傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第4話 知らなかった温かさ


 扉のノックが3回あり、リネットは目が覚めた。

 リネットはソファから体を起こすと窓の外はすでに夕暮れが深くなっていた。船の揺れがわずかに増していた。出港の時間が近いのかもしれない。

 扉に向かってどうぞと言いかけて、やめた。誰が来るかわからない。
 帝国の乗組員かもしれない。アークの側近かもしれない。リネットは立ち上がって扉に近づいた。

 取っ手に手をかけて、開けた。

 そこに立っていた顔を、リネットはしばらく認識できなかった。

 夕暮れの廊下に、三人がいた。

 先頭に立っているのはアークだった。だが問題はその後ろだった。アークの後ろに、見覚えのある栗色の巻き毛と茶色の目があった。その横に、引き締まった顔立ちの男が立っていた。

「……メアリー?」

 声が出た。自分でも気づかないうちに。

「リネット様! よかった」

 メアリーが前に出た。旅装束で、肩に鞄を提げていた。目が赤かった。泣いていたのかもしれない。あるいは急いで走ってきたのかもしれない。どちらも、あり得た。

「どうして、あなたがここに」

「乗りました、この船に。少し前に」

「……金貨を渡したでしょう?」

「皇弟殿下の護衛の方に掛け合って、乗せていただくことになりました」

 リネットはアークを見た。アークは表情を変えずにいたが、「王女も見知った人がそばにいた方が心強いと思いまして」と言った。

 ――心強い。

 その言葉が、胸の中で少し転がった。

「セリオは……」

「こちらに」

 廊下の奥から足音がした。セリオが歩いてきた。旅装束で、護衛用の剣を腰に提げたままだった。いつもと変わらない、引き締まった顔だった。

「王女殿下」

「あなたも来たんですか」

「はい。騎士として、もう少し王女殿下のお側にいるべきだと判断しました」

 判断した、という言葉が、セリオらしかった。感情ではなく、判断として述べるところが。

 リネットは二人を順番に見た。頭の中で、何かがうまく繋がらなかった。

 暇を出した。金貨を渡した。来なくていい、と告げた。それなのに二人は来た。皇弟殿下に掛け合って、船代を払って、来た。

「なぜ」

 リネットは問いかけた。問うべきことではないかもしれないとわかっていたが、出てしまった言葉だった。「なぜ来たんですか。あなたたちには婚約者がいて、エルフェリアに生活があって」。

 メアリーが少し笑った。目が赤いまま笑うのは、メアリーにしかできない顔だった。

「それはこちらが聞きたいくらいです。なんで勝手に暇を出すんですか。相談もなく」

「相談したら、断れなかった」

「そうです、断れなかったんです。だから先に言われる前にこちらから動きました」

 リネットは言葉に詰まった。

 メアリーが続ける。

「それに、ギルバートも来ます」

「ギルバートさんが?」

「はい。喜んで来ると言いました。元々、世界を見て回りたいと言っていた人ですから。私が帝国に行くと聞いて、それはいいと」

 廊下の奥からもう一組の足音がした。男女だった。

 男性は、三十歳手前ほどで、柔らかな茶色の髪をしていた。穏やかな顔で、少し慌てた様子で廊下を歩いてきた。その横に、明るい蜂蜜色の髪をした若い女性がいた。颯爽とした歩き方で、目が輝いていた。

「王女様、お初にお目にかかります」

 男性が丁寧な礼をした。

「レインズワーズ男爵家次男、ギルバートと申します。王宮では経理科で官吏をしておりました。このたび王女様の侍従として仕えることになりました。メアリーから、王女様はとても可愛らしくてお優しいお方だと常々聞いておりました。至らないこともあるかと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」

 礼儀正しい人だ、とリネットは思った。それからメアリーが「可愛らしくてお優しい」と言っていたらしいことに、少し戸惑った。自分のことをそう言われると、受け取り方がわからない。

「王女殿下、初めまして!」

 今度は女性が前に出た。元気のいい声だった。

「ゴールドベルク商会の商会長の娘で、シャロン・ゴールドベルクと申します。実家の商会でずっと働いておりましたが、夢だった世界を見て回れると聞いて喜んで参りました。至らないところばかりかと思いますが、侍女見習いとして精一杯頑張ります。私の武器はコネです! どうぞよろしくお願いいたします!」

 最後の「コネが武器」という言葉が少し予想外で、リネットは一拍遅れて「よろしくお願いします」と答えた。

 シャロンはセリオの婚約者らしかった。商家の令嬢で、外向きで活発な雰囲気が、寡黙なセリオとはずいぶん違うように見えた。だがセリオがシャロンを見る目は、普段のセリオとは少し違った。柔らかい、という言葉がセリオに似合うとは思っていなかったが、それに近い目だった。

