自惚れ、アディクト
ささやかな願いも届かず、いとちゃんが戻って来る気配はない。ふう…と、短な息をひとつ吐いて。気持ちを落ち着かせようとする。

なのに、神崎さんは、私が心に張ったボーダーラインを簡単に飛び越える。


「これとか良さそうじゃない?」

メニュー表に骨ばった指先が滑った。
私が神崎さんの方へ身体を寄せたことで、自然と距離が近づく。思っていたよりもずっと、神崎さんは側にいた。

耳に掛けた前髪が、はらりと溢れるのが色っぽく、つい見惚れてしまう。ハッとして、神崎さんから視線をそらした。そうして、もう一度…ゆっくり戻す。

「これも」

次に指したのはサワー。

「桃、好きじゃねぇの?」

私が手元に置いてる、桃柄のハンカチを眺めながら言うの。

「好きです」
「そう」


神崎さんは口元に淡い笑みをすく。
私のこころの奥は騒がしい。気恥ずかしさの波が、薄いチークを乗せた頬に集中する。「…こっちにしようかな」と、独り言のように呟いた。

煙草の匂いだって苦手だ。
だけど、喫煙者である神崎さんからは、甘やかな柑橘系の香りが仄かに漂い、この匂いはイヤじゃない。

私は、流れるままにピーチサワーを選んだ。神崎さんが注文をしてくれる。


「ピーチサワーと生中。他は……」

メニュー表へ視線を落とす。

「無花果と胡桃のサラダを」

「おー、美味そう」

「おに、」

“お兄さんは”と言いかけ、慌てて口を噤む。

「(ひゃ、あ。間違えるところだった)」

神崎さんが「ん?」と、不思議そうに私を一瞥した。咳払いをしたくなるのを我慢して。一拍置いて言い直す。

「神崎さんは食べたい物ありますか」

「美園さんが食べたいもんで」

「じゃあ…それと、生ハムのピザをお願いします」


注文が終わる。スマホを触る余裕もなく、私はいとちゃんが歩いて行った方向を、ちらりと見た。

もうそろそろかなぁ。

結露のついたグラスに、たっぷり注がれているお冷を一口含む。お酒じゃないのに、ちびちび飲んで。正面を向く神崎さんを盗み見る。

「ぁ…」そう、話しかけようとして。言葉を呑み込んで。「あの」と、やっぱり口を突いた。
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