乾杯はふたりだけの秘密
賢吾を送り出し、シャワーを浴びて身支度を整えた。時計の針は十二時を指している。何時に戻って来るとは聞かされていないが、連絡するのもおかしいような気がして、とりあえず待つことにした。
鍋に残っていた朝のおかゆを温め直し、冷蔵庫の残り物で昼食を済ませた。それから掃除機をかけて、再びダイニングの椅子に腰を下ろした。
クリスマスらしいものと言えば、ダイニングテーブルに飾っているポインセチアの鉢植えくらいのものだ。新田の誘いがなければ、危うく生まれて始めてのクリぼっちになるところだった。
ふと思いたってキッチンに向かい、冷蔵庫を覗いた。材料は揃っている。まだ食欲はないと言っていたが、シチューでも作ろうと、準備を始めた。
玉ねぎを切って、じゃがいもを切って、人参を半分程切ったところで、ふと思い立って手を止める。残りの人参を輪切りにして、引き出しからハートの型抜きを取り出した。これくらいの遊び心は必要だろう。
肉と野菜を炒め、しばらく煮込んでいる間に、別の小鍋にハート型の人参をそっと沈める。鍋の中でふわりと優しいオレンジ色が揺れると、まるで自分の気持ちを表しているようで気恥ずかしさが湧き上がった。
今度はそれを丁寧に掬い、皿の上で冷ます。崩れてしまった場合を考えて、予備に五つ茹でておいた。
傾いた冬の陽が部屋の中に柔らかく差し込んでいる。結衣は紅茶を淹れてソファで寛いでいた。簡単なグリーンサラダも用意し、他に何もすることがなくなって時間をもて余していた。完成したシチューはすっかり冷めてしまっただろう。
伸びをしてごろんと横になると、クッションから微かな香りがふわりと香った。
その瞬間、昨夜ここで眠っていた賢吾の姿が蘇った。ほんの数時間前に別れたばかりなのに、もう会いたいと思ってしまう。そんな自分に、結衣は戸惑いを隠せなかった。
時計の針は、四時十分を指している。長く伸びた窓枠の影が壁を這い、やがて訪れる夜の気配を静かに知らせていた。
インターホンが鳴ったのは、六時を少し過ぎた頃だった。ドアを開けると、はにかみ顔の賢吾が立っていた。
「これ、一緒に食べましょう」
手に提げていたチキンとケーキの箱、それにワインの入った縦長の紙袋を手渡された。
揚げたてチキンの香りがふわりと漂う。
「病み上がりで出歩いてたら駄目じゃん」
お礼よりも先にそんな言葉が口をついて出た。
「多分もう大丈夫だと思います。シャワー浴びたらスッキリしました」
「ごめんね。私がケーキでも食べようなんて言っちゃったから」
「違いますよ。俺も食べたかったし」
賢吾が屈託のない笑顔を浮かべた。
「ありがとう。寒かったでしょ、早く入って」
結衣は賢吾の前にスリッパを揃えて、中へと促した。
「何か旨そうな匂いしますね」
「ああ、シチュー作ったの」
「それって、もしかして俺のために作ってくれました?」
「え? ま、まあ……」
ハート型の人参まで仕込んでおきながら、濁すような返事をして、誤魔化すように続けた。
「まだ食欲ないって言ってたけど、食べれそうだったら一緒に食べようよ」
「すげえ嬉しいです」
賢吾が満面に笑みを広げた。
堂々と「嬉しい」と口にするくせに、それ以上の言葉は決して漏らさない。そんな賢吾の冷静で余裕な態度を崩したくなる。
シチューを温め直しながら、滅多に登場することがない来客用の上品な皿に、買ってきてくれたチキンとサラダを盛り付ける。ワインもお気に入りのグラスで飲みたい。
結衣はテーブルに料理を並べてから、グラスをふたつ用意した。
「ワイン開けますね」
「うん。ありがとう」
栓を開けると、賢吾がグラスに注いでくれた。
「新田君は?」
「俺はやめときます。禁酒中なんで」
わかっていたことだけれど、今日くらいは飲むのかと思って聞いてみただけだった。
