乾杯はふたりだけの秘密
八時過ぎにインターホンが鳴った。モニターには、俯く賢吾の姿が映っていた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「入って」
「はい、お邪魔します」
一瞬たりとも笑顔を見せてくれない。息苦しいほどの切なさが込み上げてきた。
賢吾は椅子に腰かけると、真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「先輩は、俺が他の女とふたりでこっそり飲みに行っても、何も思いませんか?」
結衣が返事に窮していると、賢吾は続けた。
「新年会で柏木さんに誘われた時、先輩が俺の袖を引っ張ったのは、嫌だっていう意味だと思ったんですけど、違いましたか?」
「違わない」
昨日、不意に賢吾に腕を捕まれた時、そのことが脳裏に浮かんで、佐々木にきっぱりと断った。
「じゃあ、俺もそれと同じ気持ちだったって言ったらわかってもらえますか?」
「うん。ごめん」
そう言われると納得できるし、素直に謝れる。
「もし先輩に何かあったら、俺、あいつ許しませんよ」
賢吾の口から初めて、“あいつ”という言葉を聞いた気がする。目が本気だった。もしも佐々木と揉めるようなことになれば、それこそ会社にいられなくなる。
「昨日、新田君が通りかかってくれてよかった」
賢吾の顔を見た瞬間、何とも言えない安堵感に包まれた。
「ああ、実は通りかかったわけじゃないんです」
「え?」
「店に先輩が来てるって連絡があったんです」
「誰から?」
「來未、覚えてますか? 初詣の帰りに行ったカフェで会った子」
一瞬、胸がざわついた。
「うん、覚えてる」
あの日の彼女の服装や着けていたアクセサリーまではっきりと覚えている。
「彼女がお店にいたの?」
「いえ、あの店、來未の店だったみたいで」
「えーっ!? そうだったんだ」
「はい。たまたま厨房から先輩の姿が見えたらしくて、チャラそうな男と一緒に来てるって連絡あって。何か嫌な予感したから、見張っててって頼んだんです。そしたら、やっぱりあいつだった」
あまりにも出来すぎた話に、偶然という言葉が急に信用できなくなった。
「もしかして、それで?」
「何ですか?」
「店員にすっごい見られてる気がしてたの。佐々木君が騒がしくしたからだと思ってたんだけど」
「ああ、それは俺のせいかもしれません。絶対に目離さないように頼んだから」
「え、そんなこと言ったの?」
「はい。もし俺が間に合わなかったら、絶対に見失わないようにふたりの後付けて、とも言いました」
結衣は言葉を詰まらせた。
自分の知らないところで、店員まで巻き込んでの騒動になっていたなんて。
「何も考えないでのこのこ付いて行くから、あんなことになるんですよ」
その通りだ。賢吾の言葉が胸に深く突き刺さる。けれど、どうしても自分の言い分を聞いてほしかった。
「もちろん断らなかったのは私が一番悪いんだけど、断れない状況って言うか、言い方悪いけど、嵌められたって言うか……。でもすぐに帰るつもりだったの。お酒だって一滴も飲んでない。ほんとなの」
他の誰に誤解されても構わないが、賢吾にだけは誤解されたくなかった。
「そうだったんですね。それは偉かったと思います」
一瞬、賢吾が表情を緩めた。不意に涙腺が緩んで、鼻の奥がつんとした。
「俺も昨日はちょっと腹が立ってて、きつい言い方になったかもしれません。最後まで先輩の話聞けなくてすみませんでした」
言い訳ばかりしようとした自分に対して、素直に謝罪してくれる賢吾を前に、結衣は何も言えなくなった。
「でも、先輩が飲まなくてもあのざまですから。店員が出てこなかったら、あのまま無理やり連れ回されてたかもしれないんですよ?」
「そうだよね。これからは気を付ける」
「はい、そうしてください」
誤解が解けて心底ほっとしていた。こんなことなら、初めから賢吾に連絡しておけばよかった。
「あ、ごめんね。コーヒーでも淹れるね」
腰を浮かせた瞬間だった。
不意に、手首を掴まれる。
「え――」
思ったよりも強い力に引かれて、体がぐらりと傾いた。次の瞬間には、賢吾の腕の中にいた。
抱きしめられている、と理解するまでに、数秒かかった。
「新田君?」
賢吾は何も応えない。ただ、背中に回された腕の力だけが、じわりと強くなる。
「コーヒー、後ででいっか」
「はい」
結衣は躊躇いながら賢吾の背中に腕を回した。抱きしめる力がほんの少しだけ緩んで、代わりに安堵のような気配が伝わってくる。
「ごめんね」
自分の軽はずみな行動で賢吾の心を傷付けてしまったことを後悔していた。賢吾の真摯な想いが、ゆっくりと胸の奥へ染み込んでいくようだった。
