好きが止まらない

第7話 昔好きだった人

「店長って、昔好きだった人がいたらしいですよ」

その言葉を聞いたのは、本当に偶然だった。

仕事帰りだった。

カフェへ行くつもりはなかったのに、気づけば店の前まで来てしまっていた。

入ろうか。

やめようか。

そんなふうに迷っていた時だった。

店の前のテラス席で話していた常連客の会話が耳に入った。

「え? 本当ですか?」

「本当。本気だったみたいよ」

「じゃあ今でも忘れられないのかな」

「どうなんだろうね」

楽しそうな笑い声。

何気ない世間話。

けれど、私の足はそこで止まった。

店長。

昔好きだった人。

その言葉だけが頭の中に残る。

胸の奥が冷たくなった。

私はそのまま店に入れず、引き返した。

◇

部屋へ戻っても落ち着かなかった。

考えなくていいことまで考えてしまう。

その人はどんな人だったのだろう。

綺麗な人だろうか。

明るい人だろうか。

私みたいに何も言えずに立ち止まる人ではなく、自分の気持ちをちゃんと伝えられる人だったのだろうか。

そう思うたび、胸が苦しくなる。

比べる資格なんてない。

そもそも比べる関係ですらない。

私はただの隣人だ。

ただの友人。

それ以上でも、それ以下でもない。

それなのに。

どうしてこんなに苦しいのだろう。

◇

翌日。

図書館で返却された本を棚へ戻している時だった。

ふと、一冊の恋愛小説が目に入った。

主人公は片想いをしている女性。

最後まで気持ちを伝えられずに終わる物語だった。

以前なら何とも思わなかった。

けれど今は違う。

ページをめくるたびに、自分を見ているような気がした。

好きな人には忘れられない誰かがいる。

だから最初から勝ち目なんてない。

そう思い込んで諦める。

そんな主人公が、今の自分と重なった。

「雨宮さん?」

同僚の声に顔を上げる。

「大丈夫?」

「え?」

「顔色悪いよ」

慌てて笑う。

「ちょっと寝不足で」

また嘘をついた。

最近、自分は嘘ばかりだ。

◇

数日後。

アパートへ帰ると、ドアノブに小さな紙袋が掛かっていた。

中を見る。

焼き菓子だった。

そしてメモが一枚。

『試作品です。感想聞かせてください。 悠真』

思わず目を閉じる。

優しい。

本当に優しい。

だから困る。

期待してしまうから。

紙袋を握りしめる。

嬉しい気持ちと苦しい気持ちが同時に押し寄せた。

もし何も知らなければ。

もしあの話を聞いていなければ。

きっと素直に喜べた。

でも今は違う。

彼の心には別の誰かがいる。

そう思ってしまう。

◇

その夜。

私はレシピノートを開いた。

最後のページには、悠真さんが書いたメモが残っていた。

『また感想お願いします』

たったそれだけの言葉。

それなのに涙が出そうになる。

好きになってしまった。

認めたくなくても、もう無理だった。

好きだから会いたい。

好きだから話したい。

好きだから笑っていてほしい。

でも。

好きだからこそ近づけない。

届かない人を追いかけるのは苦しい。

私はノートを閉じた。

そして決める。

もう少し距離を置こう。

この気持ちが大きくなりすぎる前に。

忘れられなくなる前に。

◇

一方その頃。

カフェ・ルーチェでは、閉店作業を終えた悠真が一人ため息をついていた。

レシピノートを開く。

最後に増えたページは二週間前。

それ以降は何もない。

「何かしたかな……」

答えは出ない。

会えない。

話せない。

理由も分からない。

それなのに気になる。

気になって仕方がない。

悠真はノートの端に視線を落とした。

そこには陽菜が書いた肉じゃがのレシピ。

自然と笑みが浮かぶ。

そして同時に、胸が締め付けられた。

会いたい。

その気持ちを、もう無視できなくなっていた。

けれど二人はまだ知らない。

同じ人を想いながら、正反対の方向へ歩こうとしていることを。

そして数日後。

大雨の夜が、止まっていた二人の時間を再び動かすことになる。
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