「船が動き出す前に部屋に入ってもらった方がいい」とアークが言った。

 一同が客室の中に入ると、思ったより大人数になったので、広い客室もやや賑やかになった。


   ***


 
 メアリーとシャロンが手際よく動き始めた。

 簡易キッチンがついていたので、お湯を沸かすことができた。メアリーが持参した茶葉でポットを用意した。シャロンが補助として隣に立ち、メアリーの動きを真剣な目で観察していた。

「シャロンさんは給仕は」

「初めてです! 商会の仕事は売る方の担当でしたので、お茶の淹れ方は学んでおりましたが、運ぶのは初めてで」

「なら最初はこうして見ていてください。ポットにお湯を入れてから、カップに注ぐのはこうやって」

 メアリーがシャロンに説明している間、ギルバートはアークの側近の文官と何かを話していた。セリオは廊下に出て、警護の確認をしていた。

 アークは部屋の奥の椅子に座って書類を広げていた。

 リネットはソファの端に腰かけて、その様子を眺めていた。

 賑やかだ、と思った。今まで、こういう空間にいたことがなかった。屋敷では静かだった。王城でも静かだった。人がいても、それはリネットに対して何らかの役割を持って動く人たちで、こんなふうに互いに話しながら動いている人たちの中にいた記憶がない。

 何かが、温かかった。

 温かい、というのが正確な言葉かどうかわからない。ただ、胸のどこかが、今まで感じていなかった感覚でいた。

 メアリーがトレーを持って近づいてきた。「王女様、どうぞ」と言いながらカップを置いた。
 続いてシャロンが、もう一つのカップをのせたトレーを持って近づいてきた。

 丁寧に歩いていた。姿勢を正して、トレーを水平に保つように意識しながら。

 足元に小さな段差があった。

 シャロンの足がつっかかった。

 あ、とリネットが思った瞬間には、トレーが傾いていた。カップが滑り、中の紅茶が弧を描いて飛んだ。カップ自体も、放物線を描いてリネットの方に向かってきた。

 熱さが右手に当たった。

 重さが右腕に当たった。

 カップが割れた。

「リネット様!」

 メアリーの声がした。すぐに水に濡らした布が出てきた。どこからそんなに速く、と思うほど素早かった。リネットの右手に、冷たい布が当てられた。

「大丈夫ですか、どこかにあたりましたか、確認させてください」

 メアリーが矢継ぎ早に言った。

「大丈夫です、これくらい……」

 リネットは答えた。

 正直、痛くはなかった。熱いとは思ったが、一瞬のことで、傷になるほどではなかった。二年前の怪我を思えば、これは何でもなかった。本当に、何でもなかった。

 だからリネットはきょとんとしていた。

 だがメアリーは「これくらいって、何ですか」と言いながら布を押さえ続けていた。シャロンは割れたカップのそばで立ち尽くしていた。顔が青かった。唇が震えていた。

 リネットを見つめながら「本当に大丈夫ですか」と震える声でシャロンが問いかけてくる。

「大丈夫です」

「でも、あの、手に痕が……私のせいで……申し訳ありません」

 シャロンが頭を下げた。深く、まっすぐに。

 リネットは少し驚いた。

 こんなに謝られたことが、なかった。人から謝られることそのものに慣れていなかった。ましてや、こんなに真剣な顔で頭を下げられることに。

「シャロン、気にしないで。私は大丈夫だから」

「でも」

「本当に痛くないんです。嘘じゃなくて、本当に」

 シャロンが顔を上げた。目が潤んでいた。

 リネットはその顔を見て、何か言おうとした。言葉を探していたとき、部屋の扉が開いた。

 アークだった。

 廊下に出ていたと思っていたが、戻ってきたらしい。部屋の様子を一瞥した。割れたカップ、シャロンの泣きそうな顔、メアリーがリネットの手に布を当てている様子。

 一通りを見て、アークがリネットに向かって歩いてきた。

「火傷をしたのですか?」

 低い声で言いながら、リネットの前に片膝をついた。

「少し見せてください」

 手を差し伸べてきた。リネットの右手を確認しようとしていた。

 リネットは、差し出されたその手を見た。

 そして気づいた。

 右手、というのは、傷のある方の腕だ。メアリーが布を当てているのは、傷跡と同じ腕だった。アークがそちらの手を取ろうとしている。

 傷を見られる、という感覚が先に来た。

 布がずれれば、傷跡が見える。この距離では確実に見える。いつもは長袖で隠している。エルフェリアでは、傷が見えることそのものが他者を不快にさせるから、隠すのが当然だった。二年間それを続けてきて、だから体が先に反応した。

