君はアイリス
向かった先は、一番近くの懸垂式モノレール駅の周辺で、学校や仕事から帰宅する人々が、止まることのない波を作っていた。目的地はないので、フレイザーは降車することなく、頻繁に赤信号で止まる駅前の道路を、なんとはなしに運転し続ける。すると、ふと目に入ったものが気になり、車を止めてある店へと向かった。
「いらっしゃいませ。気になるものがあれば、お声掛けください」
緑色のエプロンを着た愛想のいい女性店員が、フレイザーに声をかける。その声を無視して、フレイザーは店先の一部をじっと見つめた。
アイリス――小さなプラカードに値段と共に書き込まれた、その花の名前。
シャキッと背筋を伸ばした軍人を思わせる、直立で太い茎に白い花びら。色づいているので花びらだとフレイザーは思うが、隣に並ぶアネモネやガーベラに比べると、なんとも花っぽくない形をしている。不器用なために、花らしく花びらを広げられなかった――フレイザーにはそんなふうに見えた。
「これを」
「はい、アイリスですね」
「一本だけ、というのはおかしいだろうか」
女性店員に声をかけたフレイザーは、まるで独り言のように呟いた。
花を買う男性客の扱いには慣れているようで、女性店員は助言と確認をすべく、フレイザーに尋ねる。
「どなたかへの贈り物ですか? 就職や退職などの節目なら花束にするほうがいいかもしれませんが、そこまで仰々しい理由での贈り物でないのなら、一本でも大丈夫ですよ。装飾のリボンで少し華やかさを出せますから。ここにある白いアイリスなら、花言葉は〝純粋〟や〝思いやり〟、〝あなたを大切にします〟なんて意味もあるので、プロポーズに使われることもあります」
「いや……そういうのではない」
誰がプロポーズに使うなどと言った! とフレイザーは一瞬、大声で反論したい気持ちになった。しかし民間の女性店員に対して、いつもリースに怒鳴り散らしているような態度をとるわけにもいかず、ごにょごにょと言葉を濁して否定する。直立の茎に、花には見えない不器用さ。それはまるでエーファのようだと、ふと思っただけなのだ。
「隣にある青いアイリスなら〝強い希望〟や〝信念〟という花言葉ですから、励ます気持ちを伝えられるかもしれません。花言葉なんてたくさんあるし、そもそも調べて知ろうとする人のほうが少ないんですけどね」
花屋として元も子もないことを言っている自覚があるのか、女性店員は苦笑した。
しかし青いアイリスの花言葉は、ますますフレイザーにエーファを思わせた。これまでの彼女の人生は父親に抑圧されてきたものだったが、この先はどうか、己の信念を見つけて生きていってほしいと。
「では青いほうを一本頼む。その……そんなに派手にしなくていい」
「畏まりました。少々お待ちください」
女性店員はにっこりほほ笑むと花筒から一本のアイリスを取り出して、店の奥へと入っていく。そして手早く包んで、レジで会計を済ませたフレイザーにそれを手渡した。
「ありがとうございました。またどうぞ」
女性店員に見送られて、フレイザーは自分の車に戻る。透明なビニールで覆われて細長い三角のシルエットを成し、蝶結びにされた白いリボンでラッピングされた一本のアイリスを助手席に横たわらせてから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
花なんか渡してどうしたいのか、と自問する。けれど、この花の姿があまりにも彼女みたいだったから、どうしても渡したいとの思いが勝ってしまった。
(これを渡したら、どんな顔をするんだろうか)
まるで人形のように無感情で、無表情だった初対面の日のエーファ。けれども第八宇宙団で過ごすうちに、その表情は少しずつ多様な色を持つようになった。そして先日のベルツ大佐の突然の来訪以降は、さらに自然に笑えるようになっていた。
