傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第3話 黒狼は、予告なく現れた
応接室は、朝の光が入りすぎるほど入る部屋だった。
東向きの大きな窓が二枚あって、この時間帯は直接日光が差し込んでくる。エルフェリアの朝の光は白く鋭い。目を細めたくなるほどの明るさの中で、リネットは背筋を伸ばして椅子に座っていた。
膝の上で手を重ねた。右手で左手を包むように。そうしていると、右腕が震えているのが左手にわかる。震えているのを自覚すると余計に震える気がして、リネットは意識を別のところに向けようとした。
窓の外を見た。中庭の白い石畳。整然と並ぶ低木。青い空。
今日、出発する。
七日間、手紙について考えた。ルーファスに命じられてから荷物をまとめて夜に眠れなくて、それでも今日になった。待っていたわけでも覚悟が固まったわけでもないが、ただ時間が経って今日になった。
扉の外で、複数の足音がした。
リネットは膝の上の手をそっと握り締めた。帝国の使者の方だろうか……だが帝国の使者なら、獣人もいるかもしれない。獣人を見るのは初めてだ。本では読んだことがある。絵で見たこともある。だがそれが実際にどういうものかは、会うまでわからない。
扉が開いた。
最初に入ってきたのは、黒い礼服を着た人間の男だった。三十代ほどで、穏やかな顔立ちをしている。帝国の外交官だろうか?彼は部屋に入ると、リネットに向かって丁寧な礼をとった。
「エルフェリア聖国第一王女リネット殿下。カスティラン帝国外交省よりご挨拶申し上げます。今日からのご旅程につきましては、我々がお供いたします」
流暢なエルフェリア語だった。
リネットは立ち上がり「ご丁寧にありがとうございます」と言い挨拶をする。
「私などに礼をしないでください。礼をされるほどの者ではないのです」
「いえ……これからお世話になる方に礼をするのは当然ですわ。ですから受け取っていただけたら嬉しく思います」
「分かりました。こちらこそ、ありがとうございます……王女殿下には会っていただきたい方がいまして。会っていただけますでしょうか?」
外交官に問われリネットは大丈夫だと言うと、後ろに向かって何かを言った。それは帝国語だった。リネットは昨夜に辞書で少しだけ学んでいたので少しわかる。「どうぞ」か「入ってください」に近い言葉だった、と思う。
扉の向こうから、足音がした。
一歩目で、違うとわかった。
人間の足音ではなかった。重さが違う。床を踏む感触が違う。静かなのに、存在感がある。廊下から部屋に向かってくる気配だけで、それが普通の人間ではないとわかった。
扉を通って、入ってきた。
リネットは、思わず少し息を止めた。
長身だった。エルフェリアの貴族男性より、頭一つ分は背が高い。黒い長衣を着ている。長衣の意匠は帝国のものらしく、エルフェリアの礼服とは全く違う形だった。肩幅が広く、体格がいい。細身に見えるのに、どこか圧がある。
そして、頭に黒い耳があった。
耳は、狼のそれだった。黒く、やや大きめで、先端が鋭い。黒髪の中に混じる銀が、朝の光を受けてかすかに光った。
瞳は、琥珀色だった。
その目が、真っすぐにリネットを見ていた。
リネットは立ち上がろうとした。立ち上がるべき場面だった。相手は帝国の皇弟で、自分の婚約者になる人だ。礼をとるのが筋だ。だが体が一瞬遅れた。遅れたまま、立ち上がることはできた。
「失礼しました」
リネットは礼をとった。
「エルフェリア聖国第一王女、リネット・エルフェリアと申します。本日はご足労いただきありがとうございます」
声は震えなかった。震えないように話す技術だけは、二年間で磨いてきた。
静かな間があった。
こちらに近づいてくる足音が聞こえた。リネットは礼をとったまま、顔を上げられずにいた。
視界の端に、床が見えた。黒い長靴が、リネットの正面で止まった。
かと思うと、視界が下に動いた。
膝をついていた。目の前の人が、片膝をついて屈んでいた。
「初めまして、王女様」
低い声だった。穏やかで、静かで、それでいてどこか芯のある声だった。
「この度は縁談を受けてくださりありがとうございます。私、カスティラン帝国の皇弟、アーク・カスティラン・グレイフォートと申します」
一瞬、間があった。
「可愛らしく、こんなにも美しい姫君を花嫁に迎えられることとても光栄に思っています。これから、どうかよろしくお願いいたします」
紳士的に挨拶をされ気がついたら、右手を取られていた。そのまま、静かに持ち上げられて、手の甲に唇が触れた。
