないの』
星子は横を見た。だが誰もいなかった。コンクリートの肌理(きめ)が視界一面に広がっているだけだ。ゴミだらけの光景も懐かしい。
『選ばれないのが怖かったんじゃないの』
選ばれないということは、選ぶこともできないのだ。叔父の不幸を喜ぶ立場に収まるしかないのだ。
望まれない命というものは存在する。何故、人々が口々に述べる綺麗事のとおり、生きたかったはずの命に、叔父の子供に、くれてしまうことができないのか。
星子はゴミ袋の山を前に屈んだ。焼却炉に放り込まれたならば、叔父の幸福は蘇るか?
鉄扉は開かない。他に捨てにくる者もいない。
ゴミ袋の山が放つ異臭は、すでに鼻の粘膜に染みつき、気配を消した。
部室棟から談笑が聞こえる。七尾との約束が蘇る。どれくらいの時間が経ったのか。彼はどのような心境で待っているのか。
星子は鉄扉にしがみついた。
「開けて……開けて!」
脳裏に暗闇が広がる。だが一面ではなかった。狭い色彩のなかで、父親が、知らない女性と身を寄せ合っている光景だった。菓子を買ってくれると父親が言ったのだ。香り付きの色ペンを買ってくれると父親が約束したのだ。静かに、押し入れにいれば、何でも好きなものを買ってくれると言っていたのだ。
「開けて……」
口にするたび、時計が急激に逆巻いていく。叔父との暮らしで風化していった記憶が、頭に漏斗(ろうと)を突き刺して流れ込んでくる。
口を閉ざす。母親への裏切りに加担していた。
赤茶色の塗装を凝らす。長年、雨風に曝され、暑寒を耐え、乾湿を巡り、硬化した膜を浮き上がらせている。微細な粒子が見えた。
『笹森先輩、こんにちは』
分厚いコンクリートを隔てたところから、淑やかな声が耳に届く。
『おん』
『白川先輩を見ませんでしたか』
『白川先輩って誰?』
『白川星子先輩です』
『ああ、あの子か。見てないけど。帰ったんじゃないの』
月也と笹森が会話している。
『七尾先輩と、女の先輩が探しているのですが……』
『だから、帰ったんじゃないの』
『荷物はまだ学校にあるそうです。お勉強中のところ、お邪魔しました』
月也が行ってしまう。
「月也くん……!」
星子はアスファルトに話しかけた。
『白川先輩……?』
水琴のような声がアスファルトに染み入る。
「月也くん、そこにいるの?」
「はい。白川先輩はどちらに……?」
声に戸惑いが滲んでいる。
「ゴミ捨て場から出られなくなっちゃったの……」
星子は鉄扉を叩く。砕けた塗装膜が手に付いた。
足音が傍へ来る。そして分厚い鉄の板を引いた。わずかに隙間が開く。だがそこで止まった。月也の姿が見えるが、とても星子の身体は通らない。
月也は何度か、鉄扉を引いた。わずかに動く。しかしやはり、星子の身体は通れない。
「僕の力では開けられそうにないので、七尾先輩を呼んできます」
「うん……」
「なんでぼくに頼まないの」
笹森の声が割り込んだ。月也は、星子にはコンクリートしか見えない左隣を向いていた。そこに笹森がいるようだった。
「…………お勉強中のようでしたから………」
「どこ探してるかも分からない七尾探して呼んでくるまで、放置しとくワケ?」
月也は黙った。
「さっきぼくが入ったときは誰もいなかったけどね」
雑な足音が近付き、鉄扉を引く。星子が通れるほどの空間が開いた。
「男子たる者、筋トレを怠るなよ」
「はあ。お恥ずかしい限りです」
月也は両手に塗装膜の粉をつけていた。陽光を吸い取る黒髪は涼しげだというのに、その下の白い顔には赤みが差している。
「あ、ありがとう……笹森くん」
彼は手にした参考書を閉じ、外方を向いた。
「ごめんね、月也くん」
「謝らないでください。それより、大丈夫ですか。どれくらいこの中にいたんです。まずは水分を摂ったほうがいいです」
「ほんのちょっと。だから大丈夫。ありがとうね。七尾くんのところ、行かなきゃ……」
「ってか白川さん、まだ帰ってなかったんだ? 掃除当番でも美化委員会でもないし、もう帰ったかと思った」
月也が眩しがるような眼差しを笹森へ滑らせた。そして爪先から脳天までを何度も行き来していた。
「あ、う、うん……掃除当番、松村くんと代わったの……部活忙しそうだったから……」
「ふーん」
月也が笹森から視線を外す。
「行きましょう」
「バイバイ、玄山(くろやま)後輩。また数学教えてやるよ。ついでに筋トレの仕方と、可愛い女子への話かけ方もな」
「……はあ」
月也は天鵞絨(びろうど)のような瞳だけ笹森に渡した。後姿が曲がり角で消えていく。
「誰に扉を閉められたんですか」
平生とは異なる眼差しと音吐に、星子はたじろいだ。笑みを繕う。