 手を引いた。

 反射的に引いてしまった。それだけでなく、アークの手に当たってしまった。パンっ、と音がするほどではなかったが、確かに当たった。

 静かになった。

 アークが動きを止めていた。

 リネットは、自分が何をしたか、一拍遅れて理解した。

 帝国の皇弟に、手を当てた。

「あっ……」

 声が出た。

「申し訳ありません」

 続いた言葉は、反射だった。考える前に体が動いた。床に膝をついていた。両膝を、そのまま畳んで。頭を下げた。

 謝らなければ、という感覚だけが先に走っていた。

 こういう時どうなるか、二年間の経験が体に刻まれていた。
 失礼を犯したら、ただ謝るしかない。下がるしかない。それ以外の選択肢が出てこなかった。

 息が上手く吸えなかった。

 胸の奥が締まって、息が上手く通らない。指先が冷たい。視界の端が少し暗くなる感じ。

 床が視界に広がっていた。白い床。見慣れない木の板張り。船の床だ、とどこかで思った。

「ゆっくり、息を吐きなさい」

 声がした。

 アークの声だった。低くて、落ち着いた声だった。怒っていない。責めてもいない。ただ静かに、「吐きなさい」と言っていた。

 リネットは息を吐こうとした。うまく吐けなかった。

「吸わなくていい。吐くだけでいい」

 もう一度言われた。

 今度は、少し吐けた。ゆっくり、少しずつ。吐いたら次が吸えた。吸ったらまた吐けた。

 大丈夫だ、とどこかで気づいた。怒られていない。

 体が、ゆっくりと上に持ち上げられた。

 アークに抱き上げられていた。床から、真上に。一度、ソファに座らせてもらうかと思ったが、そうではなかった。そのまま、腕の中に収められた。

「……大丈夫だ」

 耳元で、低い声がした。

「謝らなくていい。あなたは何もしていない」

 リネットは言葉を返せなかった。

「少し目を閉じなさい」

 そう言いながら、アークの指がリネットの額に触れた。冷たくて、静かな感触だった。それから、ほんのりと温かくなった。魔法だ、とぼんやりと思った。何かの魔法がかかっている。

 眠くなってきた。

 まずい、と思った。こんなところで眠るわけにはいかない、と思った。だが、瞼が重くなるのを止められなかった。体から力が抜けていった。アークの腕が、それを受け止めていた。

 落ちる、という感覚が来て、そこで意識が途切れた。


   ***
 

 目が覚めると、寝台の上だった。

 窓の外は暗かった。夜になっていた。船が揺れていた。出港していた。

 リネットは体を起こした。体は重くなかった。むしろ、久しぶりによく眠れた、という感覚があった。

 部屋の隅に、メアリーがいた。小さなランプを傍らに置いて、縫い物をしていた。

「お目覚めですか?」

 メアリーが顔を上げた。

「……眠ってしまっていたんですね」

「はい。皇弟殿下が安眠の魔法をかけてくださいました」

 リネットは額に手を当てた。あの感触を思い出した。冷たくて、静かで、それから温かくなった。

「……殿下が」

「はい。それから、王女様をここに寝かせてくださいました」

 抱き上げたまま、寝台まで運んでくれたということだろう。

「……その後、殿下は」

「隣室にお戻りになりました。お休み前に、一度様子を見るとおっしゃっていましたが、まだいらっしゃいませんから、そのままお休みになられているかもしれません」

 リネットは少しの間、暗い天井を見ていた。

「シャロンは」

「落ち着きました。ギルバートが話し相手をしてくれて」

「……そう」

「王女様があんなに優しく声をかけてくださったから。気にしないでと言ってくださったから。あの子もずいぶん楽になったようです」

 リネットはそれを聞いて、少しだけ胸の奥が緩んだ。気にしないで、と言っただけだった。それ以上のことは何もしていない。だがシャロンが少し楽になったなら、それでよかった。

 船が揺れた。外で波の音がした。

「眠れますか」とメアリーが言った。

「……眠れると思います」

「ならよかった。私も今日はここで休みます。何かあれば呼んでください」

 メアリーがランプを少し暗くした。

 リネットはまた横になった。

 今夜は、眠れそうだと思った。安眠の魔法のおかげかもしれない。あるいは今日起きたことが、眠れるほどに疲れさせてくれたのかもしれない。

 天井を見ながら、今日一日のことを静かに辿った。

 アークの足音。手の甲へのキス。馬上の腕。精霊水。

 謝ろうとして、膝をついたとき。

 優しく諭すように言った『ゆっくり息を吐きなさい』という声。
 リネットを責めないで「あなたは何もしていない」という言葉。

 あなたは何もしていない、という言葉が、頭の奥で繰り返した。

 エルフェリアでは、何をしても何もしなくても、リネットは何かを責められる位置にいた。傷があるだけで、いるだけで、それが咎だった。だから謝ることが体に染みついた。

 だが今日、アークは「謝らなくていい」と言った。

 信じていいのかどうか、まだわからない。

 だが、その言葉はしばらく、リネットの中に残り続けた。

 波の音がした。

 船が揺れた。

 リネットは目を閉じた。
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