傷物だと国を追い出された私、獣人の国の皇弟殿下が「君は世界一美しい」と溺愛して離してくれません!?
第5話 7日間の航海
一日目の夜が明けると、窓の外は海だった。
当たり前のことだが、リネットにとっては初めての光景だった。どこまでも続く水平線。波が光を跳ね返して、朝の海は白く輝いていた。空との境目が、どこかぼんやりしていた。
リネットは窓の前に立ったまま、しばらくそこを見ていた。
メアリーは顔を洗うぬるま湯を持ってきてくれたので顔を洗う。
「朝食はどうしますか? お部屋で食べることもできるらしいですが、どうしますか?」
「そうね、食堂に行こうかしら……」
「かしこまりました。では、そのように支度をします」
メアリーとシャロンに身支度を手伝ってもらい、ドレスへを着替えをする。昨日のこともあるからシャロンは遠慮しているようだったが、リネットが話をするうちに緊張もほぐれてきたようで会った時のような元気で明るくなっていて色々な話をしてくれた。
食堂は船の中央部にあった。天井が高く、窓から海が見える。一等客室の乗客向けの空間で、この時間帯は数組が朝食をとっていた。
帝国の護衛たちの姿もあった。大きな獣人たちが、豪快な量の朝食を前に並んで座っていた。その様子はエルフェリアの食卓とは全く違ったが、なぜか不快ではなかった。皆が楽しそうに食べていたから、かもしれない。
だが、その中にはアークはいなかったので少し残念に思ったのはリネットだけの秘密だ。
***
夕方、扉がノックされた。
リネットはお昼あたりから辞典で帝国語を調べながら、地理書の続きを読んでいたのでメアリーが返事をする。入ってきたのはアークだった。
「気分はどうですか?」
「はい……おかげさまで、よくなりました。朝は食堂にも行けました」
「そうか、ならよかった。今は何を?」
「貸していただいた、辞典を元にして本を読んでました」
アークはリネットと本を交互に見ると驚いたように目を丸くする。
「その本は誰から貸してもらったのですか?」
「外交官補佐だとおっしゃっていました。女性の方です。とても分かりやすい本を貸していただきました」
「……そうですか。何か困ることがあれば言ってください」
それだけ言い、アークは部屋から出て行った。リネットは本を膝の上に置いて、閉まった扉を見つめたがすぐに本に目線を戻した。
二日目は、波が少し高かった。
シャロンが船酔いをした。体調不良らしく部屋で横になっているので部屋にいない。ギルバートは心配だったらしく、リネットが仕事をお休みにしたらすぐにシャロンの元に行って甲斐甲斐しく世話を焼いているためいない。メアリーは見舞いに行ったり戻ってきたりを繰り返していた。
そんな中、アークが訪問してきた。
「気分は大丈夫ですか?」
「とてもいいです」
「食事はとれていますか? そちらのメイドが体調不良だと聞きました」
昨日と少し違う問いかけだった。リネットは「はい」と答えた。リネットはずっと屋敷に引きこもっていたから知らなかったが、結構体は丈夫らしい。なので、食堂でしっかりと食事をしている。屋敷にいるときはほとんど食べられなかったのに不思議だ。
「そうか、ではまた何かあれば言ってください」
それだけ言って扉が閉まり、昨日と同じように出て行った。
三日目の朝、甲板に出てみた。
この日は海風が強かった。髪が乱れ、オリーブ色の髪がほどけて顔にかかるのを手で押さえながら欄干に近づいた。
海は、昨日より色が深かった。波は穏やかになっていた。水平線の向こうに、薄い雲が重なっていた。
リネットは欄干に手をかけて、水平線を眺めた。
ふと、足元に気配があった。
見下ろすと、甲板の隅に光の粒が集まっていた。精霊だった。水の精霊が五体ほど、波の音に合わせるように揺れていた。船が海の上にいるから、水の精霊には居心地がいいのかもしれない。
精霊たちがリネットに気づいた。明るく輝いた。
「ついてきてくれているんですね」
声に出さずに口を動かした。精霊たちがぐるぐると円を描いた。肯定しているようだった。
リネットは海に目を戻した。
この精霊たちは、エルフェリアにいた頃から知っている顔だった。ずっと一緒にいた。これからも一緒にいてくれるのかもしれない。
それが少し、心強かった。
「また誰かと話していたのか」
声がした。
リネットは振り返った。アークが立っていた。今日は昼間に甲板で見かけるとは思っていなかった。
「い、いいえ」
「今日は三度目だ」
「え」
「一人でいる時に、口が動いている。三度見た」
リネットは固まった。
声には出していなかった。だが口は動いていた。それを三度も見られていたとは思っていなかった。
「独り言を言う癖が、あるんです」
苦し紛れに言った。
アークは少しの間、リネットを見ていた。その視線がどういう意図を持っているのかが、読みにくかった。疑っているわけではなさそうだったが、納得しているわけでもなさそうだった。
