好きが止まらない
第3話 雨の日の傘
六月に入ってから、空模様は気まぐれだった。
朝は晴れていたのに、帰る頃には曇っている。
そんな日が続いていた。
その日もそうだった。
図書館の閉館作業を終えた私は、職員用の出口を出て足を止めた。
雨だった。
しかも、かなり強い。
屋根を叩く音が絶え間なく響いている。
「うそ……」
思わず呟く。
朝は晴れていたから傘を持ってきていなかった。
スマートフォンで天気予報を確認する。
一時間後も雨。
ため息が漏れた。
駅までは徒歩十分。
走れば帰れない距離ではない。
でも、この雨では確実にびしょ濡れになる。
どうしよう。
そう思いながら空を見上げた時だった。
「雨宮さん?」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこには黒い傘を差した悠真さんが立っていた。
「桐生さん?」
「やっぱり」
彼は少し笑った。
「図書館の前を通ったら見えたので」
「カフェの帰りですか?」
「そうです」
近くで見ると、肩が少し濡れている。
雨の中を歩いてきたのだろう。
「傘、忘れました?」
図星だった。
私は小さく頷く。
「朝は晴れていたので……」
「ですよね」
悠真さんは空を見上げた。
「結構降ってますね」
沈黙が落ちる。
私はますます困った。
すると彼は何でもないことのように言った。
「一緒に帰ります?」
「え?」
「方向同じですし」
心臓が跳ねた。
一緒に帰る。
つまり。
「相合傘……ですか?」
口に出してから後悔した。
なんでわざわざ言ったのだろう。
悠真さんは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「そうなりますね」
恥ずかしい。
今すぐ消えたい。
◇
結局、私は断れなかった。
いや、断りたくなかったのかもしれない。
傘の下に並ぶ。
思っていたより近い。
肩が触れそうな距離。
雨音が周囲の音を消している。
妙に静かだった。
「狭くないですか?」
悠真さんが聞く。
「大丈夫です」
そう答えた瞬間。
傘が少しこちらへ寄せられた。
「雨宮さん、小さいから」
「え?」
「濡れてますよ」
見れば、本当に私の肩だけ少し濡れていた。
気づかなかった。
悠真さんは自分の肩を犠牲にして、傘を私の方へ寄せていたのだ。
「桐生さんの方が濡れます」
「男なんで平気です」
さらりと言う。
そんな言い方、ずるい。
胸の奥がむず痒くなる。
◇
しばらく歩く。
会話は途切れたり続いたりだった。
最近読んだ本の話。
図書館で起きた小さな出来事。
カフェの新メニュー。
どれも特別な話ではない。
それなのに楽しい。
ふと気づく。
私は笑っていた。
自然に。
無理をせずに。
「雨宮さん」
「はい?」
「最近、よく笑うようになりましたね」
思わず足が止まりそうになった。
「え?」
「最初会った時より」
悠真さんは前を向いたまま言う。
「今の方が楽しそうです」
そんなこと。
自分では分からなかった。
でも。
もし本当にそうなら。
それはきっと──。
あなたのせいだ。
言えるはずもなく、私は黙り込む。
雨音だけが続いていた。
◇
アパートが見えてきた。
なんだか少し残念だった。
帰れば、この時間は終わってしまう。
そんなことを思った自分に驚く。
恋愛なんて遠ざけていたはずなのに。
「着きましたね」
悠真さんが言う。
「ありがとうございました」
「いえ」
階段の前で別れる。
その時だった。
「そうだ」
悠真さんが何かを思い出したように言った。
「今度の休み、時間あります?」
心臓が跳ねる。
「ありますけど……」
「新作のケーキを試作するんです」
少し照れたように笑う。
「味見、お願いできますか?」
私は一瞬だけ言葉を失った。
それから小さく頷く。
「喜んで」
その瞬間。
悠真さんは嬉しそうに笑った。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
傘を閉じる音。
その全部が、なぜだか特別に思えた。
部屋へ戻ったあとも、私はしばらく窓の外を眺めていた。
そして気づく。
今日一日で、何度彼のことを考えただろう。
考えないようにしようと思うほど、頭に浮かぶ。
そんな自分に戸惑いながらも、胸の奥は少しだけ温かかった。
次の休みが、待ち遠しい。
