愛を教えてくれた君へ

 深夜の温かいおにぎり騒動から数日。私は正式に、雨宮家の居候として、そして彼らの「家族」としての日々をスタートさせていた。
 朝、鳥のさえずりと共に目を覚ますと、一階からはトントントンと心地よい包丁の音が聞こえてくる。おばあちゃんの家では、朝はいつも静まり返った冷たい空気しかなかった。それなのに、ここには朝の気配がある。
 急いで制服に着替えてリビングへ下りていくと、テーブルの上には湯気を立てる鮭の塩焼き、ツヤツヤの卵焼き、そして大根と油揚げのお味噌汁が並んでいた。
「あ、らな、おはよ」
 すでに制服を着て、髪をセットし終えた蓮が、お箸を持ちながら私を振り返った。
「らなちゃん、おはよう! よく眠れた?」
 お母さんがお玉を持ったまま、満面の笑顔で迎えてくれる。
「はい、おはようございます。……すっごく美味しそうなお味噌汁ですね」
「ふふ、ありがとう。さあ、二人ともしっかり食べて、学校遅れないようにね」
 三人で並んで食べる朝ごはんは、それだけで私の胸をいっぱいにした。
「ねえ、二人とも。放課後は部活? 今日の夜ご飯、何がいいかしら」
お母さんがお茶を淹れながら尋ねる。
「おれ部活あるよ! 夜飯はハンバーグがいい!」
 蓮が即座に手を挙げる。本当にハンバーグが好きなんだな、と私がクスッと笑うと、お母さんは「蓮はいつもハンバーグねぇ。らなちゃんは何がいい?」と私に視線を向けた。
「私は……その、唐揚げが、食べたいです」
 おばあちゃんの家では、油物は片付けが面倒だからと一度も作ってもらえなかった。ずっと憧れていた、家庭の唐揚げ。
「あら、唐揚げね! 蓮のハンバーグはいつでも作れるから、今日はらなちゃんの唐揚げに決定!」
「えーっ、お袋不公平だろ!」
「うるさいわね、蓮は黙ってハンバーグの夢でも見てなさい」
 そんな二人の小気味いいやり取りを見ているだけで、お味噌汁が何倍も温かく感じられた。
 学校への道中。私と蓮は、並んで駅までの道を歩いていた。
 蓮はサッカー部のエースで、学校でも女子のファンクラブがあるほどのモテ男子だ。そんな彼と、いつも俯いてばかりで地味な私が一緒に歩いているのだから、周囲の目が集まらないわけがなかった。
 すれ違う同じ高校の女子生徒たちが、ひそひそとこちらを見て囁き合っているのが嫌でも耳に入る。
「ねえ、なんであの地味なコが蓮と一緒にいるの?」
「ありえないんだけど。なんか弱みでも握られてるのかな」
 言葉の棘が、私の足取りを重くする。やっぱり、私みたいなのが蓮くんの隣にいたら迷惑だよね……。そう思って、一歩後ろに下がろうとした、その時だった。
 ぎゅっ。
 大きな、そして深夜におにぎりを作ってくれたあの温かい手のひらが、私の右手を強く握りしめた。
「え……っ、蓮くん……?」
 驚いて見上げると、蓮は真っ直ぐ前を向いたまま、私の手を離そうとはしなかった。その耳の端が、ほんの少し赤くなっている。
「……気にしなくていいからね。周りの奴らが何言おうが、関係ねーよ。俺が、側にいるから」
 蓮のぶっきらぼうだけど、芯のある声。その言葉が、私の心にどれほどの勇気をくれたか分からない。握られた手の温もりから、彼の優しさが痛いほど伝わってきた。
 駅のホームに入り、「じゃあ、また家でね」と言って、学年の違う私たちはそれぞれの教室へと向かった。
 放課後。私は唯一の親友であるかれんちゃんに誘われて、駅前のおしゃれなカフェに来ていた。
 かれんちゃんは、お団子頭がトレードマークの、クラスでもいつも中心にいるような明るい女の子だ。私が学校で孤立しかけていた時も、周囲の目を気にせず「らな、一緒に帰ろ!」と手を引いてくれた、本当に大切な親友。
「でね、それで……今、その蓮くんの家に置いておいてもらってるの」
 運ばれてきたふわふわのパンケーキをフォークで突きながら、私はこれまでの出来事をすべてかれんちゃんに打ち明けた。おばあちゃんに家を追い出されたこと、雨の公園で蓮に拾われたこと、そして雨宮家の温かさ。
「えええええーーーっっっ!!! 」
 かれんちゃんの大声がカフェに響き、慌てて彼女は口を押さえた。
「ちょっと待って、らな! あんた、あのサッカー部の阿部蓮くんの家に住んでるの!? ガチ!? 少女漫画の展開じゃん!」
「少女漫画だなんて、そんな派手なものじゃないよ……。本当に親切にしてもらって、ありがたいっていうか……」
「いやいやいや!」かれんちゃんは身を乗り出してきた。「あのさ、蓮くんって学校じゃ女子にめちゃくちゃ言い寄られても、いつも適当にあしらっててクールだって有名なんだよ? その蓮くんが、雨の中女子を拾って家に連れて帰って、しかも一緒に登校して『俺が側にいるから』って手握ったの!?」
「うん……」
 思い出すだけで顔が熱くなる私を見て、かれんちゃんはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「らな、あんたさ……蓮くんのこと、どう思ってるの? 正直、好きなの?」
「えっ……!? 好き、とか、そういうのは……。なんていうか、お兄ちゃんみたいな、家族みたいな安心感、かなぁ……」
「へえー、家族ねぇ? 」かれんちゃんは紅茶をすすりながら、目を細めた。「まぁ、らなが幸せなら私は全力で応援するけどさ。その蓮くん、絶対にらなのこと意識してると思うよ。男の子がそこまでするの、ただの親切じゃあり得ないもん!」
「そんなわけないよ……」
 私は首を振ったけれど、かれんちゃんの言葉は、私の心の中に小さな、でも確かな波紋を広げていった。
 気がつくと、かれんちゃんとの話に夢中になり、すっかり外は薄暗くなっていた。
 ハッとしてスクールバッグからスマホを取り出すと、画面には信じられない数の通知が表示されていた。すべて、蓮とお母さんからのメールだった。
『らな、いまどこ? 部活終わったけど、まだ帰ってないの? 大丈夫?』
『暗くなってきたから、場所教えてくれたらお袋の車で迎えに行くよ』
『連絡ちょうだい。心配なんだけど』
(大変、心配かけちゃった……!)