「そうか」
結局、アークはそれだけ言って欄干の隣に立った。海を眺め始めた。
二人で並んで、しばらく黙って海を見た。
リネットは、精霊たちがアークの足元にそろそろと近づいていくのを、視界の端で見ていた。アークには見えていない。精霊の一体がアークの長靴に触れようとして、少し考えて、やめた。警戒しているのか、遠慮しているのかはわからなかった。
風が吹いた。リネットの髪がまた乱れた。
「港に着くのは四日後だ」とアークが言った。
「船が嫌なら言いなさい。気分が悪くなった時も」
「大丈夫です」
リネットがそう言うとアークが踵を返した。
去り際に、アークが振り返った。
「それと」と言って、一拍置いた。
「甲板は風が強い。長く出ていると冷える」
それだけ言って、今度こそ行ってしまった。
リネットは欄干の前で、その言葉をしばらく持っていた。
風が冷える、という事実を伝えただけの言葉だった。だがその言葉の底に何かがある気がして、うまく受け取れないでいた。
精霊たちが揺れた。何かを囃し立てるように。
「なんでもないでしょう」
リネットは声に出さずに言った。精霊たちがさらに揺れた。
四日目の夕方、アークの様子がいつもと少し違った。
夕方のノックは同じ時間で、「気分はどうだ」という問いかけも同じだった。だがアークの声に、かすかな固さがあった。
リネットは気づかないふりをした。気づいたとしても、聞けることではないと思ったから。
夜中に、廊下で音がした。
低くて、苦しそうな息の音だった。
リネットは目を覚ました。眠れていたわけではなかったが、横になって目を閉じていた。その耳に、廊下からの音が届いた。
人の気配があった。廊下を歩く足音が、一等客室の前を通った。アークの部屋は隣だった。足音はその手前で止まった。
扉が閉まる音がした。
それから、しばらくして、また低い音がした。壁越しに聞こえるほどではなかった。ただ、何かが不調であることを示すような、緊張した気配だけが伝わってきた。
リネットは寝台の上で体を起こした。
何かあったのか。いや、自分が聞けることではない。隣室のことに踏み込む立場ではない。夫婦になる予定の人、ではあるが、まだリネットにはその関係がどういうものなのかも掴めていない。
しばらくそのまま、暗い天井を見ていた。
気配は続いていた。何かが落ち着かない、という感じが、壁越しにじわりと伝わってくるような気がした。気のせいかもしれなかった。
結局、リネットは何もしなかった。
ただ、翌朝アークが食堂に現れた時に、その顔色をそっと見てしまった。いつも通りの顔だった。何事もなかったような、静かな表情だった。
リネットは視線を自分の皿に戻した。
五日目は穏やかな天気だった。
昼間、リネットは食堂の窓際で帝国語の辞典を読んでいた。基本的な挨拶と、丁寧な言い回しと、謝罪の表現をひと通り確認した。それからメアリーを相手に、少し練習してみた。
「メアリー、帝国語で『ありがとうございます』は」
「リネット様から私に練習相手をお願いしてきたのは初めてですね」
「辞典に書いてあったんですが、発音が難しくて」
「ギルバートに聞いてみましょう。あの人は語学が得意ですから」
ギルバートが呼ばれてきた。ギルバートは笑顔で発音を教えてくれた。丁寧で、こちらが間違えても正しく直してくれた。何度か繰り返すうちに、リネットは少しずつ発音を掴んでいった。
夕方、アークがノックした。
「気分はどうだ」
「よいです」とリネットは答えた。それから少しためらって、続けた。「あの」。
「何だ」
「帝国語を、少し練習していました。発音が合っているかどうか、聞いていただけますか」
少し間があった。
「聞こう」
リネットは辞典を手に取って、読んでいた表現をいくつか口にした。ゆっくりと、辞典の読み仮名を確認しながら。
アークが聞いていた。
「二番目が少し違いますね。母音の長さが短いです」
リネットは言われた通りに繰り返した。
「そちらの方が近いです。お上手ですよ」
「ありがとうございます」
「帝国語は難しい。だが覚えておけば生活しやすくなると思います。辞典だけでは発音は掴みにくいでしょうから、また聞かせてください。私にできることはします」
「……はい」
扉が閉まった。
今日は長かった。昨日より、ずっと長かった。
リネットは辞典をテーブルに置いた。
また聞かせてください、という言葉が、耳の奥で繰り返した。
到着を明日に控えた六日目の夜、甲板に星が出ていた。
リネットは眠れなくて、甲板に出た。夜の海風は冷たかったが、三日目に「冷える」と言われたことを思い出して、上着を着てきた。
欄干に近づくと、先に人がいた。
アークだった。
気づかれた。振り返った琥珀色の目が、リネットを見た。
「眠れないのか」
「はい」
「俺もだ」
アークが海の方に視線を戻した。リネットは少し離れた位置に立って、同じく海を見た。