「もう大丈夫です」
賢吾が首筋に顔を埋めてくる。
好きが溢れる――
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「入って」
「はい、お邪魔します」
一瞬たりとも笑顔を見せてくれない。息苦しいほどの切なさが込み上げてきた。
賢吾は椅子に腰かけると、真っ直ぐな眼差しを向けてきた。
「先輩は、俺が他の女とふたりでこっそり飲みに行っても、何も思いませんか?」
結衣が返事に窮していると、賢吾は続けた。
「新年会で柏木さんに誘われた時、先輩が俺の袖を引っ張ったのは、嫌だっていう意味だと思ったんですけど、違いましたか?」
「違わない」
昨日、不意に賢吾に腕を捕まれた時、そのことが脳裏に浮かんで、佐々木にきっぱりと断った。
「じゃあ、俺もそれと同じ気持ちだったって言ったらわかってもらえますか?」
「うん。ごめん」
そう言われると納得できるし、素直に謝れる。
「もし先輩に何かあったら、俺、あいつ許しませんよ」
賢吾の口から初めて、“あいつ”という言葉を聞いた気がする。目が本気だった。もしも佐々木と揉めるようなことになれば、それこそ会社にいられなくなる。
「昨日、新田君が通りかかってくれてよかった」
賢吾の顔を見た瞬間、何とも言えない安堵感に包まれた。
「ああ、実は通りかかったわけじゃないんです」
「え?」
「店に先輩が来てるって連絡があったんです」
「誰から?」
「來未、覚えてますか? 初詣の帰りに行ったカフェで会った子」
一瞬、胸がざわついた。
「うん、覚えてる」
あの日の彼女の服装や着けていたアクセサリーまではっきりと覚えている。
「彼女がお店にいたの?」
「いえ、あの店、來未の店だったみたいで」
「えーっ!? そうだったんだ」
「はい。たまたま厨房から先輩の姿が見えたらしくて、チャラそうな男と一緒に来てるって連絡あって。何か嫌な予感したから、見張っててって頼んだんです。そしたら、やっぱりあいつだった」
あまりにも出来すぎた話に、偶然という言葉が急に信用できなくなった。
「もしかして、それで?」
「何ですか?」
「店員にすっごい見られてる気がしてたの。佐々木君が騒がしくしたからだと思ってたんだけど」
「ああ、それは俺のせいかもしれません。絶対に目離さないように頼んだから」
「え、そんなこと言ったの?」
「はい。もし俺が間に合わなかったら、絶対に見失わないようにふたりの後付けて、とも言いました」
結衣は言葉を詰まらせた。
自分の知らないところで、店員まで巻き込んでの騒動になっていたなんて。
「何も考えないでのこのこ付いて行くから、あんなことになるんですよ」
その通りだ。賢吾の言葉が胸に深く突き刺さる。けれど、どうしても自分の言い分を聞いてほしかった。
「もちろん断らなかったのは私が一番悪いんだけど、断れない状況って言うか、言い方悪いけど、嵌められたって言うか……。でもすぐに帰るつもりだったの。お酒だって一滴も飲んでない。ほんとなの」
他の誰に誤解されても構わないが、賢吾にだけは誤解されたくなかった。
「そうだったんですね。それは偉かったと思います」
一瞬、賢吾が表情を緩めた。不意に涙腺が緩んで、鼻の奥がつんとした。
「俺も昨日はちょっと腹が立ってて、きつい言い方になったかもしれません。最後まで先輩の話聞けなくてすみませんでした」
言い訳ばかりしようとした自分に対して、素直に謝罪してくれる賢吾を前に、結衣は何も言えなくなった。
「でも、先輩が飲まなくてもあのざまですから。店員が出てこなかったら、あのまま無理やり連れ回されてたかもしれないんですよ?」
「そうだよね。これからは気を付ける」
「はい、そうしてください」
誤解が解けて心底ほっとしていた。こんなことなら、初めから賢吾に連絡しておけばよかった。
「あ、ごめんね。コーヒーでも淹れるね」
腰を浮かせた瞬間だった。
不意に、手首を掴まれる。
「え――」
思ったよりも強い力に引かれて、体がぐらりと傾いた。次の瞬間には、賢吾の腕の中にいた。
抱きしめられている、と理解するまでに、数秒かかった。
「新田君?」
賢吾は何も応えない。ただ、背中に回された腕の力だけが、じわりと強くなる。
「コーヒー、後ででいっか」
「はい」
結衣は躊躇いながら賢吾の背中に腕を回した。抱きしめる力がほんの少しだけ緩んで、代わりに安堵のような気配が伝わってくる。
「ごめんね」
自分の軽はずみな行動で賢吾の心を傷付けてしまったことを後悔していた。賢吾の真摯な想いが、ゆっくりと胸の奥へ染み込んでいくようだった。
「もう大丈夫です」
賢吾が首筋に顔を埋めてくる。
好きが溢れる――