 急いで『駅前のカフェにかれんちゃんといます。今から帰ります』と返信すると、数十秒もしない内にお母さんから『そのままカフェの前で待ってて! 今から車で迎えに行くわね!』と返ってきた。
 数分後、ロータリーに停まった白い車の助手席に乗り込むと、お母さんが「らなちゃん、おかえり! 楽しかった?」と優しく迎えてくれた。
「すみません、楽しくてつい長居しちゃって……連絡も遅れてごめんなさい」
「いいのよ、気にしないで! 友達と楽しく過ごせるのは良いことだもの」お母さんはハンドルを切りながら、バックミラー越しにイタズラっぽく笑った。「ただね……さっき蓮から電話があってさ。らなちゃんが帰ってないって、部屋の中をウロウロしながら、なんかめちゃくちゃ拗ねてたわよ〜笑」
「えっ、蓮くんが……?」
「そう。連絡がないって、がちで怒る寸前だったんだから。ふふ、可愛いわよねぇ」
 家の前に車が停まり、ドアを開けると、そこには信じられない光景があった。
 蓮が玄関の前に立ち、腕を組んで、絵に描いたような仁王立ちで私を睨みつけていたのだ。まだ部活のジャージ姿のままで、眉間には深いシワが寄っている。
「……らな」
「あ、蓮くん、ただいま……。遅くなってごめんなさい……」
 申し訳なさそうに俯く私に、蓮は一歩詰め寄ると、声を荒げた。
「遅すぎるだろ! なんで連絡もしないで遊んで帰ってくるんだよ! 携帯持ってる意味ねーじゃん! 俺、らなと一緒に唐揚げ食べるの、めちゃくちゃ楽しみにしてたんだけど!!! 」
 本気で怒る蓮の剣幕に、私は完全に固まってしまった。一緒に唐揚げを食べるのを楽しみにしていたって、そんな子供みたいな理由で怒っているの……?
 オロオロしている私を追い抜いて、車を停めてきたお母さんが私の肩を叩き、耳元でくすくすと囁いた。
「らなちゃん、気にしなくていいわよ。あの子、ただの嫉妬(しっと)だから笑。自分がいないところで、らなちゃんが他の人と楽しく過ごしてたのが悔しいのよ。蓮、らなちゃんのこと大好きだからね」
「お、お袋ーーーっ!!! 余計なこと言うなよ!!! 」
 お母さんの暴露に、蓮の顔が一瞬にして爆発したように真っ赤になった。「もう知らない!」とばかりに、蓮は顔を背けてドカドカとリビングへ入っていってしまった。お母さんのおかげで、重かった空気は一気に笑い話へと変わった。
 ダイニングに上がると、部屋中にお醤油とニンニクの、たまらなく香ばしい匂いが充満していた。大皿の上には、カラッと揚がった、黄金色の山盛りの唐揚げ。
「さあ、らなちゃんの念願の唐揚げよ。たくさん食べてね」
 お母さんに促され、私たちは席についた。蓮はまだ怒ったようにそっぽを向いていたけれど、私が「蓮くん、これ、一緒に食べよ?」と唐揚げをお皿に分けてあげると、彼はチラッとこちらを見て、小さく「……おう」と呟いた。
 私がサクッと音を立てて唐揚げを口に運ぶ。口の中にジューシーな肉汁が広がり、あまりの美味しさに笑みが溢れた。
「美味しい……! 本当に、お店のより美味しいです!」
 その言葉を聞いた瞬間、蓮が急に「……っ、クソ」と小さく毒づいた。
「え? 蓮くん……?」
 見つめると、蓮は顔を真っ赤にして、耳まで火傷しそうなくらい赤く染めていた。そして、持っていたお箸をガタッと置くと、椅子を蹴立てて立ち上がった。
「おれ、ちょっと部屋戻るわ!!」
「えっ、蓮くん!? ご飯は……!?」
 私の声を無視して、蓮は二階への階段を、猛烈な猛ダッシュで駆け上がっていってしまった。ドタバタと激しい足音が響き、やがてバタン!と部屋のドアが閉まる音が聞こえてくる。
「え、蓮くん、やっぱりまだ怒っちゃってるのかな……。私、何か悪いこと言ったでしょうか……」
 完全に落ち込む私に、お母さんはお腹を抱えてクスクスと笑い転げていた。
「違うわよ、らなちゃん! 怒ってるんじゃなくて、限界突破の照れ隠しよ! らなちゃんが美味しそうに食べてる笑顔が、あの子には刺激が強すぎたのねぇ。本当に、分かりやすい男なんだから笑」
「照れ隠し……ですか?」
