拗らせ俺様が犬系彼氏になった理由
「…………可愛い」
そう呟いた華の顔が、とても可愛らしかったから。
普段あまり表情を変えない華が、嬉しそうに頬を緩ませた。その顔に、朔弥は瞬きもせず見入った。
……こんな顔、するんだ。
初めて見た華の嬉しそうな笑顔。柔らかで穏やかで、とても綺麗だと思った。
「あの……いいんですか。私、頂いちゃって……」
「えっ!? あ、も、もちろん!」
「……ありがとうございます」
化粧品は持っているが、必要最低限の物しか持っていなかった。それも無難で地味な色合いのものばかり。こんなに可愛らしいデザインの物は、似合わないと思っていた。
まさか、深見さんから貰うなんて。
胸がドキドキして、ムズムズして堪らなかった。こんなにいい物を貰えるほど自分が何かした記憶はないが、彼が選んでくれたのだから素直に受け取りたいと思った。
「嬉しい、です。大事にします」
「……あ、うん。よかった」
朔弥は安心したようにふにゃっと笑った。不安だったが、どうやら華は喜んでくれていそうだ。店員の言う通り買ってよかった。
華は掌にあるリップを見つめ続けていた。光が当たるたび、反射して輝く。ポーチの中にこんなものがあるだけで、気分が変わりそうだと思った。
朔弥と別れた後、華はトイレに入った。個室には目もくれず、すぐに鏡の前に立つ。
一つに結んだ黒髪に、眼鏡、化粧っ気のない顔。いつもと変わりない自分だが、表情が少し違った気がした。
先ほど貰ったばかりのリップを早速取り出してみる。
(こんな色、使ったことなかったな……)
華はあまり唇の上に色を乗せないタイプだった。一度試供品を使ってみたことはあるが、元カレに『なんか変だよ、浮いてる』と笑われたで、その一度きりだった。後は、色付きのリップをたまに使う程度。
(でもせっかくもらったんだから……)
少しドキドキしつつ、そっと唇に乗せてみる。ほのかな桜色に色づく。色は付きすぎず、自然な色だった。乾いていた唇が一気に潤う。
鏡の中の自分は少し見慣れなかった。似合ってるのかな? 自分ではよく分からない。でも、顔が明るくなったのは間違いないと思った。
戸惑いつつも、喜ぶ自分。リップを塗っただけで。まるで、化粧を初めてした子供みたいだ。
ふ、と自分自身に笑った。リップをしまおうとした時、聞きなれた声がした。
「珍しいですね? 佐々山さんも化粧直しとかするんですか? みたことなーい」
美鈴だった。彼女は手にブランド物の化粧ポーチを持ち、嘲笑うような顔をしながら華の隣に並ぶ。華はすぐに立ち去ろうとリップをポケットにしまったが、目ざとく美鈴はそれを見つけた。
「あーそのブランドのリップ、私も持ってますよ! 可愛いですよね~」
「あ、そ、そうなんですか」
「あ? 今日塗ってるんですね? イメチェンですか?」
美鈴は華の口元を見てそう言った。よく分かるな、と感心しつつ、華は俯く。
すると美鈴は、小さく笑う。
「買ったんですか?」
「……いえ、頂きもので」
「なるほどー。親切心で言うんですけど、それ、似合ってませんよ。アラサーの佐々山さんにはちょっと……贈った人もセンスないですね? 佐々山さんって年齢より上に見えるくらいだし、もう少し落ち着いた色がいいんじゃないですか?」
ぐっと、華は言葉に詰まった。
確かに自分は地味だし、似合っていないのかもしれない。美鈴のような華やかで綺麗な子ならとても似合うのだろう。でも、贈ってくれた朔弥の悪口を言われるのは納得できないと思った。
彼はきっと、私が『どうおしゃれしていいか分からない』と言ったから、気を利かせてくれただけだ。