命令や業務以外の会話を自発的にすることのなかったエーファだが、待機室や食堂で、自分から同僚たちに話しかける姿を見かけたこともある。フレイザー同様にエーファを気にかけているリースが、持ち前の人懐っこさでエーファと周囲を結び付けるようにこっそりとフォローしていることも奏功しているのだろうが、それにしてもずいぶんとかわいく笑うようになったものだ。
その笑顔をもっと見たい。花でも渡せば、喜んで笑ってくれるのではないだろうか。
柄にもなく、そんなあからさまな下心を持って彼女に会いに行こうとする自分を、リースにだけは知られたくない。さいわい、女子寮にまっすぐに行けば、リースと鉢合わせすることはないだろう。
(定時で上がれと言っているから、とっくに帰寮しているはず……だよな)
フレイザーはダッシュボードに埋め込まれているデジタル時計をちらりと見る。エーファの終業時間は過ぎ、一切寄り道をしていなければすでに帰寮している頃合いだ。守衛に声をかけて呼び出してもらえば、花を渡す時間くらいはあるはずだ。
なるべく助手席の花が揺れないように、フレイザーは丁寧な運転でエーファがいるはずの女子寮を目指した。
◆◇◆◇◆
(三カ月……体育基礎教練期間程度よね)
定時で仕事を切り上げて寮の自室に戻ってきたエーファは、ピリッと張ったベッドのシーツの上に仰向けになり、上官であるフレイザーとの別れの場面を思い返していた。
彼は明日から三カ月ほど、教育隊に出向する。赴任先は宇宙基地なので、地上基地勤務のエーファはしばらく彼と会えない。ライネヴェジン軍事アカデミー時代における地獄の体育基礎教練期間が三カ月だったので、あの時の身体的つらさを思い出せば、フレイザーと会えないことなど、つらくもなんともないはずだ。
(でも……胸が痛い)
それなのに、気持ちが落ち着かない。心にはぽっかりと穴が空いたようで、すべての思考がするりとその穴に落ちていってしまう。フレイザー以外のことを考えてその穴を埋めたり紛らわしたりできないだろうかと思うのだが、趣味や娯楽のような楽しみを持っていないせいで、空虚さは満たされる気配がない。そもそも、自分の心に空いたその穴の正体もそれを満たす方法も、自分はろくに知らないのだ。
(ベリンガム大尉……)
「いらっしゃいませ。気になるものがあれば、お声掛けください」
緑色のエプロンを着た愛想のいい女性店員が、フレイザーに声をかける。その声を無視して、フレイザーは店先の一部をじっと見つめた。
アイリス――小さなプラカードに値段と共に書き込まれた、その花の名前。
シャキッと背筋を伸ばした軍人を思わせる、直立で太い茎に白い花びら。色づいているので花びらだとフレイザーは思うが、隣に並ぶアネモネやガーベラに比べると、なんとも花っぽくない形をしている。不器用なために、花らしく花びらを広げられなかった――フレイザーにはそんなふうに見えた。
「これを」
「はい、アイリスですね」
「一本だけ、というのはおかしいだろうか」
女性店員に声をかけたフレイザーは、まるで独り言のように呟いた。
花を買う男性客の扱いには慣れているようで、女性店員は助言と確認をすべく、フレイザーに尋ねる。
「どなたかへの贈り物ですか? 就職や退職などの節目なら花束にするほうがいいかもしれませんが、そこまで仰々しい理由での贈り物でないのなら、一本でも大丈夫ですよ。装飾のリボンで少し華やかさを出せますから。ここにある白いアイリスなら、花言葉は〝純粋〟や〝思いやり〟、〝あなたを大切にします〟なんて意味もあるので、プロポーズに使われることもあります」
「いや……そういうのではない」
誰がプロポーズに使うなどと言った! とフレイザーは一瞬、大声で反論したい気持ちになった。しかし民間の女性店員に対して、いつもリースに怒鳴り散らしているような態度をとるわけにもいかず、ごにょごにょと言葉を濁して否定する。直立の茎に、花には見えない不器用さ。それはまるでエーファのようだと、ふと思っただけなのだ。
