好きが止まらない

第7話 昔好きだった人

「店長って、昔好きだった人がいたらしいですよ」

その言葉を聞いたのは、本当に偶然だった。

仕事帰りだった。

カフェへ行くつもりはなかったのに、気づけば店の前まで来てしまっていた。

入ろうか。

やめようか。

そんなふうに迷っていた時だった。

店の前のテラス席で話していた常連客の会話が耳に入った。

「え? 本当ですか?」

「本当。本気だったみたいよ」

「じゃあ今でも忘れられないのかな」

「どうなんだろうね」

楽しそうな笑い声。

何気ない世間話。

けれど、私の足はそこで止まった。

店長。

昔好きだった人。

その言葉だけが頭の中に残る。

胸の奥が冷たくなった。

私はそのまま店に入れず、引き返した。



部屋へ戻っても落ち着かなかった。

考えなくていいことまで考えてしまう。

その人はどんな人だったのだろう。

綺麗な人だろうか。

明るい人だろうか。

私みたいに何も言えずに立ち止まる人ではなく、自分の気持ちをちゃんと伝えられる人だったのだろうか。

そう思うたび、胸が苦しくなる。

比べる資格なんてない。

そもそも比べる関係ですらない。

私はただの隣人だ。

ただの友人。

それ以上でも、それ以下でもない。

それなのに。

どうしてこんなに苦しいのだろう。



翌日。

図書館で返却された本を棚へ戻している時だった。

ふと、一冊の恋愛小説が目に入った。

主人公は片想いをしている女性。

最後まで気持ちを伝えられずに終わる物語だった。

以前なら何とも思わなかった。

けれど今は違う。

ページをめくるたびに、自分を見ているような気がした。

好きな人には忘れられない誰かがいる。

だから最初から勝ち目なんてない。

そう思い込んで諦める。

そんな主人公が、今の自分と重なった。

「雨宮さん?」

同僚の声に顔を上げる。

「大丈夫?」

「え?」

「顔色悪いよ」

慌てて笑う。

「ちょっと寝不足で」

また嘘をついた。

最近、自分は嘘ばかりだ。



数日後。

アパートへ帰ると、ドアノブに小さな紙袋が掛かっていた。

中を見る。

焼き菓子だった。

そしてメモが一枚。

『試作品です。感想聞かせてください。 悠真』

思わず目を閉じる。

優しい。

本当に優しい。

だから困る。

期待してしまうから。

紙袋を握りしめる。

嬉しい気持ちと苦しい気持ちが同時に押し寄せた。

もし何も知らなければ。

もしあの話を聞いていなければ。

きっと素直に喜べた。

でも今は違う。

彼の心には別の誰かがいる。

そう思ってしまう。



その夜。

私はレシピノートを開いた。

最後のページには、悠真さんが書いたメモが残っていた。

『また感想お願いします』

たったそれだけの言葉。

それなのに涙が出そうになる。

好きになってしまった。

認めたくなくても、もう無理だった。

好きだから会いたい。

好きだから話したい。

好きだから笑っていてほしい。

でも。

好きだからこそ近づけない。

届かない人を追いかけるのは苦しい。

私はノートを閉じた。

そして決める。

もう少し距離を置こう。

この気持ちが大きくなりすぎる前に。

忘れられなくなる前に。



一方その頃。

カフェ・ルーチェでは、閉店作業を終えた悠真が一人ため息をついていた。

レシピノートを開く。

最後に増えたページは二週間前。

それ以降は何もない。

「何かしたかな……」

答えは出ない。

会えない。

話せない。

理由も分からない。

それなのに気になる。

気になって仕方がない。

悠真はノートの端に視線を落とした。

そこには陽菜が書いた肉じゃがのレシピ。

自然と笑みが浮かぶ。

そして同時に、胸が締め付けられた。

会いたい。

その気持ちを、もう無視できなくなっていた。

けれど二人はまだ知らない。

同じ人を想いながら、正反対の方向へ歩こうとしていることを。

そして数日後。

大雨の夜が、止まっていた二人の時間を再び動かすことになる。
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