「似合わないのは私のせいです。だから贈ってくれた人の事を悪く言うのは止めてください。それに、別に似合ってなくても構いません。私はこれでいいと思ってるんです」
華は美鈴を見てきっぱりと言い切った。
美鈴は華をじっと睨み、無言の時間が流れる。華もその視線から逃げることはせず、しばらく二人の視線はぶつかったままだった。
そしてしばらくして、美鈴がふっと笑う。
「そっか! ごめんなさい、私メイクが好きだからつい言っちゃって!」
「……いえ。助言、ありがとうございます。似合うように頑張ります」
「うんうん、そうしてくださいね~!」
華は荷物を持ってすぐにトイレから出て行った。残った美鈴は鏡に向かい、無表情でファンデーションを取り出す。それを塗りながら、ちっと舌打ちした。
(うっざああああ! 深見さんによくみられたくてイメチェン? 地味女が、似合ってないって教えてあげてんでしょうが!! 誰があげたか知らないけど、あの女にリップとかセンスなさすぎでしょ。結構いいブランドのやつだし、宝の持ち腐れだっての)
どうせいつだったか見かけた、地味な女友達に違いない。
「似合うように頑張りますって……無理に決まってんでしょ」
そう呟いた時、ふと美鈴は思いつく。そしてにやっと口角を上げた。
「強がってられるのもいまのうちだから」
夕方になり外回りから帰った朔弥は、疲れで大きなため息をついた。今日はずいぶん歩き回って足がクタクタだ。それでもまだもう少し会社でやるべきことが残っていた。
パソコンの前に座り買ってきたコーヒーを飲んで自分を奮い立たせた時、視界に華の姿が映った。彼女は姿勢よく座ったままパソコンと睨めっこをしている。
ふとその彼女の口元が、普段と違った気がした。つい、コーヒーを飲む手が止まる。
(……あれもしかして、つけてくれてる……?)
自分が昼に贈ったリップ。早速使ってくれているのか。
華がこちらを向こうとしたので慌てて視線を逸らした。随分と見つめてしまっていた気がしたからだ。
朔弥はさもなんともありませんというようにパソコンを見つつ、にやけそうになるのを必死堪えた。考え事をするような仕草で手で口を覆って、緩む口元を隠す。
(なんか……嬉しいな)
思えば母と姉以外の女性にプレゼントを贈ったのも初めてではないか。お礼とはいえ、自分にとっては結構思い切った行為だった気がする。
そしてそれを相手が使ってくれているとなれば、喜ぶのも無理はない。
鼻歌を歌いだしそうなぐらい気分よくいると、朔弥の肩を誰かがポンっと叩いた。
「深見さん、また契約決まったって?」
同僚の男性だった。朔弥より二、三個年上で、明るくいわばムードメーカー。ここ最近、朔弥が言動を改めてからよく話しかけてくれるようになっていた。
「ああ、はい。なんとか」
「優秀だなー! 異動してきたばっかなのにぐんぐん成績上げてるし」
「たまたまですよ」
「いやいや、三ヵ月ちょっとでこんだけ結果残してるの凄いって」
「ど、どうもありがとうございます」
「……つーかさ? ここ最近、イメージ変わったよな。なんで?」
「えっ」
朔弥の息が止まる。
「前はこう、もうちょっと自信たっぷりっていうかさ~そんな感じだったけど、最近そうでもないからさ。なんかあった?」
男性は不思議そうに、けれどストレートに朔弥に尋ねた。その途端、周りからの視線が集まる。
『よくぞ聞いてくれた』……そんな言葉がひしひしと伝わってくるようだった。
朔弥の変化には全員が気が付いている。以前は女性に対して痛々しいセリフを吐くことに、みんな呆れていた。だが徐々にそれは無くなり、先日の忘年会で一気に株は上昇。
一体なぜ彼は急に変わったのか――それはみんな思っている疑問だったのだ。