「ねえ、禁酒は何か理由があってやってるの?」
「はい」
「そっか。もしかして、願掛けみたいな?」
「まあ、そんな感じで」
何となくそんな気がしていた。もちろん、願い事を聞くつもりはない。何かを犠牲にする願掛けは、願いというよりも覚悟に近いと感じ、気軽に触れてはいけない気がする。
「結構頑張ってるよね、すごいよ。それだけ叶えたい願い事があるってことだよね」
「まあ、そうですね……」
賢吾は濁すように答えた。話してもいいと思うなら、賢吾のほうから話してくるはずだ。これ以上は踏み込まないほうがいいだろう。
「願い事が叶ったらお祝いしないとね。いつか一緒に飲める時が来るといいね」
「はい」
ふたりはグラスを持ち上げた。
「じゃあ……メリークリスマス」
賢吾の柔らかな声が耳を撫でる。
「メリークリスマス」
グラスを軽く打ち鳴らし、ワインとウーロン茶で乾杯した。いつか賢吾の願い事が叶う時、隣にいるのが自分ならいいなと考えてしまう。
「あ、このワイン美味しい。すごい好みかも」
「良かったです」
「ワインよく飲んでたの?」
「いえ、普段はビールですけど、特別な日だけワイン開けますね。何か雰囲気でる感じするんで」
「へえ、お洒落だね」
そう返した後、よくよく考えて胸をときめかせた。
結衣には、今日が特別な日だと言っているように聞こえた。
「あっ」
隣から小さく漏れた声に、結衣は振り向いた。
「うん?」
賢吾の視線の先には、スプーンで掬い上げたハートの人参があった。
――気付いた。
「ハート」
「うん、可愛いでしょ?」
「はい」
盛り付けてから急に恥ずかしくなって、ルウの中に隠していた。
賢吾は口元を緩めてそれをしばらく見つめてから口に運んだ。
「旨いです」
「良かった」
そうしてすぐに、スプーンをルウの中へ潜らせた。ゆっくりと丁寧に、宝探しでもするように皿の中を探る様子に、胸の奥がくすぐったくなる。
ひとつだけだよ。
心の中でそう呟く。
鍋に残っていた朝のおかゆを温め直し、冷蔵庫の残り物で昼食を済ませた。それから掃除機をかけて、再びダイニングの椅子に腰を下ろした。
クリスマスらしいものと言えば、ダイニングテーブルに飾っているポインセチアの鉢植えくらいのものだ。新田の誘いがなければ、危うく生まれて始めてのクリぼっちになるところだった。
ふと思いたってキッチンに向かい、冷蔵庫を覗いた。材料は揃っている。まだ食欲はないと言っていたが、シチューでも作ろうと、準備を始めた。
玉ねぎを切って、じゃがいもを切って、人参を半分程切ったところで、ふと思い立って手を止める。残りの人参を輪切りにして、引き出しからハートの型抜きを取り出した。これくらいの遊び心は必要だろう。
肉と野菜を炒め、しばらく煮込んでいる間に、別の小鍋にハート型の人参をそっと沈める。鍋の中でふわりと優しいオレンジ色が揺れると、まるで自分の気持ちを表しているようで気恥ずかしさが湧き上がった。
今度はそれを丁寧に掬い、皿の上で冷ます。崩れてしまった場合を考えて、予備に五つ茹でておいた。
傾いた冬の陽が部屋の中に柔らかく差し込んでいる。結衣は紅茶を淹れてソファで寛いでいた。簡単なグリーンサラダも用意し、他に何もすることがなくなって時間をもて余していた。完成したシチューはすっかり冷めてしまっただろう。
伸びをしてごろんと横になると、クッションから微かな香りがふわりと香った。
その瞬間、昨夜ここで眠っていた賢吾の姿が蘇った。ほんの数時間前に別れたばかりなのに、もう会いたいと思ってしまう。そんな自分に、結衣は戸惑いを隠せなかった。
時計の針は、四時十分を指している。長く伸びた窓枠の影が壁を這い、やがて訪れる夜の気配を静かに知らせていた。
