好きが止まらない

第8話 会えない夜

閉店の札を掛ける。

店内には、コーヒーの香りだけが静かに残っていた。

「ふぅ……」

桐生悠真はカウンターに肘をつき、小さく息を吐く。

六月に入ってから、忙しい日が続いていた。

それでも以前なら、一日の終わりには少し楽しみな時間があった。

「今日はどんな本を読んだんですか?」

そんなふうに話しかける相手がいたからだ。

けれど最近は、その姿がない。

「……来ないな」

ぽつりと漏れた独り言は、静かな店内に消えていった。

◇

店の奥から、一冊のノートを持ってくる。

表紙は少しくたびれてきていた。

二人で書き続けてきたレシピノート。

ページをめくる。

最初に書かれた肉じゃが。

優しい字。

どこか陽菜らしい、丁寧な文字だった。

「ちゃんと作れましたか?」

そう笑っていた顔を思い出す。

自然と口元が緩む。

その次のページには卵焼き。

さらにその次には簡単プリン。

ページをめくるたび、二人で過ごした時間が浮かんできた。

「あの頃は毎週来てくれてたのにな」

もう二週間以上、新しいページは増えていない。

◇

最初は忙しいだけだと思っていた。

でも違った。

アパートですれ違っても、どこかぎこちない。

話しかけても、すぐに部屋へ戻ってしまう。

笑顔も少なくなった。

嫌われたのだろうか。

何か失礼なことを言っただろうか。

考えても思い当たることはない。

だから余計につらかった。

「分からないのが一番困るな」

苦笑いしながらノートを閉じる。

その時だった。

店のスタッフが片付けを終えて顔を出した。

「店長、お疲れさまでした」

「お疲れ」

「最近元気ないですね」

「そう見える?」

「見えますよ」

即答だった。

「好きな人とうまくいってないんですか?」

悠真は思わず手を止めた。

「……そんなに分かりやすい?」

「はい」

スタッフは笑う。

「店長、考え事するとコーヒー豆を同じ場所に並べ直す癖がありますから。」

カウンターを見る。

確かに無意識に並べ替えていた。

「図星ですね」

「……まあ」

否定できなかった。

「告白しないんですか?」

その質問に、悠真は少しだけ空を見上げた。

「今は無理かな」

「どうしてです?」

「避けられてるから」

そう答えるしかなかった。

もし迷惑なら。

もし嫌われているなら。

自分から追いかけることはできない。

彼女が困るようなことだけはしたくなかった。

◇

スタッフが帰ったあと。

悠真は店の照明を一つだけ残して窓の外を眺めた。

ぽつり。

ぽつり。

ガラスに雨粒が当たり始める。

天気予報では、週末は大雨らしい。

「雨宮さん、傘持ってるかな」

真っ先に思い浮かんだのは、そのことだった。

思わず笑ってしまう。

自分でも呆れるくらい、彼女のことばかり考えている。

「参ったな」

完全に恋をしている。

もう認めるしかなかった。

初めて手料理を持ってきてくれた日。

本の話で笑い合った午後。

照れながらレシピを書いてくれた姿。

一つ一つが大切な思い出になっている。

だからこそ、会えない今が苦しかった。

◇

一方、その頃。

陽菜もまた、自室の窓から雨雲を眺めていた。

レシピノートを胸に抱きしめながら。

会いたい。

でも会えない。

好きだから近づけない。

同じ夜。

同じ雨空の下で。

二人は同じ人を想っていた。

その気持ちを伝えられないまま。

そして翌日。

朝から降り続く雨が、二人をもう一度引き合わせる。

偶然ではなく、悠真自身の意思で。

陽菜を迎えに行くために。
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