愛を教えてくれた君へ

蓮に連れられてたどり着いたのは、どこにでもある、でもどこか温かい雰囲気が漂う一軒家だった。
「ただいまー! お袋、お客さん連れてきた!」
 蓮が玄関のドアを開けて大声を出すと、奥のキッチンから「あらあら、蓮、そんな大きな声出してどうしたの……って、まぁ!」と、エプロン姿の女性が走ってきた。蓮のお母さんだった。
 お母さんは、ずぶ濡れで震えている私を見るなり、嫌悪の表情なんて一切見せず、すぐに駆け寄って私の肩を抱きしめてくれた。
「大変! 身体が氷みたいに冷たいじゃない! 蓮、すぐに新しいバスタオルと、お前の部屋の着替えを持ってきなさい! らなちゃん……でいいのかしら、名札に書いてあるわね。とにかくすぐにお風呂に入りましょう。温かいお湯、今すぐ沸かすからね」
 その温かい手のひらに、私はそれだけで涙が溢れそうになった。おばあちゃん以外の大人から、こんなに優しくされたのは初めてだった。
 お風呂で身体を芯から温め、蓮の大きめのスウェット(少しタバコと柔軟剤が混ざったような、男の子の匂いがした)を借りてリビングに向かうと、そこには信じられない光景が広がっていた。
 ダイニングテーブルの上に、山のように積まれた揚げたての天ぷらと、お出汁の良い匂いが漂うお味噌汁、そしてツヤツヤと輝く炊き立ての白米。
「お、下りてきたな。早く座れよ、飯冷めちまうから」
 蓮が自分の髪をタオルで拭きながら、椅子を引いてくれた。
「いただきマース!」
 蓮が大きな声で手を合わせ、お味噌汁をズズッとすする。
「え、上手すぎ。お母さん天才だわ。らなも食べていいからね! 遠慮すんなよ!」
 その時、私の、情けないほど大きな音がリビングに響いてしまった。
ぐぅぅぅ、と。
 恥ずかしさで顔が真っ赤になり、俯いてしまう私。けれど、お母さんと蓮は顔を見合わせて、破顔した。
「ふふ、お腹空いてたのね。さあ、たくさん食べなさい」
お母さんが優しく私の背中をさすってくれる。
 恐る恐る、お箸を持って天ぷらを一口かじる。サクッ、という心地よい音と共に、口の中に素材の甘みが広がった。次にお味噌汁を飲む。温かい液体が食道を通り、冷え切っていた胃袋をじんわりと満たしていく。
「……美味しい、です……っ」
「だろ? うちのお袋の天ぷら、世界一なんだよ」
 蓮が自分のことのように自慢げに胸を張る。その賑やかで温かい食卓に、私はお椀を持ったまま、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。
「あらあら、どうしたの? どこか痛む?」お母さんが慌てる。
「違います……、こんなに温かいご飯、初めてで……」
 私の言葉に、リビングが一瞬、静まり返った。お母さんは切なそうな表情を浮かべ、蓮は拳を強く握りしめていた。
「らなちゃん。大変なことがたくさんあったのね。でも、今夜はもう何も心配しなくていいから。ここにいていいのよ」
お母さんの言葉に甘え、私は出されたご飯を夢中で食べた。
 次の日の朝。
「明日、制服を取りにおばあちゃん家に行く」
 昨夜の内にそう決めていた私は、お母さんと蓮に告げた。学校に行くためには、どうしても制服と教科書が必要だったから。
「わかった、気をつけてね」
お母さんは心配そうにしながらも、私を送り出してくれた。蓮も「部活があるから先行くわ」と、バタバタと家を出て行った。
 ペタペタと重い足音を響かせながら、私は再びあのおばあちゃんの家のドアを開けた。
 リビングでは、おばあちゃんが昨日と変わらずテレビを見ていた。私が玄関に立つと、おばあちゃんはゆっくりと振り返り、ゴミを見るかのような冷たい視線を私に投げつけた。
「なんで戻ってきたん」
「服とか、取りに来ただけだよ……」
「あっそ。二度とその汚い顔、見せないで頂戴。正直、あんた邪魔だったのよ。いなくなって清々してたわ」
 言葉の刃が、再び私の胸を深く突き刺す。やっぱり、私の居場所はここにはないんだ。
 冷え切った部屋から逃げるように荷物をまとめ、ボロボロのスクールバッグを抱えて駅へと向かった。涙で視界が歪んで、足元がよく見えない。これからどうすればいいんだろう。どこに行けばいいんだろう。
 その時だった。キィッ、と激しいブレーキ音と共に、駅のロータリーに一台の白い車が滑り込んできた。
