乾杯はふたりだけの秘密
通りはまだ宵の気配を残しながら、どこか艶めいている。
駅前に到着し、ゆっくりと歩きながら辺りを見渡す。教えられた店はこのあたりのはずなのに、それらしい店が見当たらない。結衣は再びスマホを開いた。
あ、地下なんだ。
視線を巡らせると、ふと引っかかるものがあった。
建物の陰に寄り添うように置かれた小さなスタンド看板。結衣は近付いて確認した。
――灯影。
細い線で記されたその二文字の下に、小さく「B1F」とあった。看板の脇には、細い階段がひっそりと口を開けていた。
手すりに仕込まれた控えめな灯りが、段差を淡く縁取っている。階段を下りた先には木製の扉があった。何となく違和感を覚えながらも、結衣はゆっくりと扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声が心を和ませる。
「あの、木村で予約してると思うんですけど」
「はい、承っております。奥へどうぞ」
案内されるままに足を進めるが、のんべえ会とは縁がなさそうなあまりに落ち着いた雰囲気に、結衣は戸惑いを隠せなかった。壁と同化していて気付かなかったが、よく見ると、壁には細い取っ手がいくつか並んでいる。店員はそのひとつに手を掛けた。
「どうぞ」
「あの……木村の予約で間違いないですか?」
もう一度店員に確認する。
「間違いないよ」
その声に振り向くと、佐々木が何食わぬ顔で立っていた。
「え、どういうこと?」
「だって結衣ちゃん、俺が普通に誘ったって来てくれないだろ?」
結衣は耳を疑った。
「はあ? だからって――」
「お客様、こちらでよろしいですか?」
店員が佐々木に尋ねた。
「あー……っと」
今度は佐々木が顔色を窺うように視線を向けてくる。今すぐにでも店を出たいところだが、こんなところで声を上げると、落ち着いた店の雰囲気を損ねてしまう気がした。
「あの、そっちのテーブル席でも大丈夫ですか?」
結衣はさりげなく店員に尋ねた。
「もちろんです。どうぞ」
静かに椅子がひかれ、エスコートされる。
「ご注文は後ほど伺いにまいります」
店員は何事もなかったように柔らかい笑顔を見せ、礼儀正しく頭を下げて離れていった。
腸が煮えくり返っていた。佐々木のことを悪い人間ではないと少しでも思ってしまった自分の人を見る目のなさにも苛立ちを覚える。
結衣はバックからスマホを取り出して操作するが、電波が悪いのかなかなか繋がらない。
「怒ってる?」
「当たり前でしょ。私帰るよ」
言いながら、指先は何度も通話ボタンをタップしていた。
「前の続き。新田の話、聞かなくていいの?」
佐々木は探るような視線を向けてきた。
「もういいじゃない。佐々木君、黙っててあげてよ。私からのお願い」
「新田のこと庇うんだ」
「そりゃそうでしょ」
「でも、タダじゃ無理」
「はあ? 金銭目的?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
佐々木がテーブルに肘を付き、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「俺と一晩付き合ってよ」
佐々木が小声で囁いた時、ドアベルの音が響き、結衣は思わず入り口に目を向けた。
「あ、新田君」
「はあ? なんで」
振り向いて入り口に目を向けた佐々木が、驚きと苦い表情を同時に浮かべた。
賢吾は店員と言葉を交わしてから、無表情でこちらに近付いてきた。
「ごめん! 私、新田君に連絡しようと思ったんだけど、電波が悪くて繋がらなくて」
「知ってます」
「え?」
賢吾の視線が佐々木に向けられた。
「佐々木先輩、ちょっと外で話せますか?」
「はあ? 何の話だよ」
佐々木はしかめ面で新田を見上げた。
「俺は別にここでも構いませんけど」
そう返した賢吾の眼差しには、言葉以上の威圧感があった。
「先輩は先に和味に行ってください。木村先輩と中島先輩が心配して待ってますから」
不意に、賢吾の手が肩に触れた。
「新田君は?」
「俺は佐々木先輩と話が終わったらすぐ行きますので」
