乾杯はふたりだけの秘密
 その週の土曜日、結衣は菓子折りを持って來未の店を訪れた。店内はまだ薄暗く、入り口には準備中のプレートが掛かっていた。
 ガラス扉の前に立つと、中から店員が出てきた。あの日、店の外まで出てきてくれた男性だった。
「あの……先日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「ああ、いえ。お役に立てたなら良かったです」
「本当にありがとうございました。あの、それで……來未さん、おられますか?」
 オーナーと言えば伝わるのか、店主と言えばよかったのか、苗字のわからない人を何と呼ぶべきか迷って、わかっている下の名前を口にした。
「はい。今仕込み中ですので呼んできます。よければ中でお待ちください」
「ありがとうございます」
 結衣は案内されたソファに腰を下ろした。店内には、炒めた玉ねぎとバターの甘い香りが漂っている。
 しばらくすると、エプロン姿の來未が姿を見せた。
「お待たせしてすみません」
「あ、いえ。こちらこそ突然すみません。先日はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。ここが來未さんのお店だって新田君に聞いて」
「そうなんです。それで……お怪我はもう大丈夫ですか?」
「ああ、はい。先程の男性がお店の外まで出てきてくれたおかげで、かすり傷で済みました」
「そうですか。お役に立てて良かったです。色んなお客様がいらっしゃるので、お店を営業するにあたってやっぱり女性だけだと不安な部分も多々あって……。だから用心棒の意味も込めて、うちは体育会系のがっしりした男性を採用するようにしてるんです」
 來未は親しみのこもった茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべた。それなのに――
 嫉妬心に駆られた女は怖い。
 あの日カフェで、來未とは知り合いだと聞いたにも関わらず、結衣の心の中の靄は消えてはいなかった。それは、あくまで賢吾の話であって、來未の気持ちまではわからない。カフェで見せた品定めするような彼女の眼差しに、結衣は心に秘めた何かを感じ取っていた。
「あの、これ……良かったら皆さんで召し上がってください」
 結衣は胸の奥に湧き上がる醜い感情を押し殺し、笑みを浮かべながら菓子折りを差し出した。
「ああ、お気遣いありがとうございます」
 來未は両手で受け取ると、満面に笑顔を広げた。
 店を選んだのは佐々木なのだから、彼女の店に行ったのは偶然だとしても、彼女がわざわざ賢吾に連絡したことがどうしても納得いかなかった。結衣には、その行為が告げ口としか思えなかった。
 他の男と楽しんでいる――と。
「あの、間違っていたらごめんなさい。結衣さん、ですか?」
「え?」
 結衣は來未の顔をまじまじと見た。彼女とは初詣の日にカフェで会ったのが初めてのはずだ。
「どうして私の名前を?」
「やっぱり!」
 來未は弾けるような笑顔を見せた。
「賢吾君から昔聞いたことがあって。あ、賢吾君と私の元カレが友達で……」
「はい、彼から聞いてます」
 何でも知っている彼女が妬ましくて、ついそんな言い方をした。
「あの当時から、賢吾君、結衣さんのことが好きだったんじゃないかなと思います」
「え?」
「あ、好きだとは言ってなかったんですけどね」
 彼女は含みを持たせるような言い方をした。
 賢吾は、自分のことを彼女に何と話したのだろう。カフェで会った時には、はっきりと会社の先輩だと紹介された。正体を隠していることを話したのだろうか。
「でも私からしてみれば、賢吾君の言葉は、結衣さんにしか興味がないって聞こえたんですよね」
 続けながら、來未が可笑しそうに笑う。
「私、彼とは全然そういう関係じゃなかったんだけど」
 結衣は一番口にしたくなかった言葉をこぼした。
「しっかりしてるように見えて、ちょっと抜けてるとこがすげえ可愛いって言ってましたよ。なんか危なっかしくてほっとけねえって。あとは、しつこいくらい俺に構ってくるとこがすげえウザイけどって嬉しそうに話してました」
「でも、それ私のことじゃないかも」
「いえ。その話を元カレにしたら『結衣姉』って人だって教えてくれたんです。賢吾君の初恋の人だって」
 ――初恋?
「冷たそうに見えるけど、笑った時に口元にできる小さいえくぼの威力、マジやべえって」
「やだ、そんなことまで」
 結衣は思わず手のひらで口元を隠した。
「この前カフェで結衣さんが笑顔で挨拶してくれた時に、口元の小さいえくぼ見付けて、思わず見入ってしまって」
 あの時感じていた視線の理由を、どうやら勘違いしていたようだ。
「あ、これ以上はやめときますね。さすがに怒られちゃう」
 散々しゃべったあとに、來未はとぼけた表情で唇に指先を当てた。
 結衣の嫉妬心は、彼女の柔らかい笑顔にゆっくりと吸い込まれ、跡形もなく消えていた。

 完全に舞い上がっていた。自惚れていた。そして、大事なことがすっぽり抜け落ちていた。
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