「らなちゃん〜! 乗って〜!」
 助手席の窓から身を乗り出して、大きな身振りと笑顔で手を振ったのは、部活終わりの蓮だった。運転席では、お母さんも優しく微笑みながら私を手招きしている。
「え……? 蓮くん、お母さん……?」
「ほら、早く乗れよ! 荷物、後ろ入れな!」
 蓮が車から降りてきて、私のボロボロのバッグをひょいと受け取り、後部座席に乗せてくれた。私も促されるまま、後部座席に滑り込む。
「おばあちゃん家、どうだった……?」
お母さんがバックミラー越しに、心配そうに聞いてくれた。けれど、おばあちゃんから言われた「邪魔」という言葉が頭を離れず、私は返す言葉が見つからなくて、ただ膝の上で手をぎゅっと握りしめて黙ってしまった。
 空気が重くなる。それを察した蓮が、すかさず自分の席から後ろを振り返り、私の手をそっと握りしめた。
「お母さん、そんなこと聞いたらダメだよ。らな、頑張って荷物持ってきたもんな」
蓮の手は、驚くほど大きくて温かかった。それだけで、おばあちゃんの冷たい言葉で凍りついていた心が、少しだけ解けていくのが分かった。
「あー! おれ、今日の部活ちょー疲れた! 先輩たちのしごき、がちでエグいって。お袋、昼ごはん何?」
蓮がわざと明るい声を出し、助手席の背もたれに深く体重をかける。
「今日はね、みんなでファミレスに食べに行くよ。らなちゃんの歓迎会ね」お母さんの言葉に、蓮は「え! マジで!? 最高すぎ!」と子供のように目を輝かせた。「らなちゃんは、ファミレス好き?」と聞かれ、私が小さく「……うん、好きです」と頷くと、お母さんは「良かった、一緒に行こうね」とハンドルを握る手を緩めて微笑んだ。
 近くの大きなファミレスに入り、私たちは窓際の席に座った。
 蓮はメニューを開くなり、「おれ、ハンバーグセットの大盛り! あとフライドポテト!」と即決。私は迷った末に、カルボナーラを選んだ。
「らなちゃん、ドリンクバー一緒に行こ〜!」
 蓮に腕を引っ張られるようにして、席を立つ。キラキラしたドリンクバーの機械の前に立つと、蓮が私の顔を覗き込んできた。
「らなちゃん、なんのジュースが好き?」
「……オレンジジュースかな」
「オッケー、じゃあおれが特製ブレンド作ってあげる……ってのは嘘で、普通のオレンジジュースな!」
 蓮が嬉しそうにボタンを押し、グラスに並々とジュースを注いで私に手渡してくれる。学校での『サッカー部のクールなイケメン』という噂とは全く違う、人懐っこくて、ちょっとお調子者な彼の一面に、私の緊張も少しずつほぐれていった。
 席に戻ると、料理が届くまでの間、蓮がテーブルに肘をついて私を真っ直ぐに見つめてきた。その綺麗な瞳に射抜かれて、私は思わずドギマギしてしまう。
「なぁ、らな。俺、もっとらなのこと知りたいんだよね。色んな質問してもいい?」
「え、うん……いいよ」
「好きな食べ物って何? さっきカルボナーラ頼んでたけど、麺類が好き?」
「パスタとか、あと……お肉も好きかな」
「え! マジで!? 俺もハンバーグとか焼肉、超大好きなんだよ! 気が合うじゃん、おれたち!」
 蓮が嬉しそうに笑う。その笑顔を見ているだけで、胸の奥がトクンと小さく鳴った。
 やがて、湯気を立てたハンバーグとカルボナーラが運ばれてきた。
「いただきマース!」
 三人で手を合わせ、食事を始める。蓮は「美味すぎ!」と言いながら、ものすごい勢いでハンバーグを口に運んでいく。私も久しぶりのまともなお昼ご飯に、無我夢中でカルボナーラをフォークに巻き付け、口へ運んだ。濃厚なクリームの味が口いっぱいに広がる。
 ふと視線を感じて顔を上げると、蓮がフォークを咥えたまま、目を丸くして私を見ていた。
「……え、らな、食べるの早くね? がちやん」
「えっ!? ご、ごめんなさい……っ」
 はしたなかった、と慌ててフォークを置こうとする私に、蓮はケラケラと声を上げて笑った。
「謝るなよ! すげー気持ちいい食べっぷりだなと思って。お袋、らな、俺のポテトも食っていいよ」
「そうよ、らなちゃん、いっぱい食べなさいね」
 蓮が自分のポテトを私の皿にいくつか分けてくれる。そんな些細なやり取りの一つひとつが、信じられないくらい温かくて、美味しかった。

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