好きが止まらない

第8話 会えない夜

閉店の札を掛ける。

店内には、コーヒーの香りだけが静かに残っていた。

「ふぅ……」

桐生悠真はカウンターに肘をつき、小さく息を吐く。

六月に入ってから、忙しい日が続いていた。

それでも以前なら、一日の終わりには少し楽しみな時間があった。

「今日はどんな本を読んだんですか?」

そんなふうに話しかける相手がいたからだ。

けれど最近は、その姿がない。

「……来ないな」

ぽつりと漏れた独り言は、静かな店内に消えていった。



店の奥から、一冊のノートを持ってくる。

表紙は少しくたびれてきていた。

二人で書き続けてきたレシピノート。

ページをめくる。

最初に書かれた肉じゃが。

優しい字。

どこか陽菜らしい、丁寧な文字だった。

「ちゃんと作れましたか?」

そう笑っていた顔を思い出す。

自然と口元が緩む。

その次のページには卵焼き。

さらにその次には簡単プリン。

ページをめくるたび、二人で過ごした時間が浮かんできた。

「あの頃は毎週来てくれてたのにな」

もう二週間以上、新しいページは増えていない。



最初は忙しいだけだと思っていた。

でも違った。

アパートですれ違っても、どこかぎこちない。

話しかけても、すぐに部屋へ戻ってしまう。

笑顔も少なくなった。

嫌われたのだろうか。

何か失礼なことを言っただろうか。

考えても思い当たることはない。

だから余計につらかった。

「分からないのが一番困るな」

苦笑いしながらノートを閉じる。

その時だった。

店のスタッフが片付けを終えて顔を出した。

「店長、お疲れさまでした」

「お疲れ」

「最近元気ないですね」

「そう見える?」

「見えますよ」

即答だった。

「好きな人とうまくいってないんですか?」

悠真は思わず手を止めた。

「……そんなに分かりやすい?」

「はい」

スタッフは笑う。

「店長、考え事するとコーヒー豆を同じ場所に並べ直す癖がありますから。」

カウンターを見る。

確かに無意識に並べ替えていた。

「図星ですね」

「……まあ」

否定できなかった。

「告白しないんですか?」

その質問に、悠真は少しだけ空を見上げた。

「今は無理かな」

「どうしてです?」

「避けられてるから」

そう答えるしかなかった。

もし迷惑なら。

もし嫌われているなら。

自分から追いかけることはできない。

彼女が困るようなことだけはしたくなかった。



スタッフが帰ったあと。

悠真は店の照明を一つだけ残して窓の外を眺めた。

ぽつり。

ぽつり。

ガラスに雨粒が当たり始める。

天気予報では、週末は大雨らしい。

「雨宮さん、傘持ってるかな」

真っ先に思い浮かんだのは、そのことだった。

思わず笑ってしまう。

自分でも呆れるくらい、彼女のことばかり考えている。

「参ったな」

完全に恋をしている。

もう認めるしかなかった。

初めて手料理を持ってきてくれた日。

本の話で笑い合った午後。

照れながらレシピを書いてくれた姿。

一つ一つが大切な思い出になっている。

だからこそ、会えない今が苦しかった。



一方、その頃。

陽菜もまた、自室の窓から雨雲を眺めていた。

レシピノートを胸に抱きしめながら。

会いたい。

でも会えない。

好きだから近づけない。

同じ夜。

同じ雨空の下で。

二人は同じ人を想っていた。

その気持ちを伝えられないまま。

そして翌日。

朝から降り続く雨が、二人をもう一度引き合わせる。

偶然ではなく、悠真自身の意思で。

陽菜を迎えに行くために。
< 8 / 10 >

この作品をシェア

pagetop