そう思ってしまったことだけは、認めるしかなかった。
朝は晴れていたのに、帰る頃には曇っている。
そんな日が続いていた。
その日もそうだった。
図書館の閉館作業を終えた私は、職員用の出口を出て足を止めた。
雨だった。
しかも、かなり強い。
屋根を叩く音が絶え間なく響いている。
「うそ……」
思わず呟く。
朝は晴れていたから傘を持ってきていなかった。
スマートフォンで天気予報を確認する。
一時間後も雨。
ため息が漏れた。
駅までは徒歩十分。
走れば帰れない距離ではない。
でも、この雨では確実にびしょ濡れになる。
どうしよう。
そう思いながら空を見上げた時だった。
「雨宮さん?」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
そこには黒い傘を差した悠真さんが立っていた。
「桐生さん?」
「やっぱり」
彼は少し笑った。
「図書館の前を通ったら見えたので」
「カフェの帰りですか?」
「そうです」
近くで見ると、肩が少し濡れている。
雨の中を歩いてきたのだろう。
「傘、忘れました?」
図星だった。
私は小さく頷く。
「朝は晴れていたので……」
「ですよね」
悠真さんは空を見上げた。
「結構降ってますね」
沈黙が落ちる。
私はますます困った。
すると彼は何でもないことのように言った。
「一緒に帰ります?」
「え?」
「方向同じですし」
心臓が跳ねた。
一緒に帰る。
つまり。
「相合傘……ですか?」
口に出してから後悔した。
なんでわざわざ言ったのだろう。
悠真さんは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「そうなりますね」
恥ずかしい。
今すぐ消えたい。
◇
結局、私は断れなかった。
いや、断りたくなかったのかもしれない。
傘の下に並ぶ。
思っていたより近い。
肩が触れそうな距離。
雨音が周囲の音を消している。
妙に静かだった。
「狭くないですか?」
悠真さんが聞く。
「大丈夫です」
そう答えた瞬間。
傘が少しこちらへ寄せられた。
「雨宮さん、小さいから」
「え?」
「濡れてますよ」
見れば、本当に私の肩だけ少し濡れていた。
気づかなかった。
悠真さんは自分の肩を犠牲にして、傘を私の方へ寄せていたのだ。
「桐生さんの方が濡れます」
「男なんで平気です」
さらりと言う。
そんな言い方、ずるい。
胸の奥がむず痒くなる。
◇
しばらく歩く。
会話は途切れたり続いたりだった。
最近読んだ本の話。
図書館で起きた小さな出来事。
カフェの新メニュー。
どれも特別な話ではない。
それなのに楽しい。
ふと気づく。
私は笑っていた。
自然に。
無理をせずに。
「雨宮さん」
「はい?」
「最近、よく笑うようになりましたね」
思わず足が止まりそうになった。
「え?」
「最初会った時より」
悠真さんは前を向いたまま言う。
「今の方が楽しそうです」
そんなこと。
自分では分からなかった。
でも。
もし本当にそうなら。
それはきっと──。
あなたのせいだ。
言えるはずもなく、私は黙り込む。
雨音だけが続いていた。
◇
アパートが見えてきた。
なんだか少し残念だった。
帰れば、この時間は終わってしまう。
そんなことを思った自分に驚く。
恋愛なんて遠ざけていたはずなのに。
「着きましたね」
悠真さんが言う。
「ありがとうございました」
「いえ」
階段の前で別れる。
その時だった。
「そうだ」
悠真さんが何かを思い出したように言った。
「今度の休み、時間あります?」
心臓が跳ねる。
「ありますけど……」
「新作のケーキを試作するんです」
少し照れたように笑う。
「味見、お願いできますか?」
私は一瞬だけ言葉を失った。
それから小さく頷く。
「喜んで」
その瞬間。
悠真さんは嬉しそうに笑った。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
傘を閉じる音。
その全部が、なぜだか特別に思えた。
部屋へ戻ったあとも、私はしばらく窓の外を眺めていた。
そして気づく。
今日一日で、何度彼のことを考えただろう。
考えないようにしようと思うほど、頭に浮かぶ。
そんな自分に戸惑いながらも、胸の奥は少しだけ温かかった。
次の休みが、待ち遠しい。
そう思ってしまったことだけは、認めるしかなかった。