「……っ……」
リネットは固まった。
可愛らしいとか美しいなんて、ずっと言われていなかったのに。
昔は挨拶のように可愛らしいだとか言われていたけど、現在はこの傷があるからリネットにはその言葉とは遠く離れた存在だ。エルフェリアで二年間、傷物と呼ばれ続けた自分には一番相応しくない言葉だ。
だからだろうか頭がうまく動かなかった。ここは「ありがとうございます」と言うべきだとわかっていたのに、言葉が出てこない。
ただ、目の前の琥珀色の瞳が、リネットを見上げているのが見えた。
おかしな目だ、とリネットは思った。
蔑んでいない。同情もしていない。かといって過度な好意も感じない。ただ真っすぐに、こちらを見ている目だった。そういう目で見られたことが、ほとんどなかった。
***
出発の前に、リネットの荷物を馬車に積む作業があった。
応接室を出て、玄関広間に向かう廊下を歩きながら、リネットは自分の右腕のあたりをそっと触った。手の甲にキスを落とされた場所ではなく、その少し上の傷跡の始まるあたりを長袖越しに、確かめるように触れる。
アークは傷には触れなかったがリネットの傷に気づいていないはずはない。あれだけ近くに来て、手を取って、真っすぐに見て。気づかないわけがない。でも、何も言わなかった。表情も変えなかった。
変えなかった、ということの意味がリネットにはまだわからなかった。
玄関広間に出ると、そこには荷物を積む作業をしている帝国の護衛たちがいた。人間もいれば獣人もいる。イノシシに似た耳を持つ者、尻尾が見えている者、いくつかは種族がわからない者も。皆が手際よく動いていた。
「王女殿下、ご案内します。こちらです」
先ほど会った外交官に案内され外に出ると玄関の外には馬車が停まっていた。
黒い、大きな馬車だった。帝国の意匠が施された重厚な作りで、馬も四頭立てだった。
リネットはその馬車を見て足が、止まった。
自分でもわからないうちに、止まっていた。玄関の扉の外に出た瞬間、足の裏が石畳に貼りついたみたいに動かなくなった。
「王女殿下?」
外交官がリネットを呼んだが、リネットは「あ……」としか声が出ず言葉が出なかった。こんなんじゃダメだと思うのに、思うようにいかない。
まだ、二年前の夜のことを体が昨日のことのように覚えている。
頭ではわかっている。あの馬車ではない。あの夜ではない。今は昼間で、盗賊などいない。
だが体は正直で、黒い馬車の扉を見た瞬間……胸が苦しくなる。
息が、少し乱れた。
いけない、とリネットは思った。これは帝国の皇弟殿下が用意した馬車で、今すぐ乗らなければならない。
乗れないなどと言っている場合ではない。だが、わかっていても体が言うことを聞かなかった。息が上手く吸えなかった。視界が少し狭くなる感じがした。
周囲の護衛たちがこちらを見ているのを感じた。何が起きているのかと思っているだろう。呆れているかもしれない。馬車ひとつに怯えて、と。
どうしよう、とリネットが思った次の瞬間。
「――失礼します」
声がした。
その瞬間、体が浮いた。気がついたら、抱き上げられていた。
「えっ」
アークだった。リネットを横抱きにして、当然のような顔をして立っていた。驚いて顔を上げると、琥珀色の瞳がリネットを見下ろしていた。表情は変わっていない。困った顔も、呆れた顔もしていない。
「不粋なことをして申し訳ない」
アークが言った。
「馬車が苦手なのだろう。なら、馬車はやめよう。馬に乗ろうか」
リネットは「でも」と言いかけた。皇弟殿下が、わたしのために……という言葉が喉まで来た。
「カイル、レイを呼んできてくれないか?」
「えっ、でも殿下。馬車に一緒に乗るとお聞きしましたが」
「花嫁殿と一緒に乗りたくなったんだ。いいだろう?」
アークは既にそちらに話しかけていた。カイルと呼ばれていた護衛の一人が「はっ」と言って場を離れると、毛並みのいい黒い馬を連れてさっきのひとは戻ってきた。
リネットはアークに抱えられたまま、馬に近い高さまで持ってきてもらった。乗り方を確認する間もなく、アークがリネットを鞍に乗せた。
「どうか、安心してほしい」
アークはリネットの後ろにいて、抱きしめられているかのような体勢だ。
「爪もしっかり切ってきたから傷つけることはありません。それに、ちゃんと守ります」
リネットは思わず、アークの手を見た。
確かに、爪は短く整えられていた。獣人の爪がどういうものかを、リネットは本でしか知らなかったが、これは確かに丁寧に整えられている。