「隣にある青いアイリスなら〝強い希望〟や〝信念〟という花言葉ですから、励ます気持ちを伝えられるかもしれません。花言葉なんてたくさんあるし、そもそも調べて知ろうとする人のほうが少ないんですけどね」
花屋として元も子もないことを言っている自覚があるのか、女性店員は苦笑した。
しかし青いアイリスの花言葉は、ますますフレイザーにエーファを思わせた。これまでの彼女の人生は父親に抑圧されてきたものだったが、この先はどうか、己の信念を見つけて生きていってほしいと。
「では青いほうを一本頼む。その……そんなに派手にしなくていい」
「畏まりました。少々お待ちください」
女性店員はにっこりほほ笑むと花筒から一本のアイリスを取り出して、店の奥へと入っていく。そして手早く包んで、レジで会計を済ませたフレイザーにそれを手渡した。
「ありがとうございました。またどうぞ」
女性店員に見送られて、フレイザーは自分の車に戻る。透明なビニールで覆われて細長い三角のシルエットを成し、蝶結びにされた白いリボンでラッピングされた一本のアイリスを助手席に横たわらせてから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
花なんか渡してどうしたいのか、と自問する。けれど、この花の姿があまりにも彼女みたいだったから、どうしても渡したいとの思いが勝ってしまった。
(これを渡したら、どんな顔をするんだろうか)
まるで人形のように無感情で、無表情だった初対面の日のエーファ。けれども第八宇宙団で過ごすうちに、その表情は少しずつ多様な色を持つようになった。そして先日のベルツ大佐の突然の来訪以降は、さらに自然に笑えるようになっていた。
命令や業務以外の会話を自発的にすることのなかったエーファだが、待機室や食堂で、自分から同僚たちに話しかける姿を見かけたこともある。フレイザー同様にエーファを気にかけているリースが、持ち前の人懐っこさでエーファと周囲を結び付けるようにこっそりとフォローしていることも奏功しているのだろうが、それにしてもずいぶんとかわいく笑うようになったものだ。
その笑顔をもっと見たい。花でも渡せば、喜んで笑ってくれるのではないだろうか。
柄にもなく、そんなあからさまな下心を持って彼女に会いに行こうとする自分を、リースにだけは知られたくない。さいわい、女子寮にまっすぐに行けば、リースと鉢合わせすることはないだろう。
(定時で上がれと言っているから、とっくに帰寮しているはず……だよな)
フレイザーはダッシュボードに埋め込まれているデジタル時計をちらりと見る。エーファの終業時間は過ぎ、一切寄り道をしていなければすでに帰寮している頃合いだ。守衛に声をかけて呼び出してもらえば、花を渡す時間くらいはあるはずだ。
なるべく助手席の花が揺れないように、フレイザーは丁寧な運転でエーファがいるはずの女子寮を目指した。
◆◇◆◇◆
(三カ月……体育基礎教練期間程度よね)
定時で仕事を切り上げて寮の自室に戻ってきたエーファは、ピリッと張ったベッドのシーツの上に仰向けになり、上官であるフレイザーとの別れの場面を思い返していた。
彼は明日から三カ月ほど、教育隊に出向する。赴任先は宇宙基地なので、地上基地勤務のエーファはしばらく彼と会えない。ライネヴェジン軍事アカデミー時代における地獄の体育基礎教練期間が三カ月だったので、あの時の身体的つらさを思い出せば、フレイザーと会えないことなど、つらくもなんともないはずだ。
(でも……胸が痛い)
それなのに、気持ちが落ち着かない。心にはぽっかりと穴が空いたようで、すべての思考がするりとその穴に落ちていってしまう。フレイザー以外のことを考えてその穴を埋めたり紛らわしたりできないだろうかと思うのだが、趣味や娯楽のような楽しみを持っていないせいで、空虚さは満たされる気配がない。そもそも、自分の心に空いたその穴の正体もそれを満たす方法も、自分はろくに知らないのだ。
(ベリンガム大尉……)