「え……?」
「どうして、白川先輩が閉じ込められてしまったのかな……と思いまして。見通しが悪いようには見えませんでした」
開け放したままのゴミ捨て場を月也は覗いている。ゴミ袋は庇のある西側に集中している。コンクリートの衝立に隠れない限り、中にいる人は見える造りになっていた。だが可燃物用のゴミ袋は衝立の前に置く暗黙の規則があるようだった。
「きっと、うっかりしてたんじゃないかな。それにわたし、存在感、あんまり無いし……そう、華(オーラ)が! 開けられないわたしが悪いんだから、仕方ないよ」
ゴミ捨て場を出て行ったときの笹森は、一瞥もくれなかった。見えていなかったに違いない。気付かなかったのだ。まだそこに居るとは思っていなかったのだ。
もし、咲菜や渚音海ちゃんならば、このようなことは起きなかった。閉じ込められる前に、笹森は気付いたはずだ。放念することもなかった。
「……そうですか。笹森先輩は、案外抜けているところがあるんですね」
「きっと、忙しいんだよ。なんと言ってもモテモテだからね。夏休みの予定のこと考えるので、いっぱいいっぱいだったんだと思う」
月也は共に微笑してはくれなかった。それもそのはずだ。
「あ……ご、ごめんね。走り回ったの……?」
「いいえ。僕は七尾先輩から相談されただけですから。たまたま笹森先輩が見えたので、何か知っていらっしゃるのかと思っただけです。それより、七尾先輩と、女の先輩です」
「女の先輩って、色の白い、可愛い子?」
「髪の長い先輩です」
おそらく咲菜だ。
「咲菜ちゃんだ……」
星子は下駄箱に急いだ。そして教室に向かうと、七尾と咲菜、そして鷲羽さんがいた。
七尾は星子を認めた途端に、三白眼を剥いた。
「星子! どこにいたんだよ。探したぞ」
「ごめん、七尾くん。咲菜ちゃんも……それから、鷲羽さんも……トイレットペーパー……」
「約束すっぽかすとかマジあり得ないなーって最初思ったけど、まぁ仕方ないよねーって」
鷲羽さんは片手で口元を隠す。
「トイレットペーパー、どうなったの?」
「約束すっぽかしたんだしさ、後で補充しといて?」
表情は笑って見せているが、サークルコンタクトレンズを嵌めた目は鋭い。
「うん……」
「星子ちゃん、どこにいたの……?」
「ゴミ捨て場で、ちょっとトラブルがあって……わたしが悪いんだけれど……それで……」
「ゴミ捨て場で閉じ込められてたんです」
1年用玄関から回って来た月也が追いつき、口を挟んだ。途端に、七尾と咲菜の目の色が変わった。
「えっ、だ、大丈夫? 閉じ込められていたの?」
「ああ、うん、平気……それより、ごめんね。探し回らせてたみたいで……」
「閉じ込められたって、なんで!」
七尾は叫んだ。彼は咲菜と対していた星子の身体を振り返らせ、詰め寄る。掴まれた肩が熱い。煮えくり返っている三白眼から目を逸らす。
「ちょっと、もたもたしちゃって……」
笹森は、開けたから閉めたのだ。扉は開けたら閉めるのが行儀だと謂われている。一体何の咎があるのだろう。彼は自ら開け、用を済まし、閉めたのだ。何故それを責められるのか。
七尾はまず、月也を見た。
「悪いな、月也。星子を見つけてくれてありがとう。科学部に戻ってくれ」
月也は一度、星子を見た。
「ありがとう、月也くん……」
「いいえ。それでは、さようなら」
彼は恭(うやうや)しい態度で部活に戻った。
「七尾くん……ごめんなさい」
「謝るなよ、お前は悪くない」
「でも、探し回らせちゃったみたいで……」
「閉じ込められてたなら仕方ない。お前は悪くない。無事ならそれでいい。琴峯(ことみね)さんを巻き込んだのは俺だから、琴峯さんに礼を言うのは俺だ。ありがとうな」
七尾は咲菜の前に立つと、礼を述べた。だが彼女は首を振り、手を振った。
「そんな……そんな……星子ちゃんを探したかったのはあたしもよ。だから謝られることでも、お礼を言われることでもないわ」
「まぁ、いいんじゃない、無事だったんだから。早く帰ろー。アタシお腹空いちゃった。じゃ、星子チャン、トイペ頼んだわ。咲にゃん、マキシバーガー寄らん?」
鷲羽さんが咲菜を引っ張っていく。
「あたし、今日はもう帰らないとなの……」
「七尾は部活なんだっけー?」
「ん」
「えー。じゃあ翔太誘おー」
鷲羽さんに引かれていく咲菜は何度も振り返り、星子に手を振った。
「行くか、マキシバーガー」
「え」
だがそういう約束だった。しかし今行けば、鷲羽さんやクラスメイトと会ってしまう。
「なんだよ」
「鷲羽さんたちと、鉢合わせちゃうよ……」
「嫌?」