インターホンが鳴ったのは、六時を少し過ぎた頃だった。ドアを開けると、はにかみ顔の賢吾が立っていた。
「これ、一緒に食べましょう」
手に提げていたチキンとケーキの箱、それにワインの入った縦長の紙袋を手渡された。
揚げたてチキンの香りがふわりと漂う。
「病み上がりで出歩いてたら駄目じゃん」
お礼よりも先にそんな言葉が口をついて出た。
「多分もう大丈夫だと思います。シャワー浴びたらスッキリしました」
「ごめんね。私がケーキでも食べようなんて言っちゃったから」
「違いますよ。俺も食べたかったし」
賢吾が屈託のない笑顔を浮かべた。
「ありがとう。寒かったでしょ、早く入って」
結衣は賢吾の前にスリッパを揃えて、中へと促した。
「何か旨そうな匂いしますね」
「ああ、シチュー作ったの」
「それって、もしかして俺のために作ってくれました?」
「え? ま、まあ……」
ハート型の人参まで仕込んでおきながら、濁すような返事をして、誤魔化すように続けた。
「まだ食欲ないって言ってたけど、食べれそうだったら一緒に食べようよ」
「すげえ嬉しいです」
賢吾が満面に笑みを広げた。
堂々と「嬉しい」と口にするくせに、それ以上の言葉は決して漏らさない。そんな賢吾の冷静で余裕な態度を崩したくなる。
シチューを温め直しながら、滅多に登場することがない来客用の上品な皿に、買ってきてくれたチキンとサラダを盛り付ける。ワインもお気に入りのグラスで飲みたい。
結衣はテーブルに料理を並べてから、グラスをふたつ用意した。
「ワイン開けますね」
「うん。ありがとう」
栓を開けると、賢吾がグラスに注いでくれた。
「新田君は?」
「俺はやめときます。禁酒中なんで」
わかっていたことだけれど、今日くらいは飲むのかと思って聞いてみただけだった。
「ねえ、禁酒は何か理由があってやってるの?」
「はい」
「そっか。もしかして、願掛けみたいな?」
「まあ、そんな感じで」
何となくそんな気がしていた。もちろん、願い事を聞くつもりはない。何かを犠牲にする願掛けは、願いというよりも覚悟に近いと感じ、気軽に触れてはいけない気がする。
「結構頑張ってるよね、すごいよ。それだけ叶えたい願い事があるってことだよね」
「まあ、そうですね……」
賢吾は濁すように答えた。話してもいいと思うなら、賢吾のほうから話してくるはずだ。これ以上は踏み込まないほうがいいだろう。
「願い事が叶ったらお祝いしないとね。いつか一緒に飲める時が来るといいね」
「はい」
ふたりはグラスを持ち上げた。
「じゃあ……メリークリスマス」
賢吾の柔らかな声が耳を撫でる。
「メリークリスマス」
グラスを軽く打ち鳴らし、ワインとウーロン茶で乾杯した。いつか賢吾の願い事が叶う時、隣にいるのが自分ならいいなと考えてしまう。
「あ、このワイン美味しい。すごい好みかも」
「良かったです」
「ワインよく飲んでたの?」
「いえ、普段はビールですけど、特別な日だけワイン開けますね。何か雰囲気でる感じするんで」
「へえ、お洒落だね」
そう返した後、よくよく考えて胸をときめかせた。
結衣には、今日が特別な日だと言っているように聞こえた。
「あっ」
隣から小さく漏れた声に、結衣は振り向いた。
「うん?」
賢吾の視線の先には、スプーンで掬い上げたハートの人参があった。
――気付いた。
「ハート」
「うん、可愛いでしょ?」
「はい」
盛り付けてから急に恥ずかしくなって、ルウの中に隠していた。
賢吾は口元を緩めてそれをしばらく見つめてから口に運んだ。
「旨いです」
「良かった」
そうしてすぐに、スプーンをルウの中へ潜らせた。ゆっくりと丁寧に、宝探しでもするように皿の中を探る様子に、胸の奥がくすぐったくなる。
ひとつだけだよ。
心の中でそう呟く。