「……うん、わかった」
結衣は荷物を持つと、佐々木とは目も合わせず席を立った。
駅前に到着し、ゆっくりと歩きながら辺りを見渡す。教えられた店はこのあたりのはずなのに、それらしい店が見当たらない。結衣は再びスマホを開いた。
あ、地下なんだ。
視線を巡らせると、ふと引っかかるものがあった。
建物の陰に寄り添うように置かれた小さなスタンド看板。結衣は近付いて確認した。
――灯影。
細い線で記されたその二文字の下に、小さく「B1F」とあった。看板の脇には、細い階段がひっそりと口を開けていた。
手すりに仕込まれた控えめな灯りが、段差を淡く縁取っている。階段を下りた先には木製の扉があった。何となく違和感を覚えながらも、結衣はゆっくりと扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声が心を和ませる。
「あの、木村で予約してると思うんですけど」
「はい、承っております。奥へどうぞ」
案内されるままに足を進めるが、のんべえ会とは縁がなさそうなあまりに落ち着いた雰囲気に、結衣は戸惑いを隠せなかった。壁と同化していて気付かなかったが、よく見ると、壁には細い取っ手がいくつか並んでいる。店員はそのひとつに手を掛けた。
「どうぞ」
「あの……木村の予約で間違いないですか?」
もう一度店員に確認する。
「間違いないよ」
その声に振り向くと、佐々木が何食わぬ顔で立っていた。
「え、どういうこと?」
「だって結衣ちゃん、俺が普通に誘ったって来てくれないだろ?」
結衣は耳を疑った。
「はあ? だからって――」
「お客様、こちらでよろしいですか?」
店員が佐々木に尋ねた。
「あー……っと」
今度は佐々木が顔色を窺うように視線を向けてくる。今すぐにでも店を出たいところだが、こんなところで声を上げると、落ち着いた店の雰囲気を損ねてしまう気がした。
「あの、そっちのテーブル席でも大丈夫ですか?」
結衣はさりげなく店員に尋ねた。
「もちろんです。どうぞ」
静かに椅子がひかれ、エスコートされる。
「ご注文は後ほど伺いにまいります」
店員は何事もなかったように柔らかい笑顔を見せ、礼儀正しく頭を下げて離れていった。
腸が煮えくり返っていた。佐々木のことを悪い人間ではないと少しでも思ってしまった自分の人を見る目のなさにも苛立ちを覚える。
結衣はバックからスマホを取り出して操作するが、電波が悪いのかなかなか繋がらない。
「怒ってる?」
「当たり前でしょ。私帰るよ」
言いながら、指先は何度も通話ボタンをタップしていた。
「前の続き。新田の話、聞かなくていいの?」
佐々木は探るような視線を向けてきた。
「もういいじゃない。佐々木君、黙っててあげてよ。私からのお願い」
「新田のこと庇うんだ」
「そりゃそうでしょ」
「でも、タダじゃ無理」
「はあ? 金銭目的?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
佐々木がテーブルに肘を付き、ゆっくりと顔を近付けてきた。
「俺と一晩付き合ってよ」
佐々木が小声で囁いた時、ドアベルの音が響き、結衣は思わず入り口に目を向けた。
「あ、新田君」
「はあ? なんで」
振り向いて入り口に目を向けた佐々木が、驚きと苦い表情を同時に浮かべた。
賢吾は店員と言葉を交わしてから、無表情でこちらに近付いてきた。
「ごめん! 私、新田君に連絡しようと思ったんだけど、電波が悪くて繋がらなくて」
「知ってます」
「え?」
賢吾の視線が佐々木に向けられた。
「佐々木先輩、ちょっと外で話せますか?」
「はあ? 何の話だよ」
佐々木はしかめ面で新田を見上げた。
「俺は別にここでも構いませんけど」
そう返した賢吾の眼差しには、言葉以上の威圧感があった。
「先輩は先に和味に行ってください。木村先輩と中島先輩が心配して待ってますから」
不意に、賢吾の手が肩に触れた。
「新田君は?」
「俺は佐々木先輩と話が終わったらすぐ行きますので」
「……うん、わかった」
結衣は荷物を持つと、佐々木とは目も合わせず席を立った。