その光景を、華も仕事の手を止めてみていた。朔弥は華に助言された通り、頭を搔きながら正直に言う。
「いやあ……俺、凄い田舎育ちで。あんまり女生と関わる機会もなく。東京デビューするにあたって、姉が勧めてきた漫画を参考にしたつもりなんですが、とんでもなくズレてると指摘されてようやく気付けたんです……お恥ずかしい」
「へ……? 漫画の真似してたの?」
周囲の人間がぽかんと口を開ける。朔弥は申し訳なさそうに頷いた。
すると、少し間があった後みんながくすくすと笑いだした。特に女性社員はどこか安心したように笑っている。
「え、漫画の真似って。ありえないでしょー」
「でもじゃあ今が素ってこと?」
「どうりで急に印象変わったわけだ。反省したんだね」
呆れつつも、納得と安心。あの言動は漫画の影響で、今は反省していることを知り、みんな今の朔弥が本当の朔弥だと分かったのだ。疑問が解けてスッキリした顔になっている。
その光景を華は黙って眺めていた。
(ついに言ったかあ……うん。漫画の真似をしていたっていう部分は少し呆れられてるだろうけど、今の彼を見たらそんなのもすぐに吹き飛ぶだろうな)
なにせ、根は素直で可愛らしい。そのいい面が、過去なんてすぐに塗り替えてくれる。
華は一安心しながらも、不思議と胸が少し痛んだ。みんなに話した方がいいと助言したのは自分だというのに、どこかもやもやと落ち着かない。まるで朔弥が遠くへ行ってしまったように思えたから。
(……何考えてるんだか。頭を冷やして来よう)
華は頭を振って考えを振り払うと、立ち上がってトイレへ向かった。同僚たちに囲まれて楽しく話す朔弥から目を逸らすように。
一方朔弥は、華の助言通りに話してみたところ、明らかに好感触だったのを感じていた。さすが佐々山さんだ、言う通りにしてよかった。
彼が華の方を向いてガッツポーズを取ろうとしたところ、華が席を立ってトイレへ向かったところだった。どうしても華にお礼を言いたくなった朔弥は、反射的に立ち上がり華の後を追いかけて廊下に出る。
華の後ろ姿を見つけて歩き出そうとした時、背後から声が掛かった。
「深見さん!」
振り返ると美鈴がにこやかに立っている。そういえば、先日の飲み会で連絡先を交換して以来、彼女からの声掛けが増えた気がしていた。朔弥は特に嬉しく思うこともなく、他の同僚たちと同じように接している。
「聞いちゃいました。漫画の真似だなんて、深見さん面白いんですね」
「いや、黒歴史になりそうな気がしてるけど……」
「私はあの頃の深見さんもカッコいいと思ってましたけどね? そうだ、お仕事、そろそろ終わりですか?」
「いや、もう少しかかりそう、かな」
「私待ってますから、よければ飲みに行きません? 近くに美味しいお店があるんです!」
まさかの誘いに、朔弥は美鈴を二度見した。
(えっ……飲みの誘い? さっきの発言で、ついに……!? グループに誘うって言われたけど結局そのままだったから、社交辞令かと思ってた!)
朔弥は心の中でガッツポーズを取った。
異動してきて三ヵ月以上。はじめこそいろいろ話しかけてくれた同僚たちが、やけに自分を遠ざけていることに悩んでいた。そして華に助言を求め、自分の言動がかっこいどころか痛いということを知り、態度を改め、ようやくここまで来れた。
ありがとう、佐々山さん……!
華を拝みつつ、朔弥は笑顔で答える。
「いいね、誰が行くの?」
「私と、深見さん」
「そっか、俺と……え?」
言葉の意味が一瞬理解できず、ぽかんとしてしまった朔弥に美鈴は意味深に微笑み、朔弥の耳元に口を寄せる。
「二人で飲み……行きませんか?」