乾杯はふたりだけの秘密
人の気配に振り向くと、そこには表情を強張らせた賢吾が立っていた。
「何やってるんですか?」
「あ、新田君! どうしてここに?」
この道は帰宅ルートとは逆方向だ。
「楽しいデートではなさそうに見えますけど」
賢吾が佐々木に鋭い視線を向けた。
「何だよ、またお前かよ! 関係ねえだろ。今から結衣ちゃんとふたりきりで大事な話しようと思ってたとこなんだよ。邪魔しねえでほしいんだけど」
「そうなんですか、黒見先輩?」
賢吾が訝しげに顔を覗き込んできた。自分が断れば、秘密がバラされて賢吾はクビになってしまうかもしれない。もうどうすればいいのかわからない。
結衣は賢吾から視線を逸らした。
「ほらな、そういうことだから。結衣ちゃん行こっか」
佐々木の手が伸びてきた瞬間、不意に賢吾に腕を掴まれた。
「――行かない!」
「え、マジで行かねえの?」
佐々木が脅すような圧をかけてくる。
「じゃあそういうことで」
すかさず賢吾が冷ややかに言い放った。
「何なんだよ、お前。マジうぜえ!」
佐々木は賢吾を睨み付けながら悪態をつく。
「俺に文句があるなら、後日個人的に聞きますので。あ、素面の時にお願いしますね」
賢吾の冷静な態度が佐々木の神経を逆撫でした。
「はあ? お前舐めてんのか!」
佐々木の怒鳴り声が通りに響く。
「お客様、これ以上騒がれますと、通報いたします」
店員がエプロンのポケットからスマホを取り出した。
「なんなんだよ、どいつもこいつも――。とりあえず今日んとこは帰ってやるけど、覚えとけよ!」
佐々木は舌打ちをして背を向けた。
「ご迷惑おかけしました。助かりました、ありがとうございます」
賢吾が男性店員に頭を下げるのを目にして、結衣も慌てて謝罪した。
「本当にすみませんでした」
「今度、改めて伺わせてもらいますので」
賢吾はもう一度深々と頭を下げた。
「是非、お待ちしております。では、お気をつけて」
店員は安堵の表情を浮かべ、店内に戻っていった。
結衣は何を話せばいいのかわからず黙り込んだ。
「あいつと飲みに行ってたんですか?」
「違うの」
「何が違うんですか? 今この店からふたりで出てきたところだったんですよね?」
「そうだけど、何ていうか、流れで……」
賢吾が呆れたようにため息を漏らした。
「まあ同じ部署の仲間だし、付き合いなら仕方ないと思いますけど、よりによって、何で佐々木先輩なんですか」
「違うの!」
「俺、前に言いましたよね? 佐々木先輩に誘われても断ってくださいって」
「……うん」
警戒心が無さすぎた。それに、賢吾は新年会でも女子社員からの誘いを全て断っていた。曖昧にしたり、期待を持たせたりもしなかった。もしかすると、自分の知らないところでもっと色んな誘いがあって、断ってきたのかもしれない。
今度は賢吾が目を逸らして黙り込んだ。その表情には、結衣が今まで目にしたことがないくらいの激しい感情が滲んでいた。そしてそれを抑えるかのように、下唇を噛み締めている。今にも血が滲んできそうなくらいに。
「帰りましょう」
賢吾は冷静な声で、目も合わせずに言った。もう話しかけることができる雰囲気ではなかった。
車内でも駅を出てからも、賢吾はひとことも喋らない。ただ、ぼんやりと信号待ちをしている。こんな状況でも家まで送ってくれるということだろうか。
信号が青に変わった。気まずさに耐えきれず、結衣は一歩下がって賢吾の斜め後ろを歩いた。
数歩進むと、賢吾が確認するように振り向いて足を止めた。そうして結衣が真横に並ぶと、再び歩調を合わせて歩き始めた。
その仕草に胸が締め付けられる。
「じゃあ、明日会社で」
マンションの前でそう口にした賢吾に、いつもの笑顔はない。
「送ってくれてありがとう」
それだけ言って、結衣はエントランスの階段を上った。ガラス扉に手をかけて立ち止まったが、怖くて振り向くことができず、そのまま扉を押し開けて中へ入った。
恋人ではないし、面と向かって好きだと言われたわけでもない。それでも、これは賢吾への裏切り行為になるのだろうか。賢吾が言ったように、同じ部署の仲間との付き合いもある。誘いに乗ったことを謝るのは違う気もする。
そんな考えが結衣の頭の中を巡っていた。
けれど、賢吾があれほどまでに激しい感情を滲ませたことは今まで一度もなかった。その感情は、ただの怒りだけのようには思えなかった。悔しさのような、悲しさのような、やるせなさのような――
クリスマスに思わぬ邪魔が入ったあと賢吾が溢したのは、佐々木の誘いは断ってほしいという言葉だった。どんな理由があろうと、そこを守らなかった自分は、やっぱり悪かったのだろう。
結衣は賢吾との会話を思い出し、言い訳ばかりを口にしようとしていた自分に気付いた。
やっぱり悪いのは自分のほうだ。賢吾に謝ろう。
『約束破ってごめんね』
笑顔もなく、帰りはほとんど口を聞いてくれなかった賢吾からのメールの返事は、数秒後に届いた。
『明日の夜、会えますか?』
『うん。仕事が終わったら家に寄ってほしい。何時でも大丈夫だから』
『わかりました』
明日、まずは謝って、それから事の経緯をきちんと話そう。
