君はアイリス
「これは半自動運転で、助手席からの補助は不要だ」

 ステアリングに両手を置いたまま、横目でエーファを見やったフレイザーは低い声で言った。助手席に座るエーファの肩近くに身を乗り出していたリースは「へいへい」と相槌を打ってから、姿勢を戻す。
 目的地は、最初にナビにインプットした「テンペストの翼」――四区画離れた市街地の隅にあるカフェだ。

 宇宙戦闘機ならほぼ毎日のように操縦しているが、地上を走る乗用車の運転など久しぶりだろう。だが、フレイザーの運転はとても丁寧だった。
 同僚三人で行くドライブは、終始フレイザーの機嫌がよろしくなかったものの、リースとエーファの間では会話が途切れることなく続いていた。おしゃべりなリースの話にエーファが頷く、という構図が半分以上だったが、リースが語る軍学校時代の自分たちのエピソードは、珍しくエーファの目を見開かせ、興味をそそったようだった。

「カフェと言うには、やけに広くないか」

 目的地に到着して車を降りるなり、フレイザーは目的の施設がただの飲食店ではないことにいち早く気付き、リースを睨んだ。目の前には観覧車やジェットコースターなどのアトラクション、それにパターゴルフやプールといった施設の一部も見えている。おまけに、少し歩いて目に入った案内図を見れば、敷地の奥のほうに水族館も併設されているらしく、そこは誰がどう見ても大型の遊園施設だった。

「テンペストの翼はこの中にあるんだよ。せっかくだし、羽を伸ばして遊ぼうぜ」
「ふざけるな! ジェットコースターが楽しめる年齢はとうに過ぎている!」

 にこにこと施設の入り口を目指すリースの背中に、フレイザーは怒鳴り散らした。「評判のカフェに行く」というのは建前で、本当の目的はこの遊園施設で遊ぶことだったのだろう。まんまとリースの口車に乗せられたわけだ。
 鼻息を荒くしてフレイザーは苛立ったが、彼のその反応は予想済みだったらしく、リースはフレイザーを無視してエーファのほうに声をかけた。

「エーファちゃんは? こういう場所、来たことある?」
「私は……」

 三人の足が止まる。先を歩いていたフレイザーとリースに見つめられて、エーファは俯いた。そして、ゆっくりと首を横に振った。

「だよねー。軍事アカデミーを卒業してすぐ入隊だと、遊ぶ時間もないもんな。ま、せっかくここまで来たんだし、いろいろやってみようぜ」
「リース、そう言ってお前が楽しみたいだけだろ」
「え、そうだけど? 俺はまだ、こういうのが楽しめる年齢なんでね」
「俺と同い年のくせに。ガキだな」
「フレイザー、気持ちだけでも若くいないと、あっという間に年をとってハゲるぜ?」
「誰がハゲるか!」
「ちょっとは気にしてんだろ~?」

 フレイザーをあしらうと、リースはずんずんと施設内に入っていく。
 そしてこの日の夕方まで、エーファはリースに勧められるまま、施設内を歩き回った。
 軍人の道を早くから強制され、軍人になるのに不要なものは一切排除されてきたエーファにとって、遊園施設のアトラクションは何もかもが初体験だった。
 高所から急な傾斜を落ちたあとに猛スピードで進むジェットコースターは、曲がりなりにも宇宙戦闘機のパイロットであるエーファにとってはそれほど刺激的ではなかったが、自分で操縦できないという不自由さに対しては、新鮮な不安感を抱いた。暗闇の中、つるされたような状態で予測不可能な方向へ揺らされながら進むアトラクションでは、「これはいい訓練になるかも」などと、軍人らしいことを考えていた。

 ほかにも、無秩序に行き交う大勢の一般人の中を歩く困難さや、小腹が減ったと言うリースが買ってきた、粒の大きな砂糖でコーティングされたドーナッツを食べ歩きするだらしなさ。次は何に乗ろう、あれに乗ろう、いやだ、あれはつまらん、としっかりと行き先を相談するフレイザーとリースの仲の良さなど、これまでの人生で体験したり見聞きしたりしたことのなかったものが、閉じていたエーファの感覚をノックする。
 自分の胸の中に繰り返し起こる、波のようなその高鳴りをなんと呼ぶのか、エーファはわからなかった。けれど、おそらく一番単純な名前を付けるのなら、それは「楽しい」という感情なのだろうと思った。

「エーファちゃん、今日は楽しかった?」
「はい」

 だから帰りの車の中、リースから尋ねられたエーファは、間髪を容れずにそう答えることができた。そんな自分を不思議に思ったが、次の瞬間には思わず頬がゆるんでいた。

「とても……楽しかったです」
「そっか、それはよかった。フレイザーが隊舎まで送ってくれるから、寝ちゃってもいいぜ」

 エーファのほほ笑みを見て満足げなリースは穏やかに笑った。
 そこでエーファは、ステアリングを握る運転席のフレイザーの横顔を見つめた。彼のサラサラとした銀髪は、今日も変わらずきれいだ。様々なアトラクションに乗って上下左右に振り乱されたはずなのに、まるでつい今し方櫛を通したかのようにすとん、と落ちている。

「なんだ」
「あ、いえ……」

 エーファの視線に気付いたフレイザーは、前方を向いたまま短く尋ねる。エーファは首を振ると、助手席側の窓の外へと視線を向けた。

(こういう日や、こういう感情を……楽しいと言うのね)

 エーファの人生のすべては、守護星軍に捧げるためにある。そういうものだと父から言い聞かされて育ってきて、それが当然だと思っていた。疑いもしなかった。不満を抱いたことはあっただろうが、それを表に出すと大声で叱責され、時には女だろうと容赦せずに殴られたので、いつしか自分の心は押し殺すようになっていた。守護星軍の軍人として軍のためだけに生きなければ、自分にはなんの価値もない。そう思っていた。
 軍人に、楽しいなどという感情は不要。必要なのは、軍人としての技量を磨く時間。任務に従事し、確実に結果を出して、階級を上げること。そのためには、一分一秒たりとも無駄にするな。すべての時間とエネルギーを、軍人として生きることに捧げろ。そう繰り返し刷り込まれてきたおかげで、エーファは楽しみも喜びもろくに知らなかった。

(それに……嬉しい)
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