星が多かった。エルフェリアでも星は見えたが、聖山の光が夜も国をぼんやりと照らすため、星の数はそれほど多くなかった。ここは遠い海の上で、周りに何も光るものがなくて、だから星がこんなに多く見えた。
白く輝く星と、少し金色がかって見える星と、点滅するように見える星と。いろいろな星が、びっしりと空に散らばっていた。
リネットはそれを見上げながら、自分から口を開いていた。
「エルフェリアの星は、白く冷たくて」
言いかけて、少し止まった。続けるべきか迷ったが、続けた。
「だけどここの星は、金色みたいに見えます」
アークが空を見上げた。少しの間、見ていた。
「うまいことを言う」
静かに言った。
それから、わずかに表情が動いた。
笑ったのだ、とリネットは気づいた。口元が、ほんのかすかに動いた。笑顔と呼べるほど大きくはなかったが、確かに笑っていた。
リネットは、その表情を見た。
見てしまった、という感じだった。見てはいけないものを見た、という感覚ではなかったが、大切なものを不意に目にした、という感じがした。
心臓が少し、うるさくなった。
理由を考えた。考えなくてもわかった。あの人の笑顔を初めて見たから、だろう。三日目から毎日夕方に来て、気分を聞いて、発音を直してくれて、それでもずっと表情は変わらなかった。それが初めて動いた。
「カスティランの夜空は、帝都よりこちらの海の上の方が見やすいんですよ。帝都は灯りが多いから、星が少し霞んでしまうんです」
「そうなんですか」
「着いたら見せてやれるかどうかわからないが、郊外に出れば見えるかもしれない」
「楽しみにしています」
言ってから、少し驚いた。
楽しみにしている、という言葉を、自分の口から言ったことが。何かを楽しみにする、という感覚が、久しぶりすぎてよくわからなかったが、確かにそう思っていた。帝国の、灯りの少ない場所で見る星が、どんなふうに見えるのか、知りたいと思った。
「では、機会を作ろう」
アークが言った。
約束、をしてくれた。
リネットは欄干を握った手の力が、少しだけ変わったのを感じた。力んだわけではなかった。ただ、確かめるように。
そのまま二人でしばらく星を見た。会話はなかった。だが沈黙が苦しくなかった。アークは元々多くを語らない人で、黙っていても圧迫感がなかった。波の音と、船が進む音と、たまに吹く風の音だけがあった。
どのくらい経っただろうか。
「冷えてきただろう。そろそろ部屋に戻りなさい。それに明日は港に着く」
「はい。えっと、殿下は戻られないのですか?」
「もう少しいる」
リネットは「おやすみなさいませ」と言い歩きだした。
甲板を離れながら、振り返らなかった。振り返ったら何かが変わりそうで、変わってしまうのが怖いような、変わってほしいような、よくわからない気持ちがあったから。
部屋に戻り寝台に横になって、天井を見た。
エルフェリアの星は白く冷たくて。ここの星は、金色みたいに見えます。
自分が言った言葉を、頭の中で繰り返した。
うまいことを言う、と言われて笑顔を見た。
心臓がまだ、少しうるさかった。
眠れないと思っていたのに、気がついたら眠っていた。
そしてやっと七日目の朝、窓の外に陸地が見えた。
リネットは窓に近づいて外を覗く。
――カスティラン帝国。獣人の国。
自分がこれから生きていく場所。
黒い影は少しずつ大きくなっていた。港の形が見えてきた。桟橋が見えた。旗が見えた。帝国の旗だった。
精霊たちが甲板の方から集まってきた。部屋の中にまで入ってきて、窓に向かってきらきらと輝きながら揺れた。嬉しそうだった。あるいは興奮しているようだった。
「そんなに楽しみだったんですか」
声に出さずに問うと、精霊たちが一斉に揺れた。
リネットは窓の外を見た。陸地が近づいてくる。
怖いかどうか、と自分に問うた。
怖い。知らない場所だから。でも昨日の夜、星の話をしたら「うまいことを言う」と言われた。甲板で言葉を交わした。発音を直してもらった。四日目の夜に隣室で何か苦しそうな気配があったことを、今でも少し気になっている。
全部まだ、よくわからない。
だが、七日間前と今では、少し違う気がした。
リネットは身支度を始めた。メアリーが髪を整えてくれた。今日は帝国風だと言って作ってもらった深い青と銀の刺繍が入った、エルフェリアのものとは全く違うデザインのドレスを着ている。
袖は少し短かった。
右腕の、手首から上のあたりが見えた。
傷跡の端が、少しだけ見えた。
リネットは袖口を引っ張ろうとして、手を止めた。
誉れ、という言葉を思い出した。地理書に書いてあった、一行の言葉。
本当かどうかは、まだわからない。
だが確かめることなら、できるかもしれない。
リネットは袖口から手を離した。
傷跡が見える位置で、そのままにした。
メアリーが気づいた。何も言わなかった。ただ、リネットの肩に静かに手を置いて、それから離した。
港が近づいてきた。