ここで来る前に切ってきた、ということだろうか。
それはつまり……こういうことが起きるかもしれないと、想定して来たということか。
リネットには、その考えの意味がうまくわからなかった。
アークがリネットをしっかりとホールドした。片腕でリネットの体を支えながら、もう一方の手で手綱を持つ。リネットの背中にアークの胸がある。ここから落ちることはない、という安定感があった。
馬車の列の先頭に、馬が加わった。
「出発する」
アークが声をかけた。馬が動き出した。
***
王城から港までは、休憩を挟みながら半日の道のりだった。
最初のうち、リネットはほとんど何も言えなかった。アークに背中を預けて馬に乗るという状況が、まだ頭の中でうまく整理できていなかったから。
王城の門を出て、王都の大通りを進んだ。馬上からはいつもより目線が高く、街の様子がよく見えた。白い石畳と白い建物が続く街道は、リネットには見慣れた景色だった。だが見慣れた景色も、屋敷の窓から眺めるのと、こうして直接その中にいるのとでは、全然違って見えた。
二年間、ほとんど外に出ていなかったのだと、今更のように気づいた。
街の人々が、馬上の一行を見ていた。帝国の外交官と護衛たちの、エルフェリアとは違う意匠の服装が目を引いているのだろう。それからアーク、そしてリネットの順に視線が向けられた。
視線が傷跡に気づいて引くまで、少しの間があった。それからそっと目を逸らす動作が、横目で見えた。
リネットは前を向いたまま、何も言わなかった。
馬が歩き続けた。アークの腕は動かなかった。
王都の外れを過ぎると、街道は少し広くなり、両脇に畑が続く田舎道になった。荷馬車とすれ違う。農作業をしている人々の姿が見える。こちらを見る人は少なくなった。
「……少し、体が楽になりました」
リネットは小さく言った。馬車に乗れなかったことへの、遅れた言い訳のような言葉だった。
「そうか」とアークが答えた。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではありません」
短い言葉だった。それ以上は続かなかった。
リネットはその短さを、どう受け取ればいいかわからなかった。社交的な受け答えをしない人なのか、怒っているのか、あるいは本当に迷惑とは思っていないのか。
ただ、アークの腕はしっかりとリネットを支えていた。
港まではまだ遠い。
昼前に、街道沿いのカフェで休憩をとることになった。
小さなカフェだった。街道の観光客向けに作られたらしく、白い外壁に木製のテーブルが並んでいる。帝国の護衛たちには外で待つ者と中で控える者に分かれてもらい、アークとリネットはテーブルに着いた。メニューが置かれた。
アークが軽食とスープと、ケーキを頼んでいた。
「王女は何にしますか?」
「はい……ハーブティーを」
「それだけか?」
「はい」
アークがメニューをもう一度リネットに差し出した。
「もっと頼んでいいですよ。好きなものがあれば――」
リネットはアークの言葉を遮り「大丈夫です」と言った。
「遠慮しているなら、しなくていいんですよ。こちらの護衛も文官も食事をとりますから。それに長旅になる。食べられるときにしっかり食べておいた方がいい」
リネットは少し戸惑ってしまった。
遠慮という言葉は正確ではなかった。ただ、他の人が席についているテーブルで自分が頼んでいいのかどうか、という感覚が先に来てしまう。
食べることに、どこか許可がいるような気がしてしまう。それは屋敷に閉じこもっていた二年間で染みついた習慣で、何が起きたわけでもないのに体に刻まれていた。
「……お腹は空いていないのです。殿下が召し上がってください」
そう言うのが、今のリネットにできる精一杯だった。
アークは少しの間、リネットを見た。何かを言いかけたように見えたが、口には出さなかった。代わりにウェイターに向かって追加の注文をした。サンドイッチだった。
運ばれてきたものを、アークはリネットの方に向けて置いた。
「食べなくてもいいんです。もし、気が向けば食べてください」
リネットは黙ってハーブティーを飲んだ。
テーブルの端に置かれたサンドイッチを見た。薄く切ったパンに、何かが挟んである。きれいに切られていて、皿の上に並んでいた。
メニューの端に、精霊水という品書きが見えた。
精霊水。聖山の雪解け水に、精霊の花の蜜を垂らしたもの。エルフェリアの名産品の一つだ。この街道のカフェなら、仕入れているのかもしれない。