星子の顔を覗き込み、七尾は首を傾げた。人懐こい黒猫のようだった。見上げていたはずが、見下ろしている気にさえなった。
「嫌じゃない、けれど……七尾くんが、誤解されちゃったら……」
「どういう誤解だ?」
「誤解っていうか、誂(からか)われちゃうんじゃないかなって……」
「困るのか」
星子は首を竦めた。
「困らないけれど……どう返したらいいか……分からない、かも……」
「言わせとけ。どうせ"付き合ってんの?"とかだろ。いいぜ、"うん"って答えても……」
七尾は遠くを向く。
「え! そ、それは……良くない、と思う」
七尾にはいくらでも恋の機会がある。胡乱な返答で断つのは憚られる。
「良くないのか」
七尾は自らの恋を諦めようとしている。
「良く……ない」
だが咲菜はまだ、笹森と関係を決定づけているわけではないのだ。
七尾はまだ、夢を見ていていいはずなのだ。彼は笑った。疲れたような笑みが、星子の背中に氷を這わす。
報われない恋の背中を押した。彼は自身の恋が報われないことを理解していたのだ。
「七尾くん……」
その笑みが嫌いだった。彼のその表情を崩したくなった。
「行こ、マキシバーガー……! わたし、チェダーバーガーが食べたいな!」
星子は七尾の腕に触れた。熱かった。放してしまった。目が合う。
「あ……」
「どうした?」
七尾は鼻を鳴らした。星子の嫌いな笑みは消えたが、まだ自嘲的な口元を残している。
「思ったより熱かった……」
「はは、なんだ、それ……」
「七尾くんは太陽みたいだからね」
七尾は太陽なのだ。太陽は月に会えない。周りの者を惹きつけておきながら、月のような優しさの咲菜を惹きつけることだけができない。
「太陽は、宇宙(うらがわ)でお星様と仲良くしてるからってか?」
「え?」
「え、ってなんだよ」
「七尾くんって詩人なんだなぁ……」
「茶化すな。恥っず……行くぞ」
七尾は星子の肩に腕を回した。ブラウス越しに体温が伝わると、星子の身体は焼け縮んでいく。掌の大きさ、筋肉の厚みが、彼女を堅くする。
「う、うん……!」
下駄箱に着き、簀子(すのこ)に降りる。
「おーっす、七尾」
笹森が玄関から入ってきたところだった。
「まだ帰ってなかったのかよ」
「忘れ物しちゃった。ワックス、もう掛けちゃったよな?」
「青本なら出しといた。まったく……」
授業で使う、英語の単語資料集だ。青い装丁(そうてい)が特徴的なため、「青本」と呼ばれていた。夏休みに大量の課題が出ている。
「さすが! さすが、七尾のアニキ~!」
笹森は七尾の腕にしがみつき、頬擦りしようとする。
「暑苦しいやつだな……」
笹森は満面の笑みを浮かべ、七尾と星子を交互に見遣る。
「何? これから2人で帰るの? デート?」
七尾は眉根を寄せた。星子を一瞥する。そして俯き、睫毛を重げにしょぼつかせる。
「違うけど?」
やはり七尾も、誤解をされては困るのだ。
「ま、幼馴染だもんね」
「ん」
「ってか七尾、一緒に飯行かん?」
七尾は笹森から顔を逸らした。彼等は中が良い。星子は2人を見ていられなくなる。
「わたし、トイレットペーパー取って来ないといけないんだった」
星子は後退った。七尾にぶら下がっていた笹森が口角を吊り上げる。
「じゃあ、待ってるわ、ここで」
七尾が言った。
「あ、でも……」
「七尾おにいちゅわ~ん。行こぉよ、ごあん」
「……今日は用事がある。悪ぃな」
「ぷゆ~」
笹森は頬を膨らませた。切れても絹切れ。千切れても錦。美男子は美男子だった。美貌は崩れない。
「夏休み、遊ぶだろ」
「でもそれは白川さんもいるじゃん。琴峯さんもいるけど」
「何。俺と2人で遊びてぇの?」
「うにゅ~」
「気持ち悪り」
「へへ……」
笹森はまだトイレットペーパーを取りに行かない星子を向いた。
「じゃあ白川さんさ、一緒に飯行かん?」
「ダメだ」
七尾が答えた。
「なんで? ぼく、白川さんに訊いてんだけど。サシメシ。コロあげクンでよければ奢るし……」
「だからダメだって言ってんだろ」
「だからなんで七尾が答えんの~。嫉妬? いくらぼくのことが好きだからって束縛ヤだ~! ぷぎゅ! 助けてぷぎゅみゅ~」
笹森は七尾に圧(の)しかかり、星子に両手を伸ばす。
「星子はこれから俺と出掛けんだ!」
「ふ~ん。じゃあやっぱデートじゃん」
笹森は七尾から離れる。鼻を鳴らし、星子を睨んだ。
「ぼくがトイレットペーパー取ってきてあげよっか?」
「だ、大丈夫……です。自分で取りに行け、ます……」
「あっはっは、なんで敬語? じゃ、行ってらっしゃーい。ぼくが七尾と遊んでてあげる」


