乾杯はふたりだけの秘密
 電車が駅に近付く。
 通勤に時間をかけたくないと思って決めたはずのマンションなのに、今日だけは、もっと遠ければ良かったのに、と結衣は過去の自分を恨んだ。
 階段を上り終え、地下鉄の出口で立ち止まると、すぐに信号が青に変わった。
「じゃあ先輩、良いお年を」
 賢吾が笑顔を向け、頭を下げた。その言葉は、これで今年は最後だということを意味する。
「新田君も、良いお年を……」
 手を振った後、結衣は立ち止まったままで歩道を歩く賢吾の後ろ姿を見つめていた。
 初詣の約束は結局どうなったのだろう。まさやんの冗談として流れたのだろうか。
 そんな事を考えていると、不意に賢吾が振り返った。体を反らせるような体勢で横断歩道に向けられた視線が彷徨っているように見える。
 やがて、その視線がこちらを向いた。
 賢吾の口から「おっ」と漏れたように見えた次の瞬間には、小走りで引き返してきた。
「そんな可愛いことするの、反則ですよ」
 賢吾が困ったように眉を寄せた。
「あの、えっと……何か、つい……」
 もう言い逃れは出来ない。
「やっぱ家まで送ります」
 言われて、結衣は遠慮がちに頷いた。信号の待ちの時間がやけに長く感じる。
「あのさ、初詣の話なんだけど」
「ああ、すみません。何か勢いであんなこと言ってしまって」
 やっぱり本気ではなかったのかと、結衣は少しがっかりした。
「先輩が微妙な返事したから思い出したんです」
「え?」
「人混み苦手だって言ってましたよね。すみません」
 それは確かにそうだけれど、微妙な返事をしたのは、まさやんがいて気まずかったからだ。
「ううん、大丈夫。初詣なんて混んでるもんだし」
 それは、一緒に行きたいと言っているようなものだ。
「じゃあ、三が日を外して行きましょうか。近くの神社なら、だいぶ人も少なくなってると思うんで」
「うん。ありがとう」
 賢吾の気遣いにときめきが溢れる。
「じゃあ、また連絡します」
「うん」
 きっと自分はその言葉を待っていたのだろう。約束があれば、別れだって辛くない。まあ別れと言っても、ただの正月休みだけど。
「寒いので早く中入ってください」
 マンションのエントランスの前で、賢吾が急かすように背中を押して促してくる。
「送ってくれてありがとう」
 手を振ると、賢吾は柔らかな笑顔を向けながら手を上げた。
 今度は見送らないほうがいいだろう。もしもまた賢吾が振り返れば、一度目は可愛くても、二度目はうざい女に映ってしまうかもしれない。
 そう考えながらガラス扉に手を掛けたところで、結衣はどうしても我慢しきれずに振り返った。
「マジで帰れなくなりますから」
 賢吾はまだ体を真正面に向けたままで、こちらを見ていた。その表情は、照れ臭さが隠しきれていないように見える。
 今年の見納めとしては大満足だった。
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