……と思ったとき、テーブルの脚の下から、ちらりと光が見えた。
精霊だった。
小さな風の精霊が、テーブルの下に隠れるように寄ってきていた。精霊水という文字を見て、誘われてきたのかもしれない。精霊の花の蜜は、精霊たちには馴染みのある香りなのだろう。
精霊がメニューの方を向いて揺れた。嬉しそうに、弾んでいた。
リネットはそっと視線をずらした。
「殿下は……」
思わず声に出していた。
「精霊水という飲み物を、ご存知ですか」
アークがリネットを見ると「聞いたことがある」と答えた。
「聖山の水に花の蜜を入れたものだろう。精霊信仰のある国らしい飲み物だと聞いた」
「そうです。精霊の花の蜜が入っていて」
リネットは言いかけた。
精霊が作るものだから、と続けそうになって、止まった。
精霊が見えていることは、言わない方がいい。どんな反応をされるかわからないから。
「……花の蜜は、独特の香りがします。エルフェリアでは好まれている飲み物です」
言い直した。
アークは何も言わなかった。ただリネットを少し見てから、ウェイターを呼んで精霊水を追加した。
運ばれてきた精霊水は、透明な杯の中で薄く光っていた。精霊の花の蜜が、水に溶けて淡く輝いている。テーブルの下の精霊が、ぱあっと明るくなった。
アークが杯を持ち上げた。一口飲んだ。少し考えるような顔をした。
「甘い」
「そうですね」
「あなたは飲まないのですか?」
リネットは精霊水を見た。
テーブルの下の精霊が、上目遣いにこちらを見ていた。飲んで、と言うように。
「……いただきます」
リネットは精霊水を一口飲んだ。
慣れ親しんだ甘さと香りが口に広がった。屋敷にいた頃、たまにメアリーが用意してくれていたものと同じ味だった。
テーブルの下の精霊が喜んで揺れた。
リネットはそれを見ないふりをしながら、目の前にある一口サイズのサンドイッチに手を伸ばした。
***
港に着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
エルフェリアの港は白かった。白い石造りの桟橋と、白い帆を持つ船が並んでいる。いつもより人が多かった。帝国の使節が来たということで、人が集まっているのかもしれない。
桟橋の先に、大きな船が停まっていた。
屋敷のような船、とリネットは思った。三本のマストを持つ大型船で、帝国の旗が掲げられていた。その大きさはエルフェリアの船よりもひとまわり大きく、黒い船体に金の装飾が施されている。
乗船手続きはすでに済んでいるとのことで、一行はそのまま船に乗り込んだ。リネットは馬から降り、桟橋を歩いた。アークが隣にいた。
船に乗ると、乗組員が出迎えた。リネットは一等客室に案内された。
「お荷物はこちらに」
乗組員が扉を開けた。
広い部屋だった。
窓が大きく、カーテンが半開きで外の光が入っている。壁には木の板が張られ、艶のある家具が置かれている。大きなソファと、テーブルと、奥には寝台が見えた。
「ご不便があればお申し付けください。出港は夕刻の予定となっております」
乗組員が去った。
リネットは部屋の中に入って、扉が閉まるのを聞いた。
静かだった。
荷物が壁際に積まれていた。あれだけしか持ってこなかったのだ、と改めて思った。小さな箱がいくつかと、衣装が入った大きな鞄。それだけが、リネットが帝国に持っていくものの全部だった。
ソファに腰を下ろした。疲れていた。馬に長時間乗っていたから、体が重かった。
窓の外では、港が夕日を受けていた。白い桟橋が橙色に染まっている。
一人だ、とリネットは思った。
わかっていたことだった。メアリーもセリオも来ない。一人で知らない国へ行く。それは最初からわかっていたことだった。
だから、涙が出そうになる理由が、自分でもわからなかった。
目を閉じた。
馬上でのアークの腕の感触が、まだ背中に残っているような気がした。しっかりとした、落ちないための腕。
「ちゃんと守るから」という声。
その言葉の意味を、まだ信じていいかどうか、リネットにはわからなかった。
信じて、また違ったら。
そう思うと、信じることがとても遠いことのように感じた。
目を閉じたまま、リネットはソファに体を預けた。窓から入ってくる夕日の温度が、頬に当たった。
船が少し揺れた。
出港が近いのかもしれない。
このまま、どこかに連れていかれる。
それが怖いのか怖くないのか、リネットにはまだわからなかった。
ただ疲れていて、目が重くて、扉がノックされるまで、しばらくそのままでいた。