そう決心すると、少しだけ心が軽くなったような気がした。
「何やってるんですか?」
「あ、新田君! どうしてここに?」
この道は帰宅ルートとは逆方向だ。
「楽しいデートではなさそうに見えますけど」
賢吾が佐々木に鋭い視線を向けた。
「何だよ、またお前かよ! 関係ねえだろ。今から結衣ちゃんとふたりきりで大事な話しようと思ってたとこなんだよ。邪魔しねえでほしいんだけど」
「そうなんですか、黒見先輩?」
賢吾が訝しげに顔を覗き込んできた。自分が断れば、秘密がバラされて賢吾はクビになってしまうかもしれない。もうどうすればいいのかわからない。
結衣は賢吾から視線を逸らした。
「ほらな、そういうことだから。結衣ちゃん行こっか」
佐々木の手が伸びてきた瞬間、不意に賢吾に腕を掴まれた。
「――行かない!」
「え、マジで行かねえの?」
佐々木が脅すような圧をかけてくる。
「じゃあそういうことで」
すかさず賢吾が冷ややかに言い放った。
「何なんだよ、お前。マジうぜえ!」
佐々木は賢吾を睨み付けながら悪態をつく。
「俺に文句があるなら、後日個人的に聞きますので。あ、素面の時にお願いしますね」
賢吾の冷静な態度が佐々木の神経を逆撫でした。
「はあ? お前舐めてんのか!」
佐々木の怒鳴り声が通りに響く。
「お客様、これ以上騒がれますと、通報いたします」
店員がエプロンのポケットからスマホを取り出した。
「なんなんだよ、どいつもこいつも――。とりあえず今日んとこは帰ってやるけど、覚えとけよ!」
佐々木は舌打ちをして背を向けた。
「ご迷惑おかけしました。助かりました、ありがとうございます」
賢吾が男性店員に頭を下げるのを目にして、結衣も慌てて謝罪した。
「本当にすみませんでした」
「今度、改めて伺わせてもらいますので」
賢吾はもう一度深々と頭を下げた。
「是非、お待ちしております。では、お気をつけて」
店員は安堵の表情を浮かべ、店内に戻っていった。
結衣は何を話せばいいのかわからず黙り込んだ。
「あいつと飲みに行ってたんですか?」
「違うの」
「何が違うんですか? 今この店からふたりで出てきたところだったんですよね?」
「そうだけど、何ていうか、流れで……」
賢吾が呆れたようにため息を漏らした。
「まあ同じ部署の仲間だし、付き合いなら仕方ないと思いますけど、よりによって、何で佐々木先輩なんですか」
「違うの!」
「俺、前に言いましたよね? 佐々木先輩に誘われても断ってくださいって」
「……うん」
警戒心が無さすぎた。それに、賢吾は新年会でも女子社員からの誘いを全て断っていた。曖昧にしたり、期待を持たせたりもしなかった。もしかすると、自分の知らないところでもっと色んな誘いがあって、断ってきたのかもしれない。
今度は賢吾が目を逸らして黙り込んだ。その表情には、結衣が今まで目にしたことがないくらいの激しい感情が滲んでいた。そしてそれを抑えるかのように、下唇を噛み締めている。今にも血が滲んできそうなくらいに。
「帰りましょう」
賢吾は冷静な声で、目も合わせずに言った。もう話しかけることができる雰囲気ではなかった。
車内でも駅を出てからも、賢吾はひとことも喋らない。ただ、ぼんやりと信号待ちをしている。こんな状況でも家まで送ってくれるということだろうか。
信号が青に変わった。気まずさに耐えきれず、結衣は一歩下がって賢吾の斜め後ろを歩いた。
数歩進むと、賢吾が確認するように振り向いて足を止めた。そうして結衣が真横に並ぶと、再び歩調を合わせて歩き始めた。
その仕草に胸が締め付けられる。
「じゃあ、明日会社で」
マンションの前でそう口にした賢吾に、いつもの笑顔はない。
「送ってくれてありがとう」
それだけ言って、結衣はエントランスの階段を上った。ガラス扉に手をかけて立ち止まったが、怖くて振り向くことができず、そのまま扉を押し開けて中へ入った。
恋人ではないし、面と向かって好きだと言われたわけでもない。それでも、これは賢吾への裏切り行為になるのだろうか。賢吾が言ったように、同じ部署の仲間との付き合いもある。誘いに乗ったことを謝るのは違う気もする。
そんな考えが結衣の頭の中を巡っていた。
けれど、賢吾があれほどまでに激しい感情を滲ませたことは今まで一度もなかった。その感情は、ただの怒りだけのようには思えなかった。悔しさのような、悲しさのような、やるせなさのような――
クリスマスに思わぬ邪魔が入ったあと賢吾が溢したのは、佐々木の誘いは断ってほしいという言葉だった。どんな理由があろうと、そこを守らなかった自分は、やっぱり悪かったのだろう。
結衣は賢吾との会話を思い出し、言い訳ばかりを口にしようとしていた自分に気付いた。
やっぱり悪いのは自分のほうだ。賢吾に謝ろう。
『約束破ってごめんね』
笑顔もなく、帰りはほとんど口を聞いてくれなかった賢吾からのメールの返事は、数秒後に届いた。
『明日の夜、会えますか?』
『うん。仕事が終わったら家に寄ってほしい。何時でも大丈夫だから』
『わかりました』
明日、まずは謝って、それから事の経緯をきちんと話そう。
そう決心すると、少しだけ心が軽くなったような気がした。