 私には、蓮がそこまで私のことを意識しているなんて、どうしても実感が湧かなかった。
 お母さんは笑うのをやめると、優しく私のお皿に唐揚げを追加してくれた。そして、少し真剣な、どこか遠くを見るような表情を浮かべた。
「ねえ、らなちゃん。唐揚げ、美味しい?」
「はい、本当に温かくて、美味しいです」
「良かった。……ねえ、らなちゃん。なんで私がね、血の繋がりもないあなたのことを、こんなに本当の娘みたいに扱うか、不思議でしょう?」
 私は静かに頷いた。おばあちゃんから「お前は邪魔だ」と言われ続けた私にとって、雨宮家の無条件の優しさは、嬉しさと同時に、どこか「どうして?」という疑問が常に付きまとっていた。
お母さんは小さく息を吐くと、静かに語り始めた。
「私の夫ね……蓮のお父さん。あの人は、蓮がまだ小さい頃に亡くなったの。仕事終わりに歩いて帰ってくるときにね、赤信号なのにフラフラと道路に歩いて行っちゃった見ず知らずの小さな子供がいたの。夫はそれを見て、身体が勝手に動いちゃったんでしょうね。その子を突き飛ばして助けて……自分は、トラックに轢かれて亡くなったの」
 私は息を呑んだ。そんな悲しい過去が、この温かい家の中にあったなんて。
「最初はね、私もショックで、夫を責めたりもしたわ。なんで残された私たちを置いて、他人の子供のために命を捨てるのって。でもね、時間が経って気づいたの。私が好きになって、一生を添い遂げようと思った人は、目の前で消えそうな命を、放っておけない人だった。それが、あの人の、そして雨宮家の優しさなのよ」
お母さんはテーブル越しに私の手を優しく包み込んだ。
「だからね、蓮が雨の中、ボロボロになって泣いているあなたを連れて帰ってきたとき、私は夫を思い出したの。あの子も、お父さんの血をしっかり引いてるんだなって。目の前で傷ついているあなたを、放っておけなかったのよ。血の繋がりなんて、私たちには関係ない。私たちはね、らなちゃんに『あなたはここにいていいんだよ』って、たくさんの愛を伝えたいの。夫がそうしたようにね」
お母さんの言葉は、私の心の奥底にある、冷たくて固い氷を完全に溶かしていった。
身代わりなんかじゃない。私は、私だから、ここにいていいんだ。
「お母さん……っ、ありがとうございます……っ」
涙がポロポロと溢れて、唐揚げの味が滲んでいく。
「……お袋の言う通りだよ」
 不意に、二階から悶絶を終えてこっそり階段を下りてきていた蓮が、気まずそうに頭を掻きながらリビングに入ってきた。その顔はまだ少し赤かったけれど、その瞳は、出会ったあの雨の日と同じように、驚くほど真っ直ぐで真剣だった。
「らな。お前は邪魔なんかじゃない。お前が『らな』だから、お前が笑ってくれるのが嬉しいから、俺たちは一緒にいたいんだ。……これからは、俺がずっと守るから。お前をおばあちゃんみたいに傷つける奴からは、俺が全力で守るから」
 蓮の真っ直ぐな、熱い言葉。
 昼間、かれんちゃんに「家族みたいな安心感」と言っていた自分の言葉が、頭の中でガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
 守るから、という彼の言葉が、私の心臓を激しく、痛いくらいに打ち鳴らしていた。
(あ……私、蓮くんのこと……)
 顔が火を噴きそうに熱くなって、私はお箸を握りしめたまま、お皿の唐揚げを見つめて激しく俯くしかなかった。
「な、なに言ってるの蓮くん……っ! お母さんの前で、変なこと言わないでよ……っっっ」
「へ、変なことじゃねーよ! 本気だし!」
蓮がまた慌てて顔を真っ赤にする。
 その二人の甘酸っぱい様子を見て、お母さんは今日一番の、弾けるような笑顔でパンッと手を叩いた。
「そうと決まれば! 三人で旅行にでも行くか! 二人とも、どこか行きたい場所はある? 」
「「えええええっっっ!? 」
 私と蓮の声が見事に重なり、リビングに、また新しい温かい笑い声が響き渡った。

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