月影の彼方〜千年の約束〜

第十二話 約束



夏が終わり、秋になった。
虫たちの声が響くようになると、葵乃姫は再び床に着く時間が増えていった。


「姫様の容体は?」
「変わらん。食事を摂るのも難しいらしい」


屋敷の従者たちのそんな声を聞きながら、リッカはいつもの木の上から葵乃姫の部屋を眺めていた。

今にもその引き戸が開いて、顔色のいい葵乃姫が現れるんじゃないか、と期待してしまう自分が可笑しかった。

「……やはり命の火を少し伸ばすだけ、か」

そう呟き、自分の手を眺める。
その声は誰に届くこともなく消えていった。


夜、部屋に誰もいないことを確認して襖の前に立つと、リッカの気配に気付いた葵乃姫は静かにリッカの名前を呼んだ。

「リッカ、そこにいるんでしょう」

その声に、そっと襖を開ける。
葵乃姫は、布団の上に起き上がっていた。

「寝ていろ」

「平気よ。少し体調がいいの。食事も取れたわ」

リッカの視線が膳へ向く。

残された夕げは、ほとんど減っていなかった。

リッカの視線に気付いた葵乃姫は、

「本当に平気よ」

そう言って笑ってみせる。

けれど、その笑顔は今にも消えてしまいそうだった。

「亥子祭りに行きたいわ」

「また祭りか」

「祭りは季節の変わりを教えてくれるのよ。あなたと一緒に、秋を感じたいの」

その言葉に、リッカの指先がぴくりと震えた。

「月見祭りは見られたもの。今度もきっと大丈夫。それにリッカが一緒にいてくれるでしょう」

「……」

リッカは何も言えなかった。

ただ、葵乃姫を見つめる。

「それに、約束したでしょう」

葵乃姫の声が、切なく落ちた。

「海、連れて行ってくれるって。まだ行けてないもの」

「……」

葵乃姫はそれ以上、何も言わなかった。



それから、三日後のことだった。


「姫様の容体が!」

「旦那様は!」

「医者はまだ来ぬのか!」

バタバタと慌ただしく廊下をかける足音。

葵乃姫の部屋へ出入りする女中や従者たち。

リッカはその光景を外から眺めていた。

どうすることもできずに。


「リッカ様」

その時、葵乃姫の父親に名を呼ばれた。

「こちらへ。姫が呼んでいます」

父親は、リッカが部屋へ入るのを見届けると、廊下にいた他の従者へ声をかけた。

「……人払いを」



リーリーリー

鈴虫の鳴く声が、静かな部屋に響いていた。
布団に横たわる葵乃姫は、以前よりずっと小さく見えた。

「リッカ」

弱々しい声で名を呼ばれる。
リッカはそっと傍らに膝をついた。

「……ここにいる」

葵乃姫が安堵したように微笑む。

「よかった」

その顔を見た瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
もう長くない。
そんなことは、とうの昔にわかっていたはずなのに。

「リッカ」

葵乃姫が震える手を伸ばす。
今度は迷わなかった。
リッカはその手を包み込むように握る。

冷たい。
あまりにも。

「ごめんなさい」

「謝るな」

「約束、守れそうにないわ」

海。

祭り。

その先にあったはずの未来。

リッカは何も答えられなかった。

「リッカ」

「なんだ」

「忘れないで」

その言葉に、握る手へ力が入る。

「忘れぬ」

掠れた声で答える。

「百年経っても」

「千年経っても」

葵乃姫が微かに笑った。

「そうだったわね」

契約の夜。
自分に向けられた言葉を思い出したように。

「リッカ」

「……ああ」

「名前を呼んで」

リッカの瞳が揺れる。

「……葵乃」

初めて呼んだ夜と同じように。

葵乃姫が嬉しそうに目を細めた。

「ありがとう」

その声は、ひどく穏やかだった。

握った手から、ゆっくりと力が抜けていく。

「葵乃」

返事はない。

「……葵乃」

もう一度呼ぶ。

返事はない。

「葵乃」

何度呼んでも。

もう、その瞳が開くことはなかった。

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